【コミカライズ】旦那さま、冷たいあなたも素敵だけれど、さすがに疲れてしまいました。離婚して出て行ってもいいかしら?
「旦那さま、冷たいあなたも素敵だけれど、さすがに疲れてしまいました。離婚して出て行ってもいいかしら?」
ジェシカの言葉に、夫であるケネスが顔色を変えた。日頃から生真面目で表情の変化に乏しいはずの夫の意外な姿に、ジェシカは思わず笑い声をあげる。
「突然、何を言っている」
「あら、ケネスさまにとっても好都合でしょう。私のこと、持て余していらっしゃったじゃない」
ジェシカだって、仏頂面の夫の気持ちはわかっているつもりだ。ひとの心を縛ることなどできない。けれど、ケネスの口から出たのは予想外の言葉だった。
「それだけ減らず口をたたく元気があるのなら大丈夫だな。さっさとこれを飲んでもらおうか」
「こ、これは」
差し出されたティーカップには、並々と注がれた異臭を放つ液体。侍女ではなく夫自身がそれを用意した意図を考え、彼女は息をのむ。
「離婚する気はない。絶対にだ」
押し付けられたカップを震える手で受け取りながら、ジェシカはケネスを見つめた。
***
ジェシカとケネスは、即席の政略結婚だ。もともとジェシカは侯爵家の跡取り娘。そのため、侯爵家に婿入り予定のケネスとは異なる婚約者がいた。
風向きが変わったのは、ジェシカが15歳のとき。二人目が難しいと思われていたジェシカの母親が身ごもったのだ。次は男の子かもしれないと父は期待し、その期待通り、母は跡継ぎを産んだ。そしてその日から、ジェシカの環境はすっかりかわってしまった。
『具合が悪いなら部屋から出ないでちょうだい。この子に何かあったらどうするの?』
こほんと咳がひとつ出れば、バイ菌扱いでジェシカは部屋に閉じ込められた。誰も来ない部屋で、ひとりきり。熱が出たときに部屋にひとりぼっちでいると、静けさで耳が痛くなった。以前なら母か父が持ってきた熱冷ましの薬湯も、届けられることはない。
『あなたには必要のないものよ。これからは、茶会で会話に困らないように、王都の流行を覚えてちょうだい。くれぐれも知識をひけらかさないように。殿方は、一歩下がった控えめな女性がお好きなのだから』
あれほどまでに強制された跡継ぎ教育は不要となり、むしろ「女が学問など小賢しい」と注意されるようになった。
『まったく、今さら婿入りできないなんて、馬鹿にするのもいい加減にしてほしいよ。この10年、まったく無駄になった。契約を違えたのはそちらだ。それ相応の対応はしてもらおう』
仲睦まじかったはずの婚約者との婚約も解消された。相手は、侯爵家の婿になりたかったのだ。継ぐ家を持たないジェシカに用はなかったらしい。人生設計が狂ってしまったのはジェシカも同じだったけれど、相手からするとジェシカは加害者に見えるようだった。
『わがままを言うんじゃない。貰い手があるだけでも、ありがたいと思わないのか』
婚約解消後すぐに新しい婚約者は探せなかった。跡取りである弟がある程度の年齢になるまでは、父の手伝いをしなければならなかったからだ。適齢期を過ぎて、新しく婚約者を探すことはなかなか難しい。年齢や家柄の釣り合う相手は、ほぼ身を固めている。
同じ世代の売れ残りは、みな訳ありばかりだ。貧乏だったり粗暴だったり。地雷を避ければ、あとは歳の離れた男やもめに嫁ぐくらいしか、ジェシカに残された道はなかった。
『そんなふてくされた顔をして。一体、何が不満なんだ。ああ、慌てて作り笑いをしないでもいい。不愉快だ』
(笑えば媚びていると言われ、笑わなければ辛気くさいと叱られる。この家では、私は誰にも必要とされていない。それならば……)
『お父さま、お母さま、お願いがあります。私は、私を必要としてくださる方のもとに嫁ぎたいのです』
そうしてジェシカに用意されたのは、見合いですらなかった。彼女は、結婚式直前に婚約者に逃げられた子爵家のケネスの元に嫁ぐように指示されたのだ。
