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1 赤い海に溺れる

 白い砂浜、青い海……。砂浜の先にあるのは江の島か……。


 波打際に立つ女性がいる。巫女を連想させる真っ白な衣装……。長い黒髪の向こうに覗く、穏やかで透明感のある表情……。それはまるで穢れを知らない妖精のようだ。彼女は歩き出す。沖に向かって……。


 神野夏生(じんのなつき)が彼女の夢を見るようになったのは最近のことだった。彼女は自分に似ているが、自分ではなかった。


 徐々に風が吹いて波が立つ。海の色が変わっていく。彼女は足を止めることなく、海上を歩いていく。波は腰を濡らすが、彼女が沈むことはなかった。


 彼女は潮が重くなっているのに気付いている。愛や恋、就職や結婚、出産といったあいまいでとらえどころのない存在が満ちて、彼女の行く手を邪魔しているのだ。夏生はそう思った。


 時がたつほどに、海は赤色を濃くする。血潮そのものだ、と夏生は思った。妖精だった彼女を取り巻くあいまいなものが、漂うビニールのゴミやクジラの死骸のようなものに形を変えて彼女の身体に絡みついていた。その重みに耐えかねたのか、突然、彼女が沈んだ。――ズブン……、と頭まで……。赤い海に黒髪が放射状に広がった。


「助けて……」


 叫んだのは彼女か夏生かわからない。二人は一つになっていた。そうして赤い海の底に吞みこまれていく……。普段ならそうだったが、その日は違った。


 ――リンリンリン――


 聞きなれた音で海が消えた。残されたのは不快な暗闇だった。


 また、同じ夢かぁ……。嫌な夢だ……。ぼんやり考えていた。意識が働くと暗闇はどこかへ去った。カーテン越しでも日差しは強く、とっくに夜が明けていたのだとわかった。


 ベッドから身を乗り出して机の上のスマホを取る。父親からの電話だった。ベッドを抜け出すと落ちていた男物のジャージを素肌にまとい、洗面所にはいって電話に出た。


『こんな時間まで寝ていたのか?』


 小さな穴から父、俊史としふみの不機嫌そうな声がした。


 どんな時間だというのよ。……胸の内で反発しながら、すっかり時刻を気にしない生活をしていたことに気づいた。それでも、素直に謝ることはできない。


「いいでしょ。緊急事態宣言のおかげで大学は休講だし、外出も自粛なのよ」


 その年の初めから新型コロナウイルスの感染が拡大し、政府が緊急事態宣言を発出、不要不急の外出を避けることが求められた。前年から流行が始まった中国やイタリアなどでは沢山の死者を出している。若者には感染しても影響が小さいということだが不明な部分が多く、大人も子供も冬眠する熊のように家庭内で過ごしていた。夏生の通う大学も休校になって敷地は閉鎖、クラブ活動や校外での集会も禁じられていた。


『外出はしなくても、勉強はできるだろう。不規則な生活をしていると、かえって免疫力が下がって病気になるぞ』


 相変わらずの説教だった。


「わかっているわよ。それよりナニ、用事があるのでしょ?」


 父親は用事もなく電話をしてくることなどない。


『今朝、母さんが死んだ』


「エッ、ママが?」


 父親の話で心臓が止まった。正確には、鼓動を感じる脳の感覚が一時停止した。それを蘇生させたのも彼の声だった。


『いや、ママは元気だよ。死んだのは芙美ふみ婆ちゃんだ』


 芙美婆ちゃんというのは、神野芙美子。福島県に住む父方の祖母だ。


「なーんだ……」


『なんだはないだろう』


 声が、いっそう不機嫌そうになった。


 父は5人兄弟の末っ子だから甘やかされて育ったのだろう。東京で就職した後、12年前の転勤で奈良県に腰を据えることになった。遠く離れて暮らすことになると、帰省する回数も減った。だから、母親の死に、とても心を痛めているに違いない。……と、夏生は想像した。夏生はといえば、幼いころは盆と正月には会っていたものの、ここ12年、会ったのは両手の指で数えられる程度で、父親ほど彼女に対する想いはない。


