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4 縁

「夏生ちゃん、朝ご飯よ」


 いつの間に寝てしまったのだろう。真水の声で目覚めた。


「……おはようございます」


 部屋のデジタル時計が午前9時を表示していた。


「……すみません、寝坊しちゃった。もう食事の時間は過ぎたのですよね?」


 布団から抜け出し、ぼさぼさの髪を手で梳く。昨夜、出かけた時の服装のままだった。それに真水が目を細めた。


「親戚だから、特別よ。でも、あんまり生活がルーズになったら、私が叔父様に叱られちゃうわ。……どうしたの? 目が真っ赤よ」


「すみません。寝不足です」


「眠れなかったの?」


「調べ物をしていたものですから……」


 昨夜、優斗との電話を終えた後、教えられた大江匡房(まさふさ)の傀儡子記を読み、興味がわいて同じ匡房が書いた遊女記も読んだ。そうして気持ちが高ぶり、眠れなくなったのでアニメに手を出した。それを視ているうちに寝落ちしてしまったのだ。


「それって、芙美婆ちゃんに関わることよね?」


 真水の真剣なまなざしに、思わずうなずいた。


「それじゃ、頑張って調べてちょうだい。春奈さんには、私から話しておくから」


「春奈さんにはもう……」断ろうと思った。


「ここじゃ、車がなかったら、何も調べられないわよ」


 真水は遮り、朝食の膳を置いて出て行った。


「まいったなぁ」


 春奈のテンションの高さと比べると、自分がひどく陰気な人間に思えて惨めな気持ちになる。そんな重苦しい気分から逃げ出したくて、食事を終えてから温泉に浸かった。


「あー、いい湯だぁ」


 昼前の大浴場に客は夏生ひとりだった。鼻まで沈んで手足を伸ばす。目の前にあるのは自然光を反射する波紋だけ……。トボトボ湯が落ちる音以外、世界は静寂で心が落ち着いた。いつの間にか春奈のことも忘れた。


「いたぁ!」


 聞き覚えのある声が静寂を壊した。


「エッ!」


 振り向こうとした夏生は足を滑らせて頭まで湯に沈んだ。鼻に、気管に、湯が入る。手足をじたばたさせて立ち上がった。


 ――ドボン!――


 音がして湯が飛び散る。目の前に春奈がいた。彼女は胸も股間も隠そうとしない。仁王立ちだ。顔や手足は真っ黒なのに、胸や腹が真っ白なのが妙に艶めかしい。夏生の方が顔を隠した。


