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山谷


 翌日、初めて訪ねた大森の村立図書館は、非常にこぢんまりとした可愛らしい施設だった。

 ――図書館はこの民宿を出て道をまっすぐ行ったところの、県道沿いにある。県道に出たら右折して、ずっとまっすぐ北上すれば村役場の建物が見えてくるから、その隣だよ。分かりやすいから迷うことはないと思う。

 出発前に杉下氏はそのように絵莉彩に教えてくれた。言葉通りたしかに図書館の場所はすぐに分かった。村役場に隣接して建つ平屋建ての小さな建物で、なかに入ってみると今日が日曜だからか意外に人が多かった。閲覧室では性別も年齢も実にさまざまな人々が、思い思いの場所で読書に勤しんでいる。

 絵莉彩はその閲覧室をまっすぐに横切ると、奥のほうに据えられた貸出カウンターのところにいる司書に、十年前の十二月と十一年前の三月にこの県の地元の新聞社が発行した新聞を読みたいと希望した。司書は了承し、絵莉彩はその場でしばし待たされ、やがて書庫から出されたそれらを受け取って閲覧室で開く。まず十年前の十二月十三日の新聞に掲載された、お悔やみ欄を眺めた。探していた人名はすぐに見つかった。確かにこの日のお悔やみ欄に、杉下徳子という名前がある。死亡日は前日、享年は八十二となっていた。住所は姫塚とある。確かに杉下氏の祖母に間違いなかった。

 ――やっぱり間違いなく亡くなってるのね・・。

 絵莉彩は改めて確認したその事実に嘆息した。これで杉下氏の話が事実だと確かに裏づけられた。顔写真も死因も掲載されていないが、これだけの情報があれば、絵莉彩には充分だった。姫塚に杉下という姓を持つ家は、一軒しかないのだから。

 昨夜、絵莉彩は民宿の食堂で杉下氏と話した後、どうしても彼の祖母のことや姫塚駅のこと、姫塚小学校のことなどを確認したくなったのだ。それで杉下氏に図書館の場所を聞くと、彼は丁寧に教えてくれた。杉下氏は絵莉彩が何のために図書館に行きたがったのかも分かったらしい。場所だけでなくいつ頃の新聞を見ればいいかも教えてくれた。自分の祖母が死んだのが十年前の十二月十二日だということ、駅が無人になったのは、その少し後の翌年三月だということを教えてくれたのだ。おかげですんなりと目的の記事を見つけることができた。姫塚駅が無人化したことを報じる記事は、残念ながら翌年三月の新聞からは見つからなかったので、これは報道されなかったのかもしれない。しかし同じ三月でも十一年前の新聞には目指す記事が見つかった。それも一つ二つではない。たった一人の卒業生、という見出しで、優莉花の卒業式の様子や、姫塚小学校の閉校式の様子が、写真付きでいくつも掲載されていた。だいぶ古びて黄ばんでいた新聞紙面には今も、十二歳のあどけない表情をした優莉花が残されている。

 絵莉彩はそれらの記事を熟読していった。確かに姫塚小学校は、この年の、優莉花の卒業をもって廃校になっている。優莉花の卒業で在校生がゼロになり、今後新入生が入ってくる見込みもないためだ。前年の卒業式も、卒業生は一人しかいなかったらしい。この卒業生は高宮桜央里という名前で、優莉花の卒業を報じる記事でもインタビューに答えていた。彼女の名前には絵莉彩も覚えがある。彼女も優莉花の友人の一人だ。この当時は毎日大森の中学校まで電車通学していたらしく、そのことも書いてある。

 ――杉下さんの言っていたことのほうが正しいのなら、私が見たのは、何?

 絵莉彩にはわけが分からなかった。これらの記事は、自分のこれまでの認識を全て根本から覆すものだった。絵莉彩が十数人、少なく見積もっても十人前後はいると思っていた小学校の児童は、優莉花が在学中はいちばん多い時で五人と、数が合わない。ならば絵莉彩は杉下氏の祖母や駅員の時と同様、実際にはいるはずのない人間を、子供の頃にも見ていたことになりはしないか。これはいったいどういうことだろうか。

 ――ホラー小説じゃあるまいし、幽霊がうろついてるってわけでもないでしょうしね・・。

 勿論そんなことがあるはずはない。仮にそんなことが起こり得るとしても、杉下氏の祖母が自分の前に現れる道理がないからだ。現れるとしたらそれこそ孫である杉下悠樹氏の前だろう。ごく幼い頃にほんの数度だけ買い物に来たことがある程度の絵莉彩の前に、なぜ現れなければならないのか。

