第65話 姫昌 王の帰還! というより逃走…… (補足説明付き)
初めまして!原 海象と申します。
今回は有名な『封神演義』の編集・アレンジバージョン『封神伝』を投稿致しました。
「封神演義」は明代以前に発行された神魔小説で、今の形になったのは明代の編者 許仲琳によって現在の形になりました。また漫画やアニメとなったのは安能務先生の封神演義版によって一代ブームとなり、皆様のよく知っている形となりました。原作と安能務先生の翻訳ではかなり違いがありますが、ライト小説らしくできるだけ読みやすいようにしております。
<封神伝>
第65話 姫昌 王の帰還! というより逃走……
ある日、紂王は費仲・尤渾の二人を摘星楼に呼んで碁を指していた。紂王は二回戦続けて勝って、気分を良くして酒宴を設けた。費仲・尤渾の二人は左右の席で相伴し、酒を酌み交わした。酔いが回ってくると、紂王は伯邑考の琴が優雅なことや、白猿の歌が絶妙なうたに触れ「あの白猿を殺さなければよかったものを」と後悔の念を口にした。
そして西伯候に処遇について語り出した。
「姫昌は自分の息子の肉を食した。いわゆる、将来のことを知る術などとはでたらめだったのであろう。事前に未来のことを予知することなどできるはずがない」
費仲は、この機会に乗じて奉じた。
「姫昌は反逆心を抱いていると聞いたので、わたくしはずっと用心しておりました。そこで数日前、信頼できる腹心を羑里にやってその虚実を調べさせたところ、羑里の軍民はすべて姫昌が忠義だと言っているとのことです。毎月一日には香を焚いて、陛下の安康を祈り、国民安泰等を願っているそうです。陛下が姫昌を七年監禁したことにも苦情を述べていません。わたくしの見るところ、姫昌は忠臣に違いありません」
紂王は呆れるように言った。
「先日、卿は『姫昌は忠義を装っているいが、奸計を胸に秘めている』と申したではないか。今日はなぜそれをくつがえすのだ?」
「人の話だけでは、忠臣か奸臣かを判断することができません。それで、私の腹心を派遣して探らせた結果、初めて姫昌が忠実な人物であることを知ったのです」
「うむ。尤大夫は姫昌をどう思うか?」
尤渾も口添えした。
「費大夫の申したとおりです。姫昌は羑里に監禁され数年間苦労しましたが、この間、羑里の万民に徳を施し、美化するように教えました。万民は、姫昌が忠誠であり、悪事をはたらく人物ではないと知って、人々は彼を聖人と呼ぶようになったのです。おたずねがあったからには、真実を申さないわけにはいきません。先ほど費大夫が申さなくても、わたくしは申しあげるつもりでおりました」
「卿ら二人の意見が同じなら、姫昌はよい人間なのであろう。余は姫昌を赦そうと思うが、二人の意見はどうだ?」
費仲がここぞとばかりに答えた。
「姫昌を赦せ、とわたくしから申すわけにはいきません。しかし、彼の忠誠心は羑里に監禁されても苦情一つ述べなかったことからわかると思います。陛下が哀れに思われるなら帰国を許してはいかがでしょうか?姫昌は死なずにすんだ上に、帰国を許されたら陛下のご聖恩に感激するでしょう。帰ったあとは、犬馬の労もいとわず厚恩に報いることと思います。姫昌は死ぬまで陛下に忠誠をつくすでしょう」
費仲の話を傍らで聞いていた尤渾は、費仲も西岐から贈り物を受け取ったに違いないと確信し、やつ一人の手柄にされてはたまらん。わしも姫昌に感謝されるように何かしなければ、と考えた。
尤渾もこれを好機と捉えて紂王の前に出て奏上した。
「陛下、姫昌を赦すおつもりなら、それに加えて恩典を与えてはいかがでしょうか。そうすれば、姫昌は陛下のためにますます尽力すると思います。現在、東伯候 姜文煥が造反し遊魂関を攻撃しております。遊魂関の総兵の竇栄が応戦して七年になりますが、いまだ平定できずにいます。また、南伯候 額順も謀反を起こし、三山関を侵攻しています。三山関の総兵の鄧九公が反撃して七年になりますが、やはり勝敗がわかりません。さらに各地でも諸侯の蜂起があり兵乱の静まる日がありません。
わたくしの愚かな考えを申すなら姫昌を『王』に封じ、白旄黄鉞を与え兵乱の征伐を命じ、陛下に代わって西岐を押さえ鎮めさせるべきです。姫昌は賢者として知られ、天下の諸侯も畏服しておりますから東伯候と南伯候の反乱軍は戦わずして退くでしょう」
紂王は上機嫌で言った。