「夏生さん、ナニ遊んでるの?」


「春奈さんこそ、どうして?」


 ヤバイ、ヤバイよ……。脳内で言いながら、その場に座り込んだ。


「若女将に頼まれたのよ。引き続き、芙美婆ちゃんの調査を継続してほしいって。部屋に行ったらもぬけの殻だったから、こっちに来たのよ。いいよね、貸しきりだぁ」


 春奈は湯に潜って泳ぎだした。遠くの壁にタッチすると平泳ぎで戻ってくる。


「ねぇ、ねぇ、クグツメノシズカさんに義経のことも聞くんでしょ?」


「春奈さん、仕事は大丈夫なの?」


「夏は仕事が少ないんだ。春と秋は忙しいんだけどね」


 彼女は、夏生の困惑などなんのその。また、道祖神に同行するつもりのようだった。


「それなら、あそこのススキを抜き取れないかな?」


 それは苦肉の策だった。彼女の気持ちを芙美子や義経、クグツメノシズカから逸らすためだ。


「畑じゃないから、トラクターを入れるわけにもいかないかぁ。となると、刈るしかないなぁ。夏生さんには無理そうだから……」


 春奈が首を傾げながらブツブツ言った。


「トラクターなんて大袈裟なことじゃなくていいのよ。道祖神の周辺だけでいいの。雑草だもの。みんなで引けばぬけるでしょ」


「あー、そういうことね。でも、ススキは抜けないよ。根がしっかり張っているから」


「それじゃ、葉っぱだけでも刈り取って、道祖神に陽があたるようにしてあげたいわ」


「それなら簡単だ。お昼を済ませたら行こう。スカートはダメだよ。Gパンがいいね……、ヒャホー」


 奇声が大浴場に反響する。彼女は湯に潜り、再び泳いだ。


 大浴場から出ると、春奈は倫也に電話を掛けた。夏生には、草ひきを手伝えと命じているように聞こえた。夏生が優斗に向かってはできない言い方だった。


「トモが手伝いに来るって」


 春奈がニッと笑う。


「伊達さんは優しいのね」


「そうかな……、普通だよ」


「付き合っているの?」


「まさかぁ、腐れ縁というやつよ。トモの両親は共働きで、小さい頃は親が帰ってくるまで、ウチで遊んでいたんだ。それで私の召使になったのよ」


「ふーん」


 彼女は幼いころに成立した主従関係のように言うが、深い友情なのだろうと思った。そこに、男性と女性といった異性の感情が入る隙間はないのだろうか? 興味はあったが、訊けるほど彼女との距離は近くなかった。


 アッ、と気づいた。倫也のハンカチを借りていたことに……。春奈にロービーで待つように頼んで部屋に戻ると、洗面所でハンカチを洗った。彼に女子力をアピールするつもりはないが、なんとなく春奈には負けたくないと感じていた。洗ったハンカチを陽の射す窓ガラスに貼り付ける。それが速攻で乾かす方法だ、と何かで見た記憶があった。その方法なら、アイロンをかけたようにパリッと仕上がるらしい。


 夏生は春奈とホテル内の小さなレストランに足を運んだ。コロナ禍でなければ、朝食バイキングが行われる場所だ。春奈が「ここのオムライスは絶品なのよぉ」と勧めるので夏生もそれを頼んだ。


「どう、美味しいでしょう?」


 ソースを唇につけた春奈の瞳がキラキラしていた。


「うん、美味しいわ」


 彼女を失望させたくなくて、そう応じた。実際はよくわからない。子供のころから味音痴なのだ。


 食事を済ませると、乾いたハンカチを持って春奈の軽自動車に乗った。今度は助手席だ。春奈は窓を全開にして蒸暑い風を入れながら、目の前の山や川、道路や学校について楽しそうに説明した。




