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くまのぬいぐるみ


「えりいおねえちゃん、きのうはこわいゆめみたの?」

 翌朝、いつも通りの時刻に起きだして、ダイニングスペースで家族揃って朝食を摂っていると、明花がそう話しかけてきた。

 絵莉彩はその問いかけに曖昧に頷きながら、砂糖もミルクも入れていない真っ黒なコーヒーを一気に呷って眠気を追い払うことに懸命になっていた。昨夜は結局、あれ以降まったく眠ることができなかった。再びあいつらが襲ってくるのではないかと、恐ろしくてもういちどベッドに入る気になれず、陽が昇るまでずっと起きていた。父親に諭され、止むを得ず午前二時過ぎに再び横になったものの、部屋で一人になるのは絵莉彩の精神が耐えられず、結局父に朝まで添い寝してもらう羽目に陥った。親と一緒でなければ寝られないなど、いったいいつ以来のことかと思えば我ながら情けないが、怖いものは怖いのだから仕方がない。

「あのね、こわいゆめみたらね、たのしいえほんをよんでからねるとね、こわいゆめみなくなるんだよ。パパがいってた」

 明花が自信たっぷりに絵莉彩にそう教えてくれた。ずいぶん面白いおまじないだなと思う。考案したのは松谷氏だろうか、明花には実際に効果があったのだろうか。ならば今度自分も試してみようかと思い、それでふと、明花や松谷氏の現状について優莉花の両親に報告しておく必要性があることに気づいた。なにしろあの二人にとっては、松谷氏と明花は娘婿であり孫なのだから、報道で最低限のことは知っていたとしても、より詳細なことを、こちらからも連絡しておくのが筋だろう。

 絵莉彩はコーヒーのお代わりを自分で注ぎながら、向かいの母親を見た。母はバターを塗ったトーストを口に運んだところだった。

「お母さん、優莉花の家には、もう電話したの?明花ちゃんをうちで預かってることとか、松谷さんの容態のこととか」

 すると母はパンの咀嚼を終えてから口を開いてきた。

「まだよ。向こうからも電話ぐらいあるかと思ったんだけど、かかってこなかったわ。こっちからも、昨日、事件を知ってから繰り返し電話してるんだけど、ぜんぜん出ないのよね」

 母の口調は不満そうだった。それで絵莉彩も、コーヒー中心のとにかく目の覚めそうなメニューで簡単に朝食を済ませてしまうと、自室で講義の準備をしながら自分のケータイで優莉花の家に電話をかけてみた。しかし呼び出し音を二十回以上鳴らしても誰かが出る気配はない。こんな早朝から仕事にでも出ているのだろうかと思い、そこで、いや、たしか優莉花の両親は大森にあるアパートや雑居ビルのテナント収入で生計を立てていたはずだと思い出した。こんな早朝から出勤せねばならない仕事に就いていたという記憶は、少なくとも絵莉彩にはない。絵莉彩の知っている範囲では、あの夫婦が外に勤めを持っていたことはないし、ならば今も家にいるはずだった。なぜ誰も電話に出ないのだろう。

 ――庭にでも出てるのかしら?

 家にはいるけれども、庭先に出ていて電話の音が聞こえないのだろうか。あの家は自宅用に、庭先の家庭菜園でかなりの数の野菜や果物を育てているから、早朝からそれらの世話のために外に出ていたとしてもおかしなことはないが。

 首を傾げながらも絵莉彩はとりあえずケータイの電源を切って鞄のなかにしまった。どれほど呼び出し音を鳴らしても出ないものはどうにもならない。講義の合間にでもまた電話してみればいい。そのうち応答があるだろうと、絵莉彩は教科書や参考書で重くなった鞄を肩にかけた。登校のための支度を整い終え、部屋を出ると、リビングスペースで明花が一人、テレビでアニメを見ていた。キッチンのほうからは食器を洗うような水音がしている。アニメはたぶん昨夜のうちに近所の店で借りてきたビデオだろう。幼稚園の登園時間までは、まだ少し間があるから、その間に明花が不用意にワイドショーなどを見て、ショックを受けないよう母が配慮したのかもしれない。ついでに忙しい朝の時間に、テレビに子守りをさせておとなしくさせておこうと考えているのかもしれなかった。いつもは必ずテーブルの端に置いてあるはずのリモコンが消えていることが、その証左のようにも思える。明花がリモコンを玩具代わりにしてうっかり画面が切り替わってしまうことがないよう、どこかに隠したのだろう。

