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杉下悠樹


 まあ、とりあえず捜索願は受理しましたからと、じつに気のない返事を返されて絵莉彩は不承不承ながらも警察署を後にした。あの調子では、警察が本気で探してくれるかどうか怪しいと思ってしまう。

 絵莉彩は優莉花の家を出ると、門前に停めたままのレンタカーに乗り込んでいったん姫塚駅に急いだ。そこの待合室で、この集落に唯一の公衆電話の受話器を取り東京の自宅に電話をかけ、母に状況を説明する。母は自分の姉の行方が分からないという事実に絶句したようだった。絵莉彩はこれから自分が大森に戻って捜索願を出すと伝えると、再びレンタカーに乗り込んで大森に向かう。普段、地下鉄とバスが足代わりの絵莉彩はほとんど運転などしないから、ハンドルを握るだけで身が締まるほどの緊張を覚えたが、今日だけはどうにもならないので大森の店で車を借りたのだ。いちいち駅の公衆電話でタクシーを呼んでたら、面倒なだけでなく費用がかかりすぎてしまう。

 それで標識と速度計と、前方の景色を絶えず交互に睨みながら、絵莉彩は土地勘のない道を大森に向けて走っていた。田舎だけに対向車や歩行者がほとんどいなかったのは幸いだったが、三十分以上も慣れない緊張感に曝され続けていたせいで、警察署の駐車場に車を入れた時には疲れ果ててしまった。

 ――優莉花、いつもこんなことして通勤してたんだなあ。

 ぐったりとハンドルを抱き込むように伏せたまま、絵莉彩は今更ながら従姉の日常がすごいと感嘆してしまう。自分にはとてもできないと思ってしまった。それとも、慣れればそうでもないのだろうか。

 溜息をついて、しばらくそのまま運転席で目を閉じて休息をとる。それから絵莉彩は車外に出て警察署で捜索願を出した。しかし、その時の応対はひどくそっけないものだった。応対に出た警官は口を開くなりまたですか、と言ってきたのだ。

 またとはどういうことかと絵莉彩は警官を問い質した。伯母夫婦の行方が分からなくなったことなど、かつて一度もなかったことのはずだと抗議したのだが、そういう意味ではないと警官は返してきた。姫塚は最近、遭難や家出、失踪などの訴えが多いのだという。それで思わずまたかと本音が出てしまったらしい。多いといっても十数件のことで、そのなかには紅恋羽のような明らかに自発的な家出と思われるケースも多いことからあまり問題にもならなかったらしかった。しかもそのいずれもが、後になって見つかったからもう大丈夫だと、捜索願を自ら取り下げに来ているらしい。警官は絵莉彩が訊いてもいないのにそんなことまで話してきた。暗に自分たちでもっとよく捜せと主張したいのだろう。確かに、これまでそうやって無事に見つかった人々しか見ていなければ、警官としてもそう言いたくなるのかもしれない。絵莉彩は懸命に伯母夫婦の家の様子を伝え、自発的な家出の可能性は低いことを強調したが、警官は眉を顰めてとりあえず捜索願は受理しましたから、後で巡回の者が付近を捜してみると思いますと言っただけだった。あまりにも事務的な対応に、ひょっとしたらこの警官は伯母夫婦がどこか近くの山でもう自殺していると考えているのではないかと勘繰ってしまう。だから二人も人間が消えて、これほどにも事務的になれるのだと。

 腹立たしく思ったが、絵莉彩が逆の立場だったとして同じように振る舞わないということは言えないのだと自分でもよく分かっていた。自分が警官の立場なら、あの家の状況にはまず自殺を疑う。実際絵莉彩自身、自死した遺体を見つけていないだけで伯母夫婦はどこか近くの山で縊死しているのではないかという疑いを、今も捨てていない。そしてそれなら、警官とて急ぐ気にはなれないだろう。登山客が山で道に迷ったのとはわけが違う、自殺するために山に入ったのなら、二週間も経った今、まず生きてはいない。

 それを思うと暗澹たる気分になり、絵莉彩は車に乗り込むやいなや、溜息をついてエンジンを始動させた。なんとか気持ちを切り替えてハンドルを握り、運転に集中する。もう外は薄暗くなり始めている。夕方以降に運転するのは教習所以来だ。一人で運転するのは初めてのことになるのだからより緊張して全神経を集中させねばならない。そうしないと、今夜の宿泊予定の大森の民宿に、生きて到着できなくなるかもしれない。

