アブノーマルな兄妹は一線を越えるのか?
「牡蠣貰っちゃった」
そう言って、月夜がスーパーの袋を抱えて帰ってきたのは夕方頃のことだった。
「精がつくよって言われてさ。お言葉に甘えちゃった」
陽太は、そうと聞いて嫌な予感を覚えたのだった。
「それってさ、俺達を同棲してるカップルと思ってるご近所さん?」
「うん、そうだよ?」
月夜は無邪気な表情で牡蠣を冷蔵庫に入れ始める。
陽太は頭を抱えたいような気持ちで、腕を組んでしばし考え込んだ。
陽太と月夜は双子の兄妹だ。陽太の生活能力のなさ、月夜の一人にしておいたら危なっかしい精神的な不安定さ、その他金銭的な事情から同じアパートの一室に暮らしている大学生だ。
「あのな、月夜」
「うん」
月夜は黙々と牡蠣を冷蔵庫にしまっていく。
「精が付くよって言うのは、精力が付くよって意味も兼ねてる」
月夜の動きが止まった。
「つまり?」
「俺達は今晩ベッドで熱心に励むだろうなあとそのご近所さんは思っているわけだ」
月夜は冷蔵庫の扉を閉めると、完全に動きを止めた。脳内OSがフリーズしてしまったのだろう。
「困る」
月夜がやっとのことで発したのは、小さな一言だった。
「俺だって困るよ。なんで同棲中の学生カップルなんて設定を受け入れたんだ」
「だって、その時はそれも面白いかなあと思っちゃったんだもの」
「思うお前がおかしい」
本心から陽太は言う。月夜は陽太にアブノーマルに近い感情を抱いているかもしれない。けれども、陽太は違うのだ。少なくとも、本人はそう思っている。
「どうしよう。返して心象悪くなるのもなんだし」
「精力つけて夜に励みましたって勘違いされても良いわけだ」
「それも困る。陽太ぁ。何か良い断り方思いつかないかなあ」
「お前の巻いた種だ。自分で考えるんだな」
月夜はしばらく考え込んでいたが、そのうち牡蠣を冷蔵庫に入れる作業を再開し始めた。
諦めてしまったのだ。
すぐに諦める。精神的にか弱い。それが、二人が同居している理由の一端だった。
その夜、牡蠣フライは食卓に並んだ。タルタルソース付きだ。
「いただきまーす」
言って、陽太は黙々と牡蠣フライを食べる。しかし、月夜は箸をつけることを躊躇っているようだ。頬が僅かに赤いように見える。
「食っても襲わねえから安心しろよな」
げんなりした口調で陽太は言う。
「わかってるよ……」
月夜は言って、観念したように牡蠣フライを食べ始めた。
牡蠣フライはジューシーで、タルタルソースの味がそれに絶妙に絡み合って美味しかった。
あっという間に、一山がなくなってしまった。
「あー、お腹いっぱい」
そう言って、両手を後部に置いて体重を預ける。
月夜は黙り込んでいる。
「だから変に意識すんなって。襲わねえから」
月夜はしばし視線を逸していたが、そのうち意を決したように陽太を見据えた。
「陽太は、今、元気なんだよね?」
「元気だよ。腹一杯だしな」
「元気一杯なんだよね?」
「おう」
何か、嫌な予感がした。これ以上、この妹に何かを言わせては不味い。そんな予感があった。
そして、陽太が遮る前に、月夜はその言葉を発してしまったのだった。
「……する?」
沈黙が場に漂った。
陽太は硬直してしまっているし、月夜は返事を興味津々の表情で待ち続けている。
「……しない」
陽太は、出来るだけ淡々と言った。
「そっか」
月夜は、緊張が抜けたように緩く微笑む。
「そうだよね」
そう言って、月夜は晩餐の片付けに向かった。
今、何が起こった? 陽太は、そんなことを考える。
今、自分は性交を迫られたのか? 実の妹に?
