5 貴族の時代の終わりに
夏生の意識が徐々に鮮明になり、乱れた視界が明瞭な景色を形成していく。目の前に中年男がいた。頭には烏帽子、腰に脇差を佩びている。
(え、武士?)
義経の血を引いているのかどうかを知ろうとしただけで、リアルな武士を目の当たりにするとは思ってもみなかった。意表をつかれたような驚きはあったが、他人の意識の中に紛れ込むのは2度めのことで、すぐに落ち着きを取り戻した。
(今度は誰? あなたは……?)
コミュニケーションは取れないと知っていても、綱のようにより合わさった意識の相手に対して訊かずにいられなかった。
目の前の武士が口を開く。
「静殿。産後の身も健やかと聞きました。それでという訳ではないが、鎌倉殿のお許しが出た。ここを解き放ちになる。……これは北条政子さまからの餞別だ」
静殿と呼ばれたのが繋がった誰かだった。弾けたように夏生の意識が走り出し、静の記憶を手繰った。そして、彼女が静御前で、北条政子が頼朝の正妻だと知った。そのころ夫婦が別姓だったというのは意外だった。
驚いたのは、鎌倉で取り調べを受けていた静はまだ16歳で、子供を産んだばかりだということだった。出産したのは3カ月前だ。義経の血を引く赤ん坊は、頼朝に取り上げられ、そして殺されていた。
(赤ちゃんを殺すなんて、残酷な……)考えた夏生は、今の価値観で昔を測ってはいけないという優斗の言葉を思い出した。
外を駆ける秋風が、屋内にも紛れ込んだ。広い板の間は冷えてシンとしている。目の前にいる武士が、安達清常という頼朝の雑色だということも静の記憶でわかった。雑色は、雑用係のような仕事をする役職のことだ。彼は静の目の前に宋銭と反物を置いた。政子の直筆の手紙が添えてある。
静は手紙を手にした。旅の無事を祈る、といったことがしたためられていた。
「京に帰ったところで愛しい方はおりません。それよりも……」赤子の墓所の近くに居続けたいと告げると、清常が意外なことを言った。
「静殿の処遇は公文所の中原殿が決められた。傀儡子の力蔵という者に預けられるらしい。その者が、近く御身を引取りにくる。どこに向かうかはその者次第」
(ここで傀儡子が出てくるのか……。クグツメノシズカは、やはり静御前なのかもしれない)夏生の好奇心がうずく。当の静は、ただ困惑していた。
「白拍子の私が……、何故なのです?」
「中原殿が決めたことだ。それがしにはわからん」
「母は……。磯禅師はいかがなります?」
磯禅師?……夏生には、それが呼称とは思えなかった。
静は自分と一緒に鎌倉に連行されていた母親のことを案じていた。彼女が自分たちの命を守るために可愛いわが子を頼朝に差し出したと不信を覚えていても、やはり親子の愛情がどこかにあったのだ。
「磯禅師殿は、大和の実家に戻るそうだ」
「そうですか。母は大和に……」
別れ別れになるとわかっても、静は寂しいと感じていなかった。むしろ、かわいい息子を守ってくれなかった母と別れられることに、心のどこかでホッとしていた。そして胸の中で渦巻くのは、傀儡子の力蔵のことだった。彼はどんな男なのか……。
3日後、力蔵が妻の白女と息子の勝蔵など9名を連れて静のもとを訪れた。彼は50歳前後で武士よりも厳つい顔をした肩幅の広い男だった。
「お初にお目にかかります。静殿には、ご機嫌麗しゅう。何の因果か……、否。公文所別当、中原殿から、静殿の面倒を見よと仰せつかりました。我が党、四十と余名、今日より家族となります。よろしいな」
両手を床につきながらも、彼は静の顔を凝視した。後ろに並んだ家族の者たちも、好奇に満ちた眼で彼女を観察していた。