 それでも信号で停車するたびに絵莉彩の脳裏には伯母夫婦のことが過ぎっていった。大学のことを考えれば、明日の昼過ぎまでには帰りの電車に乗らなければならない。車はその日まで借りる契約をしているから、どうせなら直前まで借りておいて、少しでも伯母夫婦を捜す努力をしてみようか。

 だがそんなふうにして信号停車のたびに運転以外のことを考えていたのが仇となったようだと、絵莉彩はしばらくしてから悟ることになった。全く見覚えのない風景が視界の端を流れていき、どうやらどこかで曲がる道を間違えたようだとようやく気づく。慌てて路肩に停車すると出発前に自宅のパソコンで印刷してきた姫塚と大森の地図を取り出した。近くの電柱に付けられた住所表示と、これまでに通過してきた道路の様子から現在地を割り出し、正しい道順をサインペンで書き留めておく。目印となる建物を記憶すると、再びアクセルを踏んだ。ヘッドライトを点けて昼間以上に周囲に意識を配りながら慎重に運転していく。

 ――次の信号を左で、そうしたらまっすぐ、二つ先の交差点を右に、それから・・。

 頭のなかで地図を辿りながら慎重にハンドルを動かしていく。陽が落ちてから慣れない道を運転するのは思った以上に怖かった。大森は姫塚よりも建物の数が多くて広いため、多くの人々が暮らしている。そのため交差点を曲がる時など、塀沿いの死角から唐突に歩行者が現れたりしてひやりとすることも多かった。それでもどうにか無事に事故など起こすことなく、予約しておいた民宿に到着することができると、絵莉彩はほっとして胸を撫で下ろした。

 民宿は少し大きめの民家のような体裁だった。玄関など、看板が出ていなければチャイムも鳴らさずに戸を開けるのが躊躇われるほど、普通の住宅と大差ない造作をしている。絵莉彩は手帳に記したメモと看板を何度も見比べ、確かにここで間違いないことを確認してから引き戸を開けて玄関に入った。

 なかは意外と広かった。すりガラスの引き戸の内側は板張りの部屋で、広さは六畳ほどはある。そこがホテルのフロントのような感じになっていて、奥にカウンターがあった。そこに五十代くらいの中年の女性が一人だけ控えていて、彼女は絵莉彩の顔を見るなり御予約の方ですか、と訊ねてくる。絵莉彩がそれに頷くと、女性はにこやかに微笑んで、深々と頭を下げてきた。

「お待ちいたしておりました。御予約有り難うございます。大園絵莉彩さまですよね?承っております。本日はようこそおいでくださいました」

 女性は歓迎の言葉を述べると、絵莉彩に宿帳を開いて記入を促してきた。絵莉彩は彼女の言葉に少なからず驚いてしまった。名乗りもしないうちから客が誰だか分かるなんて。それほど一日当たりの客数が少ないのだろうか。それとも客数はそれなりにあるけど、女性客が少ないということだろうか。

 驚きながらも絵莉彩が宿帳への記入を終えると、女性は絵莉彩に客室の鍵を渡してきた。番号札のついた、普通の住宅やアパートなどでよく使われているような金属の刻みのついた鍵で、絵莉彩に渡された鍵には3と書かれた番号札が付いていた。三号室の部屋、という意味だろうか。それとも自分が本日三人目の客なのか。どちらだろうと思ったが、どちらでもありえるかもしれない。そもそもこのくらいの大きさの民宿にそんなに大勢が泊まれるはずもないだろう。

 絵莉彩が鍵を受け取ると、女性が「ではお泊まりのお部屋にご案内いたします」と告げてカウンターから出てきた。何も頼まずとも旅行バッグを持ってくれたので、遠慮なく預けて彼女の後について歩く。フロントを出ると女性はまず縁側のほうを指し示してきた。

「こちらのお庭に面したお座敷が食堂、廊下の突き当たりを曲がられたところがお風呂場とお手洗いになります。お客様はお食事はいかがなさいますか?ご希望でしたらお部屋までお膳をお運びいたしますけれど」

