2話 出会い
更衣室は男女でそれぞれ共同スペースとして施設内に幾つか用意されている。広い部屋に水道、鏡、ドライヤー、アメニティ各種が取り揃えてあり、更に各々着替える為の個室が複数用意されている。男の更衣室でここまでの配慮が必要なのかはさておき、この施設は何から何まで用意されている。旅行でちょっといいホテルに泊まっている気分だ。
個室に入って紙袋の中身を改めて確認する。
「しまった!これ……っ」
紙袋から取り出して気付く。中身は袴だった。袴なんて穿いたことがない。当然自分で着付けなんて出来るわけもない。
「何でさっき訊かなかったんだ俺はっ」
和服だと気付いた時点で、サエキに言うべきだったと柊弥は頭を抱えた。
仕方がないので、サエキに連絡を取ることにする。プレイヤーには施設内専用の携帯端末が与えられている。端末の液晶画面をタップしてサエキに繋ごうとしたとき、個室の外から男女の声がした。
「どういうことだよ!」
男の怒鳴り声。
「……離してください」
女のどこか抑えたような小さな声。
柊弥の携帯端末を操作する手が止まる。
ここは男子更衣室だ。しかし、今確かに女の声が聞こえた。いやまて、小さな声だったから聞き間違いかもしれない。声の高い男かもしれない。
思わず聞き耳を立ててしまう。
「さっきのセッション、なんでキスしてくれなかったんだよ!」
「!?……ぶ、フォッッ!」
男の叫びに、思わず吹き出しそうになって慌てて手で口を抑える。
何の話をしてんだ、こいつら。
「したじゃないですか」
したのかよ。
思わず心の中でツッコんでしまったが、声に出して問い質したい。お前たちは何の為にここにいるんだ、と。ゲーム中に、しかも他にもプレイヤーが何人もいる中ですることか。
「あれじゃない!頬っぺたじゃない!違う、違うだろぉ……キスは唇だろぉっ」
絞り出すような声で男が訴える。
女に迫る男の声音が粘着質で、陰で聞いているこちらの方が居た堪れない。
不快感で瞬間的に鳥肌がたった。
そもそもここは男子更衣室である。男女の痴話喧嘩を聞く場所ではない。
だんだん腹が立ってきた。自分は袴の着付けが出来なくて、次のセッションまであまり時間がないのに。
個室のドアが閉まっていて鍵がかかっているのだから人がいることに気付け、それ以前にこんな場所でそんな話をするな。
「終わったセッションのこと言われても困ります。私、次のセッションがあるのでもう行きます」
そうだ早く出て行ってくれ。
変態、お前もついでに何処かへ消えろ。
会話の終わりが見えて、柊弥は心の中で二人を急かした。
しかし、男はなおも食い下がる。
「待てよ!だったらここでキスしろよ!」
男の言葉に、陰で聞いているこちらの方が唖然としてしまった。悪びれもなく堂々と言い放つその様子に僅かながら感心してしまったことはさて置き、事態は確実に悪化している。とにかく時間がない、外の二人に聞こえないようにサエキに電話をかけよう。バレないように慎重に。
そこまで考えて、柊弥は急に、隠れて聞き耳を立てている自分が馬鹿馬鹿しくなった。
ここは男子更衣室である。そして自分は次のセッションに参加するため急いで着替えなくてはならない。自分には何も非がないのに何故隠れる必要があるのか。
こんな状況になってもまだ人目を気にしている。失うものなど何もない、名前すら失ったこの状況で、まだ。
心底自分という人間が嫌になる。
柊弥はドアを開けて個室の外に出た。
「は!?なん、だよ……人がいたのかよ!」
「ここ男子更衣室なんですけど、女連れ込んで何やってるんですか?」
急に現れた柊弥に二人は驚きを隠せない様子だった。柊弥にしてみれば出来るだけ丁寧な口調で語りかけたつもりだった。しかし、苛立ちを隠しきれなかったのか口から出た言葉は完全に相手を煽るもので、声音は低く脅しかけるような響きを含んでいた。
柊弥は改めて二人を見る。そして成程、と思う。
一方は痩せぎすの男、どこか陰鬱な眼差しをしている。服はセンスのいい服を着ているのだがどこか違和感がある。おそらく役の為に用意された服なのだろう。
もう一方は華奢な女。歳は二十……いや、もしかしたら十代かもしれない若い女だ。黒髪のセミロングに白くて小さな顔。どこか猫を思わせるパッチリとした瞳。それでいて目元はどこか涼しげである。清楚さを感じさせるワンピースがよく似合っている。