 ――そりゃあ、高原さんは、姫塚にはお化けが出るとか言って明花を脅かしたみたいだけど。

 しかしあんなのはどうせ彼女の口から出た法螺だろう。友人の子供をお化けで脅かして、反応を楽しんでいただけに違いない。そういえば、ちょうど二年くらい前にホラー映画ばかりが流行った時期があった。そのなかには姫塚のような山間の集落を舞台にした作品もあったのだから、小さい子供を脅かすにはうってつけだったはずだ。

 ――たしか、あれは『死怨』っていう作品だったのよね。

 霊願寺幽冥香という、いかにもそれらしいペンネームを持つ人気ホラー作家の書いた本格ホラー小説が原作だったはずだ。絵莉彩はその映画は見たことないものの、筋は何度も聞いたことがある。当時は同じ高校で、クラスメイトだった愛由夏がよく話していたからだ。主人公が帰省した故郷の山村で怨霊を拾い、どこまでも追ってくるその怨霊から必死で身を守ろうとする・・たしかそんな話だった気がする。

 ――なんか、今の自分みたい。

 漠然とそう思い、絵莉彩は苦笑した。絵莉彩の身辺では優莉花の葬儀から今日まで、これまでの常識を覆すような出来事が続いてきた。だからなんとなくそのせいで、自分がホラーの世界に迷い込んだような気がしているのだろう。

 ――まあ、そんなことは気のせいだって分かってるんだけどね。

 

 どうやらどこかで道を間違えたようだと、絵莉彩は路肩に車を停車してから車内で地図を開いた。フロントガラス越しに周囲に視線を配りながら、地図と対比させて現在地を探していく。しかしなかなか見つからなかった。この辺りは地図を見る上で目印となるような店や学校などの公共施設が少ない。インターネットで検索して表示させた地図では、倍率を最大まで上げても住宅の表札などは表示されないため、ここに来るまでに通ってきた道の形状などから道順を推測するしかなかった。こういう時パソコンがあれば、地図の見たい地点を画像で見て現在地など簡単に分かるのだが、あいにく絵莉彩は今回の旅にパソコンは持ってきていない。いざという時のために姫塚と大森の駅周辺を表示した地図を印刷してきただけだ。行かねばならないところは行く前から分かっていたのだから、そこまで地図の必要性を重視してこなかったのだ。

 とりあえず、ついさっき三叉路を通ったのだからと地図から三叉路を探し、見つけた地点から地図上の道路を指で辿って、おそらく今はここにいるのではないかという地点を見つけ出す。その地点から大森の駅までどのように行けばいいか、地図に鉛筆で線を引いて道順を出してみた。この道順が正しいのなら、まずこの、少しゆるやかにカーブしている道をまっすぐ行って、三つめの角を右折し、それからやたらと曲がりくねった道を進んで二つめの角を左に曲がれば、駅前に直結している県道に出られるはずだ。ずいぶんと難易度の高そうな道だと、絵莉彩は地図を眺めながら唸ってしまう。教習所でも、S字カーブを走る課題だけはいちばん苦手だったのだ。しかし躊躇している暇はない。絵莉彩は徐行とはいえないまでも、できるだけ速度を落として車を発進させた。図書館からの帰り道、道を間違ったせいで余計な時間を使ってしまった。急がなければ電車に乗り遅れてしまう。そうなれば、明日の朝一番の講義に間に合わなくなるのだ。道を間違ったのはそもそも置き忘れた手帳を取りに行くためにいったん民宿に戻ったことがそもそもの原因だった。その後ついでだからと近くの喫茶店で早めの昼食を摂った、それが良くなかったらしい。おそらくその喫茶店を出た後に曲がる道を間違えたのだろう。だから今こんなことになっているのだ。もしもあの時、何も忘れ物などしていなければ、あのまま図書館を出てからはどこにも寄らずに県道を南下して、今頃はとっくに駅に着いて、電車のなかだったかもしれない。それを思えば悔しい気もしたが、今さらそんなことを考えてもどうにもならない。

 慎重にアクセルを踏みながら、絵莉彩は見通しのあまりよくない道を進み、最初の角を曲がった。この道は今までいた道よりも狭く、カーブも多いせいで先はほとんど見通せない。それでもどうにかどこにもぶつかることなく車を走らせていると、ふいに覚えのある風景が目に飛び込んできて反射的にブレーキを踏んでしまった。一瞬後に気づいて、停止した車を路肩に寄せる。そこで改めてブレーキを踏んで、いま自分の前に広がっている道を眺めた。

