8 シュールな世界
21世紀に戻れないかもしれないと思い始めてから、夏生は鬱々と過ごした。芙美子が篤と逢う度に胸をときめかせているのを、恨めしく思った。
(どうして自分の身体に戻らないのだろう?)毎日のようにそう思い、自分なりの分析を試みた。最初は離れのダブルベッドを見て、アニメが見たいと叫んだ時に元に戻った。2度めは、静が出産をした時だ。その痛みで自分の身体に戻った。どちらも、芙美子や静の意識とひとつになってから1年ほど過ぎたころだ。その1年というのが、誰かの中にいられる期間だと考えたかったが、すでに、その10倍以上の時間が過ぎている。
(ダメだ。わかんない。やっぱり、これからずーっと、このままなのか……)考えるだけ、ため息の数が増えた。
その日は芙美子のスナックの定休日で、日暮れにやって来た篤に抱かれた。彼が天井を見ながら言った。
「新しい宿を作ろうと思う」
「温泉宿ですか?」
芙美子は、彼のほうに身体を向けて胸に手を置いた。
「古いことを言うんだな」
「宿と言ったのは、あなたですよ」
「そうか……」と苦笑し、温泉ホテルだ、と言い換えた。
「テレビで東京オリンピックを視ただろう? 都会の者は豊かになっている。益々温泉に来る客が増えるに違いない。石那坂は湯量が豊富で交通の便がいい。歴史もあるから客を集めやすいだろう」
篤が芙美子の手を握って撫でる。暖かな手だった。
「あら、歴史なんてあるのですか?」
芙美子は首を傾げた。
「ここに10年以上も住んでいて、何も知らないのだな」
「働きづめで、温泉なんて無縁でしたもの」
「RAAにいたのだったな……」
「RAAのことは言わない約束ですよ。……新しい宿、いえ、温泉ホテルができたら寄らせてもらいます」
「おう、他の者には言わないさ。宿は歌人という名前にするつもりだ」
「あら、歌人とは温泉のホテルらしくない、変わった名前ですこと」
「石那坂には西行法師や松尾芭蕉、正岡子規、与謝野晶子など、沢山の歌人が逗留しているからな。それにあやかるつもりだ」
時計に目をやった篤が、ベッドを出ると脱ぎ散らかしていた衣類を拾った。芙美子は身繕いをすませて、床の布団に寝かせていた俊史を抱き上げた。
離れを出てみると、陽はとっぷりと暮れていて足元も危うい。母屋の正面にまわると、篤が道祖神のそばに座る静佳の姿を見つけて足を止めた。
「あの娘は、いつも道祖神の前にいるのだな」
「私が水商売をしているので、友達もできないようです」
芙美子の声に影が落ちた。
「生きていくためにしていることだ。負い目に感じることなどない。身体を売っても高貴な仕事があった」
「そうなのですか?」
「太夫や花魁というのを知っているだろう? 俺だって、お前のためにはずいぶん金を使った。キャバレーを辞めさせるときには、オーナーに金を積んだんだ」
「はい。それは感謝しています。おかげで真っ当な生活をさせてもらっています」
(不倫は真っ当な生活じゃないわよ)夏生がつっこんだところで、芙美子が知ることもなければ、誰かが笑ってくれることもない。それは寂しいことだった。
「日本人は売春までも芸術の域に高めたのだ」
「売春が、芸術ですか?」
2人は車に向かって歩き始めた。
「絵画と同じだ。名作といわれるものには数千数百万の値段がつくが、それを決めるのは誰だと思う?」
「さあ?」
「知ってるか? もともと太夫というのは朝廷の官位らしい。吉原の太夫は、それぐらい価値のある遊女ということだ。遊女屋の主は、これだと見込んだ女に楽器、踊り、詩歌……。様々な芸と教養を教え込んで太夫に仕上げ、店の看板にした。看板に箔がつけば、客の注目をあびて、その店にいる他の女郎たちもよく売れる。商品の値段を決めるのは消費者ということだ」
「色ごとの歴史にまで詳しいのですね」
「温泉には、温泉芸者がつきものだからな」
篤が運転席のドアを開け、再び身動きひとつしない静佳に眼をやった。
「それにしても変わった娘だな」
「普通の子供と違って、勘は鋭いのですよ。でも、それ以上に道祖神の方が変わっているのです」
「確かに……。戦争中、性器の形をした道祖神は風紀を乱すから隠せと命じられたものだが……」
「あの道祖神も社に入っていたのですよ。それを、私がここを買った時に壊したんです」
声が届いたのか、静佳の頭が動いて2人に向いた。芙美子が手を振ると、彼女はぷいっと横を向いた。静佳には、母親が篤に媚びを売っているように見えるのだろう。そんな自分が嫌いなのだ。そう考えると哀しかった。
夏生は静佳に深い同情を覚える。彼女に、芙美婆ちゃんの事情を説明してやりたかった。どんなに芙美婆ちゃんが子供たちを愛していて、そのためにどんなに苦労してきたかかを……。それを知らないことは不幸なことだと思った。
そして俊史のことを考えた。今、彼は自分の、正確には芙美婆ちゃんの腕の中で気持ちよさそうに寝ているが、21世紀の彼が、娘の自分のことをどれだけ愛してくれていて、苦労していて、期待していてくれるのかを、今、私は知った。それを話して感謝の言葉を伝えたい。……このまま自分の身体に戻れなかったら、それができないどころか、自分は死んで父は嘆き悲しむに違いない。
感情が押さえきれなくなって(助けて!)とクグツメノシズカを呼んだ。そんな泡立つ感情を切り裂いたのは、篤の感情のない石のような声だった。
「またな」
声だけを残して車が去っていく。赤いテールライトが遠ざかったのを確認してから、芙美子は静佳のもとへ足を運んだ。
「静佳、風邪をひくわよ」
静佳が顔をあげた。その瞳が普段のものと違って子供らしくない。
「夏生さん。大丈夫かい?」
その口調は、まるで男性のようだった。
「えっ、どうしたの、静佳? 夏生って、だれのこと?」
芙美子が首を傾げ、夏生は驚愕した。
(静佳さんには私のことがわかるの?)
そんなはずはなかった。もう、10年も一緒にいる。わかるのなら、もっと早くに何かを言ってきたはずだ。
「芙美子さん、夏生さんを返してください」
静佳は他人のような口の利き方をした。夏生の、いや、芙美子の心臓が高鳴った。(私、帰れるの?)