「ゴメン、何歳だったの?」


『92歳だ。こんな時期だからな。葬式は光紀(こうき)伯父さんの家だけでするから来ないでくれということだ』


 兄妹の中で、次男の光紀は養子で血が繋がっていない。なのに何故か、実質的な神野家の跡取りだった。長男は芙美子との関係が悪く、母親のことは光紀に任せっぱなしだった。


「そう……。パパは参列したかったのでしょ?」


『生みの親だからな。……とりあえずそういうことだ。コロナが落ち着いたら、墓参りに行こう』


 生みの親というところに夏生は引っかかった。父は養子である光紀が母親の世話をしていたことに、何らかの対抗心や負い目のようなものを抱えているのではないかと思った。


「私だけでも行こうか? 東京からなら2時間だよ」


『止めておけ。田舎のことだ。隣近所の眼もあるだろう。東京から人が行ったと知られたら、かえって迷惑をかけることになる』


「そうね。わかった」


 電話を切った時、ひとつの記憶が蘇った。高校受験で苦しんでいた時のことだ。祖母から電話があって、夏生には義経よしつねの血が流れているのだから自信を持て、と励まされた。その時は彼女の話を信じなかった。むしろ、女の子に対して義経を持ち出して励ますのはどうかと思った。そのことを父親に話すと、芙美婆ちゃんは不思議な力を持っているからわかるのだと言うので信じることにしたのだが、心底信じたというのではなかった。


 高校に入学してから日本史を学び、平家討伐のために西日本各地を転戦して歩いた英雄の血を自分が引いているはずがない、と思い直した。とはいえ、失望したわけでもない。「やっぱり……」といった程度だ。祖母は、受験を控えた孫を励ますために嘘をついたのだろう。そう解釈し、それからはすっかり忘れてしまっていた。


 でも……、と考えた。もし自分が義経の子孫なら、それを就職活動に利用できるのではないか……。頭の隅で欲望がささやいた。


 部屋に戻ると、ベッドでは本庄優斗(ほんじょうゆうと)がまだ深い眠りの中にいた。僅かに口を開け、クークーと寝息を立てていた。


 彼がこんな風に寝ていられるのは、就職の心配がないからだと思う。ラグビー部は弱小だが歴史は古く、部員の間には鉄の結束があった。卒業生の中には会社の役員に上り詰めた者も多く、そうした先輩たちが後輩の就職を斡旋してくれるのだ。就職してからラグビーをするわけではないのに、同じ部に所属しているというだけで信用されるのだから、この世は謎だ。


 夏生は、そっとベッドに戻った。優斗の体温が伝わってくる。


 彼にナンパされたのは大学の入学式のときだった。高校生の頃なら断っていただろう。自分の筋肉を自慢するようなタイプは、好みじゃなかった。が、都会への憧れで東京の大学に進学したものの、入学式場で見る学友は都会人に見えて気おくれがしていた。そんな同級生に自分から声をかけて友達になることなど無理だと思った。それで彼の誘いに乗り、お茶を飲んだ。東京出身の彼は、東京の隅々まで知っていて、とても頼もしく見えた。そうして彼と恋人的な関係になった。2人目の男性だった。


 相手が好みのタイプではなくても、愛しあうことはできる。なぜか?……そんなことを考えたことはなかった。最初だって似たようなものだった。ただ、セックスがどんなものか知りたくて、同級生と関係したのだから……。最初の彼は神戸の大学に進学した。関西に残れと言われたけれど、東京の大学に進学した。それで彼とは自然消滅……。特に未練のようなものはない。


 優斗とつきあい始めて2年とひと月、喧嘩をしては何度も別れ、よりを戻しては今に至っている。陽気な性格で細かなことには頓着しない彼だが、緊急事態宣言でラグビー部の活動が停止するとさすがに落ち込んだ。それを吹っ切るように、彼はセックスに勤しんでいる。


