優莉花の家に
「お客さん、ご旅行の方ですか?」
絵莉彩が運転手に導かれてタクシーに乗り込むと、大きな旅行鞄を運転手は珍しそうに見やってきた。
「姫塚に旅行客なんて、私もこの仕事して長いですが、初めてお乗せしましたよ」
絵莉彩は苦笑して首を振ってみせた。
「そんな優雅なものじゃないですよ。こちらの親戚を訪ねてきただけです。ちょっと、急な用事があったものですから」
目的地を告げると、運転手はいっそう驚いたような顔をしてきた。
「木之本さんの家ですか?なら、ひょっとしてご弔問の方ですか?松谷優莉花さんの」
絵莉彩は驚いた。タクシーの運転手にその名を言われるとは思っていなかったのだ。
「そうです。よく、ご存知ですね。お知り合いの方ですか?」
いやいや。運転手はハンドルを捌きながら首を振ってきた。
「そんな近しい関係なんかじゃありませんよ。赤の他人です。ただ印象に残っていただけですよ。なにしろ姫塚で交通死亡事故なんて、滅多にあることじゃありませんから。新聞にも載ってましたよ。十三年ぶりの大事件なんです」
ああ、そういうことか。絵莉彩は合点した。なるほど、それは噂にぐらいなるだろう。
絵莉彩がそもそも今日、わざわざ東京から遠大な距離を移動してまでもこの集落を訪れたのは、他でもない従姉である優莉花の葬儀のためだった。今夜が通夜で、明日が告別式になる。三日前の朝に、他ならぬ優莉花の母親から急の電話を受けてそれで初めて優莉花の事故を知らされたのだ。姫塚から東京までは距離がありすぎるのだが、それでも確か、その日の夕方のニュースではテレビも取り上げていた。交通死亡事故というだけならそれほど珍しい事態ではなくても、場所が十三年間、物損事故ひとつ起きていない地域となればニュース素材として価値があるということなのだろう。優莉花の名前は、その死をもって一躍、全国的に知られることになったのだ。
優莉花はこの姫塚集落に暮らし、隣の大森という村の役場に働きに行っている公務員だった。高校を出て進学するでもなく、市街地や県外に働きに出るでもなく、あくまでも近隣に職を求めて自宅から電車で通勤している若者は、この姫塚では彼女くらいしかいないらしい。彼女の夫となった男性も、大森のどこかの会社の営業マンで、この姫塚には若者が全然いないのだ。住んでいる人は皆、どんなに若い人でも四十歳以上という。高齢者ばかりの典型的な過疎集落、というよりほとんど限界集落で、そのなかで貴重な若い女性が不慮の事故で死んだとなれば地元では大きな話題性があるだろう。年に二回、盆と正月に遊びに来ていただけの絵莉彩の存在が未だに覚えられているくらいなのだから。
優莉花は三日前の朝、仕事に行こうと車で家を出たところを運転を誤って近所の家のブロック塀に突っ込んだのだ。少なくともそう、テレビでは報じられていた。スピードを出していたらしく、ほとんど即死に近かったという。あの日、たまたま寝過ごして電車に乗り遅れそうだったので急いでいたのだろうと優莉花の母は言っていた。姫塚駅は電車の本数が少ない。始発が遅く終電が早い。時間帯によっては一時間近く待たされることなど普通で、それで焦っていたのかもしれなかった。姫塚から大森までは車だとかなり迂回しなければならなくなるため、電車のほうが早く着ける。それで優莉花も急いでいたのだろう。優莉花の家は集落でも高いところにあるから、駅までは車でかなり坂を下らないといけない。それでスピードが出過ぎていたのかもしれなかった。慣れた道だけに油断していたのだろう。そうでなければ自分と違い運転に習熟していた彼女が事故なんて考えにくかった。