 訊ねられて絵莉彩は食堂で構わないと応じた。すると女性は頷いて、畏まりましたと応じると再びフロントのほうへ戻っていく。どうやら客室は二階にあり、二階への階段は縁側とは逆の場所にあるらしい。女性はその階段を上っていき、絵莉彩はその後をついていった。階段を上りきると、一直線に延びた廊下の片側には木製の引き戸が並び、もう片側、庭と道路を臨むほうは大きな窓になっていた。

 引き戸には階段から順に1、2と番号が付けられていた。女性はそのうち3の番号がついた引き戸の前で足を止める。階段から数えて三番目の引き戸だった。奥にまだ二つほど引き戸が見える。廊下は曲がってはいないようだったから、二階には全部で五つの客室があるのかもしれない。

「こちらがお客様がお泊まりになられるお部屋でございます。どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ。お食事はお座敷で、ということでしたから、ご都合の宜しいお時間においでになられて構いません。いつでも対応させていただきますので、何か分からないことがございましたらなんなりとお訊ねになられてください。帳場には夜間もうちの者が控えておりますから」

 分かりました、と絵莉彩は女性に了承の意を伝えた。旅行バッグを受け取り、部屋の引き戸の鍵を開ける。室内は思ったよりも広かった。民宿というよりちょっとした旅館のようで、八畳ほどの和室に床の間がついている。窓辺はそこだけ板間になっていて、テーブルと椅子のセットが置かれていた。絵莉彩は部屋に入ると、とりあえず畳の上に旅行バッグを置いて足を投げ出す。座卓の上にリモコンがあったので、それを床の間に向けてスイッチを入れた。床の間に置かれていたテレビは旧式のブラウン管だったが、映りはそれほど悪くない。

 退屈しのぎにその画面を眺めながら、絵莉彩は明日をどうしようとぼんやり思った。昼まではこの地にいられるのだから、電車の出発時刻ぎりぎりまで伯母夫婦を捜してみたほうがいいかもしれない。なんの当てもないが、とりあえず姫塚に戻って近くの者を訪ねてみたほうがいいだろうか。運が良ければ、山陰のお婆ちゃんが、伯母夫婦が出ていくところを見ているかもしれない。優莉花の家から出ると、必ずあのお婆ちゃんの家の前を通ることになるのだから、山陰のお婆ちゃんがいちばん、伯母さんたちを目撃した可能性が高いはずだ。

 ――もしも山陰さんが、伯母さんたちを見ていたとしたら、それでどこに行ったか、だいたい推測がつくかもしれないし。

 そうであればいいなと思いながら絵莉彩は見る気も起こらないクイズ番組を映し出すテレビを消し、貴重品や洗面道具だけをハンドバッグに入れて階下に降りた。帳場で部屋に案内してくれた女性に声をかけてから、教えられたばかりの食堂に向かう。二十畳ほどはある広々とした座敷には、先客が一人いた。自分より少し年上くらいの、スーツを着た若い男性だ。観光客には見えなかったから、仕事で来ているのかもしれない。

 絵莉彩はその男性に会釈だけして、気まずくならないよう少し離れたところに腰を下ろした。するとすぐに座敷に先ほどの女性とは別の女性が近づいてきて、絵莉彩の前に水の入ったグラスとメニューを置いてくれる。もっともメニューは二種類しかなかった。絵莉彩は迷うことなく女性に唐揚げセットなるものを頼み、女性は一礼して座敷を出ていく。料理が運ばれてくるまでの間、することもなく座敷を飾る絵や掛け軸などを眺めていると、ふいに声が聞こえてきた。

「ご旅行の方ですか?」

 聞き覚えのない声に、最初絵莉彩は自分に話しかけられたと分からず、振り返って初めて自分に呼びかけられた声だと分かった。あのスーツ姿の男性が、箸を動かす手を止めてこちらを見ている。

「失礼を。あまりこの辺りで他所の者は見ませんから、珍しいなと思いまして。どちらの方なのかな、と」

 遠慮がちな声に、絵莉彩は苦笑して東京だと答えた。そういえばこうして驚かれるのはこれで二度めだ、と思う。

「けど旅行じゃないですよ。こっちに住んでる親戚を訪ねてきただけです。姫塚の、木之本って家なんですけど」

 伯母の名前を出したのは絵莉彩の意図だった。今の言葉でこの男性が、自分よりもこの地域に慣れていそうに思えたからだ。優莉花の家は旧家として姫塚では知られている。ならば隣り合う大森でも知られているかもしれず、そうであればこの男からも伯母夫婦に関する情報が聞けるかもと思ったのだ。今、絵莉彩は伯母夫婦に関することなら、どんな些細なことでもいいから知りたかった。