 ――この道、テレビで見たことある。

 そう、確かに見たことがあった。他ならぬ優莉花の交通死亡事故を報じるニュースのなかで見たのだ。あの時、テレビの画面を通して見た道路の様子と、いま目の前に延びる道路の様子はぴたりと一致している。端々にまで目を凝らしてみれば、すぐ近くの民家のブロック塀の一部が壊れており、その下に枯れた花をくるんだセロファンの包みが置いてあった。あそこが優莉花がぶつかった場所だろう。近所の人間か誰かが、花を供えてくれた痕跡がまだ残っている。

 ――優莉花、こんなところで事故を起こしてたの?

 どうして、と絵莉彩は呆然としてしまった。報道によれば、優莉花は出勤途中に事故を起こしたのではなかったか。通勤でなぜこんなところを通っていたのだろう。優莉花の家は姫塚にある。そして姫塚から大森までなら、車を使うよりも電車のほうがまだ便利だ。実際に姫塚から車で大森に来た絵莉彩にはそれがよく分かる。姫塚から車で大森に出るとなると、山を一つ迂回せねばならなくなるから、所要時間が電車で行く場合の実に数倍はかかるのだ。優莉花は公務員で、村役場に勤めていたのだからなおさら電車のほうが都合よかったはずだろう。大森のほうが姫塚よりもバスの本数は多い。自宅から駅まで歩いていき、駅で始発の電車に乗って大森に着いてからはバスに乗り換えて村役場前で降りるのが時間的にも早く着いたはずだ。しかもここは村役場とは反対の方角にあり、個人の住宅しかない場所である。姫塚の者が大森に行くのに通勤で通るとは思えない道で、電車に乗り遅れたから車を急がせていたにしては事故が起きた時間が早すぎた。絵莉彩は葬儀の翌日に駅で見た時刻表を思い出してみる。優莉花が始発の電車に乗り遅れたのなら、七時半にはまだ姫塚にいただろう。しかし事故が起きたのは、報道によれば七時四十分頃、僅か十分でここまで来るなんて不可能だ。それは断言できる。つまり優莉花は電車に乗り遅れたから慌てて車を走らせていたのではなく、何か目的があってあの日ここに来ていたのだろう。そしてその途中でか帰りなのかは知らないが、その際に事故を起こしたのだ。

 絵莉彩は車のエンジンを切って運転席から出た。窓を隔てずに周りを見渡すと、本当にここがなんてことのない古い住宅街だと分かる。昔ながらの瓦葺きの日本家屋が、ブロック塀や板塀に守られて点在していた。ここを訪ねる用があるとしたら、この辺りに居住している誰かの家を訪ねるためとしか思えない。道は緩やかな下り坂になっており、住宅地の奥のほうは山になっていた。地図で見る限り店などはなく、大森で公共施設といえば全て県道沿いに集中している。優莉花が絵莉彩のように道を間違って迷い込むようなことをするとは思えないから、やはり優莉花は誰かを訪ねるためにここに来ていたのだろう。そしてそのまま村役場に出勤しようとして事故に遭ったのではないか、という気がした。普通、他人を訪ねる時間ではないように思うから、前日から泊まっていたのかもしれない。だとしたら誰か親しい友人がこの辺りに住んでいたのだろうか。絵莉彩は葬儀の日に訪ねてきた高原恵瑠奈を知らなかったから、優莉花が誰を訪ねていたとしても驚かないが。

 ――誰を訪ねて来ていたのかしらね。

 ひょっとしたらこの花束を供えたのもその誰かかもしれない。そう思うと、絵莉彩はその、自分の知らない優莉花の交際に思いを馳せた。せっかくだから、帰る前に自分もここに花を供えていこうか。この集落に花屋はあっただろうか、あったとして今から買いに行って間に合うかと考えていると、すぐ近くから声をかけられた。