端的に言って美人だ。
そして意外にも、驚いた様子から持ち直して先に口を開いたのは女の方だった。
「すみません。直ぐに出て行きますから」
彼女は柊弥に会釈をすると、この場から立ち去ろうとした。
しかし、男は彼女の腕を掴んで強引に引き留め更に言い募る。
「待て!話の途中だ!こ、こっちは納得してないんだからな」
「揉め事起こすとまずいんじゃないですか?あなたもPLでしょう?俺たちPLの行動はマネージャーに……この組織に管理されているんですよ」
こんな得体の知れない施設にいて謎の組織の監視下にあってよくも揉め事を、しかも色恋沙汰を起こそうという気になるものだ。
「これは正当な抗議だ!さっきのセッションで見せ場を奪われたばかりか、この女は自分の役割演技を放棄したんだからな!」
男は何故か柊弥に矛先を向けたようで、急に熱弁を奮いだした。
「シナリオの最後、感動のベストエンドを迎えるはずだった。無事に化け物の住まう洋館から脱出して最後この女が僕にキスをして大団円の流れだった」
ゲームでそこまでの演技を要求されるのか。いったい何を目的として人前でそんなことをさせられなければならないのだろう。考えるだけで頭痛がしてくるようだった。
柊弥は女の方をちらりと横目で見た。女は特に表情を崩すことなく黙っている。
仕方なく柊弥は男を逆撫でしないように話を聞くことにする。
「でもちゃんと彼女はしたって言ってましたよね、頬に」
すると男は急に、カッと目を見開いて柊弥に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄り、そして言い放った。
「ちっがうんだよぉ!!そこは唇にねっとり情熱的にだろうが!わかってねえな!!」
痩せぎすの男がヒステリックに喚く。すると、それまで黙っていた女が男とは対照的に落ち着いた声で反論する。
「GMの指示は洋館から無事生還して、感極まった流れでキスというものでした。あの時、見せ場だったのは恋人同士の設定だったPC達です。あの人達のキスシーンは控えめでしたけど、GMは満足してたじゃないですか。ああいう場面はカップル役に任せておけばいいんです」
そこで柊弥が疑問を投げかける。
「君たち恋人同士の役じゃなかったの?」
「兄妹役です」
「蓮!違うだろ!?蓮!!妹想いの兄と、ブラコンの妹だ!蓮だって僕のことあんなに慕ってただろ?演技だとしてもちゃんと最後まで演じきれよ……っ」
蓮。
この子は蓮というのか。
柊弥は何となく彼女の名前を頭の中で反芻してしまって、今はそんな場合ではないと思い直す。
そもそも、兄妹でその演出は果たして必要なのだろうか。
「GMは唇にしろとは言ってません」
PLはセッション中耳に小型のイヤホンをしてプレイする。全体に向けての語り・進行以外で、各PLに指示が必要な場合そのイヤホンから指示が出る。指示するのはGM、もしくは各々のマネージャである。
「マネージャーはベロチューいけるって言った!」
「……マジかよ」
柊弥は驚愕して思わず口に出してしまった。
「私のマネージャーは頬でいいと言いました」
「それじゃ見てる方もつまんないだろ!もおおぉ!いいからキスしろよぉっ…それで許してやるから!」
今にも地団駄を踏みそうな男を見て、柊弥は心底投げやりな気分になった。
自分はヤクザに売られるんじゃないかとか、映画のようにデスゲームが始まるんじゃないかとか割と真剣に考えていたのに。
柊弥の口から乾いた笑いがこぼれる。
「はは、なんだこれ。あったまわるーい感じの会話……あんたらここに何しに来たんだ」
柊弥の言葉に男の顔が一瞬で赤くなるのが分かった。ブルブルと怒りに震えて今にも殴り掛かりそうだ。その様子を見て柊弥は失言だったかと口を押えたが、意外にも男は柊弥に向かって口元を釣り上げて笑って見せた。
「わかった、そこまで言うならダイス出せよ」
ダイス、TRPGに欠かせないサイコロ。しかし何故今ここで必要なのか柊弥には理解できなかった。
男が焦れたように宣言する。
「ダイス持ってんだろ!1d10で振って出目が大きかった方が蓮とキスする!」
「は!?」
柊弥は必死に覚えたばかりの知識を引き出す。
確か1d10は、十面ダイスを一個振ること。これが十面ダイスを二個なら2d10になって――。
いやいや、ちょっとまて。マジで何言ってんだこいつ、頭おかしいだろ!