 道祖神のある土地の道端に、軽トラックが停まっていた。


「おじいちゃんの軽トラだよ」


 春奈は軽トラックの後ろに車を停車させた。エンジンが止まると、別のエンジン音とジャリジャリと聞き慣れない音がした。車を降りた彼女が声を上げる。


「やってる、やってる」


 ジャリジャリいうのはエンジン式の草刈り機の歯が砂や小石にあたる音だった。それを肩から下げてススキを刈っているのは、麦わら帽子をかぶった倫也だ。


「サンキュー」


 春奈が声をかけると、白い顔に汗を流す彼が「オウ」と応えた。草刈り機が上下に揺れて、またジャリジャリ音がした。彼が慌ててレバーを握る手に力をこめた。


「トモ、ヘタクソだよね。腰がふらついている」


 彼女は夏生の耳元で言い、倫也の作業のまずさをクスクス笑った。それから軽トラックのドアを開けた。そこに作業着姿の老人が座っていた。


「おじいちゃん、ありがとう」


 彼女は、老人の膝から麦わら帽子を二つ取り、汚れたのを被った。綺麗な方は夏生に差し出した。


「日焼けしちゃうから、被って」


 そう言う彼女が真っ黒なのだから説得力はない。とはいえ、夏生は有難くそれを借りて頭に載せた。


「よっこらしょ……」


 声にして、軽トラックから老人がおりた。萎びた顔には深い皺が刻まれていた。腰はピンと伸びていて、皺の多い顔ほど歳を取っていないように見えた。


「私のおじいちゃんだよ。安田元春。……彼女が神野夏生さん。芙美婆ちゃんの孫」


 春奈が2人を紹介した。夏生は、春奈たちも祖母を芙美婆ちゃんと呼んでいることに少し不快な気持ちを覚えながら頭を下げた。


「そうか……。芙美婆さんの……」


 まるで皺のひとつのような口から萎びた声がした。


「生前は、祖母がお世話になりました」


「世話になったのはワシの方だ。ワシは、ここの草刈りをしてやったくらいだ……」


 芙美婆ちゃんは彼のどんな世話をしたというのだろう? 不思議な思いで礼を言った。


「今日は、私のために、ありがとうございます」


 頭を下げた夏生の手足の上を、元春の視線がねっとりと動いた。


「静佳によく似ているなぁ」


 彼は懐かしそうに目を細めた。まるで泣いているようだ。


「静佳は伯母です」


 そう口にして、思うことがあった。静佳とクグツメノシズカには、何らかの関連があるのではないかということだ。


「わかっとる。よく道祖神の隣でぼんやりしている娘だった。早くに亡くなったらしいな。佳人薄命というものか……」


 彼が悲しげな視線を道祖神に向けた。


「おじいちゃん、失礼だよ。その人が夏生さんに似ていると言っておいて、薄命だなんて……」


「そうだった。スマンな。ぼけ老人の言うことだ。気にせんでくれ」


 元春は倫也のもとに行って草刈りを代わると言った。


 あの老人が芙美婆ちゃんのことを知っている。……改めて考えた。祖母には自分の知らない人生があったのだ。


「ボケてるの? 足腰もしっかりしているみたいだけど……」


 春奈に訊いた。


「時々ね。迷子になっちゃうんだ」


「それは心配ね」


「今のところ、頭の回路が元に戻ると帰って来るから大丈夫なんだけど……。そのうち、完全に自分の家や住所を忘れてしまうかもしれないから、心配よ」


 彼女は軽トラックのシートから軍手を取り、綺麗な方を夏生に差し出した。


「刈ったススキを1カ所に集めよう。そのまま腐らせると虫がわくし、汚らしいから」


「集めてどうするの?」


「燃やしちゃった方がさっぱりするんだけどね。良い肥料にもなるし……。でも、焼くとうるさく言う人がいるんだ。やれ産廃だ、やれ野焼きだって……。阿蘇でも秋吉台でも、若草山でも、大規模な野焼きをやってテレビ局や観光客まで集めているのに……。大規模なのは良くって、小規模なのはダメだって……。昔の人はうんこだって肥料にしたのに、日本人は農業をどう考えているんだろうね」


 春奈が不平を言うのを、夏生は初めて聞いた。


「……まあ、後の処理は私に任せてよ」


 彼女は荷台からスコップを降ろした。


 倫也がやってきて「どうも」と恥ずかしそうに頭を下げた。


「すみません。迷惑をかけて」


 夏生も頭を下げた。話を大きくしてしまった春奈をちょっとだけ恨んだ。昨日借りたハンカチを返して礼を言うと、彼は一層恥ずかしそうな表情をつくった。可愛い、と夏生は思った。


「トモ、デレデレしてないで、……男子は根っこ掘りだよ。道祖神の回りだけでも、掘っちゃって」


 春奈がスコップを彼に押し付けて、ニヤッと笑った。


 30分ほど刈ったススキを集めただけで、夏生のGパンは汗で色が変わっていた。見れば、ススキの根を掘る倫也の顔も熱を持って赤くなっている。春奈と元春だけが、涼しい顔で作業をしていた。


 暑さに耐えかねた夏生がポンプに取りついてギコギコいわせた時、「休憩しよう」と元春が言った。


 大地の底からくみ上げられた水は、前に飲んだ時よりも冷たく感じた。全身に新たな力が生まれる。夏生の後に、倫也と春奈が井戸を使った。水に関心を示さない元春は、春奈に無理やり飲まされた。