「――あんたさん、どうしたね?どこかのお宅を訪ねてきたんか?道に迷ったんかね?」

 その声に驚いて振り返ると、犬を連れた老人が足を止めて絵莉彩を見ていた。近所の住人が、散歩をしているのだろう。絵莉彩は老人に首を振ってみせた。

「そういうわけではありません。私は、あの、ここで亡くなった人の親戚なので・・」

 絵莉彩は壊れたブロック塀のほうに視線を投げた。

「帰る前に、ちょっとこの場所を見ておこうと思っただけです。ご迷惑ですか?では、すぐに車を動かしますので」

 絵莉彩は言いながら運転席に戻ろうと踵を返しかけたが、老人はそんなことはないと言うように顔の前で片手を振ってきた。

「迷惑なんてことないさ。あの事故は俺にも衝撃的だったからね。べつに事故の現場を直接見たわけじゃねえんだが、やっぱり自分が会った人がそのすぐ後にあっさり死んでしまうのは堪えるよ。この年になると特にね。ましてや、ああいう若いお嬢さんだとさ」

「優莉花をご存じなんですか?」

 絵莉彩は思わず訊き返してしまった。老人は、ああ、となんでもないことのように頷いてくる。

「事故の直前に、うちに来たからね。訊かれたんだよ、に行くにはどうすればいいかってね。俺はずいぶん昔に林業に携わってたことがあったから、どっかで聞き及んだんだろうな。わざわざ訊ねに来たんだよ。いったいなんの用があるのか知らねえが、行くんなら姫塚から廻り込めって教えてやったら、礼を言って帰っていった。そんで、それっきりだ」

「山谷?行くってことはそれはどこかの地名ですか?それはどこですか?」

 絵莉彩は首を傾げた。そんな地名には覚えがなかった。

「ん?ああ、山谷ってのは、あの山の向こうの地名だよ」

 老人は自分の背後に聳える山を指差した。

「あの山の向こうに山谷って集落があったんだよ。昔のことだがね。今はもうないが。そこに行く道を訊かれたんだ」

 絵莉彩はその言葉に老人の指を追って山を見上げた。視線の先には、秋らしい色に染まった山が聳えている。

「昔はあった集落、ですか?」

「そうだよ。ま、ありがちな過疎ってやつだ。人がどんどん減っていって、廃村になったんだよ。最後のもんが死んだのは、もう何十年前だったかなあ。ちっと忘れちまったが、ま、それぐらい昔のことだね。俺の親父が子供の頃はまだ林業でそれなりに栄えてたらしいんだが」

「では、今はもう何もないんでしょうか?」

「だと思うよ。少なくともこっちから山谷に行く道はもう完全に自然に呑まれちまってる。行くとなったら鉈かなんかを持っていって、藪を掻き分けるようにしなきゃならねえだろうなあ。少なくとも車じゃ無理だ。歩きでも、山に慣れんもんは行くのはよしたほうがいい。どうしてもっていうなら、姫塚のほうに行ってみることだな。あっちの林道なら、こっちよりはまだましかもしれん」

「どうしてですか?」

 絵莉彩は疑問を感じた。どうして姫塚のほうが大森よりも道がましなのだろう。普通に考えれば道でもなんでも、姫塚の設備のほうが大森のそれよりも優良なはずがない。

「どうしてって、そりゃあ、なんといったって姫塚のほうが山谷に依存してたからだろう。あそこはもともと山谷の人間が切り出してくる木材を加工して売ることで成り立ってたんだ。昔は木工所や製材所ばかりが建ち並んでた。俺のいちばん上の姉貴が姫塚の材木商に嫁いでたがね、道路より林道のほうが立派だとか言ってたよ。だからその林道なら、まだ通れるかもしれねえと思っただけだ。分かんねえけどな。俺も姉貴が死んでからは姫塚には行ったことがねえし」

 老人は溜息をついた。絵莉彩はさらに訊ねてみた。

「その林道は、姫塚のいったいどのへんにあるのでしょう?」

「さてな。神社の近くだとは聞いたことがあったが、それ以上は知らんな」

 なにしろ俺は姫塚には詳しくねえし、と呟く。絵莉彩は考え込んだ。

「・・優莉花は、なんのためにそんな集落に行きたがったのか、言ってましたか?」

 うーん、と今度は老人のほうが考え込んできた。

「それは聞いてねえな。けどもどうあっても行かないといけないんだ、みたいなことは言ってたな。そうじゃないと自分はいつまでも娘のとこに行けないんだとか、よく分かんねえが、なんか切実な理由があったんだろうなあ」

 山谷に行かないと娘のところに行けない。どういうことかと思わず絵莉彩は老人を見てしまった。しかしこの老人は、それ以上詳しいことは知らないらしい。もともと優莉花とは他人同士だろうから、無理もないことではあるのだろうが。