「木之本さんの?」

 すると男は目を見開いてきた。あまりの驚きように、ひょっとして知り合いだろうかと絵莉彩も驚いてしまった。驚きは期待を生じさせてくる。もしかしたら本当に、この男から何か、伯母夫婦に関して話が聞けるかもしれない。

 いったい彼はどういう知り合いだろう。民宿に泊まっているということは、たぶん地元の者ではないから、どこか別の街の、セールスマンか何かだろうか。伯母はいちおうは資産家の部類に入るし、デパートの外商なんかが訪ねてきていてもおかしくないが。

「きみ、姫塚の、木之本さんの、東京の親戚?じゃあ、ひょっとしてきみは大園さん?大園絵莉彩ちゃん?」

「私を知ってるんですか?」

 絵莉彩は先ほどの比ではないほど驚いてしまった。見ず知らずの男にフルネームで呼ばれるなんて。いったい彼はどういう人物だろう。どうして自分を知っているのだろうか。伯母が彼に話したからか。年に一度しか会いに行かない自分のことまで伝えられているとは、いったい彼は何者だろう。

 すると彼はなぜか懐かしいものを見るように目を細めて、頷いてきた。

「知ってるよ、勿論。絵莉彩ちゃん・・ああ、いや、大園さんはもう覚えてませんか?私は杉下ですよ、杉下悠樹です。木之本さんのところの優莉花ちゃんと同級生で、学年は私のほうが二つ上ですけどね、複式学級で小学校はずっと同じクラスでしたから。小学生の頃はよく一緒に遊んだんですよ。絵莉彩ちゃんとも何度か遊んだことありましたけど、覚えてませんか?覚えてなくても仕方ないとは思いますけどね。絵莉彩ちゃんはあの頃はまだ幼稚園に入るか入らないかって年頃だったと思いますから」

 すぎしたゆうき。絵莉彩は口の中で名乗られた彼の名前を転がしてみた。なんとなく、覚えがあるような気がする。絵莉彩は赤ちゃんの頃から盆正月は姫塚で過ごすのを習慣にしていた。ごく幼い頃は両親と来ていたが、小学校も三年生ぐらいになると一人で来ていたのだ。滞在期間はいつも一週間くらいだったが、その時はいつも優莉花の友達とも遊んでいたから、絵莉彩はその頃の優莉花の交友関係ならよく知っている。そのなかに、彼はいただろうか。

 もちろん、杉下という姓になら、覚えがある。小学校の正門近くにあった杉下菓子店だ。通夜の日に会ったかつての店主の杉下さんの孫はゆうきという名前だし、彼がそうでもおかしくないのかもしれない。しかし絵莉彩はすぎしたゆうきという少年と特別親しかったという記憶はないと思いかけ、そして思い出した。

「・・もしかして、はるくん?」

 絵莉彩には姫塚で、杉下くん、あるいは悠樹くんなどと呼んで男の子と遊んだ記憶はない。しかし男の子と一緒に遊んだ記憶なら、たくさんある。全員が優莉花の姫塚での友人たちで、そのなかに優莉花が「はるくん」と呼んでいた少年がいた。自分よりもずいぶんと大きなその少年の、本名を絵莉彩は知らない。しかし、小さかった絵莉彩は深く考えもせずに優莉花を真似て彼のことをはるくんと呼んでいた。そのはるくんに、目の前の男は顔形が似ている気がする。

 すると男は破顔してきた。

「ああ、覚えていてくれたんだ。そうだよ、優莉花ちゃんが昔そう呼んでたんだ。優莉花ちゃんは私の名前を最初、はるきだと思ったって言ってたからね。小学生の頃の先生が、悠奈って書いてはるなって名前だったから、たぶん彼女は悠っていう字がはるって読むんだと思ったんだろうけど、訂正してからもずっとそう呼んでたよ。なんか懐かしいな。この年になってまたそんなふうに呼ばれると思わなかったから」

