プロローグ(2)
カウンターを背にしたこぢんまりとしたバーテーブルに、一人の男が腰掛けた。
ワインレッドの、そのばっさり長い前髪の間からのぞく灰色の瞳…クロム・シャーレットは、片手に先ほど
ホールスタッフから渡された店のチラシを、もう片方の手にやはり先程注いでもらった酒の入った小さなグラスを
持っていた。
このざわついた店内では、彼の存在は空気に等しい。彼はそんな了見を逆手に取り、誰にも干渉されない空間を作りあげて
いるように見えた。しばらくその雰囲気に酔って静かに目を閉じ、グラスを口に運ぶ。透明で、さらっとした液体質が、
喉の奥を熱くした。
遠くを見るように、細く薄目を開ける。
…バーク…この土地を訪れたのも、これで三度目になる。
――…この町に立ち寄ることも、恐らくこの先無いな…――
そんなことを頭に浮かべながら、グラスの中に揺れる酒を眺めていた。
――と、にわかに横から騒がしい雰囲気がまい込んで来た。
「――よっ、クロム!」
「…リン…!」
ゆったりとしたウェーブをきかせた髪を軽やかにかきあげながら、リン・ライムは彼を見て悪戯気に笑った。
明るいパープルの髪と、オレンジ系の健康的な肌色からつくられる彼女の容姿は、どれをとっても淡い、
クロムの持つそれとは対照に見える。実際の二人の関係も同じようなものだが…
リンはクロムの思うところなどおかまいなしに、声を掛けるなりドカッと彼の隣に陣取った。それぐらいなら
まだ許容範囲であったが、何故か必要以上に距離を縮めてくる。幾分か心ここにあらずであったクロムは、
先程までの鉄面皮に若干焦りの色を交え、逆に彼女を避けるように身を引いた。
「な、何だ…」
リンは人指し指を立て、注意を促す。
「…いいから! かくまって」
すると、リンの背後から更に数人の男がこちらへ近付いてくるのがわかった。
どれも見知らぬ者であったが――クロムには目に見えて察しがついてくる。
『かくまって』――その怪しげなニュアンスを含めたリンの言葉を思い出し、クロムは小さく溜め息をついた。
――またか。
「――リンさ〜ん…あれっ?」
いかにもナンパを思わせるような声がし、すぐに声色が変わる。早々にクロムの存在に気付いたようだ。
「え〜っ、そいつ何ぃ?」
「マジでぇ? おいお〜い」
男共は総勢四人。
リンはクロムに寄り添いながらも愛想笑いを返していたが、クロムは無視と決め込んだ。リンの注意にもかかわらず、
頬杖をついて余所を向く。
そんな彼の態度に、男共の矛先が向かないわけがない。初めはリンに絡んでいたが、たちまちクロムの席を囲った。
「おいてめぇ、俺らんことなめてんか?」
「聞こえてんだろがぁあ? 顔くらい向け!!」
ガンッ
一人がバーテーブルを手ひどく蹴り上げ、リンが「キャッ」と小さく悲鳴をあげる。
よほどしつこい目に遭ったのだろうか、普段通りを装いながらも、不安気な心持ちが表情に表れているようだった。
リンの手がクロムの腕に触れ、彼女の無言のプレッシャーが掛かる。
(…クロムっ、頼むわよ!)
まったくもって、気乗りしない。
再び、今度は深い溜息をつきながら…ようやくクロムは杖を解き、顔を向けた。
途端、半ばキレかかっていた男共の顔が一瞬凍りつく。
「………」
「こっ、こいつっ…」
更に彼の全身を見届け、たじろいだ。
「チッ…剣士かよっ!!」
クロムはこの時、主な防具やロングブレードは宿に置いて来たにしろ、バトルスーツに身を包み、グローブも
はめたままだったのだ。どう見ても地元民衆のいでたちで、たいした肩書きもないだろう男共の敵う相手では
ないことを象徴していた。
もっとも、先程から見受けられた彼の態度からしても、男達とやり合う気なんて毛頭無いだろうが。
「ちっくしょっ…おい赤毛、覚えてやがれ!!」
「おう! いつか落とし前つけてやる!!」
そう、既に死語な捨てゼリフを吐きながら、男共は半ば逃げるように立ち去っていった。
おおよそ、クロムの剣士姿に加え――単純に彼の容姿が、自分達の敗北を決定付けたのであろう。しかし、本人には
そんな自覚は無いに等しいようで、去っていく男共の後ろ姿を呆れ顔で見送りながら、左頬の赤黒く残る切り傷に触れる。
…やはり、街の者にはあまり良い気分はしないだろうな…
男共が完全に姿を消したことを確認すると、ようやくリンの緊張がほぐれた。
