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無人の家


 ――誰もいないの?

 絵莉彩はもう回数も分からなくなるぐらい鳴らし続けたインターホンから指を離し、門扉を見上げて首を傾げた。

 優莉花の家を守る正門の、重厚な門扉は完全に閉められていた。どんなに押してもびくともせず、絵莉彩は運転席に戻って首を傾げた。助手席に視線を移す。

 ――どうしようかしら。

 助手席に無造作に投げ出された旅行バッグのなかには、絵莉彩が母から預かったこの家の合い鍵が収められている。いざという時のために持ってきたものだが、まさか本当に使うべきかどうか迷うことになるとは思わなかった。

 ――何事もないのなら、誰だって留守中に他人に勝手に自宅に上がり込まれたら、嫌だろうし・・。

 少なくとも絵莉彩は嫌だ。だから踏ん切りがつかない。しかし二週間もの間、電話にいっさい応答がないという事実を思えば、この際そんな些細な躊躇は振り捨てて構わないのではないか、とも思える。二週間はさすがに異常だ。今、それほど長く出かける用事があるのなら、少なくとも両親と松谷氏は何か聞いているなりしていると思う。優莉花の法要をどうするか、という問題があるのだから。優莉花の両親がそれだけの期間、遠出をするのならば優莉花の初七日や、場合によっては四十九日まで松谷氏が法要を執り行わなければならない。連絡がないのはおかしいし、それだけの長期間ともなれば用事も行き先も限られる上、準備もそれなりのものになるはずだから、言われずとも両親がそれを察知できたはずだ。夜逃げでもあるまいし、それだけの長期旅行で前日になんの準備もしてなかったはずがない。

 逡巡した末、絵莉彩は意を決して助手席の荷物から合い鍵だけを取り出した。それから貴重品をまとめてあるハンドバッグを手にして、運転席を出る。エンジンを確かに切ったことを確認して、ドアもきちんとロックしてから車を離れた。レンタカーなのだから、万一にも盗まれたりすると困る。

 ――少しの間なら、大丈夫よね。

 絵莉彩はそう自分に言い聞かせてから門に向き直った。姫塚集落はどこも道が狭いから、たとえ禁止されていなくても路上駐車をすると付近の通行の妨げになりかねないのだが、そもそもこの辺りの道は住人以外ほとんど通らないのだから、ちょっとの間なら問題ないだろう。というより、他に車を停められる場所はない。駐車場は駅前の一か所だけだし、あそこはコインパーキングではなく月極だから、無断で駐車するわけにはいかないのだ。

 もう一度だけインターホンを鳴らし、それでも応答がないのを確認すると、絵莉彩は門扉につけられた錠前に鍵を差し込んで解錠した。軋みの音は大きく響いたが、わりとスムーズに門扉は開き、絵莉彩は前庭に足を踏み入れる。そしてすぐに異常に気づいた。門扉の内側につけられたポストの中がいっぱいになっている。

 絵莉彩は内側からポストを開けてみた。するとそれと同時に新聞や封書の類いが支えを失って落ちてくる。地面に落ちたそれらを拾い上げて、新聞の日付を確かめてみた。いちばん日付の古い新聞は、優莉花の告別式の翌日の夕刊だった。絵莉彩の両親がここを発った日、すでにこのポストに届けられたものを受け取る人間はいなかったことになる。

 ――夕刊って、何時頃の配達だったっけ。

 考えてみたが絵莉彩には分からなかった。そもそも絵莉彩の家では、新聞の購読というものはオンラインで行うものであって、絵莉彩自身もうここ何年も、紙の新聞を手に取ったことがない。それで新聞が配達されてくる時間というものが判然としなかったが、夕刊というからには、やはり夕方に届けられるもののはずだ。ならば遅くてもせいぜい午後六時か、それぐらいではないかと思える。絵莉彩の両親はこの日、午前十一時頃に早めの昼食を済ませるとすぐ、駅に向かって出発したということだった。その時には優莉花の両親は二人とも、この家に健在だったというから、絵莉彩の両親が発って数時間後にはすでに、この家には誰もいなかったことになる。