 日影がないので4人で春奈の車に乗り込んだ。エンジンをかけて冷房を入れる。軽自動車なので容易に空気は冷えなかったが、直射日光からは隠れることができた。


「外で働くのって、暑いな」


 夏生の隣で倫也がぼそっと言う。夏生も同感だが、口にはしなかった。地元の人間に囲まれてアウエーの緊張感が半端なかった。


「夏生さんは、名前の文字そのままに、夏の産まれなんでしょ?」


 運転席の春奈が上半身をひねって見てくる。夏産まれなのだから、暑いのは平気だろうと言っているように聞こえた。


「そうだけど、こんなに暑いのは苦手です」


「ふーん、部活動とか、何をやっているの?」


 春奈がぐいぐい迫ってくる。漫画研究会に属しているといえず、「特になにも……」と誤魔化した。


「トモも、スポーツとかやりなよ。このくらいで真っ赤になっているようじゃ、卒業しても生きていけないぞ」


 春奈の矛先が倫也に向けられた。


「僕はインドア派だよ。リモート授業になって、助かってる」


 彼がインドア派だというので、夏生は勇気を得て尋ねることにした。目下、最大の関心事だ。


「アフターコロナの就職は、どうなるんでしょう?」


「五里霧中だね」


「嫌な世の中ですね」


 彼に同調した。


「フン……」と、元春が鼻で笑った。「……平和なだけ、マシだろう」


 大学生にとって就職は戦争と同じです、と夏生は言ってやりたかった。


「おじいちゃん、やめなよ」


 春奈が注意した。が、老人は黙らなかった。声が泉のようにあふれた。


「芙美婆さんは、とんでもない苦労をしてここの家屋敷を手に入れたのだ。それを、こんな風にしてしまうんだからな。まったく、恩知らずも甚だしい。施設に入れるのも、ワシは反対だった」


 明らかに老人は、芙美子の面倒を見ずに施設に入れ、彼女が住んでいた家を解体してしまった神野家のことを言っていた。夏生は、肩をすぼめた。


「やめなよ。おじいちゃんには関係のないことだから……」


「そんなこと、あるか!」


 元春が声を荒げると、「ごめんね」と春奈が夏生にわびた。


「年寄りを大切にしない国に、未来などあるものか」


 老人は言いたいことをそのまま口にする。


 若者も老人を支えるための年金保険料や健康保険料に押しつぶされそうなのよ。……夏生は胸の奥で反論した。


「安田さんも苦労したのかい?」


 夏生の隣で倫也の優しい声がした。


「ワシなどは……」彼はひと呼吸おいて話を続けた。「……戦争中はガキだったからな。苦労というほどの苦労はしていない。こんな田舎には爆撃もなかった」


「芙美婆さんは、苦労したんだね?」


「女学校を出たばかりだっただろう。お前さんらより若かったはずだ。それが1人前の大人扱いだ。ワシら百姓は食い物には困らなかったが、ずいぶん困っただろう」


 彼の目尻に、うっすら涙が浮いていた。それに気づき、夏生は話題を変えようと思った。


「静佳伯母さんのことを知っているなら、私の父の俊史のことも知っているんじゃないですか?」


「俊史……」元春は首を傾げた後、「知らん」と言った。


「次男の光紀はどうでしょう? 芙美婆ちゃんが養子にした子供です」


「知らん」


 老人が同じ言葉を吐き捨てる。


「おじいちゃん、知らないはずないでしょ。よく、道祖神を拝みに来ていたじゃない」


「ワシが会ったのは、静佳だけだ」


「あのう……」夏生は恐るおそる訊いた。「……クグツメノシズカという傀儡女を知りませんか? あの道祖神を祭った人だと思うんですが」


 元春がフンと鼻を鳴らした。


「あの道祖神は古くからあった。地元の者でも誰が祭ったかなど知らんはずだが……」


 彼は身体をひねり、怪しむように夏生を見つめた。


「おじいちゃん。驚かないでね……」


 春奈が、そう前置きして、夏生は道祖神と話が出来ると説明した。その時の相手がクグツメノシズカということや、芙美子や静佳も話せたらしいということも……。


「そんな馬鹿げたこと……」


 元春の顔のしわが深くなった。


「私も不思議だけど、昨夜、彼女は道祖神と話したのよ。芙美婆ちゃんが恋をしていたんだって」


「恋だと?」


 老人の瞳の光が強くなる。相手は誰だと聞かれたくなくて、夏生は視線をそらした。


「飯塚篤か?」


 老人の声に怒気がある。夏生の心臓がバクバクいった。


「あ、はい。どうしてそれを?」


「そんなこと、神様でなくとも、この辺りの連中なら知っていることだ。他に、何か話していたのか? 芙美婆さんしか知らないことことを……。それを聞いたというなら、信じてやらないでもないが……。それがタコだろう」