「――山谷が廃村になったのは、もう数十年も前のことなのですか?」

 絵莉彩はなんとなく話題を変えてみた。老人は頷いてくる。

「そうだよ。正確にいつだったかはちょっと覚えてねえな。けど最近のことじゃねえのは確かだよ。最後に山谷に関する話を聞いたのは、俺が小学校の頃だ。俺の同級だった子が家で親と死んで、まあ無理心中ってやつだな。それが最後だ。それ以降全然話を聞かなくなって、中学の頃だったかな、それぐらいに初めて聞いたんだよ。その子の家が山谷の最後の住人だったんだって、いやあ、あん時は驚いたな」

 絵莉彩は老人の顔を見つめた。遠い昔を思い返すような目をしている老人の年齢は、絵莉彩の目には七十代の半ばくらいに見える。その推測が正しいのであれば、山谷が消滅したのはもう六十年以上も昔のことだ。戦前ではないにしても、絵莉彩にとっては日本史の教科書で習うべき年代のことである。そんな昔に滅んだ集落を、優莉花は訪ねようとしていたのか。いったい何のためだろう。そこに行かないと娘のところに行けない、と口にしていたということは、おそらく村役場の業務で必要が生じたから行くのではない。何か、優莉花にとって個人的な用があって赴こうとしていたのだ。その用とはいったい何だろう。そこに行かないと娘のところに行けない、ということは、優莉花は山谷で何か厄介事を抱えていたのだろうか。それがあったから、明花ちゃんは優莉花と離れて松谷氏と都心に行ったのか。だとするなら、優莉花にとってその厄介事というのは、家族が一緒に暮らせないほどの重大な問題だった、ということになる。

 それはいったいどういうことだろう。絵莉彩は首を傾げてしまった。六十年以上も前に滅んだ集落に、そこまでせねばならないどんな問題が生じえるというのか。絵莉彩には皆目見当もつかなかった。


 案の定というべきか、優莉花の両親は帰宅してはいなかった。

 絵莉彩は落胆して、床に落ちた手紙を拾い上げた。この手紙は、昨日自分がここを去った時に玄関の引き戸に挟ませておいたものだ。伯母夫婦がもしも帰ってきたら、必ず気づくように絵莉彩は伯母夫婦宛ての手紙を、あえてポストとかには入れずに玄関の引き戸に挟ませておいた。それが、今日もまだそのまま、こうして絵莉彩を迎えてくれたということは、この家は昨日から今までの間に、誰の帰宅も受け入れていないということになる。

 ――いったいどこに行ってしまったの?

 あるいは本当にもう生きてはいないのか。次第に諦めの気持ちが強くなってくるが、絵莉彩はとりあえずその気持ちは押し殺し、昨日と同様再び家に上がり込んだ。昨日訪れた時と全く変わったところのない廊下を歩いて優莉花の部屋に向かう。通夜の日から時が止まったような部屋に、足を踏み入れた。

 もはや明日の講義が欠席になるのは覚悟していた。腕時計の針が指す時刻はもう午後の二時を過ぎている。この時間になってまだ姫塚にいるようでは、たとえ今すぐ車を出したとしても、もはや今日の羽田行きの最終便には間に合わない。したがって今夜もまた、この地で過ごすより他なかった。果たして自分の行為にそこまでする価値があるのかどうか、それは絵莉彩にも疑問だったが、それでも絵莉彩は、この地に残りたいと思ったのだ。絵莉彩はどうしても優莉花の行動の意味を知りたかった。優莉花にとって山谷に行くことにどんな意味があったのか、それを知ることができれば優莉花がこの地に留まり続けていた意味も分かるかもしれないと思ったのだ。

 ――だって、普通なら優莉花は村役場を退職してでも、明花ちゃんと一緒に行きそうな気がするんだもの。

 それが自然ではないか。今までは特に疑問を感じたことはなかったが、しかし、よく考えてみれば優莉花の暮らしはかなり奇妙なことだ。五歳の子供がいる若い夫婦が、特に夫婦仲が悪くなったわけでもないのに別居して、母親のほうが子供を手放して遠く離れた都会に移させるなんて、あまりありそうにない。明花の教育環境の充実を図るため、松谷氏の転勤を優莉花が好機と考えたのなら、単にそれだけのことであったのなら、優莉花は村役場を退職して一緒に都心に行くだろう。優莉花はそんなに地元愛の強い人物には見えなかったし、絵莉彩の目には優莉花は都会への憧れの強い女性に見えていた。なにより明花はまだ、普通の母親なら離れがたいと思う年頃ではないのか。今まで絵莉彩は、明花がママは嫌いと発言したことから虐待を疑ってきたが、明花が優莉花を嫌いなのは、虐待ではなくそんな問題も起こりえないほどに接触がなかったからだとも考えられるはずだ。だとしたらそれはなぜか。絵莉彩にはその原因が、老人の語ってくれた山谷でのことにあるのではという直感を捨てられずにいた。ならばそれを知りたいと思う。そしてそれを明花に教えてあげたかった。ひょっとしたら自分がそれをしないことで、明花は今後ずっと、自分は母に捨てられたように思って生きてしまうかもしれない。

