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大学

「おはよう、絵莉彩。昨日どうしたの?風邪?」

 唐突に前方から声をかけられた。顔を上げると、斜め前方から絵莉彩を覗き込んでくる顔がある。友人のだった。通路を歩いていて、先に講義室に来ていた絵莉彩の姿に気づいて声をかけてくれたらしい。絵莉彩は首を振った。

「風邪じゃないよ。忌引き。ちょっと身内に不幸があってね」

 え、と相手は驚いたような表情になった。

「そうなの?不幸って、お祖父ちゃんか誰か?」

「違うよ、従姉。ちょっと遠くに住んでるから、二日は休まないと葬儀に出られなくて」

 曖昧に答えると、へえ、と同じくらい曖昧な相槌が返ってきた。

「可哀想。絵莉彩の従姉さんだったらまだ若いんじゃないの?なんの病気だったの?」

「病気じゃないよ、交通事故。車を運転中に近くのブロック塀にぶつかったの」

 うわ、と世黎空は顔をしかめた。

「気の毒に。私も気をつけなきゃ。じゃ、またあとでね」

 そういうと、そそくさと近くの席に腰を下ろす。絵莉彩はそれを見てとって、再び机の上の医学書に目を落とした。通夜が日曜だったおかげで、講義を休んだのは実質一日だけだが、学習量の多い医学部では、一日の遅れが大きな損失になる。一日だからと油断するわけにはいかない。

 そう思って自習に励み、教授が入ってきてからは講義に集中し、昼になって昼食のために校舎一階のカフェテリアに向かうと、ポケットに入れておいたケータイが、電源を入れるとほとんど同時に振動を開始した。驚いて、すかさず通話ボタンを押して耳に当てる。液晶に表示された番号は登録されたものではなかったが、このタイミングで呼び出し音が鳴るからには、今までも何度となく電話してきた人物かもしれない。それなら何か緊急の用件がある人物の可能性もある。いったい誰がかけてきたのだろう。そして、何の用事で電話してきたのだろうか。

「・・はい。どなたですか?」

 絵莉彩は昼食を入れたランチトートを腕に提げたまま、カフェテリアの隅に向かう。周囲の人々の会話の妨げにならないよう小声で話しかけると、同じくらい密やかな声が耳もとに聞こえてきた。

「・・大園さん、ですか?」

 聞き覚えのある声だった。絵莉彩は驚き、昨日の今日でいったい何の用だろうと訝しく思った。

「そうですよ。何かご用ですか?」

 絵莉彩は訊き返した。電話をかけてきたのは松谷仁輝氏だ。昨日、到着した羽田で別れてから会っていない優莉花の夫である。絵莉彩は彼とは友人でもなんでもないが、いちおう親戚の一人ということで、彼が都心に移ってきてからはこうしてたびたび連絡を取り合うようになったのだ。そもそも東京の出身でない松谷氏は、都内にあまり知り合いを持っていない。それで絵莉彩をなにかと頼りにしてくれているのだろう。何事かがあっても、絵莉彩なら地下鉄ですぐに駆けつけてあげることもできる。それが小さな子供を抱えている父親にとっては安心できるのかもしれなかった。

「・・用といいますか、今日、お会いできませんか?」

 唐突な申し出だった。反射的に絵莉彩は頭のなかのスケジュール帳を繰る。

「じつは、折り入って相談したいことがあるんです。・・ああ、いえ、金銭がどうとかいう話ではありません。明花のことなんですが、ちょっと、あの子を診てもらいたくて・・」

 相談と言われて絵莉彩が咄嗟に黙り込んだことで、松谷氏は絵莉彩が金の無心でもされるのではと警戒していると考えたのかもしれなかった。慌てて言い繕うようにそうではないと否定してくる。だが絵莉彩は明花を診てほしいというその言葉のほうによほど驚いてしまった。診てほしいとは只事ではない。それもまだ医師でない、学部一年目の自分に診てほしいと松谷氏は言っているのだ。いったい何があったというのだろう。

「明花ちゃん、どうかしたんですか?」

 言いながら絵莉彩の脳裏には昨日別れた従姉の娘の顔がちらついていた。昨日の時点では明花に特に異常はみられなかった。長旅で疲れたような様子は見せていても元気そうで、具合が悪そうには見えなかったが。

 そう言うと松谷氏は急に黙りこくってしまった。しばらく何かを迷っているのか言葉を探しているように感じられ、絵莉彩が彼の返答を待っていると、じつは、と何かを打ち明けるような響きの言葉を発してくる。

「――じつは、その、・・ああ、やっぱり直接、明花を診に来てもらえませんか?直接、あの子を診てもらえれば、私が何を言いたいのか、大園さんにはお察しいただけるかもしれませんので」

 最後は懇願するような響きを帯びていた。分かりました、と絵莉彩は釈然としないながらも頷いて電話を切る。松谷氏の意図は分からなかったが、明花に異変が起きていると言われれば、なんとなく無視はし辛かった。まあ、行けば分かるかと、絵莉彩はケータイを上着のポケットに戻した。


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