「おかしなことを言うのね。夏生さんって、誰のこと?」
(私です。ワ・タ・シ)
「芙美子さんの中で、迷子になっている女性です」
「静佳、おかしいわよ」
芙美子は静佳の前に屈んだ。すると静佳が、俊史を抱く芙美子の右手を握った。
「僕は伊達倫也です」そう、静佳が言った。
「エッ?」
芙美子は顔をしかめ、夏生は仰天した。まさか彼が助けに来てくれるとは思わなかった。こんな形で……。
静佳が芙美子の腕を引く。子供とは思えない力だった。彼女はその手を道祖神に押し付けた。途端に世界がぐにゃりと曲がった。
夏生の意識は空に浮かんだ。まるで竜巻にまき上げられるようにねじられながら、雲の上に……。いや、ねじれているのは世界のほうだった。回る世界は三日月形をしていた。群青色の下界では小さな人間たちが蠢いていた。まるで蟻のようだ。長い行列をつくる蟻たち……。
よく見れば、前を歩く者たちは、戸板に白衣姿の年老いた女性をのせて運んでいる。その後ろを女や子供たちが泣きながら歩いていた。葬式だった……。自分が死んだ? いや、自分が入っていた誰かの身体が死んだのだ……。そう直感した。
列はねじれた峰越山に向かっているようだった。
(あれは静御前の身体……)
気づいた時、――こっちへ――と声がした。(伊達さん!)喜んで叫んだが、それが声になったのかどうかわからない。ねじれた景色が小さな黒点になって消えていた。
「夏生さん! 大丈夫?」
それは春奈の声だった。
夏生は自分の意識がぼんやりとした闇の中から覚醒していくのを感じていた。石のように重たい頭を上げると、「良かったー」と春奈が歓喜した。
周囲はすっかり闇に吞まれ、月と星々の明かりだけが、ほんのりと春奈と智也の姿を浮かび上がらせていた。
「私、15年間も芙美婆ちゃんの所に……」
「45分よ」
夏生の言葉を春奈が正した。
「おかげでお腹が空いちゃった」
彼女は何もなかったように明るく言ったが、倫也の顔は何か怖いものを見たように強張っていた。
21世紀、自分の世界に戻れた。……自分の居場所を自覚するとぶわっと涙があふれた。
「ありがとう……、伊達さんが……、助けてくれたのね」
彼に抱きつく自分を止められなかった。
「いや……。そんなことは……」
耳元で、困惑する声がした。
「どうしちゃったのよ……」
春奈の声が夏生を素通りした。
夏生は、ずっと倫也に抱き着いたままでいたかった。もう、昔には戻りたくないし、自分の身体を手放したくなかった。
「もう、大丈夫だよ」
倫也の両手が夏生の肩を押した。夏生は仕方なく離れた。彼がハンカチを取り出す。夏生は、差し出されたそれを遠慮なく借りて涙を拭いた。
気持ちが落ち着くと、倫也に抱き着いていたことが恥ずかしくなった。彼も同じような気持らしい。夏生や春奈を見ないように、空の月を見上げていた。光が足りなくて横顔の表情は判然としなかった。
「ずいぶん待たせてしまって、ごめんなさい」
「いえいえ、無事に帰還したからいいのよ。さあ、帰ろうかぁ」
春奈が軽い足取りで車に向かう。夏生は、彼女を追おうとして立ち上がった。長い間、同じ姿勢を続けていたので、身体のあちこちが痛み、足は痺れて自由に動かない。身体がぐらついた。
「オッと……」
倫也の手が夏生の肩を支えた。夏生はその手を押さえた。他人のもののようではなかった。
「あ、ありがとう……」
「いや……。僕の肩につかまるといい」
彼はぶっきら棒に応じた。そんな彼が、静佳の姿を借りて自分を助けてくれたことが不思議でならなかった。
「どうやったのですか?」
夏生は彼の肩を借りて歩いた。
「神野さんが遅いから、道祖神に訊いてみた。そうしたら、あんなふうになった。何かやり方がわかってしたわけじゃないよ」
「そうなんだ……。驚いたでしょ?」
「少しね」
彼はそう応じると足を速めた。夏生の手が彼の肩を離れた。
「あのう……」
クグツメノシズカとどんな話をしたのか知りたくて、背中に向かって声をかけた。しかし、彼は無視して車に乗り込んだ。話したくないことでもあるのだろうか?
夏生は尋ねるのを諦めて助手席のシートに身体を沈めた。ズン、と疲労が背骨を圧迫した。眼を閉じると体内を長い時が流れていく。揺れていた車が国道に出て穏やかに走ると、睡魔に襲われた。10分ほどの短い休息だった。
3人は〝ホテル歌人〟で夕食を囲んだ。春奈は、夏生が45分もの間、クグツメノシズカと何を話していたのかとしつこく訊いた。夏生は仕方なく芙美子が東京大空襲の被害を受けたことや、道祖神のある家を買ったこと、スナックを始めたことなどを話した。しかし、RAAや篤、元春の名前は出さなかった。
「それだけ?」
春奈は不満そうだったが倫也が助け船を出してくれた。。
「ハル、神野さんは帰ってこれなくなって大変だったんだ。疲れているだろうから勘弁してやれよ」
夏生は、心の内で、彼に手を合わせた。
倫也たちが帰った後、久しぶりにアニメを楽しんだ。リアルの夏生は昨晩も見たのだが、気持ちの上では、15年ぶりに見た感覚だった。2次元のキャラクターが演じる物語の世界は、3次元の芙美婆ちゃんが経験した記憶よりリアルで新鮮だった。何よりも負の感情を引きずらずに済むのがいい。
道祖神の中の世界で、どうして静佳の中の倫也と話せたのか、あの世界がどんなシステムなのか、RAAが実際にあったものなのか、静佳はどうして早逝したのか……、それらも知りたかったが、後回しにした。再び触れるには辛い経験ばかりだし、ひどく疲れてもいた。
3本目のアニメを視ているとスマホにメッセージが届いた。先輩の芳明からだ。人事部長が会ってくれるので、打ち合わせがしたいという。夏生は電話を掛けて礼を言った。
『礼なんていいんだよ。可愛い後輩のためだ』
夏生は嬉しかった。優斗がラグビー部にこだわる気持ちがほんの少しわかった。
『部長がね。来週の水曜日はどうだっていうんだ。急だけど』
「私、まだリクルートスーツを用意してなくって……」
『普段着でいいと部長が言っていたよ。リクルートスーツだと、協定破りがばれるからって……』
彼の声が笑っていた。秘密を共有した者同士が持つ信頼感のアピールのように聞こえた。
「普段着って、Tシャツというわけにはいきませんよね?」
念のために確認する。
『それはそうだね。ブラウスとスカートだろうな。派手なものでなければ良いと思うよ。靴はスニーカーはNGでね』
「それなら、大丈夫です。よろしくお願いします」
そう伝えると、彼は面接の後に食事会がある、と言って夏生を驚かせた。
『レストランを予約するように言われているんだ。神野さんの素の顔が見たいと言っていたな。僕の時にはそんなことはなかったけど。あ、心配しないでいいよ。僕も同席することになっているから』
彼はそう説明して安心させると、事前に会いたいと言った。
「今、福島にいて、戻れるのは火曜日になると思うんです」
彼の下心に気づいてそう応じた。この前みたいに関係を迫られるのも嫌だったし、何より今の3食昼寝付きのホテル生活を捨てられなかった。
『人事部長はきっと内定を出すよ。神野さんは美人だから……』
事前に会うことを断ったからだろう。その声には少しだけ棘があった。
『……それじゃあ、食事が済んだ後、1軒付き合ってくれ。そのくらい、いいだろう?』
名案を思い付いたようだ。猫なで声でそう言った。さすがにそれは断りきれずに承諾した。芳明は嬉しそうに『時間に遅れるなよ』と言って電話を切った。
「やった!」
夏生は、思わず万歳して大浴場に走った。
「まったく、気負い過ぎだぜ。面接は来週なのに……」脱衣所の大鏡に映る自分をからかった。芙美婆ちゃんに似た顔が笑っていた。
夜遅い時間帯だったが、大浴場には客が多かった。夏生は空いている洗い場を探して髪を洗った。長い髪は洗うのにも時間がかかる。不要不急の外出自粛を順守していたために、いや、実際はただのインドア女子というだけなのだけれど、髪は伸び放題だった。
長い髪は人事部長にどんな印象を与えるだろう……。IT企業なら清潔感のあるデジタルっぽいのがいいのかな? デジタルがONとOFFの2進法だということはわかるが、それが髪型とどんな関係があるのか、自分でも説明はできない。
「とにかく、カットしよう」
鏡の中の自分に誓う。
翌日、ホテルの近くの美容院で髪を切った。
就職に光明がさしたのは何にもまさる朗報だった。そうしてアニメにどっぷりとつかった。それに意識を集中したのは芙美婆ちゃんの中にいて経験したことを忘れたかったのかもしれない。その証拠に、ふと息を抜くと、ニヤニヤ笑うアメリカ人の顔が浮かんだ。RAAの施設にやってきた兵隊の顔だった。
クグツメノシズカの見せるあの世界は、なんなのだろうか? 夏生は温泉に浸かり、布団で横になり、無い知恵を絞って考えた。そうしてたどり着いた推理のひとつが、あの世界はアニメのような虚構かもしれないということだった。それならば、あの世界で倫也と話せたことにも説明がつく。私は過去に戻って芙美婆ちゃんや静御前に宿ったのではなく、催眠術師がするように、意識をコントロールされたのかもしれないと考えた。
それにしても……、と夏生は考えた。道祖神に見せられた過去はとてもリアルだった。その世界が事実に基づくものか虚構か、確認する方法はないものだろうか?