 そんなことはあってはならなかった。優莉花が明花と離れていたことに、何か特殊な事情があったのであれば、絵莉彩は明花にそれを伝えてあげねばならない。そうでなければ優莉花が哀れだ。子供にとっても、母子関係が断裂したままでいることほどの悲劇はないだろう。

 優莉花の部屋に入ると、いつもタイムスリップしたような気分になる。古風な造作の他の部屋と違って、この部屋だけは畳の上に絨毯を敷いて、強引に洋室にしてあるからかもしれない。絨毯の上にはベッドとドレッサー、クローゼットが置かれ、机の上にはパソコンも載っていた。絵莉彩にはよく分からない、外国の歌手のポスターが貼られた下にはテレビとステレオもあって、本棚には本ではなくてCDやDVDのソフトがいっぱいに入っている。襖を隔てて江戸時代と現代ぐらい時代が離れているように感じたこともあった。絵莉彩は部屋に入る時、室内に向かってなんとなく頭を下げて優莉花に詫びた。従姉とはいえ、彼女の部屋に一人で入ることなど、優莉花の生前はなかったからだ。ましてや今は、招かれたわけでもない。

 絵莉彩は室内に足を踏み入れると、まずパソコンの電源を入れてみた。電源ランプが灯り、画面が動き出す。まだ電気は止まっていないらしい。思わず安堵の息を吐いてしまった。姫塚に住んでいるからか、優莉花は携帯電話を持っていなかった。それならパソコンのなかがいちばん、優莉花の私生活の情報が詰まっているはずだ。

 画面にアイコンが並ぶと、絵莉彩はまずインターネットに繋いで履歴を確認した。登録してあるサイトや、メールの送受信歴も見てみる。しかしパソコンのなかには山谷との関わりを窺わせるようなものは何もなかった。登録されているサイトはほとんどがショッピング関係のものかゲーム関係のもので、個人のブログなどもあまり見ていた形跡はない。メールのほうも同様だった。友人知人とのやり取りも電話が多かったのだろう。受信していたメールは多くなかった。受信してもすぐに削除していたのだとしたら、さほど重要なやり取りはしていなかったのかもしれない。残っていたメールは僅かに三通だけ。いずれもショッピングサイトからの広告メールだった。ネットの接続を切って、ライブラリのドキュメントやピクチャを開いてみても同じだった。優莉花はワードもエクセルも、ほとんど使わなかったようで、ファイルがぜんぜん保存されていない。書きかけの論文やらレポートやら、その他さまざまな文書ファイルでいっぱいになっている自分のパソコンとは対照的だった。優莉花にとってパソコンとは単なるインターネット使用機械にすぎなかったのだろう。絵莉彩はパソコンに何も情報が残されていないようだと知ると、電源を落として机の引き出しを開けてみる。開けた瞬間、今度は目を瞠ってしまった。

 ――優莉花って、破魔矢のマニアだったかしら。

 引き出しのなかにあったものは、大量の破魔矢だった。絵莉彩が初詣の時などに、神社で購入するあれと同じものに見える。買ったばかりらしく、まだパッケージに覆われたまま新品同様の光沢を放っていた。買ったのはやはり優莉花だろうか。どうしてこの季節に、これほど大量の破魔矢を必要としたのだろう。しかもそれを、飾りもしないで引き出しにしまいこんでいたのはいったい、どういうわけか。

 怪訝に思ってその破魔矢を手に取ってみようとした。すると大量の破魔矢に埋もれるようにして、一冊のノートが眠っているのが視界に入る。ノートのほうは新品ではない。どことなく古びて、表紙など僅かに薄汚れていた。手に取らなくても表紙の端が僅かに捲れているのが分かる。何度も手に取られ、開かれてきたノートに違いない。絵莉彩はそのノートを手に取ってみた。