 彼の武骨な、それでいてどこかスッと整った顔を見ながら、夏生は祖母の冥福を祈った。

「ナツキ、どうしたんだ……」


 寝ぼけ眼の優斗が、夏生の首に腕を回してグッと引き寄せた。ベッドが、2人の重みに喘いでギシギシ鳴った。


 夏生は彼の上に倒れ込んで耳元でささやく。


「死んだのよ」


「新型コロナかい?」


 尋ねられて、祖母の死因を聞かなかったことに気づいた。


「さあ?」


「誰が死んだの? 大統領? パンダ?」


 彼が夏生の首筋にキスをする。夏生はブルッと震えた。股間がキュンとうずく。


「私のお婆ちゃんよ」


「あ……、行くの、葬式?」


 声にさっと冷たいものが走った。


「外出自粛でしょ。行かなくていいって」


「そうか。ラッキーだったな」


 それを聞いて、父親に「なーんだ……」と言ったことを後悔した。


「ラッキー?」


「葬式なんて、退屈だろう?」


「葬式は退屈かもしれないけど、私の祖母のことなのよ。ラッキーはないわ」


「ごめん、つい……」


 彼は穏やかに言って、夏生の唇を自分のそれでふさいだ。優しいが、反発は許さないと言わんばかりだった。大きな手が尻の肉を握った。


 夏生の胸の中に、父親に覚える反発と同じものが渦巻いた。彼の肩をそっと押して離れた。


「ねぇ……」そこで少し考えた。別れましょう。そう言ったら、彼はどんな顔をするだろうと思った。


「ん?」


 彼が首を傾げる。


 別れましょう……。胸の内ではそう言ったが、声になったものは違った。


「……義経の血筋って、残っているの?」


 別れるのは怖く、面倒だと感じていた。


「どうしたんだ。藪から棒に?」


「優斗は、歴史学科じゃない。それとも、脳みそも筋肉でできてるの?」


 冗談めかして笑うと、別れを考えていたこともまで忘れてしまった。


「ったく……、僕の専門は古代だよ。詳しいのは、せいぜい奈良時代までさ。義経となると素人だよ。夏生とかわらない」


「でも、だいたいのことはわかるでしょ?」


「小説で読んだ程度ならね……」


 彼は目を細めて記憶を絞り出しているようだった。


「……義経の子どものことは記録にあると思う。ひとつは本妻の子どもで義経と一緒に奥州平泉まで逃げ、そこで殺されている。もうひとつは静御前の息子だけれど、その子は頼朝に殺されたことになっている」


「義経の血は絶えているのね……」


 やはり祖母が言ったのは、私を励ますための噓だった。……就活のアピールポイントがひとつ減り、残念に思った。


「ただ、別の可能性がある。平泉で、義経が新たに子供を産ませた場合だ。彼は平泉では客としてもてなされたはず。そこで地元の娘たちに子供を産ませた可能性はあるんじゃないかな?」


「まぁ、奥さんがいるのに?」


「愛人を持つのは当たり前の時代さ。それを公然と持てなくなったのは、日本が太平洋戦争に負けてからだからね。1945年……。それまで妾を囲うのは、男の甲斐性だったのさ」


「昭和って、野蛮ね」


「今の価値観で昔を測ってはダメだよ。いや、今だってイスラム圏の国々では数人の妻を持つことができるはずだ。それを野蛮だと一言で切り捨てるのは問題だ。なんてったって多様性の時代さ……」


 彼が薄く笑った。


「……で、それがお祖母さんの死と関係があるのかい?」


「ううん、そうじゃないの。誰かが、自分は義経の子孫だと言っていたのを思い出したのよ」


 祖母がそう話したといったら笑われるだろうと思って誤魔化した。


「誰か知らないが、馬鹿じゃないのか。義経なら12世紀の人間だろう。今から900年も前だ。30歳で子供が生まれるとして、900年を30年で割れば30代もさかのぼることになる。義経の血を引いたところで30分の1だよ。3.3%……、20歳なら45代前、2.2%しか義経のDNAは残っていない。そんな割合を含んでいたところで自慢になるはずがないだろう」


 優斗が冷笑する。芙美婆ちゃんを馬鹿にされたようで面白くなかったが、理屈の上では彼の言う通りだと思った。




 数週間後、新型コロナの感染者数が減って緊急事態宣言が解除されても、大学に通うことはなかった。リモート授業が定着したからだ。部活動やサークル活動も同じで、たとえ校外であっても集まることは禁じられた。大学側は、学生が集まってクラスターを起こすことを恐れているらしい。国民の安全のためではなく、大学の名誉を守るためだ。