「明花ちゃん、私、学校に行ってくるね。パパ、早くよくなるといいね」

 出かける前に挨拶をしておこうと、絵莉彩はしゃがみこんでソファに座っている明花に話しかけた。すると明花はアニメに見入っていた目を絵莉彩に向けてくる。

「うん!えりいおねえちゃんおべんきょうがんばってね」

 そして隣に置いてあるぬいぐるみを持って手を振ってみせた。昨夜、絵莉彩によって投げ飛ばされた哀れな飾り物の熊は、今日は明花の傍にあって本来の玩具としての役割を存分に発揮しているらしい。心なしかいつもよりもビー玉の目が輝いているようにさえ見え、絵莉彩は明花に付き合ってぬいぐるみの手を握った。

「うん。がんばってくるよ。熊ちゃんもバイバイ」

「くまちゃんじゃないよ。ゆうこちゃんだよ」

 ねー、と明花はぬいぐるみに向かって不満の同意を求めるように語りかけた。どうやら明花のなかでは、このぬいぐるみにはすでに「ゆうこ」なる名前がついているらしい。絵莉彩は笑って名を訂正してから再度呼びかけた。それほど気に入っているのなら、このぬいぐるみは明花に贈呈しようかと思ってしまう。どうせ、このぬいぐるみは絵莉彩にとって捨てるにも忍びないから部屋の装飾にしているにすぎない昔の玩具なのだ。元々は玩具として作られたものなのだから、ぬいぐるみだってもしも心があるなら絵莉彩の部屋で、箪笥の上に置き去りにされたまま埃を被っているより明花の腕のなかで遊んでもらったほうが嬉しいに違いない。

 ――よかったね、明花ちゃんがいっぱい遊んでくれてるんだね。

 心のなかとはいえ、随分久しぶりにぬいぐるみに向かって話しかけると、絵莉彩はキッチンで食器を洗っている母にも挨拶をして、自宅を後にした。


 ――どこに行ってるのかしら?

 絵莉彩は今日の講義を終えて帰路につく途中、地下鉄の車内でひたすらケータイの画面を眺めて首を傾げることになった。未だに優莉花の家はいっさい電話に出ようとしない。今日は講義が一つ終わるごとに電話を入れているというのに、一度も呼び出し音に応答がなかった。昼休みなど、何十回となく鳴らしたがそれでも同じで、これほど不在の時間が続くと、どこにいるのだろうかと不安になってくる。優莉花の両親が、娘の初七日もまだ迎えていないうちから、旅行になど出ているはずはないだろう。出るとしたら、それこそ墓参くらいしか思いつかないが、それでも大森までの往復でほぼ丸一日外出しているというのは妙だった。姫塚から大森までは電車で十五分くらいしかかからない。かつては優莉花が通勤していた街だ。それほど遠いはずもなく、優莉花の両親が出かけたのが大森なら、買い物などをしてゆっくりと過ごしたとしてもせいぜい二時間もあれば帰ってこられるだろう。ほぼ一日をかけなければできないようなどんな用事が、あの街にあるというのだろうか。村役場のある大森は、付近の集落よりははるかに賑やかだが、それでも絵莉彩にとってみれば、コンビニも、商店街すらもない田舎の集落だ。