 ぞわり、と絵莉彩の背筋に悪寒が走った。急いで振り返って前庭を見渡し、庭の片隅に設けられた車庫に白い普通乗用車が停まっているのを確認すると、悪寒は嫌な予感へと昇華した。

 ――姫塚の人が、車も使わずに外出するなんてありえない。

 そのはずだろう。ここは、車なしに生活できるような地域ではない。病院も郵便局もスーパーも、大森まで行かなければ存在しないし、大森まではとても徒歩で行こうとするような距離ではない。電車を使って、もっと遠くの市街地まで赴くとしたら、駅まで歩いてもそんなに不自然なことではないが、それならばどうして、優莉花の両親は新聞の購読を中止し、配達を停止する連絡をしなかったのだろうか。長期に亙って宿泊を伴う移動をする時は、新聞を止めておかねば不在を悟られて空き巣の標的になることもありえる。それぐらいのことに考えが及ばなかったとは思えない。

 絵莉彩は胸騒ぎを感じて前庭を走り、玄関に駆け込んだ。急いで格子にすりガラスの入った古風な引き戸に鍵を差し込もうとし、ふと思い立ってその前に引き戸に手をかけてみる。引き戸はなんの抵抗もなく動いた。騒々しい音を立てて横に動き、室内の空気が外に流れ出してくる。

 ――やっぱり、なかにいるの?

 胸騒ぎはもはや確信に近い予感へと変わりつつあった。前に一度だけ聞いたことがある。優莉花は、家にいて門に施錠した時は玄関の戸締まりなど忘れてしまうことも多いと。絵莉彩には信じられないミスに思えたが、優莉花は笑っていた。どうせこんな田舎では犯罪なんか起こりはしないと。住人以外の人間がいればそれだけで目立つから、どんな泥棒もこんなところまでは来るはずがないというのが彼女の自論だったのだ。そんなふうに考えているのはなにも優莉花だけではないようで、姫塚の住人はその多くが、元から戸締まりにはあまり気をつけていないらしい。しかしそれは、あくまでも在宅時の話だ。さすがに優莉花も、家が無人になる時は念を入れて戸締まりをしていた。長期間、遠方に旅行に出る時は雨戸なども完全に閉め切っていくという。ならば少なくとも、玄関を誰でも開けられる状態にしたまま外出するようなことをしたことは一度もないはずだ。それなら玄関がこの状態で、インターホンの呼びかけにいっさい応答がないというのは、どう考えてもおかしい、ということになる。

「伯母さーん、絵莉彩ですー。また来ましたー。いないんですかー?」

 絵莉彩は玄関に踏み込みながら大声で呼ばわってみた。しかし返答はない。家のなかは森閑と静まり返り、なんの物音も聞こえてこなかった。もう一度、さらに大声で呼びかけてみたが、結果は同じで、なのに玄関の土間の上には、サンダルや、見覚えのあるブーツやウォーキングシューズがいくつか、きちんと揃えられて置いてある。どれも優莉花と伯母夫婦の靴だった。車はある、鍵は開いている、靴も揃っている、それなのに誰も出てこない。いるはずの人間の声がしない。

 逸る心を抑えて、絵莉彩は土間で靴を脱ぎ捨てると、廊下に上がった。もはや只事ではない、という気がしていた。廊下に上がると室内の臭いもより強く感じられる。その臭いが、通夜の日とはまた少し異なっていることに、絵莉彩の鼻は気づいていた。

 それに急かされるようにして、絵莉彩は廊下を走った。どこへ向かおうかと思いかけ、まず茶の間として使われているはずの中庭に面した座敷に向かってみることにした。広いこの家には常には誰も使わない部屋というのがあるが、茶の間に関してそれはない。

 しかし辿り着いた茶の間には、誰の姿もなかった。直前まではいたという気配すらない。テレビは消えていたし、照明も灯っていなかった。茶の間は、確かにかつては人が暮らしていたという痕跡だけを残す単なる部屋になっていた。