 漫画研究会に所属する夏生は、オンラインでマンガを読み、アニメ動画を観て過ごした。そこでは富豪やイケメン男子との恋愛は必ず成就する。そうでなければゾンビや悪魔に追い回されて終盤の一発大逆転……。ハラハラドキドキを楽しむだけで、不安を覚えることはない。もちろん、逆もある。すべてが破滅で終わるディストピア……。そうしたハッピーとアンハッピーの極端なふり幅が現実と違う面白さなのだけれど、ディストピア・ストーリーは、コロナ禍と重なって楽しめないので避けた。不快なものを避けて通れるところがマンガやアニメの良いところだ。一方的に送り込まれてくるテレビニュースや現実とは違う。


 好きな作品にだけ触れていても、ふとしたことで、心の中で凍らせているものに気づく時がある。就職のことだ。現実逃避を決め込んでいても、時がたてば、それは必ずやって来る。新型コロナ感染症の流行が沈静化すれば、いや、沈静化しなくても、秋には就職活動が本格化するのだ。昨年度、内定取り消しが多発したことを考えれば、今年も来年も採用人数は激減、就職は狭き門になるだろう。


「狭き門……」胸の中でつぶやく。そう、アンドレ・ジッドの小説だ。……神様、どうか私に仕事を下さい! 就職できるなら、私は鬼にでも蛇にでもなる。許して、炭治郎……。夏生は頭の真ん中で祈った。


 外出自粛が要請されていても、ラグビー部の練習も、アルバイトも無くなった優斗は毎日のようにやって来る。それを知っている友人は『リア充はいいな』とパソコンの向こう側で羨ましがったが、夏生にそんな感覚はなかった。彼と逢うのは楽しいが、それは愛や恋とは違って精神的な充足感を与えてくれることはなかった。胸の中にはいつも不安が渦巻いている。二人はただ同じ場所にいて言葉を交わし、感覚器官を刺激しあって存在を確かめ、時間を消費して明日がやって来るのを待っている。そんな状態だった。そこには笑いや快感もあるけれど、眠いのに起こされたり、彼のために食事をつくったり、といった面倒もあった。


 ――グーン……、と猛暑に対抗するエアコンが喘いでいた。


「惰性で付き合っているだけよ。就職したらどうなるかわからないわ。就職できなかったら、もっと、どうなるかわからない」


 その日も、恋人がいることを羨む理沙に向かって、そう応じた。


『リア充だから、そんなことが言えるのよ』


 ディスプレーに映る理沙が言った。ゼミが同じ彼女も地方出身者で、夏生の良い相談相手だ。


「今は就職のことが先だと思うのよ」


『あぁー、やめて。そのことは考えないようにしているのに』


 彼女が両手で髪をかきむしった。


「現実逃避ね。わかったわよ。話さない」


『良かったー。こうして夏生と話している時だけが、私のリアル、……安息の時なのよ』


「安っぽい安息なのね」


『コロナ禍において、私は〝無〟なの』


「どういうこと?」


『生活感も大学もない。勉強もサークル活動も夢のようなもの。もちろん、私の肉体もあってないようなものなの』


「哲学ね」


『バイトがなくなったのは痛いわ。月3万円は大きかったのに……。このままじゃ、肉体まで餓死してしまいそうよ』


 彼女は渋谷のファッションショップで店員のバイトをしていた。その店が家賃が払えないということで廃業した。廃業直前、1カ月分のアルバイト代も、彼女はもらえなかったらしい。


