第70話 姜子牙 武吉を弟子にとり師事をする。
初めまして!原 海象と申します。
今回は有名な『封神演義』の編集・アレンジバージョン『封神伝』を投稿致しました。
「封神演義」は明代以前に発行された神魔小説で、今の形になったのは明代の編者 許仲琳によって現在の形になりました。また漫画やアニメとなったのは安能務先生の封神演義版によって一代ブームとなり、皆様のよく知っている形となりました。原作と安能務先生の翻訳ではかなり違いがありますが、ライト小説らしくできるだけ読みやすいようにしております。
<封神伝>
第70話 姜子牙 武吉を弟子にとり師事をする。
武吉が磻渓のほとりに行ってみると、姜子牙は柳の根元に座り、釣り竿を水面に浮かべ、詩歌を詠んで楽しんでいた。武吉は姜子牙の背後に近づいて「姜老人」と呼んだ。姜子牙は振り向いて武吉を見た。
武吉は慌ててひざまずき、泣きながら言った。
「私は山中の馬鹿者で、奥深いことをしりません。姜老人が優れた隠士であることを気づかず、ご尊顔を侮辱するようなことを言いました。どうか愚かなわたしの言ったことなどを気にかけず、慈悲を施し、お許しください。あの日、お別れした後、南門の守備兵を殺してしまいました。文王様は人を殺してしまったからには処刑だとおっしゃっていました。
しかし、わたしには年老いた母がいます。もし私が処刑されたら年老いた母は野垂れ死にになります。そのことで悩んで泣いていましたら、散宣生上大夫様がとりもって頂いたおかげで、釈放されました。しかし、これはあくまで釈放であって、母子の命はまだ保証されてはいないわけです。
今日、姜ご老人にお会いに来たのは、我ら母子の命を救って頂くためです。どうか哀れに思って、お力をお貸しください」
「天数(運命)を変えることはできない。人を殺したからには処刑になるのは当然だ。どのように救えというのだ?」
武吉は姜子牙の袖を持ち更に哀願する、
「ご老人は、昆虫草木にも恩を施すほど慈悲深いお方です。どうか、わたしたちの命を救ってくださったら、そのご恩は一生忘れません」
武吉の態度が敬虔で誠意がこもっており、また彼の人相はのちに高貴な人物になるということを知っていたので、姜子牙はこれに応じた。
「助けてもらいたいなら、わしを師と仰げ。そうしたら助けてやろう」
武吉はすぐにその場で三拝九拝して師事を頼んだ。姜子牙は続けて言った。
「お前はすぐに家に帰り、寝床のそばに深さ四尺の適当な長さの穴を掘れ、夕方になったら穴の中で寝るのだ。母親に頼んで頭上と足元に明かりをともしてもらい。さらに、身体の上に二握りのもち米を振りかけてから、草をかぶせてもらいなさい。一晩眠っておきれば、もう大丈夫だ」
武吉は満面の笑みを浮かべながら家に帰ると、早速寝床の隣に穴を掘った。母親はこれを見て武吉に尋ねた。
「吉や、姜老人に会いに行った結果はどうだったね?」
武吉は一部始終を語った。母親は大喜びして、武吉を寝かせたあと、明かりをともした。
一方、姜子牙は三更の時分、髪を振り乱し、木剣を手にして、武吉のためにまじないを唱えた。
翌朝、武吉は姜子牙の元に来て師父と呼び、ひざまずいた。姜子牙は言った。
「わしに師事したからには、朝晩わしの教え聞くことだ。おまえはいつまでも木こりをしているべきではない。朝早く薪を売りに行き、夜になったら兵法を学びに来なさい。いま天下の時勢は、紂王の無道で大きく変化しており、四百諸侯が反乱している」
「師父、峰起した四百諸侯とは……?」
「東伯候 姜文煥が兵四十万を率いて遊魂関で戦っている。また、南伯候 額順が峰起し、三十万を率いて三山関を攻撃している。先日、わしが天象(天文)を観察したところ、西岐もまもなく兵乱が起こるとのことだ。いまは才能を発揮する良い機会だ。努力して学び、手柄をたてて仕官すれば君子の臣となれる。『将軍や宰相になるのに、もともと種があるわけではなく、男子が自分から強いて当たるもの』という言葉がある。わしはお前を弟子にした理由は、そのためなのだ」
この日以来、武吉は師父から離れないよう心がけ、その言葉を聞き、武芸と兵法書『六韜』を学んだ。
ある日のこと、散宣生は武吉が家に帰って半年以上になることを思い出した。武吉の裏切りにカンカンとなった散宣生は文王に謁見して奉じた。
「守備兵を殺した武吉のことですが、老母の世話をする者がいないというのでひとまず釈放し、母親の生活などを手配させることを、私から奉じたことがあります。しかし、彼は法を無視し、半年になるのにまだ戻ってきて刑に服そうとしません。彼は狡猾な罪民に違いありません。我が君、先天の術を用いて、この事実を確かめてみたらどうかと思います」
文王は、よし、と答えて金銭占を取り出し、吉凶を占った。文王はため息をついてうなずいた。
「武吉は狡猾な民ではない。処刑を恐れて、万丈の深潭に身を投げて死んだのだ。法に基づくにしても、殴り殺したのではなく、誤って殺したのだから、処刑することはなかった。それが彼は処刑を恐れ自殺した。哀れであった」
そう言って文王はしばらくため息をついていた。