「尤渾の才智は貴重なものだ。また費仲は忠臣を大事にすることを知っている。卿らはやはり知恵者じゃ」
二人は感謝の言葉を述べた。紂王はさっそく赦状をしたため、姫昌が羑里から離れること許可した。このことが翌朝には朝廷内に知れ渡り、使者が赦状を持って朝歌を離れたことを知ると文武諸官はおおいに喜んだ。
*****
そのころ、羑里の姫昌は、紂王に殺害された伯邑考のことを思い出して嘆いていた。息子は西岐に生まれ、朝歌で死んだ。わしの言いつけを聞かないから災難にあったのだ。聖人は息子の肉を食さないと言われるが、わしは大局を考え、やむを得ずそれを口にした……
姫昌が伯邑考のことを考えているとき、一陣の突風が瓦二枚を吹き落とした。地に落ちた瓦は粉々になった。姫昌はこの異常な兆候に驚いて、急いで香を焚き、金銭で八卦を探った。すると今日、陛下から今日赦状が届くことが判明した。
姫昌は従者に陛下の赦状が届く。出立の準備をするように命じた。従者たちは半信半疑で命令に従った。するとしばらくして、朝歌から使者が来て赦状を携えてやって来た。
姫昌は赦状を受け取り、使者に拝礼した。使者は王命を述べた。
「紂王陛下の王命により、西伯候姫昌老大人を赦放す」
西伯候は北方を望んで感謝の意を表し、すぐに羑里を出発した。羑里の人々は羊を引き、酒を担いで道の両側に集まり、西伯候にひざまずいて見送って言った。
「七年間、千歳の教えを受けたおかげで老若は忠孝を知り、婦女はみな貞潔をしるようになりました。住民は男にしろ、女にしろ、みな千歳の厚恩に感激しております。今日お別れしてしまえば、二度と恩恵を受けることはできなくなってしまうのですね」
西伯候との別れを惜しむ人々は涙を流し、西伯候も七年間監禁されたとはいえ、なれ親しんだものに深く心が引かれ涙を流して語った。
「わしは監禁されていた七年、そなたたちに何もしてやれなかった。それなのに、このような盛大な送別を受けて申し訳なく思っている。これからもわしの教えを守って暮らしていけば、万事とどこおりなく、朝廷の太平を享楽できるだろう」
人々は悲しみに暮れて、遠く十里ほど送り別れを惜しんだ。
西伯候が朝歌に着くと文武百官が午門で出迎えた。姫昌は、諸官に会うと慌てて拝礼し、感謝の気持ちを述べた。
「罪臣は、七年ぶりにみなさま方にお会いすることができました。今日、陛下の聖恩で特赦され、帰国を許されましたのは、すべてみなさま方のおかげです」
諸官は姫昌が年老いているものの非常に元気なのでたいへん喜んだ。
そのとき、姫昌のもとに使者が紂王の王命を伝えに来た。竜徳殿で待っているので諸官に姫昌とともに謁見に来いということだった。姫昌は紂王に謁見すると、平伏して奉じた。
「罪臣姫昌の罪は処刑に値します。ところが、陛下のご聖恩により赦されました。これからも、身命を惜しまず陛下のために尽くします。陛下万歳、万々歳」
紂王は笑いながら言った。
「卿は羑里に七年監禁されていたが、苦情も述べず逆に余の長寿を祈り、天下太平と庶民楽業を願ったそうだな。卿の忠誠心を知って、余は慚愧の念に思っている。そのため、今日卿を無罪放免とする。七年の監禁により、賢良忠孝百公の長に封じ、余の代理としての征伐専任とする白旄黄鉞を授けるから、西岐に駐在して守れ。また毎月米一千石を加禄とする。さらに栄誉の帰国にあたり、文官二名と武将二名に卿を送らせよう。そのほか、竜徳殿での酒宴と町での豪遊三日を授ける。感謝して受けるがいい」
姫昌は紂王に平伏して感謝した。そして姫昌は衣服を着替えて竜徳殿の酒宴に出席した。文武百官はすべて姫昌に祝い言葉を述べ、祝福の盃を挙げた。比干、微子、箕子をはじめとした朝廷の諸官は姫昌の特赦を心から祝った。
文王(王に封じられた西伯候姫昌)は、感謝して朝廷から退出した。そのあと、朝歌を出るまでに三日間の誇官(封官を祝って顔見せのため街に出ること)となった。
朝歌城内の人々は、老若男女こぞって姫昌の封官を喜び、徳のある賢候が特赦された!忠臣が監禁から釈放された!と口々に叫んだ。
朝歌城内の誇官二日目の陽が傾くころ、姫昌の行列の向かい側から重武装した軍馬に乗った兵の一団がやってきた。姫昌は従者に尋ねた。
「前方から来るのは誰の部隊だ?」
「大王千歳、旗印から武成王黄飛虎様の部隊が錬兵から帰ってくるところです」