「タコ?」


「いや、イカだか、カニだか、エビだったか……。横文字で言うだろう?」


「エビデンスのことですね?」


 倫也が確認した。


「おう。そのエビだ」


 うなずいた老人が正面を向く。道祖神と話せるというエビデンスなんて……、と夏生は胸の内でぼやいた。


「神様の存在のエビデンスを示すのは難しいな」


 夏生の気持ちを代弁するように倫也がいう。


「エビ、エビ、それが大事だよ」


 春奈は歌うように茶化した。


 ――グオーン……、沈黙の中、エアコンとエンジンの唸りが耳につく。いつの間にか、車内は冷えていた。


「どれ、あと半分ほどだ。かたずけてしまおう」


 老人がひしゃげた声で言って車を降りた。若者たちが、その後に続く。


 また汗をかかなければならないのか……。夏生は気が重かったが、自分が言いだしたことだ。今さら止めようとは言えなかった。渋々麦わら帽子をかぶり、軍手をはめた。


 太陽が傾き紅色に変わった頃、広い敷地のススキを刈り終えた。ススキの痕跡がないのはコンクリートが打ってある井戸の周囲と、かつて母屋があった場所の北側にあるコンクリート基礎の内側だけだった。あの芙美子と篤の愛の巣の跡だ。ぐるりと回されたコンクリートがススキの根の侵入を防いだのだろう。代わりにセイタカアワダチソウが密集していた。それを元春が力任せに引き抜いた。


 元春が最後のセイタカアワダチソウを抜いた時に声を上げたのは春奈だった。


「終了!」


「終わった……」


 汗にまみれた倫也が膝に手を突いた。


 夏生はすっかり綺麗になった敷地を見回した。陽に焼けた肌がヒリヒリ痛み、腰や腕の筋肉が錆びたようにギシギシいっていた。それでも、目の前に現れた成果には、痛みと引き換えても余りある満足を覚えた。汗を流して身体を動かすのも悪くない。そう思った。


 元春が道祖神に足を運ぶ。腰をかがめ、両手を合わせた。3秒程度の短い時間だ。立ち上がると、軽トラックに戻って荷物を積み込み、若者たちを無視してエンジンをかけた。


 ぼけた老人がハンドルを握っていいのかな?……夏生は考えながら彼の車を見送った。


 夏生たちも道祖神に両手を合わせた。恐ろしさがあって、それに直接触れることは避けた。


「帰って温泉に入ろうね」


 春奈が〝ホテル歌人〟を自宅のように言って車に乗り込む。夏生は乗る前に道祖神に眼をやった。それまでススキに隠れていたそれが、夕日に照らされて恥ずかしそうにしていた。今度クグツメノシズカと話す機会があったら、楽しい話を聞かせてほしいと思った。


「行くよー」


 夏生の物思いを春奈が遮る。


「ごめんなさい」


 慌てて乗り込んだ。


 春奈がアクセルをふかし、車は夕日に向かって走った。


「夏生さんの伯母さん、静佳っていうのよね?」


 春奈が訊いた。


「はい。それがなにか?」


「それって、クグツメノシズカと同一人物じゃない?」


 彼女は夏生と同じことを考えたようだった。夏生が口を開くより先に、倫也が反応した。


「それはないだろう」


「トモ、どうしてよ?」


「お祖母さんは道祖神と話したんだろう? その時、娘の静佳さんは生きていたはずだよ。静佳さん自身も、道祖神と話したんだよね? 自分が自分と話すなんて、おかしいだろう」


「あー、そうだよね」


 春奈が声を上げて笑った。夏生も、ナルホドと納得した。


 3人は〝ホテル歌人〟の大浴場で汗を流した。夕方だからか他にも客がいて、さすがの春奈も泳ぐようなことはなかった。


 湯に浸かると静かな時が流れる。湯の延長上にある白砂の波紋は、夕日で赤く染まっていた。それをぼんやり見ているだけで、身体の疲れは湯に溶けた。換わって潤滑油が流れ込み、心が豊かにまわりだす。そんな気がした。