「心は、すでに餓死したということ?」


『そうね。大学受験で死んだかな。肉体は残り火のようなものなの』


「何か、生きがいを見つけなさい」


『まるで定年退職者に向かって老後の生き方を諭すようね』


 彼女が笑いながら泣き顔を作った。


「新しいバイトは……、ないか……」


『あることはあるけど、就活並みの競争よ。心が折れたわ』


「餓死した心が折れたのね?」


『そう、そう。どうしてこんな時代に産まれてきちゃったのかしら』


「バブル時代なら、就職も楽だったんだろうね」


『バブルかぁー、何年前? 日本史の世界だわ。……でもないか。今、株はバブルなんでしょ?』


「カブって、証券会社のあれ?」


『うん、あれ。……コロナ禍でも、あの世界だけは元気らしいよ』


「就職するなら、やっぱり金融なのかな……」


『銀行は淘汰の時代らしいわよ。狙うならネット証券かな……』


「採用枠は少なそうね」


『狭き門ねぇ』


「うん、ジッドの世界だわ」


『ジッド?』


「小説よ、昔の」


『ああ、あれ……、読んだの?』


「まさか。ネットのダイジェスト版よ」


『だよね。小難しいのはムリだわ。やっぱり小説は楽しくないと』


「現実逃避用ね」


『そうよ。苦痛はリアルで十分。克服できそうにない不毛な砂漠に直面しているんだもの、わざわざ読む必要はないわ。小説はくすっと笑えるのがいいな』


「恋愛小説は?」


『ナイ、ナイ……。恋愛小説も恋愛ドラマも、関わったら惨めになるだけよ。あ、ゴメン。夏生はリア充だから、恋愛小説、OKだよね』


 またリア充嫉妬か……。夏生の心が灰色になる。


「理沙も彼をつくればいいじゃない。恋愛とか、重たく考えないで」


『化粧とか、言葉遣いとか、おもてなしとか?……男に気を使うなんて、めんどいわ』


「慣れたらスッピンでいけるわよ。理沙、かわいいから。……気を使わず、使ってくれる男性を選べばいいのよ」


『そんな都合のいい男がいたら、紹介して』


 彼女は口を大きくあけて笑った。


「都合よく、見つかったらね」


『あ、夏生が食っちゃうんでしょ?』


「まさか。私は間に合っているわ。彼ひとりでも、持て余しているもの」


『あー、またのろけてる』


「違うって……」


 のろけているつもりはないし、優斗を持て余しているのも事実だった。ラグビー部の活動がなくなってから頻繁にやって来るようになった彼が、まるで亭主のように我が物顔で振る舞うからだ。そのために、どれだけ自分が時間を浪費し、自分のやりたいことを我慢しているか……。そう考えたのが表情に出たのかもしれない。理沙が話題を変えた。


『夏生は、相変わらずマンガ?』


「うん。マンガを読んでアニメを観て、妄想している」


『そっちの業界に進むつもりはないの。アニメーターとか?』


「妄想はできても創作はムリだな。絵も下手だし……。でも、アニメグッズのショップや漫喫なら楽しく働けそうだわ」


『それじゃバイトや派遣と変わらないじゃない』


「正社員と派遣は、ゆくゆく同一労働同一賃金になるんでしょ?」


『そんなの大企業だけだって……。しかも、正社員の待遇を派遣社員の方に合わせていくんだろうって、父さんが言っていたわ』


「そうなの?」


『政治家のやることといったら、いちいち姑息よね。格差は広がるばかりだわ』


 彼女が大きなため息をついた時、ドアのチャイムが鳴った。リアル彼は、突然、穏やかな生活の中に侵入してくるものなのだ。


「ゴメン、彼が来たみたい」


 ディスプレーに向かって両手を合わせる。


『あいよ。羨ましいぜ、リア充。妊娠するなよー』


 そう言い残して彼女は消えた。


 チャイムを鳴らした客は優斗でなく、柏原芳明(かしわらよしあき)という漫画研究会の先輩だった。研究会の会長だった彼は今年卒業し、中堅どころのIT企業に就職していた。


「やあ、神野さん。元気そうだね」


 彼は額の汗をハンカチでぬぐって微笑んだ。その姿に、夏生の胸がチクチク痛んだ。恋ではない。良心の呵責のようなものだ。あの日のことを思い出す。5カ月前のコンパの後のことだ。彼とは漫画やアニメの好みが同じで話が弾んだ。そうしているうちに強かに酔った2人はラブホテルで一夜を共にしていた。目覚めた後、正式に付き合って欲しいと告白されたが、自分には優斗がいるから、と断った。そうして気まずい雰囲気で別れた。てっきり尻軽女と軽蔑されただろう。そう思っていたのだが、今、再び芳明が目の前にいる。