男の異常さに柊弥は戸惑いを隠せない。
すると、そんな柊弥に蓮が進言する。
「付き合う必要はありませんよ。ゲーム外で勝手にダイスロールなんてきっと問題になります」
「蓮!お前は黙ってろ!」
蓮は至極もっともなことを言った。しかし、男は聞く耳を持たない。
「ほら!俺のダイス!これでいい、振るぞ!」
男がズボンのポケットから十面ダイスを取り出して掲げて見せた。
「いやいや、ちょっと……」
その時、柊弥の隣にいた蓮が動いた。
「あ」
パシッっという乾いた音と、男の間の抜けた声が響く。
蓮が男の掲げていた手をダイスごと弾いた。
ダイスは、男の手から弾き飛ばされ宙を舞い、洗面台の鏡にぶつかり、そして水道の排水溝に落ちた。
時が止まったように場が静まり返る。
あまりの気まずさに、柊弥は蓮と男を交互に見た。
蓮は涼しい顔でダイスの落ちていった排水溝を見つめている。
一方あっけにとられていた男の顔がみるみる歪んでいく。
「お、お前……っざけんなぁ!!」
男は叫ぶと蓮に掴みかかった。男が彼女の細い首を締め上げるのを見て、その突然の暴挙に柊弥は一瞬反応が遅れたが直ぐに男の腕を掴んで止めに入る。
「あんた何してんだ!正気か!?」
「うるさいうるさい!!」
柊弥は男の手を引きはがすと思わず蓮を抱き寄せて庇う。
その時、更衣室の扉が勢いよく開いた。
「蓮!!」
緊迫した女の声が響いた。同時にスーツ姿の女が室内に飛び込んできた。
そのスーツの女は彼女、蓮を抱きしめて言った。
「蓮、蓮、心配した!急に姿か見えなくなったと思ったら電話が掛かってきて……こっちがいくら話しかけても返事がないし、そのかわりに何か変な会話が聞こえてくるし」
「気付いてくれてありがとう、ミズノさん」
このスーツ姿のミズノと呼ばれた女性が蓮のマネージャーなのだろう。
どうやら蓮は柊弥と男が会話している隙に、密かに携帯端末を通話状態にしてミズノにこの更衣室の音声を届けていたようだ。
ミズノは痩せぎすの男に硬く無機質な声で言い放つ。
「テストセッションはそれぞれ独立したものです。そのセッションが終われば名前以外の設定は受け継がれません。またセッション以外でのPL同士の交流は基本禁止です。まして既に終わったセッションの設定を引きずってPLに絡むなど論外です」
ミズノにそう冷たく告げられた男はそれまで掴んでいた柊弥の胸倉を離し脱力したように項垂れた。
柊弥は軽く咳をすると、今度こそサエキに連絡を取ろうと携帯端末を操作する。
「それで、あなたは?」
ミズノが柊弥に話を振ってきた。
ああ、面倒なことにならなければいいけれど、と思いながら柊弥は弁明するために渋々口を開く。
「俺は」
「おせえぞ、柊弥」
その聞き知った声に柊弥が更衣室の入り口を振り返る。
サエキが更衣室に入ってくる。何故かカッチリとした制服を着込んだガタイの良い男を連れて。おそらくこの施設の警備員だろう。
「ん、こいつか問題児は?」
サエキが、相変わらず項垂れたままの男を指して柊弥に尋ねた。
「……たぶん」
柊弥は自分に訊かれても困ると心の中で思いながらもサエキの質問に答えた。
「そうか。んじゃ、よろしく頼んます」
サエキがガタイの良い警備員に声をかける。警備員は項垂れていた男の背中を軽く叩いて促す。男は先程までのヒステリックさが嘘のように素直に警備員に従って更衣室を出て行く。
「後から俺が処理しますんで、そいつのマネージャー呼んどいてください」
サエキは警備員の背中にそう声をかけて、酷く面倒くさそうに頭を掻いてミズノと蓮に目を向けた。
「ミズノぉ、ちょっと顔かせ」
「あの、せんぱ……サエキさん」
サエキはアゴをしゃくって入口の方を示すとミズノと更衣室の入り口付近に移動し、何やら小声で話し始めた。