夏生は、ネットの海に飛び込んだ。電気信号が渦巻く光の海だ。そこには、真実から噓、宝物からゴミまで散乱している。実際、日本の敗戦時の記録は沢山みつかった。東京大空襲の記録もあった。そこに芙美婆ちゃんがいたのかどうかはわからないけれど、東京の下町を焼き尽くす大空襲があって、10万人もの命が奪われたのは事実だった。それなら、あの施設の話も……、夏生は不安に駆られた。
「クッ……、ゴミばかりだ……」
終戦や敗戦、1945、進駐軍といったキーワードでは、ありきたりの情報しか見つからなかった。
「マンガを探すのは得意なんだけどなぁ……。やっぱり、リテラシー不足かぁ」
ぼんやり授業を受けてきたつけがまわって来たと感じた。日本史であれ、情報処理であれ、もっとまじめに学ぶべきだった。これでは、勉強をしたかったのにできなかった芙美婆ちゃんに顔向けができない、と思った。
「まったく、トホホだよ」
アニメキャラクターの口真似がこぼれる。
――ウーン……、若い芙美婆ちゃんが働かされた施設を思い出そうと目を閉じて脳に意識を集中する。左右に転がってみた。頭をゴンゴン叩いてもみた。……そうやって必死で思い出そうと試みたが、まったく思い出せなかった。
「ダメだー」
声にすると、自分を少しだけ赦せるような気がした。とはいえ、マンガやアニメを視る気分になれずテレビのスイッチを入れる。自動車のCMの最中だった。それは、東京に暮らしていたら、金持ちでもなければ、よほど生活を切り詰めない限り手に入れられない贅沢品だ。
――贅沢は敵だ――戦争中のスローガンが脳裏を過った。
自動車が高価なのではない。車を停めておく駐車スペースを維持するのにお金がかかるのだ。そんなものを売りつけようとするから、みんなテレビを視なくなるんだ。そんな風に考えた時、CMが終わった。と思いきや、ヨーグルトのCMが始まる。Rなんとかというビフィズス菌が健康維持に役立つとか……。
「R……」ガン、と脳内に稲妻が走った。
「そうだ、RAA!」
声になった。それからは「RAA、RAA……」とぶつぶつ言いながら、インターネットで検索した。情報はとても少なかった。
RAAはRecreation and Amusement Associationの略で、日本名が特殊慰安施設協会。連合国軍に降伏した日本政府は、3日後の8月18日、都道府県に対して〝外国軍駐屯地に於る慰安施設について〟という行政通達を出してRAA設立した。進駐軍に公的な娯楽を提供して、彼らのレイプから日本人女性を守るのが目的だった。
ひとつだけテレビ局が作成したドキュメンタリー番組があった。違法アップロードかもしれないけれど、この際、どうでもいい。再生ボタンをタップした。
RAAの解説とそこで働く女性たちの姿がモノクロで再生される。それは芙美婆ちゃんが一緒に働いていた女性たちとは少し違っていた。彼女らの表情には笑みが多く陽気に見えた。それが撮影時の演出なのか、彼女たちの使命感の表れなのか、それはわからない。
芙美婆ちゃんが置かれた境遇は現実だった。確信すると、ぶわっと涙があふれた。それをハンカチでぬぐう。倫也のハンカチだった。
ひとつだけわからないことがあった。インターネット上の情報では、1946年1月、連合国軍最高司令官総司令部いわゆるGHQは、進駐軍の兵隊が特殊慰安施設に出入りすることを禁じた。しかし、梅の花が咲いても、芙美婆ちゃんはアメリカ兵を相手に働いていた。何故だろう?……GHQが兵隊の施設への出入りを禁じた理由も明確にはされていなかった。軍の内部に梅毒が蔓延したから、というのが最も有力な説らしい。
明日は東京に帰るという日、伯父の光紀が訪ねてきた。夏生が見たいと話していた芙美子の若い頃の写真を持っていた。しかし、彼の本当の目的は違うとわかっていた。彼はそれを口にせず、3枚の写真を夏生の前に並べた。
あの時の写真だ……。夏生は息をのんだ。真っ先に眼に止まったそれは、施設長の晋佐久が撮ったものに違いなかった。髪を三つ編みにした亜矢子と芙美子の上半身がアップになっていて、彼が牡丹と芍薬と評した美しくも緊張を帯びた作り笑いが並んでいた。背後には、石造りの建物の壁だけがあった。あの施設だ。
「女学校ででも撮った写真だろうなぁ。2人とも、とても美人だ」
何も知らない光紀が目を細めた。
「……はい。もう1人はお姉さんの亜矢子さんですね」
噓をつくのは苦しかった。正直に話せば気持ちが楽になるだろう。しかしそうすれば、伯父と彼の兄弟や子供たちに苦しみの種をまくことになる、と思ってやめた。なによりも、芙美婆ちゃんが隠してきたことを、自分が公にしてしまって良いものか……。
「そんな名前まで……。誰に聞いたんだ?」
光紀が驚いていた。
「芙美婆ちゃんです」
話をそらそうと、芙美子が赤ん坊を抱いた写真を手に取る。
「この赤ちゃんは?」
「兄貴か、姉貴だろう。明美と夏生ちゃんのお父さんは、自分の写真は持って行ったはずだからな」
自分の写真のないことが残念そうな口調だった。
夏生は3枚目の写真を手に取った。道祖神の祭りの時の写真だろう。芙美子の後ろに小さな社があって、その背後に遊ぶ子供たちと屋台が写っていた。その光景に、夏生は懐かしいものを感じた。
「これは、庭の道祖神ですね」
「そうなのかい?」
伯父が驚くのを見て、彼がそれを知らないことを思い出した。
「あの石の道祖神が入っていた社だと思います。これは、芙美婆ちゃんがあの家を買う前に撮られたものですね」
「夏生ちゃんが道祖神と話せるというのは、やっぱり本当なんだな」
夏生はうなずいてから話した。
「芙美婆ちゃんが生きていたころのことを、いろいろ見せてもらいました。この社は、家を買った直後に芙美婆ちゃんが壊したんです。隠しておいてはいけないと考えていたようでした」
「なるほどなぁ。それで私の記憶に社はないわけだ……」
光紀は写真を受け取って、しげしげと眺めた。社を見ているようでそうではない。芙美子を懐かしんでいるのに違いなかった。
「母さんのことを詳しく教えてもらえないかな」
写真を置いた伯父が、予想通りのことを口にした。
夏生は、東京大空襲で焼け出された芙美子たちが母親の実家に身を寄せ、キャバレーで働きはじめたのだと話した。その時も、RAAのことには触れずに済むように気を使った。
「キャバレーの常連客が、スナックを出してくれたのです」
そう話したときも、その常連客のことには触れなかった。
「その人の名前はわからないのかい?」
伯父が訊くので、わからないと答えた。光紀は怪しむそぶりを見せたが、夏生は無視しして明美が生まれた病院での出来事を話した。伯父自身のことが話になると、彼は黙って聞いていた。その目尻には、涙が浮かんでいた。
「記憶というのはいい加減なものだな。自分が話していながら、すっかり忘れていたという訳だ……」
彼は手の甲で涙をぬぐい、芙美子が赤ん坊を抱いている写真に眼を移した。その赤ん坊が自分だったらよかったとでも考えているようだった。
夏生は芙美婆ちゃんが姉と写っている写真を手に取った。
「この写真、いただけないでしょうか? とても可愛らしくて……」
「夏生ちゃんが持っているなら、母さんも喜んでくれるだろう」
光紀は承諾し、それから夏生の就職の話を少しだけして帰った。
翌日、真水に礼を言って〝ホテル歌人〟を後にした。駅まで送ってくれたのは倫也だった。春奈は仕事で来られなかった。
東京に帰り、最寄駅からアパートまでスーツケースをコロコロ引いて歩いた。午後の一番暑い時間帯だった。
「しくったわ」
もっと遅い新幹線で帰って来るべきだったと後悔した。天を仰ぎ、汗を拭く。空こそ真っ青だったが、灼熱の太陽は東京大空襲の熱風を思い出させた。
「死なないだけましか……」
諦めて、日陰を選んで歩き出す。
コンビニの角を曲がるとアパートの階段が見える。その日陰に人影があった。ゴロゴロ音を引いて近づくと、人影が日向に動いた。優斗だった。