 絵莉彩は呆然として茶の間を見渡した。畳の上に置かれた黒塗りの座卓の上には、湯呑みや急須が放置してある。湯呑みの中は空だったが、それは最初から空だったのではなく、もともとはお茶が入っていたのが、長時間放置されたことで中身が蒸発してしまったのだと思われた。湯呑みにその痕跡が残っている。座布団は座卓の下から引き出され、新聞は広げたまま置かれていた。屈み込んで日付を確認してみると、絵莉彩の両親がここを発った日の朝刊だった。お悔やみ欄の掲載された紙面が開かれており、松谷優莉花の名前が見える。湯呑みの傍にはノートとキャップの外れたボールペン、それに香典の袋がいくつか置いてあった。あの日、絵莉彩の両親がここから家路についた後、優莉花の両親はこの部屋でお茶を飲み新聞を読み、いただいた香典の整理をしていた。そして何かの用事で二人とも席を立って、そのまま二度と戻ってこなかった。そんなふうに見えた。

 ――外出なんかしてるはずないわ。

 それはもう確信だった。茶の間をこんな状態にしたまま、玄関に鍵もかけずに外になど出るはずがない。絵莉彩が、ちょっとマンションの共用エントランスの自販機まで、ジュースを買いに行くのとはわけが違うのだ。姫塚の住民にとっては、外出というのはどこに行くにも往復で一時間以上はかかる行動なのだから。試しに茶の間に踏み込んで、香典の袋を開けてみるとその確信はいよいよ強固になる。袋の中にはまだ現金が入っていた。現金をこんな誰でも目につくところに無造作に放置しておくなど、これから家の外に出る人間ならば絶対にするはずがない。

 ――ならば、もしかするともう、優莉花の両親は・・。

 不吉な予想を胸に抱えながら、絵莉彩はなんとなくお化け屋敷でも探索するような気分で、恐る恐る家のなかを徘徊していった。しかし絵莉彩の危惧は杞憂に終わった。家じゅうを巡っても縊死した遺体などは見つからなかったからだ。家のなかに漂っていた臭い、何かが腐ったような、通夜の日とはまた異なる臭いは、台所の流しに残された残飯と生ごみの腐敗する臭いだったのだ。伯母夫婦の寝室、優莉花の部屋、台所、浴室、トイレに納戸まで見てまわっても、優莉花の両親の姿はどこにもなかった。自分や明花や、両親が泊まった東座敷や、葬儀の開かれた仏間、使われなくなって久しい庭の土蔵までも念入りに調べたが、その結果も同じで、そのことには絵莉彩は安堵したが、安心するとではいったいどこに行ったのだろうという疑問のほうが強くなってくる。現金を家に残した状態で、玄関の鍵もかけずにどこかに外出するはずがない。しかし家のなかにも姿がない。それなら伯母夫婦はいったいどこに消えたというのか。

 ――このタイミングでなければ、裏山に入って遭難したとか、そうも思えるんだけど・・。

 裏庭に出た時には、しばし土塀の外を見上げてそんなことも思ってしまった。この家の裏手には人家はない。台風が迫るたびに土砂崩れの不安を与え続ける山林があるだけだ。今は秋だから、これが優莉花の葬儀の直後という特殊な状況でさえなければ、絵莉彩は真っ先に、伯母夫婦が裏庭から山に入って山菜でも採っているうちに遭難したと考えたかもしれない。それならこの状況もまだ自然だからだ。しかし絵莉彩には、あの二人が娘の告別式の翌日に、そんなことをしていたとはどうしても思えないのだ。

 ――だって、伯母さんたちは山で生きていたわけじゃないものね。

 生活の基盤が全て大森にあった優莉花の家族にとって、山に入ることは仕事でも家事でもなかったはずだ。それなら優莉花の両親が山菜を採るために山に入ることは、絵莉彩のような都会人が娯楽として観光農園でフルーツ狩りをするのと同じようなものだったのではないか。だとしたらあの二人が、大切な一人娘の葬儀の翌日に、香典の整理も途中で放り出したままそんなことをしていたとは思えない。

 ――けど、それなら、伯母さんたちはどこに消えたの?


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