(彼らが傀儡子と傀儡女……)夏生には、傀儡子と武士の見分けもつかなかった。傀儡子であれ傀儡女であれ、彼らはひとりひとりが髪型も衣装もまちまちに見えた。様々な身分や職業の者たちの寄せ集めといった印象だ。ただ、男子はどの顔も精悍で、瞳は獲物を狙う獣のようにギラギラしていた。
静の中で頼朝に対する恨みがメラメラと燃えていた。彼が、かわいい息子を殺し、愛する義経を殺そうとしていて、今度は自分を傀儡女に貶めようとしているからだ。……夏生は、鶴岡八幡宮で対面した頼朝が、静に振られたのを彼女の記憶で知った。その腹いせに、静を傀儡子にやってしまうなんて、どれだけ陰険な男だろう。静と同じ怒りを覚えた。
力蔵が説明する。自分たちの集団は血のつながっている者もいるが、罪を犯して村を追われた者や子供ができなかったために離縁された者、戦いで夫や両親を失った者など、血のつながらない雑多な人間が集まってできている、と……。
「……血が繋がらないのは夫婦と同じ。皆、家族だ。遠慮はいらないし、我々も遠慮はしない。よろしいな」
彼が念を押す。
「はい。よろしくお願いします」
静が素直に応じると、傀儡子たちの緊張も解けたように見えた。静が傀儡子を恐れていたように、彼らも静を恐れていたのだろう。
清常の屋敷を出る時、門前に悄然とした磯禅師の姿があった。
「お見送り、ありがとうございます。お別れでございます」
静は深く頭を垂れた。
「静には、舞は教えたが人の在り方を教えなかった。それが母の悔いです。……今だから申しましょう。義経さまは武将として優れたお方……。ですが、心から女を愛せない未熟な男です。この世には、違った男が星の数ほどいる。それらをじっと見定めてはいかがか……」
その言葉が静を怒らせた。母親の言葉を遮り「これを……」と、小さな紙包みを差し出した。
磯禅師がそれに視線を落とす。
「それは?」
「髪でございます。私はもう死んだものと思い、大和に帰られたら墓に納めてください」
「そこまでしなくても……」
磯禅師が悲しみと憤りの混じった表情を浮かべた。
「けじめと思います」
押し切るように言って紙包みを胸元に押し付けると、磯禅師が渋々受け取った。
(なんて潔い女性なのだろう……)夏生は静の言動に感動を覚えた。彼女が自分より若いとは……。信じられなかったが、彼女の記憶を手繰る限り、間違いなく4歳も年下だった。
「では、お達者で……」
「静もなぁ」
母娘は別れた。
夏生は秋の鎌倉の景色を不思議な気持ちで見ていた。義経の血筋を自分が引いているのかどうか、それを知りたいだけなのに、どうして静御前の中に取り込まれなければならなかったのか……。
しばらく歩いたところで熊蔵が静の隣に並んだ。彼は力蔵の弟で、名前の通り熊のような筋肉が自慢の傀儡子だ。
「面白い話を聞かせてやろう。義経という男、どうやら奥州平泉に向かっているらしい」
「えっ、義経さまが!」
夏生が驚くほど、静の声は弾んでいた。
その後、静たちは数時間も歩き、鎌倉の外で待っていた仲間と合流した。40数名の傀儡子が集まると、その場の雰囲気は異様なものになった。彼らは礼儀を知らず不躾で、挨拶を述べる静を取り囲んだ。
「あの静御前か?」「ほう。都の匂いがするな」「確かに。側にいるだけで若返るわい」
彼らは遠慮のない声を上げ、匂いを嗅ぐように顔を近づけてくる。
(こら、離れなさい!)夏生は、自分が犯されるような思いで叫んでいた。
「抱いても良いのか?」
爽太という若者が一目惚れして訊く。
「静が良いと言うならかまわない。家族だからな」
家族だから抱いてもいいという理屈に、夏生はもちろん、静も衝撃を受けた。
「私はそのような……」
「つもりはないというのか?」