「夏生!」
「どうしたの?」
「どうしたのじゃない。心配したぞ」
「ずっと待っていたの。10日間も」
久しぶりに会うのが照れくさくてぼけてみた。
「まさか……」
「だよね」
「さっさとドアを開けろよ。暑くて死にそうだ」
相変わらずの命令口調に、ちょっとカチンときた。けれど、自分も暑いのでドアを開けた。長く閉めきっていた室内は外よりも暑かった。夏生が窓を開け、優斗がエアコンのスイッチを入れる。窓際に干しっぱなしの彼のTシャツが揺れた。
「あー、アッツイなぁ」
優斗は汗でぬれたシャツを脱ぎながら洗面所に入った。シャワーを使うつもりなのだ。――ぶー……と、ドアの向こうでおならの音がした。
「相変わらずだなぁ」
洗面所に向かって言葉を投げた。冷蔵庫を開けて水を1杯飲んだ。冷たかったが、芙美婆ちゃんの家の井戸水ほど美味しくはなかった。
――ブォォォ……、とエアコンが動き出す。淀んでいた空気もいくらか外に出て、室内も外気温ほどになっていたので窓を閉めた。
荷物をほどいていると背後から抱きしめられた。優斗の熱い息が耳をくすぐり、硬い欲望が背中にあたる。彼が求めているものが身体だけだとわかるから、応じる気持ちになれなかった。
「くっつかないで。暑いわ」
声が尖った。
「裸になればいいじゃないか」
彼が笑い、夏生を軽々と抱え上げた。
「止めてよ」
足をバタバタさせても彼は止めない。喜んでいるとでも思っているのだろうか? 彼は向きを変えてベッドへ降ろした。背中がベッドに沈む。大きな影が夏生を包んだ。それは、芙美子に圧しかかる兵隊と同じだった。
「助けて!」
思わず声になった。それを優斗の唇が吞みこんだ。ごつごつした手が全身をまさぐり、「濡れてるじゃないか」と笑った。そして、ズンズン進んだ。
優斗の背後でTシャツが揺れていた。大きな形代に見えた。
夏生が面接に訪れた会社は、テレワークのためにシンと静まっていた。
「やあ、いらっしゃい。久しぶりだね。少し日に焼けた?」
受付で待っていた芳明が一方的に話す。夏生はあいまいな答えを返した。
「リラックス、リラックス……」
緊張をほぐそうとしているのがわかった。
彼は小さな打ち合わせ室に案内すると、人事部長を呼びに行った。
人事部長というのは、髪を7:3に分けた40代後半の痩せた男だった。マスクをしているので顔は良くわからないが、目の周りの皮膚が老人のようにかさついている。わずかに表情を作る二つの眼は穏やかに笑っていて、大人の余裕を感じさせた。
「初めまして、人事部長の木藤馨です」
彼の指し出す名刺を受取るとき、夏生の緊張は解けていた。いや、むしろ笑いをこらえるのに必死だった。〝キトウカオル〟という音に男性自身を連想してしまったのだ。おまけに、アニメにありがちなカオル君といった美少年と目の前の馨部長のイメージは、あまりにもギャップが大きすぎた。
馨部長は型通りの挨拶をし、「コロナ禍の中、就職活動は大変だね」と同情してみせた。夏生はどんな顔をしていいのか困った。就活は不安だった。コロナ禍でそれが倍増しているのも間違いない。が、就活らしいことをするのはその日が初めてで、先輩たちのような挫折や絶望を、まだ経験していなかったからだ。とはいえ、馨部長が同情してくれるのは嬉しかった。この会社の内定が欲しいと思った。
「柏原君から色々と聞いているので、いまさら質問することもないのだけどね……。まぁ、私は知っていても、神野さんは私のことを知らない。一緒に働くことになるわけだから、少しでも多くを語り合い、お互いを良く知っておくほうが良いでしょう」
なんて良い人だ……、と夏生は感動さえ覚えた。
その時、彼がマスクを下げて薄い唇を舐めた。まるで夏生を食べようと舌なめずりする爬虫類に見えた。
「まったく、乾燥して困ります。社会福祉の方をやられているのですな?」
「はい。日本の高齢化は加速していますので……」
夏生が社会福祉に関心を持った理由を説明していると、彼はリップクリームを取り出してグリグリ塗った。それに集中していて、夏生の言葉など届いているようには見えなかった。
その後、彼はゼミのテーマやクラブ活動のことなど、型通りの質問をすませると、じっと夏生を見つめた。
「神野さん……。あなたが、あなたにしかできないことを教えていただけますか? あなたを採用することで、ウチの会社にどんなメリットがありますか?」
「私にしかできないこと、ですか?」
恐れていた質問だった。夏生が人並み以上なものといえばマンガやアニメの知識だが、それも世間でいうオタクのレベルには程遠い。大学の成績は並みだし、体力も並みだ。運動神経はどちらかといえば劣るし、根性もない。対人折衝能力もコミュニケーション能力も……、そこで、アッと気づいた。
「ひとつだけ、私にできることがあります。クグツメノシズカという道祖神と話すことです」
「道祖神?」
眼を丸くした馨部長は言葉を失っていた。
しくじった。頭のおかしなやつだと思われたに違いない。……夏生は肩を落とした。
「アハハハ……」
馨部長が声を上げて笑った。目尻に涙が浮いている。
「さすが、漫画研究会だ。いいでしょう」
彼はそう言うと、夏生のために近くのレストランに予約をいれてある、と恩着せがましく言って立った。
数分歩くとレストランの看板が見えた。その前に芳明の姿がある。彼はこちらに気づくと中に飛び込んだ。手配のためだろう。
「君の先輩も頑張っているよ。よく気が利く」
馨部長が褒めたのは芳明だが、夏生も嬉しい気持ちになった。彼はマンガやアニメにも関心があるようで、食事が出るのを待つ間、〝アキラ〟や〝ドラゴンボール〟〝風の谷のナウシカ〟などの話題で花が咲いた。食事が並んでからは黙々と食べた。それが新しい時代の会食スタイルだ。そうしたことも、その会社では徹底しているらしい。
食事が済むと、馨部長は時計に目を走らせた。緊急事態宣言は解除されたものの、深夜に及ぶ飲食は世間の目がうるさい。夏生はすっかりお開きのつもりだったが、そうはならなかった。
「もう少しいけるな。神野さん、もう一軒行こう。この近くに、行きつけのスナックがある。柏原君は先に帰りなさい」
芳明に対して、有無を言わせない言い方だった。
「私も……」彼の目が人事部長と夏生の間を泳ぐ。
戸惑うのは夏生も同じだった。芳明とは2次会の約束があったし、馨部長がリップクリームをグリグリ塗る姿が、彼の魂胆を連想させたからだ。とはいえ、セクハラの予感があっても、それは予感にすぎない。もしかしたら馨部長は正真正銘、善良な人なのかもしれない。そう自分に言い聞かせた。今後、65歳まで、場合によっては70歳までの人生が今、この時に決まるのだ。豊かな人生を勝ち取ることができるなら、スナックに付きあうことぐらいは小さなコストだ。
「それじゃ、行こうか……」
馨部長は若い二人の困惑など無視して歩き出す。闇の深い裏通りに向かって……。夏生は彼を追いながら振り返った。哀しげな表情の芳明が片手をあげてから背を向けた。
――カランコロン……、ドアベルが鳴る。10人も座れば満員になりそうなスナックに客はいなかった。ダウンライトとシャンデリアの淡い灯りが床の赤いタイルに反射している。芙美婆ちゃんが働いていたスナックと似ている、と夏生は思った。
「あーら、部長さん、いらっしゃーい」
暇そうにしていたママが、ひとりで高音と低音をハモらせた。髪や衣装は煌びやかで、化粧はけばけばしい。見た目は女性だが、声の低音部分は男性のものだろう。夏生が初めて見るリアルなゲイだった。
「あーら、今日は新しい子ねぇ」
面接をするたびに学生をここに連れてくるのだろう、と夏生は想像した。彼がそうするのは情報収集の一環か、個人的な楽しみか……。考えながら背中を追った。
「2年後に採用になる予定の学生さんだ。ママ、よろしく頼むよ」