「先輩、どうしたんですか?」


「近くまで営業に来てね。仕事をまとめた帰りなんだ」


 彼は得意げに名刺を差し出した。


 汗を拭く芳明を玄関先で対応するわけにもいかず、部屋にあげた。その結果、何が起きるのか……、可能性を想像できないわけではなかった。


「綺麗にしているんだね」


 小さな部屋の家具はベッドと机しかない。テーブルは折り畳み式の小さなものだ。そのテーブルの前に彼が腰を下ろした。


「仕事は大変じゃないですか?」


 話しながら、ミニキッチンの冷蔵庫から冷えたウーロン茶を出した。


「まだわからないことばかりだけどね。リモートワークのおかげで、仕事が沢山あるんだ。ネット環境の整っていない中小企業は山ほどあってね。……海外では小中学校でさえ、すぐにリモート授業に移行できているのに、日本は違う。大学でさえ、接続数に対応できずにサーバーがダウンするところが多かった。まして中小企業は、家庭と同じようなネット環境しかないところが多い。それで、僕みたいな素人でも受注できるらしい」


 彼は自虐的な笑みを浮かべ、グラスに注いだウーロン茶を一息で飲み干した。4年生を追い出すコンパを開いたのは2月のことだった。それからわずか5カ月しか経っていないのに、彼はすっかり自分とは別な世界の住人になっているように見えた。これが就職するということなのだ、と実感した。


「神野さんも来年は就活だろう?」


「はい。コロナ禍で、どうなるのか不安です」


「良かったら、ウチに来ないか? 人事部長に話を通すよ」


「え? 私、どちらかといえばパソコンは苦手で……」


 IT企業への就職など考えてもいなかった。


「IT企業だからといって、みんながプログラムに携わるわけじゃないよ。僕みたいに営業をする者もいれば、人事や経理の者もいる。そうした部署はどこの会社でも同じさ」


 そう教えられると、光明を感じた。


「それなら、考えてみます」


「今年も来年も、就職は厳しくなるだろう。早く内定を取った方がいい。秋ごろに、人事部長に会ってみないか?」


 彼はそう言って瞳を光らせた。


「人事部長と会ったら、内定がもらえるものですか?」


 とにかく自分の居場所を確保することだ。今、その切符が手に入る。希望が膨らんだ。


「もちろん、会っただけで内定がもらえるわけではないよ。人事部長なりに、神野さんの人となりを見て判断するだろう。その結果次第ということになる」


「それはそうですよね」


 希望が少しへこむ。大学での成績は並みで、運動能力も語学力もない。TOEICや英語検定の資格もなければ、運転免許もない。能力があるとすれば、マンガやアニメに通じていることぐらいだ。企業の管理職からみれば、無価値な存在だろう。


「神野さんなら大丈夫さ。僕が保証する」


 彼はそう言って夏生の手を握った。えっ?……期待が困惑に変わる。


「あの夜のことが忘れられないんだ。いいだろう……」


 彼が肩に腕を回して引き寄せた。


 人事部長に引き合わせるというのは、自分に会うための口実に過ぎないのではないか、と夏生は疑った。一方で、まだ自分を好きだから助けてくれようとしているのだ、と信じたかった。


「そんな……」


 拒絶したら就職がだめになるかもしれない。心が揺さぶられた。そうしている間に、芳明の片手が身体をまさぐった。覚悟を決めて眼を閉じると、それまで五月蠅かったエアコンの音が聞こえなくなった。


 彼の手が太腿の内側にのびた時だった。――ピンポーン……、とチャイムが鳴った。


「シッ」


 彼が人差指を唇に当てた。居留守を使えというのだ。


 ――グーン……、と鳴るエアコンの音が復活していた。


 2人は石像のように固まっていた。

 

 ――ピンポーン――


 再びチャイムが鳴った。


 ――ガチャ、と大きな音を立ててノブが動く。返事がないのにドアノブを回すのは優斗ぐらいだ。


「彼です」


 夏生は芳明を押しやった。優斗がドアを開ける前に芳明との距離を取りたくて、衣服の乱れを直しながらドアに向かった。


 ドアを開けたのは、やはり優斗だった。汗でぬれたTシャツが、素肌に張り付いていた。ラグビー部の活動が再会しない彼は、トレーニングを兼ねて自宅から走ってくるのだ。


「じゃあ、僕はこれで……」


 背後で声がする。芳明が立っていた。彼は体格のいい優斗の前で、肩をすぼめて靴を履いた。夏生は頼れる小さな大人と、筋肉だけの大きな大学生を並べて見ていた。


「……人事部長との面談のことは考えておいてくれよ。また、連絡するから」


 自分と付き合うことも考えておいて欲しい、と聞こえた。


 彼が軽く手を振って出て行く。大人の余裕に見えた。


 芳明の背中を眼で追っていた優斗が、視線を夏生に向ける。


「誰?」


「柏原さん、漫画研究会の先輩よ。スカウトに来てくれたの」


「就職かぁ、良かったじゃないか」


 彼は素直に喜んだ。その手が、子供にするように夏生の頭をなでた。付き合い始めたころ、そうされるのが嬉しかった。が、最近はそうでもない。頭をなでられたり、胸を揉まれたり、耳を舐められたり……、突然そうされるのは、彼にペットのように扱われているようで面白くなかった。