早々にクロムから離れ、リラックスした表情で一息つく。
「…あ〜、よかった! あいつら意外にしつっこくてさ〜ぁ。そんなに女に飢えてるのかしらねぇ?」
悪びれる風も見せず、逆にバーテーブルに身体を突っ伏し、ニカッと笑顔を作りながらクロムの方を見上げた。
幾度と無くこんなパターンを繰り返してきていたし、何となく察しはついていたので、やっぱりか…と内心で
呆れつつ、クロムはリンへ憮然とした表情を向ける。
「…リン…お前、俺を何だと思っている?」
「悪かったって! 利用させていただきました〜」
「……」
クロムはまた、長い息を吐き出した。
「あまり気を許すな、危険な目に遭っても今みたいに上手く免れられんことだってある」
「わぁかってますよ、我らがリーダー、クロム・シャーレット様!」
しかしこの時にはもはや、リンはクロムの注意の半分も聞く耳を持っていなかった。
彼のもっともなコメントには生返事を返しただけに終わり、次の瞬間には既に、自分の酒のオーダーを取り始める。
彼女の自分に対する『聞く耳もたず』は毎度のことなので、クロムにも自然と諦めがつく。
テーブルにできたコップの水跡を指でいじっているリンに、別の質問を掛ける。
「…ネオンとテルルは?」
町に着いてから宿をいち早く後にしたクロムは、残ったパーティメンバーの行動を把握していなかった。
「あぁ、テルルは宿の手伝いしてるわ。ネオンは、町の北の森を散策しに行ってる」
特にクロムの方を向くでもなく、リンは答えた。
クロムの顔色が変わる。
「北の森… …一人で行ったのか?」
「そーよ」
「……」
思案と後悔の入り混じったような顔をしながら、クロムは額に手を当てる。目に見えてネオンを心配しているのだ。
そんな彼に、今度はリンの方が大袈裟に溜息をついて見せる。
「ま、ネオンもあんたと行きたかったらしいけどね。気にすることないわよぉ、あのコだって、“一応”剣士なのよぉ?」
ネオンの信頼性をくむリンであったが、自分と同い年のネオンを『あのコ』だなんて、まるで年下扱いだ。
しかし、元来アネゴ肌の彼女がそんなこと気にするはずがない。
「それに、あんたが問題ないって言ったんじゃない」
「確かに…この町には[奴ら]の気配は感じられないが…」
「じゃあ平気よ。あんたさぁ、心配し過ぎるとそのうちハゲるわよぉ?」
「……」
自身の頭頂部を指でトントンと指しつつ、リンはわざとらしくにやけながらクロムへ視線を送る。
クロムはそんな彼女へ向けて細い目を見開き、顔を凍らせた。
「――おまちどお。」
とそこへ、リンの前に彼女が先程オーダーしたカクテルのグラスが置かれ、そこで二人の会話は一旦中断した。
いまだ複雑な顔で思案にふけるクロムを尻目に、リンは大好きなモスコミュールを美味しそうに口に含んだ。
「うぅーん、格別。あんたは? 何飲んでんの?」
と、突き放した途端、またしてもリンはクロムに絡む。彼女は先程から、クロムの横にあるグラスが気になっていた
らしいのだ。頬杖をついて手持ち無沙汰なクロムの肩につかまりながら、彼のグラスをわしっとつかみ寄せた。
クロムの顔が少し赤らむ。
「なっ、おい…」
「ちょっと頂戴」
「! それは…」
クロムの制止を押し切って、リンは豪快にグラスを傾けた。途端
「…うわぁっ、なあにこれ!! ウォッカ…のストレートですってぇ!?」
口にした酒をふき出す勢いでリンは渋面を作り、むせ返りながら口の中を必死に煽ぐ。
そんな彼女を、クロムは軽い表情で見据えていた。
「お前には強過ぎるだろうな。…人のものに不用意に手を出すな」
「喉があぁ〜…もぉっ、そんな罰ゲームみたいなのを涼しい顔で飲んでんじゃないわよっ!!」
冷静に助言をするクロムに、すっかり機嫌を悪くしたリンは怒りを向ける。無論、クロムには怒られる理由は無い。
「あんたに関わっていると、ろくなことないわ。出る!」
「何故俺のせいになるんだ…」
酒のせいか怒りで頭に血が上ったせいか…リンは顔を真っ赤にしながらその場を不遠慮に立ち上がり、ふらつく
足取りで入り口へ向かう。
“俺を使ったくせに”という言葉を飲み込んで、クロムはそんな彼女の後を付いて行く。
「何よっ! 一人で飲んでればいいでしょーっ?」
「どこへ行く気だ」
「ネオン探しに行くの!」
「止めておけ、今のお前では追えんぞ」
「うーるさいっ、ほっといてよーっ!!」
2011/1/1 一部改変