馨部長は夏生の肩をポンポンと気安くたたき、唯一のボックス席に腰を下ろした。
「神野さん、ママはこの世の裏も表も知りぬいた人だ。いろいろ教えてもらうといい」
「はい、ママさん。よろしくお願いします」
「あーら、やだぁ。この子ったら、可愛いんだから」
夏生の正面に掛けたママが大袈裟なウインクを投げた。彼女はウイスキーの水割りをつくり、それから恋人はいるのかとか、どんな男性が好みのタイプか、といった質問を投げてきた。就職の面接ですればアウトの質問も、スナックではセーフなのだろう。アニメのキャラを持ち出せない夏生は、理沙が好きなアイドルの名前を使って質問の嵐を乗り越えた。
質問に飽きたママは「部長さんみたいな大人の男も知っておくことよ」と常連客を持上げ、彼にウインクを投げた。
馨部長がママのようなタイプの人を好むなら安心だ。セクハラを覚悟していた夏生はホッと息をついた。
いつの間にかカウンター席には2人の客がいて、カウンターの中には正真正銘の女性が立っていた。彼女はカウンター席の客と話しながらカクテルを作っている。
夏生の視線に気づいた馨部長が、「カクテルなんて、飲んだことがないだろう」と得意げに話した。それから、カシス・オレンジやカルーア・ミルク、カンパリ・ソーダと注文を重ねて夏生に飲ませた。
夏生は彼の下心に気づいたが、従順な学生を演じ続けた。内定をもらうためだ。そうした我慢の一方で、好奇心をうずかせていた。様々なカクテルを楽しむのもそうだが、テレビ以外でゲイを見るのが初めてだったからだ。彼、あるいは彼女であるママの化粧やしぐさに、アニメとは異なる異質な文化を感じていた。おかげで、馨部長の右手が腰に回ったのにも気づかなかった。
「ママ、この子はね、道祖神と話しができるらしいんだ」
馨部長が楽しげに言った。夏生の話を信じているからはなく、酒の席のネタに持ち出したようだ。
「道祖神って、あの男根みたいな石のこと?」
ママは〝男根〟というところに力をこめ、驚いて見せた。
酔っていたのだろう。夏生は、父親の生まれた家にある道祖神が女型であることや、その中にクグツメノシズカという神様がいて、静御前の追体験をさせてもらったことなどをペラペラと沢山話した。
「スゴーイ」
ママの声が男女でハモる。
「静御前なんて、憧れるわぁ。やっぱり義経を追って平泉に向かったのねぇ」
ママがうっとりした表情を作るので、2人が別れたことは話さなかった。第一、それが史実だという確証はない。あくまでもクグツメノシズカの物語りなのだ。
その時、馨部長の手が尻に触れていることに気づいた。偶然かもしれないと思って、少し前に移動した。すると手もついてくる。やっぱりそっちか……、と落胆した。
どうしよう?……考えている間にもママから質問が飛んできて対応に困った。ズルズルと時間が経っていく。その間、馨部長の手は尻から腰へ、また尻へと、質問で内面を確かめるように身体の感触を試しているようだった。カクテルに酔った夏生も、この程度だったら……、と目をつむった。
「それじゃあ、この辺りで……」
尻をなでるのに飽きたのか、馨部長が立った。
「あらぁ、もう帰っちゃうの。まだ早いじゃない……」
ママは名残惜しそうに言った。
「この子が酔っちゃったから……」
夏生は、酔った頭で馨部長の声を聞いていた。何とか立ち上がったものの、足がもつれてよろけた。
「オッと、大丈夫かい?」
馨部長の手が夏生を支えた。
「部長さんったら、飲ませすぎよ」
「社会人になるための洗礼だよ」
夏生は馨部長に支えられて歩いた。
――カランコロン……、ドアベルの音が鼓膜を震わせた。
「スミマセン……」
外の熱風に眩暈を覚えた。
「送って行こう」
馨部長がタクシーを停めた。それに乗り込んだ後は意識が途絶えた。いや、理性は活動を止めたが、夢を見ていた。赤い海を泳ぐ苦しい夢だった。
「さあ、降りよう」
声で目覚めた。タクシーは停まっていて、窓ガラスに、赤やピンク色のネオンサインの灯りが映っていた。
「エッ?」
酔った夏生にも、目の前の建物がホテルだとわかった。馨部長がやたらとカクテルを注文している時から、いや、面接でリップクリームをグリグリ塗る様子を見た時から予感はあったのだ。こうなることに……。そして、その時はそれでもいいと思っていた。未来が拓けるなら、一度や二度のセックスなんてどうってことはない、と……。
エアコンの効いた車を降りて、熱風を吸い込んだ時だった。東京大空襲を思い出した。「逃げて!」頭の中で芙美子の声がした。……芙美婆ちゃんは、母や国を守るためにアメリカの兵隊を受け入れた。国には裏切られたけれど、その後は子供たちを守ることができた。静は義経や勝蔵との愛を守るために、幾多の男性を受け入れた。自分は何のために……。その時、ぐいっと背中を押された。
1歩、2歩とホテルのドアに近づく。
自分は内定を得るために……。答えが見えた時、足が止まった。ちっちゃい……、そう思った。
「ん……、どうしたんだ。内定が欲しいのだろう?」
耳元で馨部長の声がした。背中がゾワゾワした。
「私、できません。帰ります」
彼に背中を向けると、肩を握られた。
「ここまできて、それはないだろう。柏原君も困ることになると思うな」
肩に、彼の指が食い込む。
「イタッ……」
夏生が声を上げても彼女の肩が自由になることはなかった。バッグのポケットからスマホを取って優斗に電話した。
「優斗!」
呼び出し音が鳴るスマホに向かって叫んだ。それで馨部長が諦めてくれたらいいと思った。
「止めろ!」
慌てた馨部長が肩から手を離し、スマホを奪おうとする。夏生はその場にしゃがみ込み、抱くようにしてスマホを守った。
「助けて!」
二度目に叫んだ時、『どうした?』と、小さな音がした。その声は馨部長に聞こえるはずがなかった。が、彼は逃げた。
背後に人影があった。これからホテルに入ろうとするカップルのものだ。彼らは、怪しいものを見る目をして通り過ぎた。
『夏生、どうした?』
「ごめん。なんでもない」
夏生は通話を切ると地図アプリを起動して駅まで歩いた。身体は酔っていたけれど、頭はすっかり冴えていた。電車の中で、最悪だ……、と頭を抱えた。内定が取れないばかりか、これから本格化する就職活動への自信を失っていた。おまけに、芳明にまで迷惑をかけるかもしれないと思うと胸が苦しくなった。
その晩、夢を見た。馨部長に連れていかれたスナックだった。が、ママはゲイのあの人ではなく芙美婆ちゃんだった。彼女はのっぺらぼうの客たちに向かって媚を売り、酒を飲ませていた。1人の男性が彼女の腕を取って引き寄せる。キスをした。ブラウスのボタンを外し、裸にしようとする。
「夏生もこっちに来て働きなさい」
芙美婆ちゃんが言った。それでも夏生は、まるで防犯カメラのような視点から、客といちゃつく芙美婆ちゃんをじっと見ていた。彼女なら客の無茶も受け入れるだろう。自分だって、セックスをそれほど難しいこととは考えてはいない。しかし、夏生自身はいつまでも見ているだけで、客の前に立とうとはしなかった。
いつの間にか、まるで自分が泣いているように景色が滲んだ。床の赤いタイルが波打って、世界を赤い海に変えていた。
面接の日から数日が経っても、馨部長からも芳明からも連絡がなかった。毎日のようにやって来る優斗だけが漂う海藻かビニールゴミのようにまとわりついた。夏生は、自分の前に広がっているのがレッド・オーシャンだと確信した。
血みどろの戦いが繰り広げられているレッド・オーシャンに飛び込んでみたところで、得られるものは少ないだろう。そう教えてくれたのは経営学の教授だった。もちろん、彼が考えた理論ではない。チャン・キムとレモ・モブルニュという学者が提唱したことだ。
人生、同じようにもがき苦しむなら、他人が手を付けていないブルー・オーシャンでもがきたい。夏生は爽やかな風が吹くリゾートの海を想像した。そんなブルー・オーシャンは、どこにあるのだろう?
