第68話 文王 主戦論派を論破し、ドMを説く。
初めまして!原 海象と申します。
今回は有名な『封神演義』の編集・アレンジバージョン『封神伝』を投稿致しました。
「封神演義」は明代以前に発行された神魔小説で、今の形になったのは明代の編者 許仲琳によって現在の形になりました。また漫画やアニメとなったのは安能務先生の封神演義版によって一代ブームとなり、皆様のよく知っている形となりました。原作と安能務先生の翻訳ではかなり違いがありますが、ライト小説らしくできるだけ読みやすいようにしております。
<封神伝>
第68話 文王 主戦論派を論破し、ドMを説く。
ある日、文王は出殿した。文武百官が拝礼したあと、文王は上大夫の散宣生に平伏するように命じると話しはじめた。
「わしは、陛下との謁見に行った日から、七年間も監禁された。
この間に長男の伯邑考がわしの為に殺害された。これも天寿である。わしは陛下のご厚恩により帰国が許され、文王に封じられ、誇官三日の恩恵を受けた。
そして鎮国武成王黄飛虎閣下のご厚恩により、銅符五個を得て、出関できることになった。
しかし、殷、雷の二将軍が陛下の王命により追撃してきたため、わしは力尽きて、捕らえられ処罰される、と万事休すとなった。
そのとき、わしが朝歌に行く途中、燕山で引き取った嬰児が大きくなって、わしを救いに来てくれたのだ。嬰児の名を『雷震子』といい、終南山の雲中子に託し、すでに七年になる。
追手が追撃してきたとき、その雷震子がわしを救って、五関の外まで送り出してくれたのだ」
散宣生が難攻不落と言われる五つの関を突破したことに驚き尋ねた。
「五関には多くの守備兵がいたと思いますが、どうやって通ったのでしょうか?」
「雷震子の姿には、わしも非常に驚いた。七年の期間に両脇に翼が生えて空を飛ぶことができ、さながら雷風のようだった。しかも、金棍を用いて一振りすると山峰が崩落してしまうほどであった。これに二将軍は恐れをなして、戦わず退いたのだ。
そのあと、雷震子はわしを背負って空中に舞いあがり、半刻ほどで西岐の金鶏嶺に来て舞い降りた。そのあと、息子は別れを告げて終南山に帰って行った。わしは一人で一日中歩き続け、旅籠に泊まり。旅籠の主人の世話になり驢馬で西岐城まで送ってもらったのだ」
文王はそういって従者のものに旅籠の主人にたっぷりと褒美を与えて帰すように命じた。
散宣生は平伏して言った。
「主君の徳は、すでに四方に知れ渡っています。三分の天下、二分は周に帰し、万民はその平安を享受し、庶民はみな我が君を憧れています。天下はすでに四百諸侯が乱を起こし紂王は暴虐無尽で、正宮、妲己の讒言を聞き酒色にふけております。上天を恐れず、善行を行わず、酒色荒淫を改めようとしません。このままでは、おそらく朝歌は他人に奪われてしまうでしょう」
散宣生の話しおわらないうちに、大殿の西側に立っていた大将軍 南宮适が現れて怒鳴るように言った。
「今日、主君が郷土に帰って来たからには、公子が殺害された仇を討つべきです。現在西岐には兵士四十万、将軍は六十人おり、五関を突破して朝歌を包囲できるだけの力があります。妲己を斬り、暗君を廃止し、明主を立てて、天下万民の恨みを晴らすべきです」
文王は二人の話を聞いて不機嫌になって語った。
「わしは、卿ら二人は忠義者なので、安心して西岐を任せられると思っていた。ところが、そなたらはわしに忠義に背く言葉を述べ、自分が罪人の立場に立つとは。しかも、恨みを晴らし、仇を討つなどと申すのか?
陛下は万国の元首であり、過ちがあるにしても。臣は触れるべきではなく、陛下の過ちを正すなどはもってのほかだ!