 ノートはスクラップブックとして使われていたようだった。表紙を開くと、新聞記事や本のページをコピーしたものと思しき紙が何枚も、セロテープで貼りつけてある。白紙のままのページはなく、どのページにもコピーが貼られ、ページによっては二重三重に重ねて貼り付けられていたから、それらが嵩張ってノート自体がかなりの厚みを持っていた。

 絵莉彩はそれらのコピーを読んでいった。最初のページに貼り付けられているのは新聞記事のコピーだった。ずいぶん古い記事らしい。昭和の年号が見える。見出しを読むとどうやら殺人事件を報じる記事のようだった。八歳の女の子とその母親が自宅で殺され、同じ家のなかでは女の子の父親が縊死していたらしい。いわゆる無理心中というケースで、住所を見ると山谷と書いてあった。その単語に老人の言葉を思い出してしまう。絵莉彩の推測は正しかったようで、記事のなかに山谷集落消滅の文字があったから、おそらくこの女の子が、あの老人の同級生だった子供なのかもしれない。

 他のコピーにも目を通してみた。山谷の文字が出てくるコピーはこの一枚だけのようだった。次のページに貼り付けられていたのは郷土史の本のページをコピーしたもののようで、この姫塚集落に伝わる民話が書かれている。その昔、この地方一帯が大地震に遭った時、ここを治める豪族の姫が天の神の怒りを鎮めるために自ら天に嫁いだらしい。その彼女を神として祀った場所が姫塚神社なのだとあった。要するに人身御供の話である。神として祀ったということは、早い話あそこがその姫の墓所だったのかもしれない。

 ――優莉花はどうしてこんなコピーを集めていたのかしら。

 絵莉彩は貼り付けられたコピーを順繰りに眺めながら首を傾げた。どういう基準で集められたコピーなのか、絵莉彩には全く分からなかった。最初は姫塚に関するものを集めているのか、山谷の記事はいわばおまけとして添付しただけなのかと思ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。民話のコピーの次は女子高生の失踪事件を報じる記事だったが、姫塚ではないどこか別の街のものだった。その記事はネットのサイトを印刷したものと一緒に貼りつけてある。紙の下のほうにアドレスと日付が印字されていた。一昨年のものだった。誰かのブログのページであったらしく、花火の写真に、他愛もない感想文が併記されている。

どこかの花火大会に行った感想を記したブログらしい。その花火大会も姫塚で開かれたものではなかった。大森のイベントでもないようだ。これらの記事はなぜ保存してあるのだろう。他にも、明らかに姫塚とはなんの関係もなさそうなコピーは多かった。

 ――けど、失踪とか事故とかの記事がいちばん多いのね。

 ノートの最後まで見た絵莉彩にはそういう印象があった。全てではないものの、そういう印象が強くある。ノートに貼り付けられたコピーは圧倒的に新聞記事のコピーが多い。それも社会面に載せられているような、失踪や交通事故などの事故や事件を扱ったものがほとんどだった。

 ――優莉花は何か、これらの記事の人々に気になることでもあったのかしら。

 考えたが答えは出なかった。


 ――この向こうが、山谷の集落だったのね・・。

 絵莉彩は姫塚神社の鳥居前で車を停めると、その先に延びている石敷きの小道を見やった。

 道はお世辞にも整備されているとはいえなかった。もっともこの先に続いているのが何十年も前に消えた集落なら、こうして一見しただけで道と分かるものがまだ残っているだけでも奇跡に近いのかもしれない。石と石の隙間からは雑草が生えていたし、石の表面は苔に覆われ、端のほうはすでに自然に同化しているようにも見えたけれど、無理をすればまだ車でも通れるのではないかと思えるほど、道は道として成り立っているように見えた。もっともこの道が今も山谷まで続いているという保証はない。数十年という年月が経つうちに倒木や落石が道を塞いでいる可能性もある。九州は特に台風が毎年のように来るのだから充分にありえる話だろう。それでもこの道を進んでみるべきか、絵莉彩は判断に迷った。中学生の頃、肝試し感覚で夜中にこっそりこの奥に歩いていこうとして、優莉花に見つかってひっぱたかれたことはまだ覚えている。優莉花の怒りは当然だと、今の絵莉彩にはよく分かっていた。この道の状態を思えば、先がどうなっているのかは容易に想像できる。夜中に不用意に足を踏み入れれば、間違いなく遭難するだろう。