芳明から連絡があったのは、半月も過ぎた頃だった。彼は恥をかいたと不満を言った。馨部長から噓を教えられたらしく、夏生が一方的に失礼な態度をとって、彼を怒らせたと考えていた。芳明が何も知らないとはいえ、文句を言われるのは面白くない。
「それはそれとして……」彼は、もう一度会いたいと言ったが断った。彼の想いが愛か性欲かはともかく、まとわりつくのは優斗ひとりで十分だった。夏生は馨部長にホテルに連れ込まれそうになったことを伝えて電話を切った。それを芳明が信じたかどうかはわからない。とはいえ、芳明に不利益が及んでいないことを知ってホッとしていた。
政府が新型コロナで低迷している経済の立て直しに躍起になるなか、夏生の同級生たちが就職活動にざわつき始めた。が、夏生は動くことが出来ないでいた。それを考えるだけで、馨部長を思い出して筋肉が硬直した。そうした悩みを理沙に相談することも考えたが、彼女は彼女で就活と必死に戦っているし、彼女の口調は夏生をライバルのように言うので話すことができなかった。
優斗には、馨部長のセクハラを話した。彼は「あの時かぁ」と声を上げて夏生の代わりに怒ってくれたが、彼が怒ったのはその時だけだった。その後は、「夏生は隙が多いんだ」とか「ぼーっとしてるなよ」とか「人間をよく見ろ」などと言って笑った。
そうこうしているうちに新型コロナが爆発的に感染拡大した。クリスマスや正月といった大きなイベントを前に、政府や自治体も外出の自粛や飲食店の営業時間の短縮など、感染症の拡大抑制に舵を切った。そんな世間の風を受けて、夏生の気持ちは就活からさらに遠のいた。一方、心のどこかにホッとするものが生まれているのも事実だった。就活が上手くいかない理由ができたからだ。
――ブォォォ……。ベッドの上で、エアコンが熱い吐息を吐きだしている。夏生は薄い布団から顔だけ出して、ぼんやりと天井を見ていた。
田舎に帰ろうかなぁ……。そんな風に考えた時、布団の中から優斗が顔を出して怒った。
「真面目にやれよ」
「えっ?」
彼の望みのままに肉体を提供している自分が、どうして責められなければならないのか……。腹が立った。
「どう真面目にやれというのよ」
「俺のことだけを考えろ」
夏生は呆れた。彼が恋愛ドラマの主人公のような臭い台詞を言うからだ。笑わないのは、せめてもの思いやりだった。
「伝統あるラグビー部員と違って、下級国民は悩みが多いのよ」
彼を押しのけて背中を向けた。
「ッタク……、1度失敗したくらいでくよくよするなよ」
彼は上体を起こして胡坐をかいた。
「就職先の少ない女には、1回1回が貴重なのよ」
夏生は壁を見つめていた。そこには理沙と写った写真やマンガのキャラクターの切り抜きに混じって、亜矢子と芙美子が並んで写った写真が貼ってあった。……17歳の芙美婆ちゃんだ。夏生は彼女と関わった男たちのことを思った。芙美婆ちゃんを愛せず暴力をふるった和樹、愛しながらも売春婦だと蔑んだ元春、妻がいながら長く関係を持った篤……。
「夏生のお祖母さんだろう? 美人だな」
背後の声に、小さくうなずいた。
芙美婆ちゃんは男運がなかったけれど、天寿を全うできなかった亜矢子さんより幸せだったのだろう。
「私のヒロインよ」
彼女は幾多の苦難に直面したが、立派に乗り越えた。それと比較すれば、自分の人生はなんて平凡で詰まらないものだろう。それなのに、そんな簡単な人生がうまく生きられないのだから情けない。就職も恋愛もセックスも、何もかもが人生のハードルに見えた。それを乗り越える作業がとても面倒臭いものに思える。
「正月、帰省するのか?」
「大人は、帰省するなって言っているのよね?」
都知事も夏生の父親も、年末年始は東京から出るなと言っていた。
「大人はそうだ」
「私たちは、大人じゃない?」
「まだ学生だ」
「セックスはするのに?」
「高校生だってするさ」
少子化の原因を説明するのに、中高年まで童貞の男性が多いデータが利用されている。そのことを優斗は知らないのだろうか?……夏生は呆れながらも口にはしない。それを言えば彼が気分を害するだろう。
「優斗は、都合のいいように考えられるのね。羨ましいわ」
「コロナ禍で困ってるのは夏生だけじゃない。俺だってラグビーが出来ないんだ」
優斗がそんな言い方をすることは滅多にない。夏生はラグビーができない悩みと仕事のない悩みを天秤にかけてみた。現在と未来……。生きることの十分条件と必要条件……。そもそも比較ができないことだと感じた。
「強いラグビー部は、試合をしているわよ」
「ウチの大学は弱小だからな」
「自分で言う?」
夏生は苦笑した。やる気があって工夫をすれば、ラグビーの試合も就活も出来るのだ。それをしない優斗と自分は、生きる自覚の足りない子供なのだ。
――ピンポーン――
夏生がチャイムの音を聞いたのは、レッド・オーシャンを泳いでいる時だった。
「んー?」
目覚めたものの、夏生の頭の中は、まだ赤い霧に覆われていた。
――ピンポーン――
再びチャイムが鳴り、ベッドの中から玄関ドアを睨む。透視能力はないから、そこにいるのが誰かなど、わかるはずもなかった。時計を見る。まだ午前11時で、優斗が来るには早い時刻だった。
新聞や宗教の勧誘か、訪問販売かもしれない。夏生は無視することに決めた。そう決めても、寝なおすほど眠くはなかった。かれこれ8時間は寝ている。
ごそごそとベッドを抜け出して洗面所に向かう。顔を洗い、ついでにシャワーをするのがリモート授業が導入されてから習慣になった。就職したら、昼間のシャワーなど贅沢で出来なくなるのだろうけれど、今のところ就職できそうにないから、贅沢は続くわけだ。そんなことを考えながら髪を洗い、ドライヤーを使う。それの爆音の隙間にチャイムの音を聞いたような気がしたが、それも無視した。濡れた髪で12月のドアを開けたら、風邪をひいてしまいそうだ。
「神野さん」
ドライヤーを止めると、玄関ドアの向こうから男性の声がした。苗字を呼ぶ男性といえば漫画研究会の芳明か宅配便の配達員ぐらいだ。
ドアスコープから外を覗く。――まさか? どうして?……見知った顔に胸が高鳴った。
急いでドアを開けた。倫也が寒さに凍えて唇を紫色にしていた。
「どうして来たの?……あ、就活ですね」
「いや……」
彼の眼が泳いだ。
「とにかく入ってください。唇が紫色……、具合が悪そうです」
「チャイムを鳴らしても開けてもらえなかったから」
彼は苦笑し、恐る恐るといった様子で部屋に上がった。
「ごめんなさい。押し売りだと思って……。ずっとドアの前にいたの?」
「まあ……」
「温かい飲み物を入れますね。どこでも好きな場所に座ってください」
夏生はケトルを火にかけ、倫也はエアコンの暖かい風が当たる場所に腰を下ろした。
「就活、どちらの会社ですか?」
「いや、僕は地元で教員になるつもりだよ」
彼は、恥ずかしそうに言った。
「エッ……」それじゃ、わざわざ私を訪ねてきたのか? まさか、惚れられた?……夏生は、彼と優斗を思わず天秤に掛ける。体力と腐れ縁なら優斗が上だけど、彼にはガツガツしたマイナスポイントがある。それに比べたら倫也は、慎み深く新鮮でイイ!