 辛かった草刈りは貴重な経験っだった。畑を埋め尽くすセイタカアワダチソウも自分の手で……、ふと前向きの想いが浮かんだが、毎年、光紀がトラクターを入れているという真水の話を思い出し、でしゃばったことは止めようと思った。


 真水が春奈と倫也の夕食をサービスしてくれた。夏生の部屋で食事を囲む。


「明日、夏生さんは筋肉痛で泣くわよ」


 春奈にからかわれ、夏生は告白した。本来自分はインドア派で、マンガやアニメばかり見ているオタク体質だと……。それでも屋外の仕事が楽しかったと話した。春奈が、オタク体質の人間が草刈りなど面白がるのはおかしいと疑ったが、倫也は夏生の気持がわかると言った。


「今晩も道祖神に行ってみようよ」


 突然、春奈が提案した。まるで花火大会や夜祭に誘うようなノリだ。夏生は首を傾げた。春奈に言われるまでもなく、オタク体質の夏生はクグツメノシズカのことがとても気になっていた。しかし、肉体はひどく疲れていて、そこに昨夜のような疲れる追体験を重ねたくはなかった。


「今日は止めておこう」


 倫也が言った。


「どうしてよ。トモだって知りたいでしょ。クグツメノシズカのこと」


「ハルは、バズるネタが欲しいだけだろう? 止めておけよ。神野さんに迷惑だ」


「そんなことないよ。夏生さんは義経のことを知りたくて福島まで来たのよ……」口を尖らせて言うと、今度は口角をあげる。「……トモは食い逃げするつもり?」


「草刈りはしただろう?……やりたいことがあるなら、明日にしろよ」


 彼の低い声には、大地のような優しさと力があった。それに、夏生は勇気をもらった。


「今日は疲れたから……。春奈さん、明日、お願いします」


 夏生が自分の意思を口にすると、春奈は諦めた。


 春奈の車を見送りながら、ふと疑問が湧いた。光紀と芙美婆ちゃんの関係はわかった。明美伯母さんの父親が誰かもわかった。おそらく父、俊史の父親も篤なのだろう。だけど、長男の流星や長女の静佳の父親はだれだろう? 特に気になるのは静佳のことだった。元春に、自分が彼女と似ていると言われたからだ。


 芙美婆ちゃんの職歴をさかのぼってみようと思った。篤にスナックを出してもらう以前、彼女はキャバレーで働いていた。どうしてそんなところで働くことになったのだろう? それがわかれば、静佳の父親や自分が彼女に似ている理由がわかるに違いない。


 肉体労働の疲れがあって、早くからウトウトしだした。そんな時、スマホの着信音がリンリンと鳴った。優斗からだ。


『元気か?』


 退屈そうな声がする。


「疲れたわ。草刈りをしたの」


『草刈り?……引きこもりの夏生が、すげえな。でも、元気だということだな』


「何かあったの?」


『昨日はおかしかったからな。傀儡女なんて言うから』


 彼が心配してくれていると気づいて、夏生は嬉しかった。


「クグツメノシズカっていう人物に心当たりはない?」


『工藤静香なら知ってるぞ。昔のアイドルだ』


「工藤じゃなくて、傀儡女よ。神主のような格好をしているの」


『狩衣か、水干姿ということだな……』


 スマホの向こうで彼が考えている。


『……思い当たるのは、静御前ぐらいだな。静御前なら水干姿だったかもしれない。でも、静御前は同じシズカでも傀儡女じゃなくて白拍子だ』


「白拍子って?」


『今でいったら、ダンサーかな?……夜の相手もするから、傀儡女と似ているかもな』


「江戸時代の花魁みたいなものね。傀儡女って、関東や東北にもいたの?」


『俺は知らないよ。平安時代なら東北地方は外国みたいなものだ。文化はずいぶん違っていただろうから、傀儡女はいなかったんじゃないかな』


「静御前ならどうかな?」


『静御前は義経の愛人だ。鎌倉幕府に追われた義経が岩手県の平泉に逃げたあと、静御前が鎌倉で取り調べを受けた記録がある。その後の消息はわからないけど、彼女の伝説や墓といわれるのが日本中、あちらこちらにあるから、平泉に向かった可能性も否定できないというところかな』