***
『病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、夫として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?』
『誓います』
ジェシカではない誰かのために、ケネスが用意していた結婚式。誰かのために作られたドレスのサイズを少しだけ直して、ジェシカは式に臨んだ。
『……指輪が』
『すみません、その指輪は私には少しだけ大きいみたいで。中指にはめても不自然ですし、このまま薬指にはめておきましょう。大丈夫、落としたりはしないわ』
ぶかぶかの指輪を見ても、ジェシカは笑っていた。自分のための結婚式ではないのだから、こんな風になるのも当然だ。それなのに、ケネスの機嫌は悪くなるばかり。
(やっぱり、前の婚約者の方がよほど大切だったのね)
うらやましいと思う気持ちを抑え込み、ジェシカは微笑む。だって、花嫁は微笑むものだから。
好かれなくてもかまわない。でも、嫌わないでほしい。そう思って必死に笑えば笑うほど、ジェシカは空回りしてしまう。
花嫁だけを取り替えた結婚式は、つつがなく執り行われた。新郎新婦の間に深い溝を残して。
***
『婚約を解消されてから、なかなかお相手が見つからなかったのですって』
『ええ、そうでしょうとも。あの方は、なにごともはっきりとおっしゃる方だから』
『ご家族も苦労なさっているそうよ。侯爵夫人がおっしゃるには、昔から我が強くて扱いが難しい子だったと』
『だから、お茶会や夜会にもいらっしゃらないのね。弟君に嫉妬していらっしゃるのかしら』
格下の子爵家に嫁いだ侯爵家の元跡取り娘。社交界は好き勝手に噂する。ジェシカの家族は、ジェシカひとりが泥を被れば済む話だと思ったのか、かばってくれることはない。むしろ、娘のわがままを叶えて嫁がせてやったのだと吹聴した。
『どうして君は、わざわざ僕なんかを選んだんだ』
『結婚式に花嫁がいれば、醜聞は抑えられます。もともと今回の件で、ケネスさまは悪くないのです。ならば他の縁談よりも、お役に立てる方に嫁ぐほうがよいと思いましたの』
『僕は、あんな結婚式だけは挙げたくなかった』
『……ええ、そうでしょうとも。お気持ち、よくわかりますわ』
『いいや、君は僕の気持ちなんて何一つわかっていないよ』
修理に出した指輪は、ぴったりとしたサイズでジェシカの薬指にあるというのに、ケネスの心は結婚式からさらに遠くに離れてしまった。
それでもジェシカは、気にならなかったのだ。偶然転がり落ちてきた絶好の機会。叶うはずのなかった初恋の相手と結婚できるのなら、たとえ名目上の妻であっても幸せなのだから。
***
ふたりの新婚生活は、とても静かなものだった。冷たい人間だと誤解されやすいケネスだが、彼がジェシカを蔑ろにすることなどない。
『最近、部屋の雰囲気が変わったようだが』
『はい、しまわれていた良い家具を見つけましたので、せっかくだから使おうかと。もしや、ご迷惑でしたか?』
『いいや、とても素敵だ。例えば廊下の……』
ケネスは、ジェシカが思っていた以上に生真面目な男だった。とりたててにこりとすることも、甘い言葉で愛をささやかれることもないが、それでも彼女に対して誠実に向き合おうとしていることは明白だった。
(望んで得た妻でもないのに。なんだか申し訳ないわ。それでも、ケネスさまがお許しくださるなら、私はこのままおそばにいたい)
それが苦しいと思うようになってきたのは、いつからだろうか。隣にいるだけで満足していたはずだったのに、心まで求めてしまった。
(ケネスさまがお慕いしているのは、以前の婚約者さま。私がどれだけ想いを寄せたところで、ご迷惑になるだけね)
だから、離婚したいと願い出たならば、ある程度の調整は必要だったとしても、むしろ歓迎されると思っていた。そのために、あくまで冷たいお前が悪いのだと、言いがかりのような理由までつけたのに。
「離婚する気はない。絶対にだ」
あろうことかケネスは、ジェシカの申し出をはねのけた。
「もし万一僕が君を疎んでいたとしてだ、妻が熱で倒れた日に離婚に同意するとでも? 僕のことをどんな冷血漢だと思っているんだ」