「実は……」彼は頭をポリポリ掻いた。「……クグツメノシズカに、神野さんを連れて来いと言われたんだ」
「え?」
――ギュルギュル……、危険な音がした。
「え?」
倫也の顔が苦痛で歪んでいた。
「ごめん、トイレを借りてもいいかな?」
「もちろん。そのドアです」
夏生が言い終えるより先に、彼が駆け込んだ。寒さで冷えたのだろう。夏生はトイレのドアに向かって「ごめんなさい」と手を合わせた。
その時だ。――ピンポーン……、玄関ドアのチャイムが鳴った。
今日は、よく客が来るな。考えながら立ち上がり、間違いに気づいた。何度もチャイムは鳴ったが、客は倫也ひとりだ。
ドアスコープを覗こうとした時、鍵を閉め忘れたドアがいきなり開いた。
「キャッ……」
驚いた夏生は框につまずいて尻餅をついた。
入ってきたスーツ姿の男性を見上げ、再び驚いた。あの馨部長だ。
セクハラの謝罪にでも来たのか、それとも私の魅力が忘れられなくて……、と考えたが、どちらも違うようだ。彼の顔に怒気が浮かんでいた。
「私のことをセクハラ部長とネットに書き込んだのは君か?」
「どういうことですか?」
身に覚えのない夏生は首を傾げて立ち上がる。その襟首を馨部長がつかんだ。ぐいっと顔を近づけてくる。
「噓を言うと許さないぞ」
きっと馨部長は他の女子大生にも同じことをしているのだろう。それでネットで批判されたのに違いない。そう察したが、あまりにも彼の顔が恐ろしくて声が出ない。頭を左右に振るのが精一杯だった。
「本当に本当なのだな?」
コクコクと首を縦に振ると一転、彼はニッと卑猥な笑みを浮かべた。その視線は夏生の胸元に向いている。なんて厚顔無恥で鉄面皮な管理職だろう。……夏生は腹が立った。
「今日は逃がさないぞ」
彼は靴を脱ぎ散らし、夏生を追い込む。小さな部屋だ。夏生は、あっという間にベッドに追いやられて倒れた。
「バカなことは止めてください」
「バカはどっちだ。就職のためなら抱かれるつもりだったんだろう? 土壇場になってビビっただけじゃないか。借りは返してもらうぞ」
「えっ?」私が、何を借りているというのだろう? 組み伏せられながらそう思った。
――ヒュー……、と冷たい風が吹き込んでくる。玄関ドアが開いていた。
「コォラァー」
鼻息を荒げた優斗が駆け込んできて、背後から馨部長を引きはがした。
助かった……。夏生は胸をなでおろした。
「なんだ、お前は。邪魔をするな。面接中だ!」
「面接?」
優斗が夏生を見るので首を振った。
「馬鹿なことを言うなよ。押し倒していたじゃないか。それが面接のはずがないだろう」
「私は人事部長だ。噓をつくはずがないだろう。神野君は私の会社で働くことになる。そのための面接中だ」
薫部長は会社内での地位が夏生の部屋でも役に立つと思っているようだった。誰がどう見ても面接には見えない状況を強引に面接だと言い張り、それを認めない優斗に腹を立て、夏生には同意を求めた。
「神野さん、そうだろう? ん!」
彼の視線は夏生に何かを語っていた。返答次第では、採用してくれるということか? 忖度しろということか? いや、世の中は噓ばかりだけれど、立場のある人間が言うとそれが真実になる。ラグビーなら審判が白黒をつけるが、ここでは自分が審判だ、とプレーヤーである馨部長は主張しているようだ。
「ほら、みろ。夏生はお前のようなオヤジを相手にするような女じゃないんだよ。帰れ、出て行け!」
夏生の無言を優斗はそう解釈したが、馨部長は違った。
「いいや、彼女は無言の同意というやつを使っているのだ。それより、突然現れて他人の仕事の邪魔をする。お前はゴキブリだな。彼女のなんだ?」
彼はリップクリームを取り出し、マスクを下げてグリグリ塗った。ホイッスルを吹いて試合を止めるかのように……。
「夏生は、俺の女だ」
ムッ……。そんな風に言われて喜ぶ女性もいるのだろうけれど、夏生は首を振った。無言の同意をしたつもりもないし、優斗の女になったつもりもない。自分の意志を示そうと、拳を作った。が、それをふるう前に馨部長の言葉に拍子抜けした。
「女性をもののように言うものではない。私は人事部長をやっている。もし、君がウチの会社の人間なら、クビだ」
「クビにできるものならやってみろ」
優斗が馨部長の肩を押した。
馨部長は、少しだけよろめいたけれどふんばった。それが管理職としてのプライドか、大人の意地のように見えた。そして彼は反撃に出る。
「ガキが、ふざけるな!」
優斗の頬を平手で殴った。
「殴ったな。親父にも殴られたことがないのに!」
「体罰ではないよ。しつけ……、いや、教育的指導だ」
どこかで聞いたセリフだ。夏生は考えたが、アニメのタイトルを思い出せなかった。――ヒュー……、とケトルが鳴っていた。夏生は、優斗と馨部長の横をすり抜けて火を消した。彼女の後ろで二人はつかみ合い、罵り合ってっている。
トイレのドアが開いた。
「にぎやかだね」
倫也が優斗と薫部長に目をやった。
「すみません」
詫びてから、その理由を考えた。同時に、倫也のために湯を沸かしたのを思い出した。不揃いのコーヒーカップを3つ並べてティーバッグを入れる。自分の分は諦めた。湯が足りないだけでなく、カップも3つで全部だ。こんなにたくさん客が来るなんて、想定外だった。いや、彼らは客なのか?……夏生は醒めた気持ちで、もみ合う男子に眼をやった。シュールな光景だと思った。
「止めてください。喧嘩はダメです」
倫也が、優斗と馨部長の間に割って入る。彼の勇気に夏生は感謝したが、事態は複雑になった。
「お前、誰だ。夏生とナニをしていた?」
優斗が目を三角にして倫也をにらんだ。
「僕は、道祖神の使者です」
「死者……、ゾンビだってか?」
優斗が目をつり上げる。
「どこの支社だって?」
馨部長が眉間に縦皺をつくった。
「道祖神です。神様ですよ」
頭に血が上った人間に倫也の話は通じなかった。
「ふざけるな!」
2人のパンチが倫也の左右の頰に炸裂した。「グフッ……」と呻いて、彼はマットに、いや、夏生のベッドに沈んだ。
「伊達さん!」
夏生は慌てて駆け寄り、彼を抱き起した。
「何てことするのよ。2人とも出て行って!」
優斗と馨部長に向かって叫んだ。
「俺がいないと夏生はやっていけないだろう?」
「就職はどうする?」
「もう、いい加減にしてください。私、木藤部長の会社にはいきませんし、優斗の女にもならない」
夏生が声を荒げると、2人の声が重なった。
「どうするつもりだ?」
「どうするって……」
即答できないのが悔しかった。
「就職は諦めるつもりかい?」
馨部長が猫なで声で言った。それで、ピント閃くものがあった。
「自分にしかできないことをします」
「まさか……」と、馨部長。
「はい。道祖神の話を聞きます。そして、その物語を書きます。西行法師や静御前や義経や……。いえ、違う、違う。そんなんじゃない……」
身体の中心からマグマのような熱いものが湧きあがってくる。それを感じると胸が熱くなった。自分は審判だ、そう思った。