自分達PLには聞かれたくない話なのだろう。どうやらサエキとミズノは互いによく知った間柄のようだ。
「ありがとうございました」
ぽそりと小さな声で礼を言われて、柊弥はいつの間にか直ぐ隣に立っていた蓮を見る。
「いや、どう致しまして」
「貴方、直ぐに気付きましたね。だからあの人の注意を引いてくれたんでしょう?」
蓮の言う通り、柊弥は気付いていた。蓮があの男に気付かれないように後ろ手に携帯端末を操作していることに。
柊弥の登場で動揺した男に対し、蓮は直ぐにその状況を利用してマネージャーに状況を知らせようとした。それを察した柊弥が時間稼ぎに協力した形である。
柊弥としては威勢よく個室から出たはいいが、男が逆上して暴れ出したりすれば自分も責任を問われるのではないかと内心冷や冷やしていた。
厄介ごとは避けるべきだ。そもそも原則としてセッション以外でのPL同士の交流は禁止とされているのだから。
「俺、ここに来て初めてTRPGって知ったんですけど、役を演じるってのがどうにも慣れませんよ。さっきの人みたいに……あそこまで役にのめり込むのが信じられないです」
柊弥は入り口で話しているマネージャーたちに聞こえないように小声で蓮に話しかける。
「PCを演じることに固執して、シナリオクリアよりもロールプレイを優先するPLは結構いますよ」
「あれが普通ってことですか」
「まさか、あんなのどう考えても異常です。それに無理して個性的に演じなくてもPCの設定さえ守っていれば、あとはシナリオの雰囲気を壊さないようにするだけで案外上手くいきます」
話しぶりからして蓮はTRPG経験者のようだ。柊弥は彼女から出来るだけ有用な情報を聞いておきたいと思った。何しろ自分はゲームという名の付くものには殆ど興味を示してこなかった。これはかなり不利なのではないだろうか。それに、単純に自分以外のPLがどんな人間でどんな目的でこのゲームに参加しているのか興味がある。
「こういうゲームは何をしたらいいんですかね?逆に何をしても許されるんですか?あの男、無茶苦茶なこと言ってましたけど」
「あれは完全にマンチですね。あそこまで無茶苦茶な人は私も見たことがありません」
マンチ?また新しい単語だ。後でサエキに教えてもらおうと思いつつ蓮の話に耳を傾ける。
サエキとミズノはまだ何か揉めているようだった。
蓮は声のトーンをさらに落として続ける。
「マンチとかルーニーとか嫌厭されがちなPLですけど……TRPGにおいて重要なのはPLとPCを混同しないことです。さっきの人は演じ終えたPCを完全に引きずったまま、むしろ同一視していた」
役に入り込んでしまったということなのか。しかし、演技と区別がつかなくなるなんてことあるのだろうか。
「厄介なのは、ここがそれが起こりやすい環境だということでしょうか。それが計算されたものなのかはわかりませんが」
蓮は柊弥に話しているというよりも、自分の思考を柊弥に語るという形で整理しているようだった。
「少なくとも運営側は普通のTRPGをやらせる気はないのでしょうね」
普通のTRPGがどんなものか知らない柊弥は蓮の言葉の意味を図りかねる。
柊弥は蓮に顔を向けた。蓮の横顔を見つめる。俯いたその横顔はやはり美しく整っていたが、口元だけが歪んでいた。
「なんて……趣味の悪い見世物だ……」
そう蓮が呟いたのを、柊弥は確かに聞いた。
PL…プレイヤーの略。
PC…プレイヤーキャラクターの略、TRPGにおいてプレイヤーが演じるキャラクターのこと。
マンチ…マンチキン。自分のPCが有利になるように周囲にワガママを通そうとする、聞き分けのない子供のようなプレイヤー。
ルーニー…とにかく場を笑わせようと、受けを狙う行動ばかりを自分のPCにさせるプレイヤー。