事故の話をしたからではないだろうが、タクシーの運転手の運転は慎重な感じだった。特に遅いわけではないが、やはり気にしてはいるのかもしれない。絵莉彩は運転手に話しかけるのを止め、窓の外に視線を向けた。車一台がやっと通れるかどうかという狭い道の左右には住宅が立ち並んでいる。店の類いは見かけず、どれも五年前にも見た覚えのある家だ。昔から佇んでいる古びた家屋がほとんどで、最新のデザインハウスのような洒落た家は見当たらない。一見して廃屋と分かる粗末な建物も多かった。その数も五年前より増えている気がする。じきにもっと増えていくだろう。この集落が、集落としての形を保っていられるのは、果たしてあと何年のことなのだろうか。
タクシーは十分ほどで目的地に到着した。絵莉彩は代金を払って車を降り、久しぶりに訪ねてきた従姉の家を見上げる。都心ではもはや滅多に見かけなくなった、重厚な造りの門を見上げた。
優莉花の家は、もともとこの地域一帯に多数の農地を所有する地主だったらしい。そのせいかどうか、家は他のどの家よりも古くて重厚な趣があり、高台にあって広かった。明治だか昭和だかに土地のほとんどを手放したらしいが、それでもこの地域ではいわゆる旧家には違いがない。歴史のある家だが、優莉花はしょっちゅう家の使い勝手の悪さを愚痴っていた。無駄に広くて掃除が大変、設備が古いからしょっちゅう何かが壊れると。都心のマンションでしか暮らしたことのない絵莉彩には家のなかで楽器を弾こうが庭で球技の試合をしようが廊下を走りまわろうが文句を言われない暮らしというのはある意味では羨ましいのだが、ずっとこの家で暮らしていたら絵莉彩とて同じ感想を抱いたかもしれない。
絵莉彩は忌中の札の挙げられた門扉の脇にある、古風な門扉には不釣り合いなほど近代的なインターホンを押した。応対の声は住人のものではなかったが、名前を名乗るとほどなくして門扉が内側から開けられ、なかに招き入れられた。絵莉彩を招き入れてくれたのは高齢の女性だった。顔立ちに見覚えがある。向かいにあるの家のお婆さんだ。優莉花の家とは家族ぐるみの付き合いがある。絵莉彩も小さい頃から顔馴染みだった。
「絵莉彩ちゃん、久しぶりね。見違えちゃったわ。すっかり綺麗な娘さんになって」
「お久しぶりです、山陰さん。あの、優莉花は?」
ああ、と山陰さんは表情を曇らせた。
「奥座敷よ。明花ちゃんも松谷さんも、そこに。今夜からお通夜だからね」
「山陰さんは、手伝いか何かですか?」
そうよ、と山陰さんは大きく頷いた。
「優莉花ちゃんは赤ちゃんの頃から知ってるからね。他人事って気はしないから。最期の時は、家族だけでゆっくり過ごさせてあげるべきだし」
そうですね、と絵莉彩も頷き返した。なんとなく沈鬱な気分を感じながら前庭を歩き、家の玄関まで辿り着く。家というより邸宅といったほうがよさそうな構えの大きな建物だ。他にも幾つか別棟が続いているから、母屋と呼ぶべきなのかもしれない。その大きな家の玄関は、これまた昔ながらの引き戸だった。開けるといかにも古い木造家屋であることを示すような、独特な臭いが流れてくる。
「山木さん、絵莉彩ちゃんが着いたわよ。たったいま」
山陰さんはちょうど上がり框に近い廊下を通りかかった老女に呼びかけた。あらあ、と老女は足を止めて絵莉彩のほうをじっと凝視してくる。
「貴女が絵莉彩ちゃん?まあまあ本当に?ちょっと見ない間にすっかり大きくなっちゃって。このあいだまで公園のアスレチックで遊んでたのにねえ」
それはもうずいぶん昔のことですよ。絵莉彩は苦笑した。
「でも、まだ、覚えていてくれたんですね。なんだか嬉しいです。あの頃はせいぜい一週間くらいしか滞在していなかったのに」
覚えてるわよ。老女ははにかんだように笑った。
「絵莉彩ちゃんみたいな可愛い娘さんが、東京からこんな村に来たら忘れられんさ。よく覚えてるよ」
「有り難うございます。――優莉花も山木さんみたいに喜んでくれたらいいんですけど」
すると老女は途端に神妙な面持ちになった。そうね、と呟く。
「優莉花ちゃんはこっちよ。奥座敷にいるわ。優莉花ちゃんも絵莉彩ちゃんが来たと知ったら、きっと喜んでくれるわよ」