 ――あまり長いこと繋がらないようなら、もう一度訪ねてみたほうがいいかしら。

 そうなったら面倒だなと思いつつ、絵莉彩は気を紛らわすためにケータイのボタンを操作してインターネットに接続した。普段、絵莉彩はケータイを通話以外の目的には使わないが、帰宅中の地下鉄の車内など、ほんの少しの手持ち無沙汰を誤魔化したい時には使用することも多い。それで検索サイトを呼び出し、トップページに表示された項目をいくつか表示していった。乗り過ごさないよう意識だけは常に車内に向けながら、画面に視線を向ける。すると、しばらくして出てきた一つのサイトに思わず目を奪われた。意識せずともそこに出ていた文面を熟読してしまう。

 サイト自体は特にこれといって珍しいものでもないニュースサイトだった。内容もそれほど妙なものではない。九州のどこかの自動車道で追突事故が起きたことを伝えるための記事だった。事故のために渋滞していた道路で、その渋滞の最後尾で徐行していた普通乗用車に大型トラックが追突したらしい。乗用車の後部座席が潰れ、そこに乗っていた女子中学生が即死し、彼女の両親で助手席と運転席に乗っていた夫婦が意識不明の重体になっていると出ている。事故の発生時刻は今日の午前七時となっていた。ちょうど絵莉彩が寝不足で重い身体を引きずりながら起床した頃のことだ。その頃、ここから遠く離れた九州では大きな自動車事故が起きていたというだけの記事である。内容は悲惨でも、昨今ではそれほど珍しいわけでもない単なる交通事故を報じる記事だ。だから絵莉彩が最初に注目してしまったのもその内容にではなく、そこに出ていた人の名前にだった。記事には意識不明となっている乗用車の運転手が、高校教諭の篠崎智人となっていたのだ。

 ――また、同じ。

 咄嗟にそう思ってしまった。かつて、大学のカフェテリアで高原恵瑠奈という女性が住宅火災で死んだことを報せるニュースを視聴した時と同じ感覚があった。記事に出ていた篠崎智人の名前も年齢も、大まかな住所も、優莉花の葬儀に来ていた篠崎智人氏と一致している。あの時の篠崎氏に妻や娘はいただろうか。いたとしたら、その妻と娘の名前はなんとうのだろう。もしかして、、とはいわないだろうか。それは分からなかったが、親指を動かしてこの記事に関連するサイトを探してみると、死んだ娘の篠崎姫花が通っていた中学校の校長のインタビュー記事や、意識不明の重体となった篠崎智人氏の勤務先でもある県立高校の教頭がメディア取材に応じている記事が見つかった。その教頭が取材に答えている記事を画面に出してみる。その記事には高校の名前が出ていた。優莉花の母校と同じ名前だった。篠崎氏の担当教科は数学だとも出ている。そこも一致していた。なにもかも、優莉花の高校時代の担任教師と同じだった。顔は知らなくても、それ以外の聞いた情報は全てが一致している。

 絵莉彩はなんとかしてこの篠崎氏の顔写真を見られないかと再び検索サイトに戻ったが、残念ながら見つけることができなかった。絵莉彩のケータイではパソコンのサイトは表示されないから、仮に見つかったとしても画面には出ないかもしれない。そのことに思い至ると、絵莉彩はネットの接続を切ってケータイを鞄に戻した。するとほどなくして、電車が絵莉彩の自宅の最寄り駅に到着したことを報せる車内アナウンスが聞こえてくる。絵莉彩は車内をドアの近くまで移動し、到着するやいなやホームに踏み出した。昨日の通り魔のこともあり、改札を通る時には緊張したが、何の問題もなく通過できた。同様の緊張は他の者も大勢抱いているのかもしれない。夕方の改札には常日頃には感じられないような独特の張りつめた緊張感が漂っていた。