力蔵の視線が静の抵抗を封じた。傀儡女なら傀儡女らしく振る舞え、と彼の瞳が言っていた。
爽太が困惑してオロオロすると、熊蔵が笑った。
「兄者も爽太も慌てるな。静にも心の準備がいるだろう」
傀儡子と暮らすことになった静は、力蔵と白女夫婦の小屋に住んだ。小屋は、麻布の天幕を樹木の枝に吊った簡単なものだ。大人4人ほどなら横になることができる広さがあった。静は人眼をさけ、暇を持て余した傀儡女たちと世間話をし、家事の手伝いをして傀儡子の暮らしを学んだ。
傀儡子たちの生活は原始社会的な共同生活で、炊事や洗濯に限らず、大概の仕事は力を合わせて行っていた。大道芸であれ、春を売ることであれ、能力や人気のあるものが金品や食料を手に入れて長者に納める。他の者は家事や子育てをして暮らしを支えた。
共同生活は妊娠や出産で生活が一変することがないから、傀儡女も客との交わりを易々と受け入れるのだろうと夏生は見ていた。
多くの傀儡子が静を抱きたい、妻にしたい、と口説いたが、静はすべて断った。逃げ出すことも考えたが、できなかった。謡い、踊り、義経を愛することはできても、自ら食料を求めたり、雨風をしのぐ家を探したりする術を知らない。そんな彼女に、夏生は自分を重ねていた。仕事のない自分も、1人では生きていけないと……。
「白女さまは、なぜ、力蔵さま以外の男たちと交わることができるのですか?」
ある時、静が、平然と春を売る白女に訊いた。夏生も抱いていた疑問だ。すると、逆に問い返された。
「なぜ、夫以外の男と寝てはいけないんだい?……世の中には女に貞操を求める男が多い。特に武士はそうだ。でもね……、男たちは妻だけでは足りず、妾を抱き、遊女を抱き、傀儡女を抱くだろう?」
(なるほど)夏生は納得してしまう。
静が返事をできずにいると白女が続けた。
「眼をつむってしまえば、男はみんな同じさ。静も多くの男に抱かれたらわかるよ。私ら傀儡女はね、百太夫さまを信じて生きている。お飯をいただけるのも、元気に生きていられるのも百太夫さまのおかげだ。子を授けてくれるのが百太夫さまなら、子供自身も百太夫さまだ。だから男たちも子供の父親が誰かなんて訊かないのさ」
白女は貴重な紙に刃物を当てて人型を切り出し、百太夫の身代わり人形だと言った。それを百太夫人形の前に置いて両手を合わせる。彼女に促され、静も同じようにした。
「百太夫さま、静を守りたまえ……、眼を開かせたまえ……」
白女が声にして願う。
「人はね、同じところに留まると、あれやこれや無駄なことを考えてしまう。欲が膨れるんだ。百太夫さまを旅先の社に奉納して巡れば、静も、幸せがどういうものかわかるようになるさ。次の社に行ったら、奉納するんだよ。今度は自分で作ってみるといい」
「はい……」静は紙人形を受け取って、しげしげと見つめた。
翌日、傀儡子たちは荷物をまとめて出立した。前を歩くのは水干姿の凜々しい男が数名、荷物を入れた笈を背負い自衛のための長い刀を佩いている。狩りのための弓矢を背負った者もいた。中ほどを旅衣装の女たちがソソと歩く。そこまでなら貴族の行列にも見えたが、半分より後ろにはしゃべり歩く子供と老人がいた。妊婦の夢香は大きな腹を突き出して必死の形相で歩いている。その後ろには荷物を積んだ駄馬が4頭……。
先頭を歩く力蔵は、北へ進路を取った。これから冬になるというのに不思議な動きだ。が、静は喜んだ。奥州に入ることができれば、義経に逢えるかもしれない。夏生も義経に会いたかった。もし彼が先祖なら、その証拠を見つけたい。