 それで決心がつかず、絵莉彩は運転席で腕時計と睨み合いながら逡巡していた。もしもこの向こうに行くつもりなら、明るいうちに行って明るいうちに戻ってこなければならない。暗くなって道を見失えば、今の絵莉彩にはあの時の優莉花のように捜しに来てくれる者はいないのだ。遭難しても、助けは期待できない。ケータイを持っていったところで無駄だろう。いちおうはまだ人家のある姫塚ですら電波の入りがよくないのに、山谷でなどまず通じないはずだ。

 ――いちおう、地図はあるけど・・。

 絵莉彩は助手席からあのノートを取り上げた。無断で持ってくるような真似をするのは良心が咎めたが、後で返すから今日だけは許してもらおうと自分に言い訳をして持ってきたのだ。もしも山谷に行くとしたらこのノートは必需品になる。絵莉彩はノートをめくってみた。中ほどのページには古い地図のコピーが貼りつけられている。その地図では、姫塚から林道を進んだ山のなかに山谷の記載があった。まだ山谷が集落としての形を保っていた頃の地図だから、ひょっとしたら発行されたのは戦前かもしれない。現代の地図のような細やかさはないが、主だった地域の位置とそこに至るための道順は明瞭に判読できた。山谷の集落はこの林道からだと、ちょうど山林を一つ迂回する形になる。優莉花の家や大森の集落からだと山を一つ隔てた向こう側だ。地図の縮尺と姫塚の実際の面積から林道の長さを推測すると、車であれば三十分もかからないことが分かる。勿論林道が車で通れればの話だが。

 その事実に気づき、そのくらいの時間ならいちおう行けるところまでは行ってみるかと絵莉彩はエンジンを始動させた。アクセルを踏んで林道に乗り入れかけ、そしてすぐにブレーキを踏みしめた。

 ――誰かいる。

 すかさずエンジンを切って絵莉彩は車外に飛び出た。今でもこの林道を使っている人間がいるのならば、その人物から山谷に関する話を聞いたほうが早いと思ったのだ。林道に向けて歩きにくい地面を駆ける。しかしすぐに足は止まってしまった。さっきは確かに前方に見えたはずの人影が、全く見えない。

 気のせいだろうか。絵莉彩は前方に視線を凝らしてみたが、どれほど遠くに視線を投げてみても、もはや誰の姿も見て取ることができなかった。遠ざかっていく足音などが聞こえてくることもない。辺りは静まりかえっている。

 ――変ね。確かに見たと思ったのに。

 怪訝に思った。しかし誰もいないものは仕方がない。諦めて車に戻ろうと踵を返し、そこで反射的に悲鳴をあげてしまった。今度は車に向かって走った。

 ――そんな。こんなところで車泥棒なんて勘弁してよ!

 絵莉彩のすぐ目の前では、見知らぬ誰かが勝手に車に乗り込んでいた。運転席でハンドルを握り、今にも発進させようとしている。車外に出る時にドアをロックしたかどうか、絵莉彩には明確な記憶がなかった。乗り込んでいる誰かがいるのだから、おそらくロックはしていなかったのだろう。エンジンは切ってキーは抜いたのだから、そんなにすぐには車を動かせないはずだが、それにしてもこんなところで盗まれるとは。いま車を盗まれると非常に困ったことになる。なにもこの車がレンタカーであるというだけではない。助手席のハンドバッグには貴重品の全てが入っているのだ。それを盗まれればいったいどうやって家に帰ったらいいというのか。

 絵莉彩は喉が痛むほどの大声で泥棒を罵りながら、運転席のドアに飛びついた。ドアを引き開けようと力を込めたが、内側から鍵をかけられたらしくびくともしない。焦って窓を乱打し、大声で怒声を上げてみたが、なんの反応もなかった。そうしているうちに手に握ったままのキーでドアを開ければいいのだと思いつき、キーを鍵穴に差し込もうとした時に辺りに騒々しいエンジン音が響き渡る。車が動き出す気配が左手の掌の下から伝わってきて、焦りはピークに達した。どうにかして泥棒の行く手を遮らねばと必死だった絵莉彩の頭は、混乱して身の危険も正しく認識できなかった。泥棒の進路を遮るために車の前に飛び出し、そしてそれと同時に激しい衝撃を感じた。

 絵莉彩の身体は宙に浮いた。

 怖い、とか、恐ろしい、とか、そういう感覚はなかった。次に感じたのは強烈な痛みと地面の冷たさで、すぐに何かが迫ってくるのが視界の端に入っていた。

 それが何なのか、絵莉彩に知る時間はなかった。


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