 自宅に帰り着くと、家のなかは真っ暗で、誰もいなかった。母はランチ時だけ近所の喫茶店を手伝いに行くが、この時間にいないとは珍しい。だから最初は、明花が今日もバレエスクールのレッスンを受けに行っていて、母がその迎えに行ったのかと思った。しかし帰ってすぐリビングスペースのテーブルの上に載せられた書き置きを見て、そうではないと分かる。母は今日は明花と松谷氏の入院する病院に行っているのだ。松谷氏が意識を取り戻したと、病院から連絡があって急ぐと書いてある。それを見て絵莉彩は思わず安堵に胸を撫で下ろしてしまった。意識を取り戻したということは、状況はよく分からないがとりあえず危険なところは脱したということなのだろう。それならこれほど喜ばしいことはない。松谷氏は快復に一歩近づいたのだ。そして彼が無事に退院できれば、明花はまた、自分の父親と一緒に暮らすことができる。

 ――明花ちゃん、よかったね。

 絵莉彩は、今は絵莉彩の母と病院にいるはずの明花に思いを馳せた。彼女が無事に父親と面会できることを祈りながら、とりあえずテレビをつける。例の通り魔事件の関連報道をしていたワイドショーにはあえてチャンネルを合わせず、普段ならば絶対に見ないタレント同士のトークショー的なバラエティ番組を画面に出した。音量もできるだけ大きくする。そうすることで室内に漂った静寂が晴れるような気がしたのだ。昨夜のこともあり、静寂のなかで自室に籠もるのはどうしても気が進まない。テレビの出演者はこの場にいるわけではなくても、彼らの明るい声が室内に溢れ出てくれば気分は変わってくる。心細さが紛れるのだ。

 それで今日はリビングのソファで自習に励み、講義の内容を書き留めたノートを確認しながら参考書としている医学雑誌の論文を読んだり、教科書になっている医学書を読み返したりしていた。テレビの音は全く気にならず、タレント同士の騒々しい話し声も意識を向けなければ旋律のない音楽のようだった。なのに絵莉彩はずっとなにかに見られているような視線を感じてならなかった。

 たまりかねて顔をあげる。勿論、自分以外の誰かがこの家にいるはずもない。よって誰かの視線が自分に注がれてくる道理などあるはずがない。人の顔に相当するものといえばリビングボードに置かれたフォトスタンドの記念写真だけ。無論そんなものから視線など発せられてくるはずもない。

 疲れてるのだろうかと絵莉彩は思った。普段は見もしないようなものが、急に意識されてくるなんて。溜息をついてソファに転がる。少し横になって休めば余計なものに惑わされることなく勉強に集中できるだろう。横になると自分のいるソファとは直角になる位置に置かれたソファの「ゆうこちゃん」と目が合った。手を伸ばしてクッションを動かし、「ゆうこちゃん」の「視界」を塞ぐ。写真に続いてぬいぐるみの目が気になるとは、やはり今日の自分は相当疲れているらしい。

 しばらく横になったまま目を閉じて力を抜き、充分にくつろいでから起き上がった。さあ、また今日の復習に励むぞと気合を入れ直し、思わずぎょっとして身構えてしまう。

 ――え?なんで?

 絵莉彩の心のなかには疑問が渦巻いた。どうして、自分がクッションで隠したはずのぬいぐるみが、また自分の視界に入るところにあるのだろう?

 疑問は絵莉彩の身体を、意味もなく震えさせた。懸命に、その震える指を伸ばし、ぬいぐるみをつついてみる。柔らかい毛並みに指先が軽く沈んだ。感触には何も変わったところがなかった。自分が十年以上もずっと大事にしてきたぬいぐるみに間違いない。なのにどうして、位置がさっきと変わっているのだろう。このぬいぐるみは、電池仕掛けで動きまわったりするような凝ったものではない、ごくありふれたテディベアだ。人間が動かさなければ勝手に動くはずがない。

 絵莉彩はぬいぐるみから指を離すと、なんとなく気味悪くなって後ずさった。しかし思い直して、少しソファを調べてみる。もしかしてソファに何か異常が出ているのかもしれないと思ったのだ。このソファもぬいぐるみ同様、絵莉彩が小学生の頃から使われてきている。ならばソファがもう壊れかかっていて、傾いてきているということもありえるだろう。それならぬいぐるみが勝手に動いて何も不思議なことはない。単に重力によって座面を滑ってきただけだ。というより、他に考えられない。