傀儡子の旅は楽ではなかった。人の多い場所を求めて興行を開き、また次の場所までひたすら歩く。時には冷たい川を渡り、風に吹かれて雨にぬれ、野宿もする。傀儡女や子供を誘拐しようという悪人、馬や食料を盗もうとする盗人もいた。そうした者を追い払うため、家を借りても野宿をしても、数人の傀儡子は寝ずの番をした。
石橋の集落を目前にした時だった。
「その行列、待てー」
馬の蹄の音と共に呼ぶ声がした。振り返ると、必死の形相で追ってくる武士が眼に止まった。
「野盗の仲間か?」
誰もが怪しみ、傀儡子たちは武器に手を掛けた。途中の森の中で、静を奪おうとする野党に襲われたばかりだった。その時の戦いで熊蔵が傷を負った。
「いや、違うだろう。どこぞの家来のようだ」
力蔵は列を止めると後ろに向かい、勝蔵と並んで馬上の武士を迎えた。
「拙者は小山家の家臣、久保田彦衛門。この中に義経殿の女、静がいると聞いた。即座に差し出せ」
彦衛門が馬上から横柄な視線を投げた。
「ワシは長の力蔵と申します。どういうことで?」
「我が殿は鎌倉殿の重鎮。その領内を、政府に逆らう逃亡者の身内を通すわけにはいかん」
「恐れながら……」勝蔵が前に出た。「……我々は旅の傀儡子。義経殿の女など同道しておりません」
彦衛門が「ナニッ!」と声を上げ、傀儡女たちの前に馬を移動させた。彼は市場で野菜の品定めでもするように女の姿かたちを見て回る。
静は恐怖で武士を見ることができなかった。
――ケーン――
河原で雉が鋭く鳴いた。
「その女。そちこそ静であろう」
声は、明らかに静に掛けられた。
(えっ、どうしよう)息をのんだ。
静は石のように動かない。
「いいえ、それは……」は勝蔵が助けに入った。「……我が妻でございます」
「えっ……」静が顔をあげた。勝蔵の本当の妻は、身重の夢香なのだ。
「な、なんだと……」
彦衛門の猜疑に満ちた眼が静に固定されている。
「女、本当か?」
「ハ、ハイ……。妻のキジメと申します」
雉の声を聞いたばかりの静は咄嗟に嘘をついた。
「ならば隣の女。名を申せ」
「桔梗」
「その隣の女」
「フジ……、です」
彦衛門は若い傀儡女に名を訊いて回った。当然、静と応える者はなかった。
「久保田殿、他の傀儡子の党とお間違いではありますまいか……」
力蔵がやんわり言って戻るきっかけを与えた。
顔を怒らせた彦衛門が、「行け!」と一言投げて走り去った。彼の背中を見る傀儡子が声を上げて笑う。静はホッと胸をなでおろした。夏生も同じだった。
その夜、夢香が河原で男子を産んだ。そして彼女は死んだ。出血が止まらなかったのだ。普段は無口な勝蔵が慟哭した。
残された赤ん坊に龍蔵という名が付けられた。清流の側で生まれたからだという。その龍蔵が腹をすかして泣いた。誰が育てるかということになり、静が手を挙げた。3カ月前に子供を産んだばかりの彼女は、まだ乳が出ていた。
「勝蔵。静のことだが……」
力蔵の言葉に、うつむいていた勝蔵が顔を上げた。その瞳には夢香の亡霊が映っているように見えた。
「野盗といい武士といい、静を奪うことに熱をあげているようだ。ワシらは真っ直ぐ白河の関を越える。お前は静を連れて越後周りで行け。静ひとりでは何かと不便だろう。白女も付けてやる。それと手代替わりに伊之介を連れて行け」
その場にいた傀儡子の一部は、静に冬の山越えは無理だと反対した。しかし力蔵は、お前たちが無理だと考えるように、武士や野盗もそう考えるだろう、と理由を言った。
「何が災いを招くか分からない。万が一の時には、静は月神社を出た後、利根川に入水したと言え。ワシもそう触れて回る。落ち合うのは次の春、梅の咲く頃。場所は安積の八幡神社」
「わかりました。では、来春、安積にて」
与えられた使命の重大さのためだろう。勝蔵の声から妻を亡くした悲しみは消えていた。彼が旅の準備に取り掛かる。