 優斗の話の中に義経の名前があって驚いた。彼に言わせれば、義経の血をひいていてもその比率は2,2%だ。それっぽっちのことが頭から離れない。


「義経は福島県にも縁があるのね?」


『ちょっと待って……』


 短い間があった。


『……信夫郡を治めていた佐藤基治さとうもとはるの息子の継信つぐのぶ忠信ただのぶという兄弟が義経に部下としてつけられている。――おい太刀たちも五月にかざれ紙幟かみのぼり……、芭蕉ばしょうが福島市の医王寺で詠んだ俳句だ。そこに保管されているのが弁慶の笈と義経の刀ということらしい』


「ふーん、ラグビーばかりやっていると思ったら、意外に勉強もしているのね」


『去年、授業でやったところだ。それで、ちょちょいのちょいとネットを調べてみた。ネットを上手く使えたら、知識なんていらないだろう?』


 それから優斗は、いつ、東京に戻るのかと、前日と同じように訊いた。夏生も、昨日と同じように応えた。


 彼との電話で目が冴え、眠気を催すまで静御前のことをインターネットで調べた。その伝説や墓といわれるものは、中国地方から北海道まで、指の数では足りないほど見つかった。調べることに疲れると形代を作った。何気なく始めたことで、再度、道祖神を訪ねる意図はなかったが、春奈に「明日……」と約束したのを思い出した。


 本当に行くつもりかな?……春奈の性格を考えると、思いつきで言っただけのような気がする。「忘れよう」自分に向かって言った。とはいえ、明日ではないにしても、いつかは道祖神に行ってみようと思った。


 クグツメノシズカを思う。その夜も彼女とともに赤い海に沈む夢を見るような予感がした。その時には声をかけてみよう。そう心に決めた。




「夏生さん、朝ご飯よ」


 夏生は、真水の声で目覚めた。デジタル時計が午前9時を表示していた。


「……すみません、また寝坊しちゃった」


 布団から抜け出し、ぼさぼさの髪を手で梳く。そうして、デジャブーだ、と思った。


「草刈りで疲れたのでしょ。仕方がないわ」


「2日も連続で、すみません」


 下げた頭が上がらない。全身、筋肉痛だった。


「……イデデ……」


「湿布が必要かしら?」


「イデ(いえ)大丈夫です」


「本当?」


 彼女がウフフと笑った。その姿は、夏生が見ても艶がある。男性にはさぞ持てるだろう。クグツメノシズカに見せられた若い芙美子を思い出した。彼女がキャバレーで働いた理由もそんなところにあるのかもしれない。