 だが見たところ、ソファにはどこも異常はなかった。座面は平らで、鉛筆を置いてみても転がっていく様子はない。自分で改めて座ってみても、座りにくい感じはしなかった。そもそもクッションを三つもソファの上に置いていて、それらは全く動く気配がないのにぬいぐるみだけ動くとはどういうことか。仮にソファそのものが壊れていたとしても、それは少し不自然な気がする。

 不可解だった。なぜ原因が見つけられないのだろう。こうなると、ぬいぐるみの位置が変わっていたように見えたのは絵莉彩の気のせいとしか考えられなくなるのだが、絶対にそうではないという確信があった。そもそも疲れてぬいぐるみの目すら煩わしかったのだ。それでわざわざ見えないようにクッションで隠したというのに、起きた時に見える所にあるのはおかしい。クッションが倒れたのならそれも道理でも、クッションは倒れていなかった。倒れたクッションがひとりでに起き上がるはずもない。

 不可解さが募ると徐々に気味悪さも増していった。子供の頃から馴染んだ愛くるしいこの玩具を、これほど怖いと思ったのは今日が初めてだった。絵莉彩はそっとぬいぐるみをつかむとソファから離して、リビングボードのフォトスタンドの横に置く。ここなら平らで、ソファよりも安定感がいいから、もはやこのぬいぐるみが勝手に動くことはないだろう。絵莉彩はぬいぐるみが棚のなかでしっかりと留まっているのを確認すると、同じように棚のなかに置かれていたフォトスタンドやオルゴールや、様々な飾り物などの雑多な品々を動かしてぬいぐるみを隠し、自分の視界に入らないようにした。完全にぬいぐるみの姿が見えなくなると、なんとなく安心してダイニングスペースを横切りキッチンに入る。喉の渇きを覚えて冷蔵庫からオレンジジュースのパックを取り出すと、食器棚から出したグラスに注いでその場で飲んだ。グラスが空になると流しで適当に洗い、キッチンを出る。そしてリビングに戻ろうとしたが、その場で凍りついてしまった。

 ――え?なんで?

 絵莉彩の視線は今やリビングの床で固定されていた。そこにあるはずのない、つぶらな瞳と目線が合ったからだ。たったいま自分がリビングボードに置いたはずのぬいぐるみが、床の上でじっとこちらに愛らしい表情を向けている。

 ――いや。

 絵莉彩は恐怖に慄いた。さすがにこれは明らかに異常だと思えた。もはやぬいぐるみが動くのに、ソファは関係ない。かといって絵莉彩の気のせいでもあるはずがない。現実にぬいぐるみが動いているのだ、その事実は悟らざるをえなかった。なぜかは分からない、けどそのことを認めざるをえない事態だった。

 ――どうして?

 絵莉彩には理由が思い浮かばなかった。このぬいぐるみは自分が八歳の頃、父から誕生日のプレゼントとして贈られたものだ。子供の頃に与えられたものだから、これで遊んだことも、抱いて一緒に寝たことも数えきれないほどある。成長して遊ばなくなっても、ずっと自室の箪笥の上に飾られていたものだ。だから毎日のように視界に入っていて、これまで全くこのようなことはなかったというのに、なぜ今になってこんな異常が起こるというのか。

 ――怖い。

 絵莉彩は初めてこのぬいぐるみを怖いと思った。とてももう近づく気にはなれなかった。足は勝手に背後へと動き、ふいに背中で騒々しい音が響く。その音に思わずびくついて背後に視線を投げると、自分の身体が廊下へと通じるガラス扉にぶつかって立てた音だと分かった。一瞬、この扉を開けてこんな得体の知れない恐怖から逃避したいという欲求に捕らわれたが、そうしたところでどこに逃げればいいのか見当もつかないことにも同時に気づいた。昨夜のことが頭を過ぎると、どうしても自室で一人籠もる勇気は湧いてこない。しかしそれならどうすればいいのかと途方に暮れ、前方に視線を戻した時にとうとう堪えきれずに悲鳴を上げてしまった。