『君主が臣に死ねと言われたら、臣は死ななければならず、父が子に死ねと言えば、子は死ななければならない』というものだ。
臣や子であるからには、忠と孝をもっとも大事で、君主や父を非難することができないのだ。わしは陛下に諫言したため羑里に監禁され七年も苦しい思いをしたが、自分が正しいかったと考えたり、陛下を恨んだりしたことはない。
そのため、わしは文王に封じられ、帰国を許された。このことについて、陛下のご厚恩にわしは感謝している。わしは朝晩に香を焚き、国の安寧を祈り、八方の戦乱が治まり、万民が安定した生活を送れるように願っている。これが臣の道というものだ。
卿らも、理に背くことを言ってはならず。そのようなことは、君子の言うべきことではない」
南宮适(なんきゅうかつは不平を述べた。
「公子は、父の贖罪の為に朝貢に行ったので、謀反ではありません。それが、無惨にも殺害されたのです。紂王を許すわけにはいけません。無道を葬り、天下を正すことは、万民の願いでもあるのです」
文王はやれやれと苦笑しながら首を振った。
「卿の考えはあまりにも浅すぎる。息子が、自分で死を選ぶようなことをしたのだ。
わしは朝歌に行くときに、伯邑考をはじめとした公子や卿ら文武諸官に
『先天の術によると、わしは七年の災いをこうむる。一卒なりとも見舞いに来てはならぬ。七年が満期になったら、おのずと帰国できる』と言ったはずではないか。
伯邑考は、わしの言いつけどおりにせず、忠孝だけに固執し、時機をわきまえず、あさはかな振る舞いをしたので、あのようなことになったのだ。
わしは国のために力をつくし、法を守り、臣の節度を決して失わないつもりだ。
陛下の凶暴は、天下の諸侯が知っている。卿ら二人が何もあわてることではないのだ。わしが帰国したからには、社会の風習を正し、万民を裕福にし、物資を豊富にすることが先だ。そうすれば万民の生活が安定し、わしも卿らも太平を享受することができる。
万民が戦乱の災難をこうむらないことがないよう、わしは願っているのだ。それが人々の幸福というものだ。何も事を起こして、人々に苦難を与えることを功と思うことはなかろう」
南宮适と散宣生は文王の訓示を聞いて目から鱗がおち頭を下げた。
文王はあらためて文武百官に言った。
「わしは、西岐の南に霊台を造ろうと考えている。土木工事は諸侯の所作ではなく、民にも負担をかけることになるだろう。しかし、霊台の建造は災祥の兆しに応じるためなのだ」
散宣生は改めて奉じた。
「霊台の建造は災祥の兆しに応じるためであるなら、西岐の民にとって好ましいことです。遊興のためでないのでしたら、人々に苦労をかけることにはなりません。主君が公示を出せば、民は喜んで服役するでしょう。民に負担をかけたくないならば、賃金を与え、強制せずに、自分の意志で服役させたらよろしいかと思います。
それならば、西岐の人々の災祥に応じるためですから、喜ぶのではないでしょうか?」
文王は散宣生の意見を聞いて喜んで言った。
「散上大夫の言うことは、わしの考えと同じだ」
このようにして、公示が西岐の家々の門に貼りだされ、軍民はそのことを知らせあった。
西岐の軍民はこの公示を見るとたいへん喜んで、口々に言った。
文王様の恩徳は天のごとくであり、報いなければならない。われらが夜が明けると楽しく過ごし、日が暮れると家に帰り、幸せな生活が送れるのは、すべて文王様のおかげだ。文王様はいま霊台の建造を希望し、しかも賃金を支払うという。われらがたとえば怪我をしたり、疲れて病気になっても不満を言うまい。霊台は、庶民が災祥を占験するために建造するのだから、文王様から賃金をもらうわけにはいかない。
こうして、西岐の軍民は喜んで霊台の建造に尽くすと決意を表した散宣生はそのような民心を知ると名簿を抱えていき文王に報告した。文王はすぐに命じた。
「軍民にそのような考えあるなら、吉日を選んで霊台の建造を始めよ。ただし、服務をした者にはすぐに賃金銀一銭の支払いをするように」
軍民は土砂を運び、木を伐採して、霊台の建設に励んだ。窓外には日光がたびたび通りすぎ、落花が赤く地に広がり、黄菊がさくころになった。工事が始まってから十ヵ月も経たないうちに、監造官が霊台の建造が終わったことを報告に来た。文王は大変喜び、文武百官を伴い、輿に乗り城郭を出て、霊台を見に行った。




