対局
――この子は、ひょっとしてあまり母親と会ったことがないのだろうか。
絵莉彩はふとそんな疑念を抱いた。
目の前では明花が真剣な表情で将棋の盤を睨みつけている。次の手をどうしようと悩んでいるのだろう。先ほど絵莉彩が遊び方を教えたばかりだというのに、仕草だけはもう立派な棋士のようだった。
絵莉彩がいるのは優莉花の亡骸が安置された奥座敷から、少し離れたところにある通称、東座敷と呼ばれる広い座敷だった。この家には洋間というものがない。全ての部屋が狭くても八畳以上あり、この東座敷も二十畳の広さを持つ大きな和室だった。しかも三部屋が続いているから、襖を全て開ければダンスパーティーも可能になる。かつては優莉花の祖母がお茶やお花を教えるのに使っていた部屋だというが、もっとも今ではただ広いだけの和室で、広すぎて手入れも充分に行き届いていないらしい。広くて庭に面していることから、来客がある時だけ大掃除をして客間として活用しているのだと、以前、優莉花に聞いたことがあった。そのため今も、室内の隅、床の間の近くには絵莉彩と明花、明花の父親の荷物が無造作に放り出されている。
「えりいおねえちゃんのばんだよ」
前方から呼びかけられた。どうやら明花の長考はやっと終わったらしい。絵莉彩は弄んでいた疑念をいったん捨て、盤を眺めた。飛車の駒を動かして、明花を見る。
「明花ちゃん、ママがいなくて寂しくないの?」
なんとなくそう訊ねてしまった。まだ僧侶も来ておらず通夜も始まっていない時間から、この部屋で明花と将棋などしている自分に、絵莉彩は違和感を覚えていた。勿論、妙な経緯でこうなっているのではない。奥座敷で明花が退屈そうにしていたから、明花の父が彼女に絵莉彩と遊んでおいでと声をかけたのだ。明花は父親の言葉に嬉々として絵莉彩を遊びに誘い、絵莉彩はそれを受けて明花を東座敷に連れて行って将棋に誘った、それだけのことだ。絵莉彩は子供向けの玩具など持参してきていないが、将棋や囲碁の道具、トランプならこの家にもある。優莉花の部屋に行けば絵本かアニメのビデオくらいあるかと思ったが、そうしたものはいっさいなかった。
そしてそれが、絵莉彩にとっては不可解だった。
明花は絵莉彩の問いかけに頷いた。
「そう。偉いね。明花ちゃんはママがいなくても寂しくないんだ」
明花は再び頷いた。
「さみしくない。だってめいか、ママとあんまりあったことないもん」
絵莉彩は驚愕してしまった。
「・・会った、ことないの?」
明花は再び頷いた。
「じゃあ、明花ちゃんはずっとパパと二人で暮らしてきたの?それで、本当に寂しくなかったの?ママに会いたいって、思わなかった?」
明花は首を振った。
「さみしくない。パパがいるもん」
「パパはママとは違う、とは思わないの?」
「おもわない。だってめいか、パパのほうがすきだもん」
明花は呟いて、盤上に指を這わせた。桂馬の駒を動かし、絵莉彩を見上げてくる。
「えりいおねえちゃんはママのほうがすきなの?」
「好きよ、勿論。明花ちゃんのママとは小さい頃から仲良しだからね」
「えりいおねえちゃんはママとおともだちなの?」
「そうよ、お友達」
正確には従姉妹であり幼馴染みだが、あえてそう答えた。
ふうん、明花は絵莉彩をじっと見つめてきた。
「えりいおねえちゃんはどうしてママとおともだちになったの?」
思いもかけない問いに、絵莉彩は返答に窮した。
「どうしてって・・」
「だってめいか、ママきらいだもん。えりいおねえちゃんはどうしてママがすきなの?」
あまりの衝撃に絵莉彩は言葉を失ってしまった。
明花の言葉は到底五歳の幼児が放つものだとは思えなかった。母親がいない寂しさを紛らわすために放った虚勢とも思えない。今の言葉は彼女の心からのものに聞こえた。自分が思っていることと他人の言葉が一致しないゆえに出てきた疑問のように聞こえる。そして、それなら納得もいった。明花が優莉花になんの愛着も抱いていないのなら、奥座敷でじっと座っていないといけないのはさぞかし苦痛だったことだろう。遊んでくれるなら初対面の絵莉彩にも懐くのかもしれない。優莉花がいると言って絵莉彩を裏庭に連れていったのも、奥座敷には戻りたくないという彼女なりの意思の表れだったのではないか。
――まさか。
ふいに戦慄を感じて絵莉彩は将棋の駒を動かしながら明花の全身をそれとなく観察した。折れそうなくらい細い手足は、しかし病的な感じはしない。肌も白くて清潔に保たれ、擦り傷ひとつ見られなかった。髪も綺麗に梳られ、衣服も清潔そうなものを着ている。少なくとも表面上は、彼女の身体に異常は見られない。
――でもこれは、普通じゃない。
そのはずだ。少なくとも自分の幼少期を思い返すまでもなく、それと分かる。この年頃の子供が、自分の母親になんの愛着も持てず、嫌いと公言するのが普通の状況のはずがない。
――明花ちゃん、まさか、ちゃんと同じ・・?