ありえない。
しかし、そのありえないことが、起こった。
起こってしまった。
それまで居心地が良かった二人の関係に、影を落とす一言になるのは、目に見えていた。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
翌日、月夜は牡蠣を来れた近所の小母さんと顔を合わせていた。
「牡蠣、ありがとうございました」
まずはお礼。それは基本だ。
「良いのよ。上手く調理できた?」
「ええ」
「彼氏さんも一杯食べてくれた?」
「それはもう」
「……夜のほう、どうだった?」
月夜は硬直する。やはり、その意図で牡蠣をくれたのか。
「……しない」
陽太の淡々とした口調が、脳裏に蘇って、月夜の胸を締め付けた。
「私達、そういう関係じゃないんです。期待に添えなくって悪いけれど」
「誤魔化さなくても良いのに」
また誤解が深まったらしい。しかし、それを修正するコミュニケーション能力は月夜にはない。
「本当に、何もなかったんです」
言ってるうちに、月夜は泣きたくなってきた。
「今日は、用事があるので、ここで」
「はい。何か不便があったら遠慮なく言うのよ」
温かい声に背を押されて歩いて行く。
月夜は、泣いていた。悲しかった。自分達が将来別々の道を行くのだと改めて突き付けられたようで、悲しかったのだ。
しかし、兄妹として産まれた以上、その運命は覆しようがない。
(陽太がお兄ちゃんじゃなかったら……)
月夜は、晴天を見上げて考える。
(襲ってくれたのかな……)
そもそも、明るい陽太と暗い自分が仲良しになっていたという想定がそもそも間違っていた気がした。
どう生まれようと結ばれない運命。
月夜は、しばし泣いた。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
朝起きると、書き置きと朝食が残されていた。いつもなら月夜が起こしてくれるのに。
やり辛いのは自分だって一緒だ、と陽太は思う。サンドイッチを口に入れながら、今後の対策を練る。
何も思い浮かばなかった。事態が風化するまで待つしかない。いつになったら風化する? 五年後? 十年後?
せっかく居心地の良かった同居生活が、月夜が一歩を踏み間違えたせいで台無しだ。
陽太は、床に寝転がった。
何もする気が起きなかった。それは、月夜が陽太にとって心の中で大きなウェイトを占める存在だということの証明だろう。
けれども、自分達は兄妹なのだ。いつか、別れる運命だ。
それを、月夜も享受しているのだと思っていた。思い込んでいた。
けれども、弱い月夜は、その運命に耐えられなかったのだ。
思えば、産まれた時から一緒にいた。陽太の青春を紐解けば、そこにはいつも月夜がいる。
自分達は互いにとって大きな存在になりすぎた。
弱い月夜と、それを守ることで安ど感を得る陽太。共依存関係だ。
そんな実感が、陽太にはある。
考えても不健康だと思ったので、大学へ向かうことにした。
途中の電車で、智子と遭遇した。同級生で、格闘ゲームをこよなく愛するという点で二人の趣味は一致している。
「どしたの。浮かない顔して」
「そんな浮かない顔してるか?」
「してる。また月夜ちゃん絡みか」
あまりにも正確に読まれたので、陽太はこの友人を疑いたいような気分になった。
「……顔に書いてあるか?」
「あんたが悩んだり家出するのは大体月夜ちゃん絡み。私ももう学んだ。その度に、私の家が避難先にされるのもね」
呆れたように智子は言う。
陽太は、この友人に自分の境遇を相談するか悩んだ。相談することは、月夜の名誉を傷つけることになる。
「相談できないようなことなんだ?」
見透かすように、智子は言う。
二人して、電車を降りて歩き始める。そして、近くのカフェに入った。
「関係を迫られたとか?」
陽太は飲んでいた水を吹きそうになった。
まさか、この友人、本当に超能力を会得しているのではあるまいか。
「あら。半分冗談のつもりだったんだけれど、当たっちゃった?」
「ビンゴもビンゴ、大ビンゴでございますよ」
投げやりに陽太は言う。そして、ウェイトレスに紅茶を二つ注文した。
伝票を置いて、ウェイトレスは去って行く。
「応えた?」
「俺はケダモノか」
「流石に一線は越えなかったか」
「兄妹だからな……」
「けどねー、私は危ないと思ってたのよ。兄妹とは言え年頃の男女が一つ屋根の下でしょう? 両親も考えなしだなあって」
「普通は兄妹でそういう関係になる方がおかしいんだ。そういう想定が出てくるのがおかしい」
「けどね、あんたは男で月夜ちゃんは女の子なんだよ」
「……なんか女だけ女の子って大事そうな物言いされるの俺は気に食わないな」
「話を横に逸らさない」
陽太は、混ぜっ返す手段を失って黙り込む。
「やろうと思えばやれるんだよ」
智子の言葉が、陽太の中の固定概念にヒビを入れた。
「だから、それを前提に置いて、今後は立ち振舞を考えるんだねー。前にもあったでしょ。酔っ払って月夜ちゃんを押し倒したって騒ぎ」
「あれは押し倒しただけだ。何もしてない。それに今回は月夜の盛大な自爆だ。俺に止めようはなかった」
「隙があったんじゃないかなあ……」