姫昌は急いで愛馬から降り、道端に立って頭を下げて礼をした。黄飛虎は、姫昌が馬から降りるのを見て、自分も慌てて騎馬から降り、姫昌に話しかけた。
「西伯候殿、いや文王殿、お通りになるのに道を譲らずまことの申し訳ない。ところで栄誉の帰国、大変喜ばしいことです。末将、よけいなことだと思うが、一献差し上げながら申し上げたいことがある。聞いてくださるか?」
「ぜひ聞かせていただきたい」
「末将の府邸がここから遠くない。そこで酒でも酌み交わしながら話すことにしてはどうだろうか?」
姫昌は誠実な君子であるので、遠慮して辞退することがなく、すぐに答えた。
黄飛虎は姫昌を伴って王府に帰り、急いで酒宴の用意をするように家臣に命じた。文王と武成王は、杯を重ねながら雑談をかわした。
日が暮れ、明かりがともるころになると、武成王黄飛虎はすべての家臣に退くよう命じた。
「ところで、一言ご教示をいただくことになっていたが、それは……?」
と姫昌は率直に聞いた。
周囲に人がいないことを確認した黄飛虎は顔をしかめながら本心を語った。
「姫昌殿が帰国を許されたことは、非常に幸運と言える。しかし、紂王は奸言を信じ忠告を聞かず、大臣を陥れ酒色にふけり、朝綱を乱し諫言を聞かず、炮烙をもって忠言を退け、蠆盆をもって諫言を阻んでいる。各地では反乱、蜂起が発生し東と南で四百の諸侯が反旗を掲げていると言う状態だ。有徳の文王殿がいま監禁から解放されたことは、さながら海に帰った竜、山に入った虎のようなものだ。朝廷の決定など三日も経てば変わってしまう。そのことに気がつかれよ。今は誇官などに興じているときではない。一刻も早く朝歌を離れ、郷土に帰って父子、夫婦が再会すべきときだ。この上ここに残っていたら、また何か起こるかわかったものではないぞ」
と黄飛虎は姫昌に考慮の余地も与えようとはしない。
姫昌は黄飛虎から現在の朝廷を聞き、落ちつきを失い立ち上がって感謝した。
「貴重なご配慮を頂きありがとうございます。しかしすぐに帰国するとしても急いだところ五関を出ることができないです。どうしたらいいのでしょうか?」
「難しいことではない。銅符と令箭などはこの屋敷にすべて置いてある」
黄飛虎は銅符と令箭を取り出し姫昌に渡した。そして五関での検問を避けるため、夜間でも通関できるように軽装に着替えるように言った。姫昌は感謝の気持ちを述べた。
「生みの親にも勝る武成王殿のご厚恩、いつの日かお返ししますぞ」
こうして時刻は既に2更になっていた。武成王は副将の劉環と呉謙に朝歌の西門を開けるように命じ、文王姫昌を城外に送り出した。そして姫昌は愛馬を駆り立て朝歌を離れ、その夜のうちに猛津を通り、黄河を渡って臨潼関に向かった。
*補足説明のお時間です~♪
*紂王は「王」なのに、他に「王」がいておかしくないか? 紂王は「皇帝」では?と疑問に思われた方もいらっしゃると思いますが、これは原作の明代の編者 許仲琳が当時の皇帝と王制を混同している上に、何世代も編訳した際に中国独自の言い回しを誤訳・追加してこのようになったようです。
(例えば、原作では「皇后」、「娘々(意味は女神)」と言ってたり、太子を生んでいないのに「国母」と言ったりしています)
そのため、本文では「武成王」や「文王」も「王」として名乗り、感じとしては項羽と劉邦の時代のように、項羽は「皇帝」とは名乗らず「西楚の覇王」と言っています。これは多くいる王の中で自分は「突出している王である」という立場を現しています。そこで紂王も「「突出している王」とし、自分のことを「紂王」と名乗り、原作では「朕(これは始皇帝が初めてした呼称で、皇帝のみが名乗れる第一人称です)」と名乗っていますが、本文では「余」を採用して、こちらの「予」は一般的でないので採用しておりません。
*「千歳」とは? これは儒教の考えからきたもので、儒教では目上・立場が上の者に対しての呼称として用いられます。またその人の長寿を祝うと言う意味も含まれています。その為、中国皇帝を呼ぶ際には「千歳爺」、「万歳爺」という表現が使われます。もちろんこれは後世の編訳の際に付けられたもので、儒教の祖である孔子の生れた春秋戦国時代より物凄く後の時代になって使われる表現で、殷時代ではこのような表現はありません。
では、また本文でお会いしましょう~♪