「いくぞ」
ほどなく勝蔵が立った。狼の毛皮をまとい、弓と笈と麻袋を背負って遠出する猟師のような風体に姿を変えていた。伊之介も同じだ。彼らは長者に会釈すると川の流れに足を入れた。驚くほど簡単な別離だった。
「さあ……」
白女に肩を押され、静が勝蔵の後を追った。白女を真似て着物の裾をまくり上げ、太腿まで露わにして流れに足を浸す。
(冷たい!)水の冷たさに夏生は声にならない声を上げたが、静は違って太腿を人目にさらすことに恥ずかしさを覚えていた。
水量は膝近くまであって、うかうかすると転びそうだ。(赤ちゃんを抱いているのよ。転ばないでね)無力な夏生は、ただ祈った。
対岸に上がった4人は藪の中を進み、更に二つの川を渡った。勝蔵は内陸を貫く東山道を南西に向かう。そのまま行けば信州を越えて京都に至る。
「この道を義経殿も歩いたのかもしれないな」
静の不安を察したのか、伊之介が声をあげた。その名を聞いた静の胸がキュンと鳴る。その感情は、いつか芙美婆ちゃんが篤に抱いていたものとよく似ていると夏生は思った。自分が優斗に感じるものとは違っている。(それが愛なの?)夏生は自分に問いかけた。
二日歩いたところで勝蔵が道を右に折れた。その先には赤城山を始め高い山々と深い森が続いている。緑、黄、赤、紫と、秋を迎えた峰々の連なる景色が神々しく見えた。
「なんて山の高く美しいこと……」
静の感動が声になった。長い旅に飽きていた夏生も、その時は気持ちが動いた。
「この道を歩いたことがない。道標を見落とすなよ」
足を止めた勝蔵が、道の先にそびえる山々を見やって全員に命じた。
「どの里や社に立ち寄らなければならないというわけでもない。大河に沿って上り、峠を越えて下れば、いずれ北陸道に出るさ」
伊之介が笑った。夏生も彼と同じように思った。
道は進むほどに険しくなる。山々は本性を現し、旅人を危険な森や出口のない谷間に誘う。獣道のような小道と道祖神だけが頼れる道案内だった。(ありがたいわ。道祖神)静がそれを見るたびに、夏生はそう思った。
ところが、有難い道案内もやがて雪に覆われた。静たちは深い雪をかき分け、飢えに苦しみながら峠を越え、谷を渡り、獣や山賊と戦った。(死んだほうがマシだ。死んだら私はどうなるの?)夏生は海原のような真っ白な大地を前に何度もそう思った。が、静は違った。龍蔵を守ることと、義経との再開を希望に、黙々と歩いていた。そして道を尋ね、食料を得るために身体を売った。
雪濠の穴の中で幾夜を過ごしただろう? 夏生は数えることさえ諦めていた。道なき道を歩き、ようやく越後の国へたどり着いた。
――シャン、シャン――
北陸道を歩いていると、錫杖をつく山伏姿の一団が静を追い越していく。早朝、弥彦神社に参拝を済ませ、蒲原の港へ戻る一団だ。そこから船でどこに向かうのだろう。静が彼らを窺った。すると、無精髭こそ生えているものの端正な顔立ちの山伏と視線が交差した。
「あっ……」(えっ……)
静と夏生は息をのんだ。目の前にあるのは、慕い求めている義経の顔だった。ところが彼は何も言わず、表情さえ変えずに追い越して行く。その後ろに赤ん坊を懐に抱いた身体の大きな山伏と、子供の身なりをした女性が続いていた。
彼は私を忘れたのだろうか?……静が義経の背中を呆然と見ていた。
「……義経さま」
喉を突いた声がかすれていた。
「なんだって」
驚いた白女が「勝蔵!」と呼んで、先を行く山伏たちを指差した。
勝蔵がうなずき、少し考える様子をしてから歩き出す。
「俺が先に行って呼び止めるか?」
伊之介が訊いた。