「だっていつも私のことをにらんでいらっしゃいますし」
ベッドの上で何かおかしなことを言ったかしらと小首を傾げるジェシカ。彼女に向かって、ケネスは忌々しげに舌打ちをした。いつも通りの、お手本のような険のある態度だ。
「まあ、怖い」
「熱があるからそういうおかしなことを言い出すんだ。君はさっさとそれを飲んで、夕食まで寝ていろ」
「それでは私が寝ている間に、離婚の手続きを進めておいてくださる?」
「くどい」
ジェシカの持つ器に湛えられたどす黒い謎の液体。甘いような、苦いような、酸っぱいような。なんとも言えない匂いがたちこめるそれは、この国で熱を出したときに飲む定番アイテムだ。「成人前の子ども用」という注釈がつくが。
べそをかきつつ、親に励まされながら必死に薬湯を飲む。それは多くの人々にとって共通の、懐かしい記憶。ジェシカにとっては切なく胸が痛くなる薬だ。
「旦那さまがわざわざ持ってきてくださるなんて」
「この薬は家族が作って飲ませるものだ。僕だってそうする」
一般の家庭でさえ当然のこと。薬師の資格を持つケネスならばなおさらなのだろう。
「……それは、子どもの場合だわ」
「君はいまだに子どもみたいなものじゃないか。大事なことは何も言わないし、苦いものも嫌いだし」
まったく仕方がないと言わんばかりに差し出されたのは果汁で満たされたコップだ。薬湯の後にジュースで口直しをするなんて、本当に子どもみたいだ。
「薬を飲みたくないなら、治るのが長引くだけだ。僕はどちらでもかまわない。ただし君の熱が下がるまで、君の寝室が僕の執務室になる」
「それは……勘弁していただける?」
「君は寂しがりやだからちょうどいいだろう?」
にやりと笑うケネスは、普段よりもずっと優しげで、胸が痛くなる。それが苦しくて、ジェシカは気をまぎらわせるように薬湯を口に押し込んだ。鼻を抜ける草の匂いに美味しさなどないというのに、ほっとしてしまうのはなぜなのか。
「ジェシカ、眠ればじきによくなる。目を閉じるんだ」
それはどこまでも優しい言葉。薬と一緒にケネスの優しさが染み込んでくる。
(ケネスさま、本当にごめんなさい。やっぱり、これ以上一緒にはいられないわ)
ジェシカは横になり、ゆっくりと目をつぶる。唐突にあふれた涙は具合が悪いせいだと思われたのだろう、ケネスにそっとぬぐわれた。
***
ジェシカが風邪を引いてから――正確には離婚を口に出してから――、ケネスの態度は一変した。
今までは、「仮面夫婦」「契約結婚」と陰口をたたかれていたのが、すっかり「おしどり夫婦」と呼ばれる有り様だ。
(ケネスさまったら、気を使ってくださらなくてもいいのに)
ケネスは、いつもジェシカが傷つかないように考えてくれている。先日までの、一線を引いていたときでさえ彼は紳士的だった。周囲はあくまで彼の表面的な態度だけで「夫婦仲は冷えきっている」と判断していたようだけれど。
だからこそ時々、いたたまれなくなってしまう。まるで、自分が本当にケネスに愛されていると勘違いをしてしまいそうで。
(すべては、彼の優しさ。でもその優しさに耐えられないから離婚したいの)
「何をひとりで百面相をしているんだ」
「いえ、あの……そうですね。幸せだなあと思いまして」
この生活がいつ終わってしまうのか。考え始めると、吐きそうで胃が痛くなる。だったらいっそすべて壊して、自分からケネスの元を離れてしまおうか。そう脳裏をよぎるくらいには、幸せなのだ。
どんな顔をしてケネスを見ていいのかわからなくて、ジェシカはそっぽを向きそうになる。その癖のせいで意地悪で情が薄いと噂されているのはわかっているが、どうしていいのか彼女自身にもわからない。
「ジェシカ。笑っている君は可愛いよ」
「ケネスさま?」
「何を驚いている。愛する妻のことを、夫が誉めるのは当然のことだろう」
(ケネスさまが、私を? 社交辞令でも嬉しいわ)
ジェシカが頬を赤く染めていると、耳障りな笑い声が響いた。
***
「まあ、面白い冗談ね」
「……お母さま」