「……クグツメや特別女子従業員など、世の中に知られていない女性の苦難の歴史があります。地獄のような場所で生きた女性たちが沢山います。彼女たちの生きざまを明らかにすることが私の仕事、いえ、使命だと思います」
「なんだよ、特別なんとかって?」
それはひとりで盛り上がっている夏生を小馬鹿にした口調だった。
「優斗だけじゃない。日本人の多くが知らないことよ。だから、知らしめなければならないの。自分がどうして今ここにいるのか……、彼女らの犠牲の上に繁栄を謳歌しているということを理解してもらうために……。さあ、出て行って……」
芙美婆ちゃんは売春婦じゃないんだ! と胸の内で叫んでいた。
ところが、優斗も薫部長はぽかんとしていて微動だにしない。
「ここでは、私が審判なのよ。出て行け!」
夏生は玄関ドアを指した。
まだ釈然としないといった様子だったが、二人はぶつぶつ不平を言いながら帰った。
ほどなく倫也が意識を取り戻した。
「ごめんなさい。私のことに巻き込んでしまって」
「いいんだ。誰だって、他人の人生に巻き込まれながら生きているんだ」
彼が悟ったような言い方をした。それからすぐにも福島に帰って道祖神に向かおうという話になったが、再び、倫也の腹がギュルギュルなり、彼は夜までトイレに閉じこもった。
翌日、東北新幹線の中で倫也に事情を聞いた。彼がクグツメノシズカの使者になった経緯だ。彼は春奈にせがまれて何度も道祖神を訪ねていたらしい。
「結局、ハルはクグツメノシズカに一度も会うことができなかった。けれど僕は、あの後……、神野さんが戻れなくなった時だけれど、その後も11月の末にクグツメノシズカに会うことができたんだ」
「その時に彼女に伝言を頼まれたの?」
「いや……、具体的に頼まれたのとは違うかな……」
彼は重い口調で言うと、首を傾けた。
「……僕は、静御前の娘の体験をした」
「娘?」
夏生は、思わず笑った。
「笑わないでくれよ……」
倫也は困った顔をして話を続けた。彼が宿ったのは、静の末の娘ということだった。彼の経験では、静は血のつながらない者も含めて10人を超える子供を育てた。そうして年老いた彼女は丸い石を墓にしてほしいと遺言して息を引き取ったそうだ。その石の声を聞くことができる者は、自分の遺志を継ぐ者だと言ったらしい。
「……それが神野さんのことだと思ったんだ」
彼にしては珍しく、臆せず夏生を見つめていた。
「静御前の遺志を継ぐ者って、どういうことですか?」
夏生は、多くの特別女子従業員が道祖神の前で涙していた様子を思い出した。彼女らがみな、静の遺志を継ぐ者だというのだろうか?
「僕には良く分からないけれど、あの時代、あそこに住んでいた静はずいぶんと人望があったらしい。生きながらにして弁財天と拝まれていたみたいだ」
「傀儡女なのに?」
「そうだね。それを調べられるのはクグツメノシズカと話ができる神野さんじゃないのかな? クグツメノシズカは神野さんを待っていると思うんだよ」
「私は、あまり良く思われていなかったのだと思うけど……」
――傀儡女でも、不幸でもないあなたが、どうして来たのです?……と、尋ねられたことを思い出していた。
「それは本人に聞いてほしいな。あ、人ではないか……」
彼が苦笑する。
「でも、伊達さんだってクグツメノシズカに会えたわけでしょ? あなたも静の遺志を継ぐ人ではないの?」
「僕のは偶然さ。会えないことの方がほとんどなんだから。どちらかといえば、神野さんを助けたいときにだけ、利用されているようだ」
「そんなことはないと思います……」
口では否定したが、クグツメノシズカが自分を特別視していると感じて優越感に似たものを覚えた。
「……でも、あの道祖神の下に静御前が眠っていると思うと、感慨深いですね」
「それがはっきりしないんだ。僕が見た静御前の墓石は自然石だった」
「石が取り換えられてのでしょうか?」
「あの辺りは何度も洪水の被害を受けているらしい。昔の石は流されてしまっただろうし、今、道祖神のある場所も、昔とは違っているのかもしれないな」
夏生は、なるほどと思いながら文庫本に挟んでおいた写真を手にした。芙美婆ちゃんと姉のぎこちない笑みが写った写真だ。
「綺麗な人だね。神野さんに似ている」
「そう?」
夏生は嬉しかった。が、自分と同じようにクグツメノシズカと話した芙美婆ちゃんの人生を思うと、素直には笑えなかった。芙美婆ちゃん以上にクグツメノシズカと話せた静佳が早世しているということも不安の一因にあった。
「よくわからないけど、私が進まなければならない道は見えた気がします」
新幹線が長いトンネルを出ると、まもなく新白河駅を通過するというアナウンスが流れた。夏生は窓の外に眼をやった。世界は雪に覆われていた。
「ホワイト・オーシャンだ」
静と勝蔵が超えた雪深い冬山を思い出した。
「ホワイト・クリスマスだね」
倫也が言った。
この雪景色の先に何があるのだろう。夏生はぼんやり考えた。
冷たい風が押し上げたように、東の山の上に歪んだ白い月が浮かんでいる。世界は見渡す限り茶褐色だった。夏には人を吞みこむほど勢いのあったススキやセイタカアワダチソウの姿はどこにもない。それが来年も芽吹くなど、夏生には信じられなかった。
「物悲しい景色だね」
倫也はそう言って先を歩いた。そうして2人は道祖神の前に立った。
「なんだか、怖いわ」
静の遺志を継ぐということが、どういうことかわからない。胸の内は不安でいっぱいだった。
深呼吸をすると隣に立つ倫也の体温を感じた。それに勇気をえて道祖神の上に手を置いた。その上に倫也が手を添えた。とても暖かかった。
「僕がついているよ」
彼が言った。
夏生は、ありがとうと言うつもりだったが、それは叶わなかった。その前に視界が歪んで彼の姿が消えた。
一瞬途絶えた意識が戻ると、夏生は青い海の上に立っていた。遠くに見えるのは江の島だろうか、カモメの姿はあるが、人の姿はなかった。
夏生は気持ちを整えて自ら声をかける。
――クグツメノシズカさん、こんにちは――
声に反応したのか、蜃気楼のように女性が現れる。頭には烏帽子、白い衣に緋袴の水干姿だ。右手に笛を持ち、腰には細い刀を佩びている。その顔は芙美子と一緒の写真に写った亜矢子によく似ていた。
――強くなりましたね――
彼女が言った。
――まだ、どうやって生きていったらいいのか、わかりません――
――それは考えることではありません。行うことです。何物も恐れず、何物にも臆することなく、思いに従って進みましょう――
――恐れず、臆することなく?――
――その先に望むものがあるでしょう。心から笑うこともできるでしょう――
――笑うことができるでしょうか?――
――もちろん。大切なのは、歩みを止めないことです。さあ、何から始めましょうか――
彼女が滑るように歩き出す。夏生も溺れることなく歩いた。その先には真っ青な海が広がっていた。
(了)