 あのぬいぐるみが、絵莉彩のすぐ足下まで移動していた。それが視界に入った瞬間に、絵莉彩は理性を振り捨ててしまった。もはやその場から逃げることしか考えられなくなり、絵莉彩はガラス扉を開けて廊下に駆け出した。すぐの扉を開けてなかに飛び込み、しっかりと扉を閉める。手許も見ずに指先の感覚だけで急いで錠もかけてしまうと、さらに扉に凭れかかって自分の身体で外からの侵入を防ぎ、室内に立て籠もった。

 逃げ込んだ部屋は両親の寝室だった。絵莉彩の自室の隣にあり、正面に見える出窓の向こうは外に直結している。この部屋は角部屋なのだ。だが外に面していたところで、この部屋自体が十階にある以上は逃げ道はない。

 絵莉彩は震えた。もうどうしたらいいか分からなかった。もうこれ以上、逃げることはできない。かといってあんな得体の知れないものが蠢くリビングになど戻る気になれない。どうしようと狼狽え、焦るあまり無目的に室内を歩きまわり、そしてぎくりと立ち止まってしまった。

 ――なんで、外に・・?

 絵莉彩は出窓を凝視してしまった。出窓は、まだカーテンも閉められておらず外の闇が直接室内に入り込んできている。絵莉彩は室内の照明を点けなかったから、窓の外には漆黒の色以外何も見えなかった。いや、見えないはずだ。出窓の外にはなんの足場もない。雨樋すら通っていないのにどうして、窓の外にこちらを見てくる目があるのだろう。

 ――あれは、誰?

 窓の外では一対の瞳が光っていた。暗い闇のなかに潜むその瞳の持ち主は、闇のなかに影と沈んで輪郭すら定かではない。しかしそこが人間の待機できる場所でないことは、絵莉彩には充分すぎるほどよく分かっていた。ここはマンションの十階で、出窓の向こうは何もない。地面からは遠く離れており、このマンションには隣家というものもなかった。隣は月極駐車場で、さほど広くはない面積がアスファルト舗装されているだけ。雨樋も、外壁の見える位置にはなく、この高さには電線も通っていない。それなのにどうして、窓の外に誰かの視線が現れるというのか。

 ――いや、こないで。

 絵莉彩は必死で訴えながら後ずさった。声は出なかったが、背中が壁にぶつかり、これ以上は下がれなくなってもまだ足は動いていた。なぜだか絵莉彩には、あの瞳の主が自分を襲おうとしているという直感があったのだ。いつの間にか、あいつに捕まれば殺される、という具体的な恐怖感だけに支配されていた。

 ――助けて。

 もう無我夢中だった。絵莉彩は対象すらよく分からないままに助けを乞うていた。それしか考えられなかった。


「――絵莉彩、絵莉彩、なかにいるの?どうしたの?いるんだったらここを開けなさい」

 静かに呼びかけられる声に、絵莉彩はようやく理性を取り戻した。

 ドア越しにノックの音が聞こえている。そちらのほうへ顔を向けた。その時になって初めて、絵莉彩は自分が床の上に倒れていたことに気づいた。

 ――私、どうしてたの?