「どうしても俺を悪者にしたいんだな」
「月夜ちゃん、傷ついてると思うよ。どうしようもないことだとは思うけれどね」
月夜が傷ついている。陽太は、守らなければならない。だと言うのに何故だろう。今、月夜を追いやっているのは自分なのだ。
その日から、月夜と顔を合わせる機会は減った。
そもそも、陽太自身が飲み会などで家を空けることが多いのだ。
月夜はいつも微笑んでいて、その表情にはどこか儚さがあった。
二人の間には見えない壁がある。それを破壊できぬまま、日数だけが過ぎていった。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ある晩のことだった。陽太は大学のレポートをパソコンで仕上げている最中だった。
外には雷が鳴っている。しかし、遠くから聞こえるだけだ。そんな被害はないだろう。そう思っていた。
次の瞬間、部屋の電気が消えていた。
パソコンのファイルの保存は小まめにしていたから大丈夫だ。ハードディスクが損傷していない限り。
陽太は伸びをして、ブレーカーを上げに移動した。
部屋を出ると、月夜の息遣いがして、陽太は足を止めた。
「月夜、いるのか?」
「うん、いる……。雷で部屋に篭ってたら心細くて」
「そうか」
そう言えば月夜は雷が苦手だった。いくつになってぶりっ子を続けるのだろうと陽太は半ば呆れている。
ブレーカーを手探りで探して、スイッチを入れる。
しかし、家の電気は点かなかった。
「まいったな。停電か……」
「え、嘘……」
月夜が心細そうに言う。
それと同時に、遠くで雷が落ちる音が響き渡った。
「きゃっ」
月夜が小さく声を上げる。
仕方なく、陽太は月夜の影を探して、傍に座ってやる。すぐに、月夜の手が、陽太の手に重なった。月夜は、小さく震えていた。
闇夜の中では、あらゆるものが見えなかった。倫理観さえも、見失いそうだった。
月夜の髪から発せられる芳しい香り。華奢な体に似合わぬ押し当てられた胸の豊満さ。そして、か細い息遣い。
月夜を傷つけたのが過去ならば、慰められるのは今しかないのではないか。そう、陽太は思った。
「……する、か?」
「こんな状況に何言ってるのよ」
月夜は不平の声を上げる。
しかし、漂ったのは沈黙だった。
「本気、なの……?」
「ああ、本気、みたいだ……。顔が見えないからかな。この歳で童貞処女ってのもあれだしな」
陽太は、そう言って、月夜の顔に自分の顔を寄せる。
月夜も、黙ってそれに従う。
それは、二人の初めてのキスになるだろう。産まれた時から共にあった二人が、初めて唇と唇を重ねる瞬間になるだろう。
その時、電気がついた。
月夜の目が、大きく見開かれているのが見えた。
「やっぱ無理!」
そう言って、陽太は突き飛ばされ、テーブルに後頭部を打った。
「いっつ……お前なあ……」
「あ、大丈夫? 病院行く?」
月夜が、腰を浮かせて近寄ってきている。
「そこまで大事じゃない」
間の抜けた沈黙が場に漂う。
「とりあえず、正座」
陽太の意見に従い、二人は正座で向き合う。
「誘ってきたのはお前だよな?」
「……うん」
月夜はバツが悪そうな表情で頷いた。
「じゃあ、なんで拒否ったんだ?」
「それは……」
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「私の家を避難所代わりに使うのはやめて欲しい」
陽太が訪ねると、智子は心底迷惑げにそういった。
「泊めてほしいって言ったっけ?」
「話の流れでわかるわよ……まあ、入んなさいな」
二人して、智子の部屋の中に入っていく。
「んで、何があったの?」
「言えるような話題じゃない」
智子が目を見開いた。
「もしかして一線、越えちゃった?」
「……未遂まで行った」
智子は深々と溜息を吐く。
「シスコンもそこまで行くと重症だわね」
「お前が言ったんだろ、月夜が傷ついているとかどうとか……」
「けど普通しようとするかね。ちょっと距離を置かせてもらいたいわ」
「傷つくわー」
「で、月夜ちゃんは引いてる? あんたを避けてる?」
「申し訳なさそうにしてる」
智子は、再び溜息を吐いた。
「普通のカップルの痴話喧嘩だわね。ごちそうさまでした」
月夜が自分を拒否した理由を思い出す。
「やっぱり改めてそういうことをするんだと考えると怖くなった」
だそうだった。
問題点はそこらしい。
兄妹の壁なんて、彼女の中には最初から存在していないのかもしれない。
「とりあえず、今回の件が風化するまで泊めてくれや」
「何日……?」
「何ヶ月……?」
「出てけ」
あえなく、陽太は智子の部屋から追い出された。
帰るしかないのだろうか、あの家へ。
(帰るしかないんだろうな……)
そんなことを、陽太は思う。
前々回家を空けた時、月夜は男に襲われかけていた。それぐらい、か弱い子なのだ。
守れるのは、自分しかいなかった。
デザートでも買って帰ろうと思う。少しは話題が弾むように。少しは過去の印象が薄れるように。
こうして、今日もアブノーマルな兄妹は共依存を続けるのだった。
陽太と月夜のアブノーマルな双子モノはシリーズが他にもあります。
気に入ってくださった方は是非そちらも。