事前連絡もなしにずかずかと上がり込んできた両親を見て、ジェシカは目を丸くした。爵位的には、ジェシカの両親の方がケネスを上回る。身分を笠に着られて、使用人たちも制止できなかったらしい。
「久しぶりね。親の面前でべたべたするような、恥知らずな娘になるなんて。わたくしたちの顔に泥を塗らないでちょうだい」
ジェシカは、小さくうつむいた。実家では、ジェシカに発言する権利はなかった。両親がジェシカに厳しい言葉をかけるのは当然で、ジェシカは彼らの気にさわることはしてはいけなかったのだ。
「まったく。お前ときたら。母親を守り、大切にするのは子どもの当然の役目だろう」
続いて父が、母の肩を持つ。親が子どもを守るのではなく、子どもが親を守る? 気がついたときには当たり前になっていた家庭内の理不尽な構図に、彼女は唇をかんだ。
(娘に幸せになってほしいだなんて、欠片も考えていないのね)
嫌なことを嫌と言うのは、簡単に見えてとても難しい。話が通じない相手ならなおさらだ。
いつものように耳をふさいで頭を下げ、相手の言葉を肯定していればそれでいい。そう思っていたのに。
「ジェシカのことを貶めるのは、やめていただきたい。彼女は素敵な女性です。それはあなたがたの教育が素晴らしいからではない。誰にでも優しくありたいと行動する彼女の心が美しいからだ」
「あなた、彼に一体何を吹き込んだの」
ジェシカは必死で首を横に振る。頭が真っ白で声が出ない。
「僕は何も吹き込まれてなどいない。ジェシカは、あなたがたのお人形ではありません」
「なんと無礼な! 貴様、自分の立場をわかっているのか!」
「僕は彼女の夫、彼女の家族です。妻を守るのは当然だ」
父親の怒鳴り声を、ケネスはひょうひょうと受け流す。いつの間にか手を繋いでいたことに気がついた。ケネスの手は温かい。その温もりは、両親にももらったことのない優しさに満ちている。
「ジェシカ。いい機会だ。言いたいことはちゃんと言った方がいい。そうでないと、彼らは何もわからない。まあ、言って理解できるとも思えないが、言えばよかったと後悔するよりはましだ」
夫の言葉に、ジェシカはうなずいた。今までのことを謝ってほしいともおもうけれど、恨み言を言ってもきっと彼らは言い訳するだけだ。だから……。
「私はケネスさまの元に嫁いだ身。いくら親子とはいえ、口出しは無用でございます」
凛と前を向き、ジェシカは両親と決別する。自分の人生を確かなものとして歩んでいくために。
「ああそれから、僕はもうすぐ陞爵される予定でして。今までの功績も考慮し、侯爵となる予定です。どうぞ、これからは節度を持った関係でお願いします」
「ふざけるなよ」
こけにされたと震える両親を回収してくれたのは、いつの間にか現れたジェシカの弟だった。
「姉さん、結婚おめでとう。今まで姉さんにばかり負担をかけていてごめん。父さんたちのことは俺に任せて。義兄さんと幸せに!」
すっかりたくましくなり、いつの間にか幼さの抜けた弟の姿は、暴れる両親を引きずりながら屋敷を出ていく。ジェシカは驚きと嬉しさを感じながら、見送ったのだった。
***
「ケネスさま、先ほどはかばっていただきありがとうございます」
「礼などいらない。むしろ、謝らなくてはならないのは僕の方だ。ジェシカ、君が大変な状況にあるとわかっていながら、今まで助けることができずに済まなかった」
突然抱き締められて、ジェシカは目を瞬かせた。一体、どうしたというのか。
「ケネスさま?」
「僕は、君が理不尽な環境にあると知っていた。だが、所詮は下級貴族だ。侯爵家の意向には逆らえない。君を助けることすらできず、仕事だけを見ていた結果、婚約者にも逃げられた愚か者だ」
「いいえ、そんなことは」
「あげく、君とは一線を引いた形でしか接することができなかった。これでは、離婚してほしいと言われるのも当然だろう。ただ、わかってほしい。君を厭うていたわけではない。出だしがあの最悪な結婚式だ。これ以上君に嫌われたくなくて、手をこまねいていた」
自嘲気味に笑うケネスの頬に、ジェシカはそっと手を当てた。
「ケネスさまは、元の婚約者さまのことを想っていらっしゃるとばかり……」