 彼は本当に懐かしそうにしていた。それを見て絵莉彩はなんとなく心が痛むのを感じた。彼は、優莉花がもうこの世にいないことを知っているのだろうか。

「あの、はる・・じゃない、杉下さん、杉下さんは、あの――」

 優莉花のことを知っているのかと言いかけたところで、民宿の女性が座敷に戻ってきた。絵莉彩はなんとなく口を閉じて、女性が食膳を座卓に置くのを見守る。彼女が退出してから、絵莉彩は美味しそうな匂いを放っている唐揚げや味噌汁に箸を伸ばしながら改めて口を開いた。

「杉下さんは、あの、優莉花のことはもうご存知なのですか?」

 とても懐かしそうに話す彼を見ていると、絵莉彩はもしや彼は優莉花のことを知らないのではとさえ思えてきた。確かに、もしも彼が報道を見落としていたとすれば、思いもかけないであろう。優莉花の年齢では本来、まだ死というものとは無縁のはずだからだ。

 しかし彼は絵莉彩の心配など不要のようだった。知ってるよ、と笑顔を抑えて絵莉彩を宥めるように口を開いてくる。

「知ってる。テレビのニュースで見たからね。私は今はもうこの地域には住んでないけど、同じ県内には住んでるから。ローカルニュースでけっこう大きく出たんだよ。それで知ったんだ」

 そして彼はかなり残念がるような表情になった。

「知っても葬儀には行けなかったんだけどね。弔電で勘弁してもらった。仕事がどうしても休めなかったんだよ。親戚なら、こういう凶事はなんとかなるんだけど、あくまでも私と優莉花ちゃんは他人だからね。だからせめて墓参りだけでもと思って、なんとか今日、こっちに戻ってきたんだ」

「杉下さんは、お仕事は何をなさってるんですか?」

 自然にそう訊ねていた。言ってしまってから少し踏み込みすぎかなと感じたが、彼は苦笑して、単なるサラリーマンだと答えてきた。

「今は証券会社に勤めてる。普通の会社員だね。勤め先は市役所の隣だから、姫塚で育った人間には毎日大都会にいるみたいに感じてるよ。絵莉彩ちゃんには、九州なんて全部田舎みたいに感じるのかもしれないけど」

 そんなことは思いませんけど、と絵莉彩は首を振って否定しようとしたが、そうする前に杉下氏のほうからも訊ねられてきた。絵莉彩ちゃんは今どうしてるの?

「絵莉彩ちゃんはいま幾つになったのかな?二十歳くらい?それならまだ大学かな?それとももう働いてるの?」

「私は、いま十九です。今年、やっと高校を出たばかりで、今は大学に行ってます。まだ一年なんですけど」

 絵莉彩は通っている大学の名前を口にした。すると杉下氏は目を丸くしてきた。

「すごいな。そんな有名なところに現役で受かったのかい?学部はどこ?私なんか志望校のランクを三つも下げてやっと地元の経済学部に合格したってのに」

「医学部です。じゃあ、杉下さんはあの、県民ホール近くの私立大の出身ですか?あそこの卒業生ならけっこう優秀なんじゃないんですか?」

 絵莉彩は首を傾げた。絵莉彩は優莉花の出身県のことにあまり詳しくはないが、かつては毎年行っていたのだから少しは知識がある。この県で、経済学部のある大学といえば、県民ホール傍の私立大一校しかなかったはずだ。あそこなら県下でもトップを争えるぐらいレベルが高いのではないかと、絵莉彩は口にする。たしか優莉花の父が、同じ大学の法学部の出身で、その話を聞いたことがあったのだ。しかし彼はそう指摘しても謙遜するような態度を崩さなかった。

「そうでもないよ。しょせんはこんな地方のことだからね。九州は特に私立より国立のほうが上みたいに見られるし。絵莉彩ちゃんのほうがよっぽどすごいよ。私の出身大学は他府県ではほとんど知られてないけど、絵莉彩ちゃんの行ってる大学なら日本中の人が知ってる。しかも医学部かあ、じゃあ絵莉彩ちゃんは未来のお医者様ってわけだね」