 身を起こして、絵莉彩はしばし呆然としていた。束の間、自分がなぜここにいるのか思い出せなかった。記憶を探りながら辺りを見回し、そしてやっと自分が両親の寝室に逃げ込んだ顛末を思い出す。一瞬ではあっても自分の意識と身体が乖離していたように感じられたのは、やはり自分が相当に混乱していたからなのだろうかと訝しみ、それでも出窓の外への恐怖と警戒は維持したまま、立ち上がって今もノックの音が続いているドアの錠を外した。恐る恐るドアを開けると、隙間から母の顔が見えてくる。母は安堵したような溜息を漏らしながらも、同時に呆れたような眼差しも向けてきていた。

「絵莉彩、あんたいったい、灯りもつけずにこの部屋に鍵をかけて閉じこもって、なにをしてたの?」

 言葉は詰問口調だったが、声音には非難というより心配するような雰囲気が満ちていた。絵莉彩は溜息で安堵を押し隠し、部屋を出る。自分の親が家に帰ってきて、これほど嬉しかったことなど幼稚園の頃以来かもしれなかった。母が帰ってきた、なら、もうこの家に、得体の知れない恐怖の襲ってきたこの家に、一人でいなければならない必要はないのだ。それは今の絵莉彩にとって、他の何物にも代え難い喜びだった。

「・・べつに。ちょっと見たい資料があったから、お父さんの書棚を借りてただけ。鍵をかけたのは、その、見つかったら怒られるかな、って思ったから」

 絵莉彩は肩を竦めてみせた。実際に絵莉彩が父の書棚を漁って、怒られたことはこれまで一度もない。むしろ父は絵莉彩が勉強熱心なのはいいことだと、絵莉彩が書棚を物色していれば、進んで自分の蔵書を貸してくれるものだ。そのまま譲ってくれることもそんなに珍しいことじゃない。絵莉彩が医師への道を志したのも、父の本をそうして子供の頃から頻繁に読んでいた影響が大きいのだ。父は大学で生物学を教えているから、父の書棚には医学に関連した書籍もたくさんあった。

 しかし母は絵莉彩の言葉を信じなかったようだった。いかにも疑わしいものを見るような目で絵莉彩を見てくる。

「・・絵莉彩、あなた昨夜から変よ。何かあったの?大丈夫?何か悩みなり不安なりがあるんだったら、いつでも話してくれていいんだからね」

 本気で心配そうに言われた。絵莉彩はなんとか笑って誤魔化した。私室に姿のない襲撃者が現れたとか、ぬいぐるみが勝手に動き出したとか、出窓の向こうで誰かが覗いてたとか、そんなことを言ったらかえって母は絵莉彩を心配してしまうだろう。もしや精神に異常をきたしているのではないかと、精神科の受診を勧めてくるかもしれなかった。それは絵莉彩にとっては不本意だ。ひょっとしたらそれが事実かもしれなくても、絵莉彩としてはそれは受け入れ難いものがある。自分の知覚に異常があるから自分の周りの世界にも異常が出ているなど、思いたくはない。

 それで絵莉彩は無理にでも明るく振る舞いながら母とリビングダイニングに戻った。ガラス扉を通り抜ける時に無意識に緊張したものの、再び何かが襲ってくるようなことはなかった。ダイニングスペースに足を踏み入れると、リビングスペースにいる明花の姿が視界に入ってくる。まだ帰宅したばかりらしく外出用の上着とスカートを身に着けていたが、手にはもうあのぬいぐるみを持っていた。絵莉彩はその様子に鳥肌の立つような恐怖を覚えたものの、明花は全くそんなことはないようで、今もぬいぐるみを抱きしめては何事かを話しかけたりしている。絵莉彩が恐怖を身の内に押し隠しながらそちらに近づいていくと、その顔がこちらを見上げてきた。

「えりいおねえちゃん、ゆうこちゃんのこときらいなの?」

 無邪気な問いかけだった。しかし絵莉彩はその言葉に咄嗟にどう返したらいいか分からなかった。これが普通の状況であったなら、明花がぬいぐるみに名前をつけて話しかけていても、子供の人形遊びと微笑ましく思えただろう。だがこのぬいぐるみが現実に動き、あのような奇怪な現象を目撃した今となっては、この状況そのものが怖いとさえ思ってしまう。明花は本当に、想像の世界で、このぬいぐるみと会話しているのだろうか。