「汗臭いわね。シャワーして」


 上から目線の彼が憎く感じて言葉が尖った。


「何してたの?」


 優斗が濡れたTシャツを脱ぐ。くっきり凹凸のある大胸筋と腹筋が眩しかった。


「見た通り、ついさっき柏原さんが来て、人事部長を紹介してくれると話していただけよ」

「その前は?」


 彼の瞳には、嫉妬らしい濁った光があった。


「オンライン女子会よ」


「また、理沙と?」


「そうよ。横山理沙さん」


 優斗に欠点があるとすれば、デリカシーがないことと、親しくもない知人を呼び捨てにすることだ。それでわざわざ〝横山理沙さん〟とさん付けで応じてやった。そんなことを1年以上続けているが、彼が変わることはなかった。


「ホームステーで彼女も丸くなったんじゃないか?」


「逆よ。餓死しそうだって言っていたわ」


「そりゃ、大変だ」


 彼は声を上げて笑いながら洗面所へ消えた。


 ――ぶー――


 ドアの向こうでおならの音がする。まるで口でも肛門でも笑ったようだ。……夏生の中で、何かが切れた。


「もうたくさん」


 唇を突いて出た声は、自分のもののようではなかった。彼と、頭の隅にいる芳明の落ち着いた姿と比べていたのだが、それには気づかないふりをした。


 クローゼットから着替え用に置いてある優斗の下着とシャツを取り出す。昨日、洗っておいたものだ。今日脱いだ彼の衣類は、また、洗って置いておくことになる。そうした習慣が1年ほど前から続いていた。最初は男物の衣類を干すと防犯対策になるから、というのでそうした。干した彼の衣類を見ると、彼を身近に感じて喜びを覚えることもあった。いつしかそうした目的や喜びは忘れ去られて惰性に変わっていた。そうすることが当たり前のことになった。


 夏生は手にしたシャツと下着を見て震えていた。優斗が自分の生活に浸食し、自由を奪っていると感じた。そうして全身を冒した憤りは、優斗がシャワーを使う時間が経っても消えなかった。


 洗面所のドアが開く。優斗は、いつものように全裸だった。ギリシャ彫刻のような筋肉を全身にまとった肉体だ。その中央に向かって、夏生は手にしていた衣類を投げつけた。


「どうしたんだ?」


 着替えを受け止め損ねた優斗は、訳がわからないというように目をぱちくりさせた。


「今日は帰って!」


 別れましょう、とは言えなかった。


「なんだよ。夏生らしくないな……。まさか、あいつと何かあったのか?」


 優斗はずかずかと進んで夏生の肩を押さえた。


「あいつって、誰?」


「漫画研究会の先輩だよ」


「柏原さんとは、何もないわよ」


 噓は躊躇うことなく言えた。少しだけ冷静になっていた。


「わざわざ来たんだ……」


 優斗の言葉と抱きしめるのが同時だった。夏生の額は彼の熱い胸板に押し付けられた。


 私、変だ……。理性がそう言った。


「僕は、夏生が好きだ」


 乾いた声が頭の上から降ってくる。その声を自分が信じているのかどうか、夏生は判断できなかった。うつむいた視線の先に見慣れたものが頭をもたげていた。途端、彼の言葉が偽りに思えた。


「私はあなたの性欲処理道具じゃない」


 彼の胸に両手を当てて突き放す。


「一体全体どうしたんだ。わかんねぇよ」


 優斗は無理やり夏生を抱くような乱暴者ではなかった。悩むような様子で夏生が洗った衣類を身に着けると、少しだけ名残惜しそうに部屋を出て行った。


「私もわからないのよ!」


 彼が出て行ったドアに向かって叫んだ。


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