亡骸
やっぱり冷たいのね、絵莉彩は優莉花の枕元に腰を下ろしながら、そう思わずにはいられなかった。
奥座敷にある仏間だった。二十畳ほどはある広々とした畳敷きの部屋の、一方の壁際には黒漆に金で装飾された豪奢な仏壇がある。そこを正面に臨む位置に、優莉花は寝かされているのだ。すでに湯灌は済んでいるのか、真新しいパジャマを着せられて穏やかな表情で布団をかけられている。事前に言われていなければ、そしてここが常には誰も休まない仏間でなければ、とうてい亡骸であるとは信じられないほど、優莉花の肌は色艶がよかった。死に化粧を施した人間の腕がよかったのかもしれない。喜ばしいことだが、絵莉彩はなんとなくその腕前に寂しさを感じずにはいられなかった。告別式を前にして故人の顔が生前と全く変わらないというのは切ないものがある。これから訪れる永遠の別れというものが意識しづらかった。それとも、こんなことを考えるのは自分だけなのだろうか。
「――絵莉彩ちゃんが来てくれて、優莉花も喜んでるかしら」
ぽつりと声が聞こえた。顔を上げてそちらに視線を向ける。一人の年老いた女性がこちらに微笑みを向けてきていた。あまりに老け込んだ様子の彼女に一瞬、彼女は誰だろうと怪訝に思い、すぐに他ならぬ優莉花の母親と思い出す。疲れているのだろうか、まだそれほどの年でもないのに優莉花の母親は老女のようにくたびれて見えた。無理もないのかもしれない。本来なら自分が遺して逝くはずだった娘に先立たれればどんな親でも落胆するのが普通だろう。不慮の事故とはいえ、いや不慮の事故だからこそその衝撃は大きいのかもしれなかった。朝には元気でいた人物が、その日の夜にはもうこの世にいない。その事実を認識した時の動揺の大きさは、自分にも容易に理解できる。絵莉彩は前にも似たようなことを経験しているからだ。
――ちゃんもそうだったものね。
茉子ちゃんは絵莉彩がまだ小学校の四年生だった頃の同級生だ。同じクラスの茉子ちゃんは朝は普段どおり登校してきて授業を受けたのに、下校する時に通学路で車に撥ねられて死んだ。事故の現場そのものは帰り道の違う絵莉彩は見ていないものの、あの事故の一報を聞いた時の衝撃は今でも忘れられないものがある。絵莉彩がちょっと仲が良かっただけの同級生の死にそれだけの衝撃を受けたのだ。娘を喪えばその衝撃はどれほどのものか。想像に難くない。
そうですね、と絵莉彩は淡々と相槌を返した。
「喜んでくれていれば、いいんですけど。ここに来るのも、ずいぶん、久しぶりのことですし」
そっけない言い草。自覚はあった。いちど経験があるとはいえ、こういう時の巧い慰めの言葉が、どうも絵莉彩には不得手らしい。何を言っていいかも思いつかず、思ったままを口にすると、穏やかな笑みが返ってきた。
「それは仕方ないわよ。絵莉彩ちゃんはお勉強がたくさんあって大変なのでしょう?当然よね、絵莉彩ちゃんは医学部の学生さん、未来のお医者様ですもの。むしろたくさんお勉強してもらわないと困るわよ。優莉花もそれは分かってるわ」
だからいっそう喜んでくれてるわよ、そう呟いて彼女は優莉花に頬を寄せた。愛しげな表情で死んだ娘の頬を撫でるその様子に、絵莉彩はいたたまれなくなり傍らの明花を抱き寄せる。大きな瞳が、こちらを見上げてきた。
明花は彼女にとってほとんど初対面のはずの自分に、なぜか非常によく懐いてきていた。本来なら彼女が懐くべき優莉花の母ではなく自分に。年が自分の母親に近いからだろうか。よく分からなかったが、深くは考えず絵莉彩は明花を抱き寄せた。この子は、おそらくはまだ人が死ぬことの意味も理解していないだろうこの子は、すでに最大の庇護者を喪ってしまったのだ。そのことが堪らず哀れだった。
「・・優莉花は、心残りが多かったでしょうね。こんなに小さい子を遺して逝かないといけないなんて」
絵莉彩は明花を抱き寄せたまま優莉花の母に告げた。すると優莉花の母は曖昧な表情で首を傾げてくる。
「どうなの、かしら。それだったら、いいのだけれど・・」
「心残りですよ。まだこんなに小さくて、可愛いのに」
「でも優莉花は、あんまり熱心に育児をする子じゃなかったから。ずっとさんに任せっぱなしで」
優莉花の母は目を細めて明花を見た。その表情はあまり祖母が孫に向けるような表情ではなかった。すれ違った他人の子供が可愛くて思わず向けてしまった笑顔にも見える。
「あんまりこの家にも帰さなかった。私も数えるほどしか、孫には会ったことがないのよ」
「それは、優莉花が明花ちゃんの将来を考えてたからじゃないんですか?都会のほうが教育とか、充実してますし」
「それなら、いいんだけどね」
意味深な笑みだった。
「あんまり、そうは見えなかったから。それに、そういうことなら優莉花もここに残ろうとはしなかったと思うし」