 そのうち必要になったら、絵莉彩ちゃんに診てもらいに行こうかなと杉下氏は冗談めかして口にしてきた。絵莉彩も笑い返し、では自分が無事に医者になれたら、そのときは宜しくお願いしますと返す。それからも互いに談笑を交わしながら和やかに食事を進め、そのさなかでなんとなく思い出して彼に優莉花の通夜の日、姫塚に到着早々駅の待合室で彼の祖母に会った話をした。まだ自分のことを覚えてくれたことに感激したと伝えると、なぜかそこで会話は止まってしまう。杉下氏は呆気にとられたような顔で絵莉彩を見ていた。

「――祖母に、会った・・?」

 ええ、と絵莉彩は頷き、怪訝に思って首を傾げた。

「なにか、驚くことでも申しましたか?」

「驚くね。だって私の祖母はもう十年も前に他界してるから」

 杉下氏の答えは簡潔なものだった。話を作った雰囲気も、嘘偽りを述べている雰囲気もなかった。純粋に、思いもかけなかった話を聞かされて驚いているように見える。その反応に、今度は絵莉彩のほうが驚いてしまった。

「他界って、そんな。私はたしかに・・」

「本当に私の祖母だったの?絵莉彩ちゃんの人違いとかじゃなくて?確かにそう名乗ってた?」

 まるで念を押されるように確認された。それで絵莉彩も自信を持って頷いてみせる。

「そうよ。そう言ってたわ。私が、小学校の傍の杉下さんなのかって訊いたら、そうだって。私がよく買ってたもののこととかも知ってたし、最初から私のこと絵莉彩ちゃんって呼びかけてきたもの。だから驚いたし、嬉しく思えたんだもの。待合室ではいろいろと話したわ。一昨年、小学校が廃校になって、それでお店を閉めたとか、そんなことも言って・・」

 杉下氏は首を振ってきた。

「姫塚小学校が閉まったのは一昨年じゃないよ。もう十年以上も前のことだ。絵莉彩ちゃんは何も聞いてない?優莉花ちゃんが姫塚小の最後の卒業生なんだよ。優莉花ちゃんの後に入った新入生は誰もいないから、優莉花ちゃんはちゃんが卒業した後はずっと一人で学校生活を送っていたはずだ。優莉花ちゃんが卒業した後、姫塚小がもういちど新入生を受け入れて開校したなんてことはないよ。祖母が店を閉めたのは、確かに廃校の影響が大きかったけどね。あれで、祖母の家の前は完全に人通りがなくなってしまったから。けど、一昨年なんてとんでもない話だ。あれはたしか、閉校式の翌月だったと思うよ」

 あまりの言葉に絵莉彩は呆然としてしまった。そんなばかな、と思ってしまう。それでも言われてみれば、確かに今の杉下氏の話を裏付けるようなことを聞いた記憶はあった。運動会が開かれなくて、大森小の運動会に参加させてもらう形で競技に出たとか、音楽会の観客が近所の老人ばかりだったとか、遠足や修学旅行も完全に個人旅行のような体裁で、先生と二人でホテルに泊まって路線バスで観光したんだとか、そんなことを、絵莉彩は当の優莉花から聞いた記憶があった。どれも、児童が一人しかいなかったのなら、充分にありえることだ。だがそれなら、自分が今まで見聞きしたものは、いったいなんだったのだろう。

 ――だって私、子供の姿ならもっと見てるし。

 絵莉彩はずっと、姫塚小の全校児童は十人前後だと思ってきた。だから杉下氏の祖母の話も、すんなりと受け入れることができたのだ。そしてそれは実際に、それらを見てきたからだ。絵莉彩は小さい頃、この集落を訪ねてきて、小学校の校庭で遊ぶ子供の姿など何度も見たことがある。一人や二人という数ではない、十人前後の子供たちが野球やサッカーの試合をして楽しんでいたのだ。優莉花は、学校の校庭は休日も解放されていると言っていた。それならばあの子供たちが姫塚小学校の在籍児童と思わない道理があろうか。しかしそうではなかったと、杉下氏はいうのだろうか。ではあの子たちは、いったいどこの子だったというのだろう。姫塚小学校は山奥にある。小学生の児童には電車でないと来られないし、他所の人間に分かりやすい場所にも建っていない。他所の集落に住む他の学校の児童が、わざわざそこまでして別の学校の校庭に入り込んで遊ぶだろうか。大人に見つかったら確実に叱られることだし、しかもすぐに見つかってしまう場所だから、小学生にとってあまりにも無益な遠出にしかならない。