ふと三年生の時のクラスメイトの顔が脳裏に浮かんだ。柚美ちゃんは小柄で可愛い、無口でおとなしい女の子だった。いつもなにかに怯えたような表情で縮こまっていて、そのせいか彼女と仲良く遊ぶ子はほとんどいなかったが、絵莉彩だけは積極的に声をかけて、一緒によく遊んでいた。当時、クラスの学級委員をしていたというのが大きかったのかもしれない。クラスを纏める責任感を、幼いながらも抱いていたのだ。クラスから友達のいない子をなくそうというのがあの頃の目標だった。それで絵莉彩は柚美を、休み時間が来るたびに遊びに誘い、グループ活動でも積極的に仲間に入れ、放課後や休日も家に呼んだりして遊んだ。親友のつもりだったが、絵莉彩は柚美の身を脅かしていた脅威に、とうとう最後まで気づくことができなかった。柚美ちゃんはある日、下校してそのまま二度と学校には来なかった。殺されたのだ、帰宅してから、他ならぬ両親の手によって。
――気づく機会は、たくさんあったのに。
思い返せばその危険を示唆する兆候はいくらでもあった。柚美ちゃんはいつも身体にたくさんの痣を作っていたし、常に怯えた目をしていた。着ていた服だっていつもどことなく薄汚れていたし、下校の時間が来るのを嫌がっているような気配もあった。そのうちのどれかに自分が不審を抱いていれば、ひょっとしたら柚美ちゃんは助けられたかもしれないと思うと、今でも胸が痛い。
だがあの時の経験があったからこそ、成長して絵莉彩は目の前の子供が危機的状況に置かれてきたか否かを察することができるようになったと思っている。明花が柚美と同じ状況に置かれていたのであれば、今の絵莉彩にはそのことが分かるはずだ。分からなければこれから先、また柚美のような悲惨な事例を作ってしまうかもしれない。絵莉彩は医師を目指しているのだ。医師は柚美のような不幸な子供の存在に、真っ先に気づく可能性の高い職業になる。見つけて救わねばならない立場だ。
しかし改めて観察した明花の身体に、特に目立つ異常はなかった。少なくとも外見は当たり前な様子に見える。今は特に何もなく平穏に暮らしているのだろうか。絵莉彩とて、優莉花が実の娘を虐げていたなどとは思いたくないが、絵莉彩は優莉花が感情の起伏が激しいことをよく知っていた。優莉花と幼い頃から付き合ってきた絵莉彩には、彼女が子供に手を上げる様子も容易くイメージすることができる。
――けどそれなら、もう心配は要らないわよね。
優莉花はもう死んでいるのだ。もし虐待が事実だったとしても、今の明花は直接的な被害は受けていない。ならば、絵莉彩が積極的に心配すべき事柄はないかもしれなかった。明花は父親とは良好な関係のようなのだから、たぶんこれからも大丈夫だろう。気をつけて様子を見ていく必要はあるかもしれないが、とりあえず今のところは彼女に身に差し迫った脅威はないはずだ。
――親の逝去で子供が幸福になれるとしたら、これ以上皮肉なことはないのかもしれないけど。
しばしそんな感傷に身を委ねる。それから絵莉彩は意識を明花との対局に戻した。