微睡み 遭遇 出逢い
波の中をプカプカと漂うかのような、気持ちの良い微睡みの中にいた。覚醒と睡眠の狭間の、少しでも動いてしまえばどちらかに傾いてしまう、そんな危ういバランスの中で、何かの夢を見ていた。
それは、とある日の優しい記憶?それはとある日の悲しかった記憶?
その瞬間は覚えているのに、起きてしまえば忘れてしまう。触れられそうで触れられない、もどかしさを覚える誰しもが経験すること。
それを、無骨な電子音が崩した。目覚まし時計から流れるそれは、なんの変鉄もないアラームで、気持ちよさのただ中にいた少年を現実に引き戻す。
カチリと音をたててアラームを消すと、少年はベッドの中でもぞりと身動ぎした。
あと五分だけ……。
昨日は夜遅くまで海外ドラマを見てしまったので、あと少しだけ惰眠を貪ろう。そんな甘い誘惑に誘われる少年の部屋に、カチリとドアのなる音。
本の少しだけ開いた隙間から、スルリと身を滑らせた影はほんの少しの音をたてると、勢いよく少年のベッドへのし掛かる。
トスリという軽い音をたて、ゴロゴロ喉泣きをしながら足踏みするそれを見やれば、少年の毒気は抜かれてしまう。
ふわふわの長い尻尾をピンと真上に伸ばして、差し伸ばされた手に顔を擦り付けるのは、飼い猫のチビだ。
毎朝この時間に少年を起こしてくるこの猫は、拾われた当初こそ小さいなりだったが、三年ほどたつ今では立派な成猫。体重も二キロほどになる。
最初こそ、手に頭を擦り付けていたが、ものの数秒もすると少年の腕を噛み、指をかじり、髪を引っ張りと起こそうとするかのように少年の睡眠を阻害する。
鬱陶しいと思いきや、案外これも満更ではなく、寧ろ毎日やってくれると有り難みさえ感じるものだ。
二三分の格闘の末、ようやく起きるかと身体を起こせば当のソイツは役割は終えたと言わんばかりか、ベッドの中央に鎮座すると毛繕いを始める。
「おはよう、いつもありがとな」
頭を撫でつつそんなことを言えば、ナーと鳴いて返事をしているような気もする。実際はどうだか知らないが。
とにもかくにも眠気は覚めた。手早く着替えを済ませると、さぁ階下に行って挨拶と朝食と行こう。
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階段を降りている途中から、すでに何か香ばしい香りが鼻腔を擽ってきた。それは空きっ腹に暴力的で、思わず唾が口の中に溢れる。
リビングには新聞を広げてコーヒーを飲む四十代の男性が座っていた。長めの黒髪をワックスで撫で付け?細い眼鏡からは理知的な双眸がキリリと輝く。
ふと、視線に気がついたのか、男は顔をあげて凛々しい顔を朗らかに崩すと、
「おはよう、優斗。ご飯出来てるから早く食べちゃいなさい」
ハスキーな声で告げる。
「おはよう」
挨拶と笑みを返して冷蔵庫に手をかけて、中から牛乳を取り出すと、横合いから、
「おはよう、優くん。チビちゃんが起こしに行ったから、そろそろだと思ったわ~。チビちゃんは寝た?」
ふんわりとした優しげな声と共に、フライパンを振るう女性が笑顔を向けてくる。
「おはよう、彩音さん。今はベッドの上で寝てると思うよ」
こちらも笑みつきで返せば、彩音の微笑みはさらに深くなる。持っていたフライパンを華麗に翻し、卵焼きをちゃちゃっと作るとさらに盛り付け、ご飯と味噌汁を二つ分用意すると、壮年の男性の前と、少年の座るべき場所に置いた。
「チビちゃんが家に来てから大分たつわねぇ~。何時からかしら?優くんを起こしに行くようになったのは?」
「今年で四年目だよ。起こしに来るようになったのは何時だったっけな?結構前からだったよね、成さん?」
二人の話を振られ、新聞から目を話してこちらを見ると、成こと、森野成二郎はは暫し考え、
「俺が記憶してるのは生後一ヶ月越えた辺りからか?確か、避妊手術受けた辺りからじゃなかったか?」
軽く新聞を纏めながら、壮年はコーヒーをとりつつ遠い目をする。
「あの時はまだ、ホントに小さかったな」
キリリとした顔を少し緩めて、そう言うこの男の愛情がこちらまで伝わってくる。
「あら~、もう三年も経つのね~、早いものだわ~。ついこの間まで、優くんも春も中学生、いえ小学生だったのにね~」
フフフッと笑う彩音はエプロンを脱ぎ、そのままリビングを出て階段を上る。いつものように、未だ起きない春を起こしに行くのだろう。
「三年……か。早いものだな。お前が来てもう、七年経つのか」
遠い目をしたまま、男は呟く。それにたいして優斗は椅子に腰かけつつ、
「そうだね、事故からまる七年経つのか。あんまり考えないようにしてたけど、やっぱりまだ少しキツイな」
「無理もないさ、10歳そこらの子供があの惨劇を生き抜いたのだから……。この話は止めよう。母さんのご飯が冷めてしまう」
重たい空気を払うように笑いかけると男はコーヒーカップに口をつけた。
悪いことをしたかなと思う。自分はとある事情から、昔話に花を咲かせることができない。昔の話しようとすると、どうしたって気分が落ち込み、思い出したくないことまで思い出してしまうからだ。そしてそれは、当人だけではなく、この町の人から見ても、決して笑い話で済ませることではないのだ。
「ふぅ~、ようやく起きたわぁ~」
沈みそうになる思考を引き上げたのは、間延びした彩音の声だった。左肩をトントンと叩きながらリビングにはいると、もう二人分の朝食をもってきた。
「いい加減に一人で起きてくれるといいんだけど~」
それに軽く笑いながら味噌汁を飲んでいると、階段からトントンと足音が響いてくると
「おはよー」
制服を着替えながら、ショートカットの少女が眠たそうに顔を見せた。
「おはよう、春」
優斗の言葉に花開くように笑顔を浮かべる、七年前から毎朝顔を会わせる従兄弟、森野春が顔を出した。
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「そろそろ行ってくる」
朝食を食べ終わるや否や、成二郎はスッと立ち上がり際そう言った。時計の針はそろそろ出ないと不味い時間を差している。
慌てて優斗と春は朝食を食べ進めた。
「成さん!」
リビングから出ようとする後ろ姿に優斗は思わず声をかけると、なにかを思い付いたかのように成二郎は立ち止まり、振り替える。
「気を付けてね」
「それはただの挨拶か?それともーーー」
真剣な顔をして訪ねる成二郎に優斗はかぶりを降りつつ、
「大丈夫、今日はなんにも見えないよ。皆平気……」
「そうか、優斗がそう言うなら安心して仕事ができる」
笑顔すら浮かべながら、成二郎は踵を返して家を出ていった。
「今日は皆安心かー、今日の体育は頑張らなくっちゃだねー」
食後の牛乳を飲み干した春は、にっこりと笑いつつそんなことを言った。