「・・明花ちゃん。この子、ゆうこちゃんって名前なの?」

 絵莉彩は恐る恐る明花の前にしゃがみこむと、明花と明花の腕に抱かれたぬいぐるみの双方を代わる代わる見た。すると明花は怪訝そうな表情でこくりと頷いてくる。なぜ今更そんなことを訊かれるのか分からないといった表情に見えた。明花にとってこのぬいぐるみの名前がゆうこというのは、すでに自明の理、なのかもしれない。

「そうだよ。ゆうこちゃんっていうなまえだよ。ゆうこちゃんはめいかのおともだちだもん。めいかはゆうこちゃんのことだいすきだもん。えりいおねえちゃんはどうしてゆうこちゃんのことがきらいなの?」

 明花の表情は、彼女が口を開くごとにとても悲しそうなものになっていった。まるで今にも泣き出しそうに見えて、絵莉彩は反射的に首を振ってしまう。恐怖心は押し殺して、できるだけ自然に見えるよう意識しながらぬいぐるみの頭を撫でた。

「ううん。嫌いじゃないよ。どうしてそんなふうに思うの?」

「だってゆうこちゃんがいってたもん。えりいおねえちゃんがゆうこちゃんのこときらって、あそんでくれないんだって」

 そんな、と絵莉彩は大仰に驚いてみせた。

「そんなことないよ。私は明花ちゃんのこともゆうこちゃんのことも大好きだよ。そんなふうに見えたとしたら謝らなくちゃね。ごめんねって、明花ちゃんからゆうこちゃんに伝えておいてくれるかな?明花ちゃんはゆうこちゃんとお話しできるみたいだから。ゆうこちゃんは私には話しかけてくれないもの」

 すると明花は首を傾げてきた。

「えりいおねえちゃんはゆうこちゃんとおしゃべりできないの?」

 うん、と絵莉彩は頷いた。

「そうみたい。ゆうこちゃんは私には全然、話しかけてくれないの。嫌われちゃったのかな?だから仲直りしたいのよね。それで明花ちゃんからゆうこちゃんに話してほしいの」

 絵莉彩は言葉を選んでなんとか明花と話を合わせようとした。そうしながらどうにかして明花がどのようにぬいぐるみと話しているか探ろうとしたのだが、明花は絵莉彩の言葉には頷いただけだった。

「わかった。めいか、えりいおねえちゃんのかわりにゆうこちゃんとおはなししてくるね。えりいおねえちゃん、あとでちゃんとゆうこちゃんにごめんなさいしなきゃだめだからね」

 それだけ言い残すと明花は一人でリビングを出て行った。絵莉彩の私室のほうへ向かって歩いていく。絵莉彩はそれを見送り、結局明花が「ゆうこちゃん」に話しかける様子や、「ゆうこちゃん」が話してくる様子を見ることはできなかった。


 その日以降、とりあえず絵莉彩の身に怪奇現象が再び襲いかかってくるようなことはなかった。

 絵莉彩は何事もなく大学で講義を受ける日々を送り、松谷氏の容態も日増しによくなっていった。絵莉彩の周辺では平穏な日常が続いていた。明花は相変わらずぬいぐるみを友人とする日々を送っているようだったが、それ以外ではなんの異変もなかった。明花は割と活発で社交的な性格で、幼稚園でも通っているいくつかのスクールでも評判は良く、心配しなければいけないようなことは何も起こらなかった。

 しかし一つだけ、変わらないことが不安を呼び起こすことがあった。優莉花の両親と依然として連絡がつかなかったのだ。そのことだけが唯一、絵莉彩と絵莉彩の両親に不安と心配をもたらしていた。日を追うごとに誰の表情にも懸念の色が濃くなり、やがて絵莉彩が再び単身で、姫塚まで赴くことになった。ここまで音信不通の状態が長く続くと、優莉花の両親がどうしたのかが、気がかりでならなかった。

 それは優莉花の通夜が営まれてから、ちょうど二週間後のことだった。


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