「いや、人目がある。相手は落ち武者も同じ逃亡者だ。静の名前を出したところで、鎌倉の罠と誤解されて切り合いになるかもしれない。機会を待とう」
勝蔵が山伏たちの後を追って歩き出した。
弥彦山の山裾を離れた道は、数多い沼をうねうねと避けて北へ延びている。所々に粗末な小屋があり、庭に火をたいて弥彦神社への参拝客をもてなしていた。
静は懸命に足を運んだ。義経を追うというより、勝蔵に遅れまいと必死だった。(ガンバレ)夏生は応援する。しかし、軽装の山伏たちとの距離は詰まらなかった。むしろ徐々に離れている。――シャン……、シャン……、錫杖の音は遠のき、やがて山伏たちの姿も樹木の陰に見えなくなった。
薄い雲の中で太陽が天頂に達しても、勝蔵は足を止めなかった。すると、小屋の前で山伏たちが屯しているのが見えた。
「ヨシ、休んでいるようだ……」
勝蔵が後ろを向く。静がうなずき返した。捨てられるにしても、受け止められるにしても、義経と話し合おうと彼女は決意していた。夏生は、彼との血縁関係の証明方法について、あれやこれやと考えていた。名案は、今のところない。
山伏たちは人目をはばかり、無言で酒を飲んでいた。十分休んだのだろう。彼らの傍らにある皿は空で、椀の酒も残り少ない。
「何人様で?」
出入り口の筵を持上げ、小屋から顔を出した中年男が訊いた。
「4人だ」
勝蔵が言うのを聞きながら、静は義経に眼をやった。改めて見れば、無精髭の下の頰はこけ、何かに怯えたような眼と、その相貌が変わり果てているのに胸が痛んだ。とはいえ、ひどく懐かしい。静のいじらしい心に、夏生の胸も震えた。
「もし……」
彼女が義経に声をかけた。山伏たちの視線が動く。幾人かは目の前の女が静だと気づいたようだが、素性を隠すためか口は開かなかった。
「ん……」
静を認めた義経の瞳が悪さを企む餓鬼のものに変わっていた。
「私をお忘れですか……」
「ん……」義経は小首を傾げ、「静か?」と訊いた。
「はい。静でございます」
「黒くなったな」
懐かしさに震えていた静を、義経は一言で打ち砕いた。
(なんて、デリカシーのない男だ)夏生はむかついた。
「それに、痩せた」と付け加えながら、静が抱いた龍蔵に黒い眼差しを落とした。
「それはワシの子か?」
「いいえ。そこの勝蔵という者の子です」
静もまた、義経の希望を打ち砕いた。
(ヨシ、ヨシ)と、夏生はほくそ笑む。鈍い男性にはガツンと言ってやればいい。優斗の顔がちらついた。
「返せ」
義経が言い放つ。
「え?」
「ワシの子でないなら、その赤子は、その者に返せ」
静が龍蔵を白女に預けると、義経が手を引いた。
「何をなさいます……」
「オヤジ、小屋を貸せ」
義経は狭い小屋の中にいた夫婦を追い出し、静にむしゃぶりついた。
「お止めください……」
静は、猟師に身体を差し出したとき傀儡女になると決めていた。しかし、義経の前では白拍子だった。筵一枚隔てた外側に多くの人がいる。そんな場所で抱かれるのは、さすがに抵抗があった。
「外に女がいるではありませんか」
「あぁ、郷か。ワシの女房殿だ」
郷は武蔵国の河越重頼の娘で、義経の正妻だ。
「河越の姫でしたか。それなら尚更のこと。お止め下さい」
忠告しても義経が態度を変えることがないと知っていた。だから、くどくは言わなかった。義経の手が身体をまさぐるのも許した。
「ワシはもう終わりだ」
静は自分の耳を疑った。今まで、彼が弱音を吐くのを聞いたことがなかった。夏生は、義経も就活生と同じようなものだと思った。どんな一流大学に在籍しようと、そんなことは関係ない。就活生の前にあるのは、泥沼のような動き難く、見通せない未来なのだ。ましてコロナ禍の中、希望を見いだせる人間が幾人いるだろう?