「彼女とはそれこそ、政略的な婚約だったよ。僕が好きなのは、昔から君だけだ。君の家がおかしいと、わかっている人間だってちゃんといる。あんな状況でも、自棄にならず前を向いている君はとても美しかった」
ケネスはジェシカのことをわかってくれていた。それだけではなく、自分のことを好ましいと思ってくれていたなんて。その事実が嬉しくて、彼女も本当のことを言うことにする。
「私が離婚を申し出たのは、あなたに愛されないまま隣にいるのが辛かったからです」
「それではまるで君が僕のことを」
「ええ、愛しています」
ジェシカの告白に、先程の彼女以上にケネスが挙動不審になる。離婚を申し出たときのケネスを思い出して、ジェシカは吹き出した。
「う、嘘だ。僕に好かれる要素なんて……」
「ケネスさまは、より安価でより口当たりの良い薬を作るために、日々努力されているではありませんか」
「……なぜ、それを?」
「誰も見守ってくれるひとがいない中で、あの熱冷ましの薬湯を飲むのは辛すぎて。代替品が手に入らないか、使用人に頼んだことがあるのです。そのとき、ケネスさまのお話を聞きました」
貴族の身でありながら、畑に出て薬草を摘む。効能があると聞けば、どんな僻地であろうと自ら出向く。薬を安価にしても儲けは少ない。それにも関わらず、製造から流通にいたるまで、必死で根回しをする姿にジェシカは恋に落ちたのだ。
理想に向かって今もなお行動するケネスは、ジェシカの憧れのまま。陞爵されるのも、この功績が認められたからこそ。
「それでもあのお薬、やっぱり飲みにくいですね。今後の改良に期待しますわ」
「あれでも、君が子どもの頃よりは飲みやすくなったんだ」
「まあ!」
ふたりは困ったように顔を見合わせる。あの味の悪さは、ケネスにとっても課題になっているらしい。
「元の婚約者さまには感謝しています。私の初恋の方を置いていってくださったのですから」
「……ああ、やっぱりあんな結婚式を挙げるのではなかった!」
大声に驚き身体を震わせたジェシカの首元に、ケネスがしがみつく。
「どうしようもない状況だったとはいえ、指輪くらい他のものを用意したかった。ずっと好きだったひとに、お下がりのドレスや指輪を渡したことが本当に恥ずかしい。いっそ死にたい」
「まあ指輪は修理したら、ぴったりに直りましたし」
「頼む、結婚式をやり直させてくれ。僕は誰かの身代わりではなく、君と幸せになりたいんだ」
ケネスの望みに、ジェシカはもちろんと微笑んだ。
***
教会の鐘が鳴る。
参列者はごくわずか。ケネスとジェシカにとって、本当に大切なひとだけを招待した、こぢんまりとした結婚式だ。
けれど彼らのうちの誰も、このやり直しの結婚式を無駄だとは笑わなかった。ケネスの両親もまたジェシカに一度目の結婚式について詫び、もう一度自分たちのために結婚式を挙げるように勧めてくれた。
結婚式には何も思い入れがないと思っていたけれど、それは自分の心を守るためだったのだろう。ジェシカはケネスとともに選んだドレスをまとい、そう実感した。
思い返してみれば、ジェシカの元婚約者もジェシカの両親に似た棘のある男だった。だからこそ、彼に嫌われないようにと必死だったのかもしれない。もしもあのまま予定通り結婚していたならば、どんな悲惨な人生になっていたことだろう。
もしかしたら、ケネスは職業柄それを理解していたのだろうか。最初からもっとあからさまに好意を示されていたならば、恐ろしさに耐えきれずにジェシカは逃げ出していたに違いない。
『病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、夫として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?』
『誓います』
今度こそ心からの愛を込めて、ふたりは唇を重ね合わせた。
お手にとっていただき、ありがとうございます。ブックマークや★、いいね、お気に入り登録など、応援していただけると大変励みになります。