「芙美婆ちゃんの若いころの写真って、残っているのでしょうか?」


 その中に、キャバレーで撮ったものや、そのころに彼女と付き合っていた誰かと撮ったものがあるかもしれない、と考えていた。


「戦争で焼けちゃったんじゃないのかしら……」


「戦後のものは……、誰かが持っていませんか?」


「父の結婚式の時の写真なら、芙美婆ちゃんも写っているけど、そんな写真のことではないのでしょ?」


「はい、20代のころのものがあったら、と思ったんですけど……」


「芙美婆ちゃんの荷物は父のところで預かっているけど、アルバムはなかったと思うわ。念のため、父に捜してもらうわね。あら……」


 真水が床の間に置いた形代に眼をやった。


「これは?」


「形代です」


「それは知ってるわよ。同じようなものが沢山あったのよ。解体した母屋の神棚に……」


「芙美婆ちゃんか、静佳伯母さんが作ったものですね」


「そうなの?」


「仙台の伯母さんが、道祖神と話すのに、それが必要だと教えてくれたんです。真水さんが見たものには、何か、願い事のようなものが書かれていませんでしたか?」


「それはなかったわね。表も裏も、真っ白……。そういえば、英字新聞でつくったものもあったわね」


「英字新聞ですか?」


「そうよ。間違いないと思うけど」


「そうですか、英字新聞でもいいというのは意外でした。願い事を書く必要もないのですね」


 それらがわかったのは収穫だと思った。


「手作りなのね……。こんなに沢山……」


 彼女は夏生がつくった形代を数えて元に戻した。


「……道祖神が沢山話してくれそうね。期待しているわよ」


 ポンと肩を叩かれた夏生の全身に痛みが走った。「イデデ……」筋肉痛だ。


「あら、ごめんなさい。今日は、ゆっくりすると良いわ。お大事にね」


 真水が軽やかな足取りで出て行く。彼女を見送った後、昨夜はあの赤い海の夢を見なかったことに気づいた。予感は外れたのだ。自分の能力なんてそんなものだ、と少しだけ気落ちした。


 その日は、漫画やアニメを楽しみ、祖母やクグツメノシズカのことをあれこれと考えてすごした。義経の血を引いているという芙美婆ちゃんの話も検討課題の一つだった。篤の家が義経の末裔なら、そのことを真水が聞かされないのはおかしいと思う。義経の血を引いているというのがたとえ伝説だとしても、子供や孫に、そしてその嫁に、そうしたことを伝えるものだろう。


「何か情報がないかなぁ」


 夏生はインターネットの海を彷徨った。優斗の知識を信じるかぎり、義経の子供が生き残ったという史実がない。たとえ作り話でも情報があれば、それが糸口になるのに、と考えた。


「やっぱりエビがないと……」元春の顔を思い出す。その時、廊下をパタパタ走る音がした。それが部屋の前で止まったかと思うと、トントンというノックの音と同時にドアが開いた。


「こんにちはー」


 春奈だった。


 夏生は、昨日、誘われた時のような嫌な気分にはならなかった。


「さあ、義経伝説を掘り下げに行くぜ!」


 彼女は七つの海に乗り出す少年海賊のようだった。そのおちゃらけた見かけによらず、約束を忘れていなかったようだ。


 仕方がない……。夏生は胸の内でつぶやいて立ち上がり、形代を鞄に入れた。


 表に出ると蒸暑い空気にむせた。太陽が緋色をしていた。そこに倫也はいない。少し残念だったが、そのことは話さなかった。男好きのオタク女なんて最低だからだ。


 春奈の車が道祖神に到着したのは薄暮の頃だった。彼女は、ススキを刈りとった土地に車を乗り入れた。


「わくわくするね。私も挑戦してみるんだ。気持ちを込めて作ってみたよ」


 車を降りた春奈が自作の形代をひらひらさせる。夏生は空を見上げた。青い半月が紫色の空に浮いていた。


 道祖神の前に屈んだ春奈が、神妙な表情で道祖神をなでた。


「クグツメノシズカ様、私の頼みを聞いてください……」


 彼女の願いは小さな声になっていた。有名な芸能事務所名とアイドルらしい男性の名前をあげて、彼と話しがしたいとブツブツ繰り返した。


 夏生は込み上げる笑いを押し殺し、精神を統一する。形代を片手に道祖神をなでた。その時、月が赤く変わったのには気づかなかった。


 頭がくらくらしたかと思うと、水干姿の影が現れる。その影が徐々に女性の形を作った。クグツメノシズカだ。


 ――悩みもないのに、また来たのですね――


 彼女が微笑んだ気がした。


 ――将来のことは悩んでいます――


 ――私に未来を変える力はありません。できるのは、ただ、あなたの話に耳を傾けるだけなのです――


 ――祖母、神野芙美子が、私は源義経の血を引いていると話していました。本当なのでしょうか――


 ――源九郎義経が……。そのことに何の意味があるでしょう――


 一瞬、戸惑ったように見えた彼女が、冷たく応えた。


 ――私が私として強く生きられるかどうか、ということです――


 ――強く、ですか?――


 ――女性だって、強く生きなければならないと思うのです――


 ――さて……、あなたがそれを強く願うのなら、何かを見ることができるでしょう――


 クグツメノシズカがクルリと舞うと、眩暈が夏生を襲った。他の誰かの意識と絡み合い、赤い海に引きずり込まれていく感覚があった。


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