「京の女は皆逃げた。残っているのは、関東から来た郷だけよ」
(なんだ、女性に逃げられたことを嘆いているのか?)彼の英雄らしくない嘆きに、ひどく人間臭いものを感じた。
義経の手が着物の裾を割る。
「暖かい……。静は暖かい……」
彼は女性の意思など考慮しない。静も、義経と京都で過ごしたころの静に戻っていた。夏生は義経と優斗を重ねて見ていた。
「静、ワシが愛した女の中で、お前が一番良い女だ。ワシと共に来るか?」
愛し合った後、義経が訊いた。
「半年前の私なら、命じられなくてもついて行ったでしょう」
行きたい……。静の身体はそう言ったが、心は違っていた。(え、なぜ? 彼に逢うために、辛い思いをしてきたのに……)義経に同行しようとしない彼女の気持ちが、夏生には理解できなかった。
「今は違うのか?」
「義経さまも、京にいたころとは違っています」
「どう違う?」
「以前ならば、ワシと共に来い、と命じられたでしょう」
義経が苦笑し、静から離れた。
「人は変わるものだな……」
「はい。私も子供を産み、旅をして変わりました」
「ワシの子だな。その子はどうした?」
「……頼朝さまに、殺されました」
泣いてしまうかと思ったが、涙はこぼれなかった。
「そうか。それでワシを恨んでいるのか?」
静は腹が立った。自分の子供が殺されたことに、怒りも悲しみも示さない義経に……。(そんな男の血が私の中に流れているというの……)夏生は、恨めしく思った。
「いいえ……」静が身づくろいをして立ちあがり、子供のように見上げる義経を見下ろした。飢えや獣の恐怖に対峙し、雪山を踏破し、猟師の凌辱にも絶えた静には、勘と本能のままに生きる彼は、あまりにも頼りなく感じた。
「義経さまは、生まれたままでございます」
「それが義経という男よ」
その声には、どこか得意げなところがある。
「はい。生まれながらに白拍子として育てられた私には、それが魅力でした。さあ、皆がお待ちでしょう。お立ちください」
義経の手を取って立たせる。そうして衣装を整えるのを手伝った。
義経が小屋を出て行くと、静はその場に座り込んだ。彼女の気持ちが、夏生にはダイレクトに伝わってくる。それは、彼が変わっていたことに対する失望であり、自分の気持ちがとっくの昔に義経から離れていたことを告白した、懺悔のようなものだった。
夏生は、優斗のことを考えた。彼と距離は取ったが、別れる決心は出来ていない。そうするべきかどうかもわからない。ただ結論を保留しているだけだ。潔い静と比べると、自分のずるさばかりが目についた。
――ホギャー……、龍蔵が泣いた。
静は我に返って小屋を出た。すでに義経たちの姿はなく、火の周りには石のように黙りこくる勝蔵たちだけがいた。
(結局、何もわからなかった)自分の中に義経の血が流れているのかどうか、証拠は何もなかった。けれども、そんなことはどうでもいい。大切なのは、自分がどうあろうとするのかだと思った。