「・・不思議な話だね。絵莉彩ちゃんに私の祖母の名前なんか騙って、いったい何の得があるんだろうね」

 考え込んでいると、杉下氏は呆れたような笑みを浮かべて湯呑みの茶を口に運んでいた。その声に我に返ってみれば、彼の食膳はすでに空になっている。対する絵莉彩はといえば、気がついたら冷めた味噌汁を箸で掻き回しているだけだった。いつの間にか、絵莉彩の頭は食事どころではなくなっていた。

「まあ、私の祖母のことは、迷惑だけどそれ以上のことが何もなかったのなら無害だから、今となっては気にしなくていいんだけどね。何かあっても、正しいのはこっちなんだから証明できるものはたくさんあるし。それより絵莉彩ちゃんにとって問題なのは別のことかも」

 別のこと。絵莉彩は首を傾げて杉下氏を見つめ返した。うん、と頷いて杉下氏は湯呑みを座卓に置く。

「駅のことだよ。姫塚駅は五年前から無人になってる。今はもう無人駅だよ。駅員なんていない。以前はいたから定年かなんかで退職したのかもしれないね。私が中学生の頃で、もうそんなに若い人じゃなかったから。そのあと後任の駅員は誰も来ていないよ。一日に十人前後しか利用しない駅だから、必要ないってことなんだろう。切符を売るだけなら券売機で充分なはずだからね」

 券売機。その言葉に絵莉彩は愕然とした。

「そんな。私は姫塚から帰る時、駅で券売機なんか使ってません。ちゃんと駅員さんから窓口で切符を買いました。顔なんかはもう覚えてませんけど、確かです。普段、切符を買うのに窓口なんか使いませんから、少し緊張したのをまだ覚えてますもの」

 だから問題だってこと。杉下氏は絵莉彩を宥めるように苦笑を浮かべてきた。

「誰かが勝手に駅員を名乗って、あそこに居座ってるのかもしれないと思ったからさ。そして、たまに姫塚に慣れていそうにない帰省客なんかが来ると、勝手に切符を売って不当に収入を得ているのかもしれない。もしそうなら問題だと思ったからだよ。もういつ廃止になってもおかしくないような駅だから、たいして儲かったとも思えないけどね」

 杉下氏はなんでもないことのような顔をしていた。彼にしてみれば、それほど大事に捉えるようなことでもないのだろう。田舎の無人駅にホームレスが住み着いて、稚拙な犯罪に走っているとでも考えているのかもしれない。確かに、話だけを聞いたのなら絵莉彩も、きっとそう思ったことだろう。

 だが直接姫塚駅に行き、一瞬ではあっても駅員とも杉下氏の祖母を名乗る老女とも接触した絵莉彩には、とてもそうは思えなかった。あの駅員は本物にしか見えなかったし、駅のホームでも待合室でも、券売機など見た覚えがない。無論、意図した犯罪行為を行う目的があれば、勝手に券売機を撤去したり、駅員の制服を自作して着用したりもするのかもしれない。しかし正月の帰省シーズンでも滅多に来ないような帰省客のために、そこまでする犯罪者などいるものだろうか。あの老女にしても、あれが全て嘘だとしたら、杉下家とは何の関係もない老女が絵莉彩に己の身分を詐称して体よく騙したことになるが、絵莉彩をそんなふうにして騙してどんな得があるというのだろう。あの待合室で、事情を知っている者にはすぐに見え透いた嘘と分かる嘘をついてまで、雑談を装って絵莉彩を騙すことにどんな必然性があるというのだ。単に誰かが絵莉彩をからかって遊びたかっただけか。それとも――。

 ――どうして私の周りでだけ、最近妙なことばかり起こるの。

 急に理不尽な気分が湧き上がってきた。どうして最近、絵莉彩の周りでばかり、妙なことが起きるのだろう。こんな経験は今まで一度としてしたことがない。思えば夜に得体の知れない襲撃者に殺されそうになるのだって、ぬいぐるみが勝手に動いたりするのだって、出窓の外から覗かれたりするのだって、これまで一度としてなかったことだ。

 ――どうして、今になって。

 絵莉彩は自分自身が信じられなくなりそうだった。


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