襲撃
「――明花ちゃん、今日からしばらくこの部屋で一緒に暮らしていこうね」
家に帰り着くと、絵莉彩は自分の部屋に明花を入れて、室内を示した。
「明花ちゃんのパパは、しばらく病院のお世話にならないといけないから、明花ちゃんは、今日からここで、私と一緒に暮らすことになるの。寂しいかもしれないけど、パパが戻ってくるまでのことだから」
本当はもう戻ってこない可能性もある、しかしそのことはあえて伏せて絵莉彩は明花の前にしゃがみ込み、彼女に告げた。明花は興味深そうに室内をきょろきょろと見回していたが、絵莉彩の言葉には頷いてくれた。
「めいか、えりいおねえちゃんとここでいっしょにねるの?」
「うん。そうよ。ちょっと狭いかもしれないけど」
絵莉彩のベッドは元々、絵莉彩しか寝ないものだ。だから当然、一人用のシングルサイズで、子供とはいえ二人で寝ると少し手狭になる。しかしこの家に客用の予備のベッドなんてものはないから、明花をベッドで寝かせようと思ったら、絵莉彩か絵莉彩の両親が自分のベッドで一緒に寝るしかないのだ。絵莉彩の両親は同じ寝室で、一台のダブルベッドに一緒に寝ているから、明花にとっては馴染みの薄い中年の男女の間に挟まれて寝るより少しでも馴染んでいて年齢の近い絵莉彩と寝たほうが、ゆっくり休めるのでは絵莉彩には思えたのだ。幸いなことに、明花は自分が絵莉彩と寝なければならないと知っても少しも嫌そうな顔はしなかった。むしろ笑顔になって絵莉彩おねえちゃんとだったらいいと言ってくれる。絵莉彩は思わず笑ってしまった。
「そう、よかった。じゃ、明花ちゃん、私のママが夕ご飯を作ってくれてるから、先にお風呂に入ってしまおうか?バレエのレッスンをした後なら、汗かいたでしょ?」
絵莉彩は立ち上がりながら、部屋に入る時に一度は床に置いたショッピングバッグを取り上げた。中には帰りがけに近所のショッピングセンターで買い揃えた子供用のパジャマや下着などの衣類と日用品、絵本とちょっとした玩具などが入っている。明花を一時的に預かるために必要な品々だ。あまり長期化するようなら、松谷氏の居住しているマンションの管理者立ち会いのもと、明花の私物だけでも取りに行くつもりだが、数日のことならそこまですることもないと、必要になるものだけ買ったのだ。
「お風呂、どうする?一人で入れる?私も一緒に入ろうか?」
明花は首を傾げた。少し考えるようにしてから、首を振る。
「いい。めいか、もうひとりでできるもん」
そうか、絵莉彩はその言葉に微笑みかけた。
「偉いね。明花ちゃんはもう一人でお風呂に入れるんだ。じゃ、一人で大丈夫かな」
明花ちゃんが、意外にすんなりと馴染んでくれてよかった。
絵莉彩はそのことに安堵を感じながら、自分の傍らで健やかな寝息を立てている明花をそっと抱き寄せた。もしかしたら馴染んでいるわけではないのかもしれない。絵莉彩の自宅に泊まるのを、旅先でホテルに泊まるのと同じようなものと認識している可能性はある。たぶんそうだろう。そうでなければ、五歳の子供が突然親と引き離されて、家に帰ることもできずにこんなところで宿泊を余儀なくされるのに、あれほどくつろいで楽しそうに振る舞えるはずがなかった。
お風呂に入れてから眠りにつくまで、明花はずっと明るく元気だった。父親のことを気にして沈む様子も、逆にそのことを押し隠して気丈に振る舞おうとする様子もなく、あくまでもいつもどおりにしているように見えた。明花の「いつも」を絵莉彩は知らないから、正確なことは言えなくても、それでも特別な気を遣わなくてはならないようなことは何もなかった。絵莉彩の母が夕食に作ったオムライスも美味しそうに食べていたし、食事が済んでからも絵莉彩の部屋のフルートやバイオリンに興味を抱いた様子で、絵莉彩が求められるままに演奏の仕方を教えてあげたり、曲を聴かせてあげたりしているとあっという間に深夜に近づいてしまった。初めて触るバイオリンに夢中でなかなか寝ようとしない明花をなだめてなんとか寝かしつけ、ようやくベッドに入ることができると、絵莉彩の脳裏に今日起きたさまざまなことが去来していく。特に、理不尽な事件に遭った松谷氏や、昼にテレビで見知っただけの高原恵瑠奈さんの死のことを。
――あれは、やっぱり、あの日の高原さんだったんだろうか?
うとうとと微睡みながら、ぼんやりそんなことを思った。あの日に、優莉花の葬儀の日に会った高原さんの顔なら、まだ覚えている。髪の短い、ちょっとマニッシュな感じのする女性だった。写真が出なかったから断言はできないものの、もしもあのニュースで報じられた、火災の犠牲者の高原恵瑠奈が、自分も会ったあの高原恵瑠奈と同じ人物だったとしたら、優莉花の葬儀に出席した者が立て続けに大きな災禍に襲われたことになる。
――だとしたら、すごい偶然。昔なら、やっぱりこういうのも、死者にあの世に呼ばれた、とか、そういう話になったりするのかしら・・?
そうして祟りとか、怨霊とかの怪談が完成するのか。興味深いと思った。今度、暇ができたら日本の各地に残る怪談とそれらの背景となる歴史的事実について考察してみようかと思う。論文が完成したら、自分でサイトを立ち上げて掲載してみるのもいいかもしれない。夢現の頭のなかにぼんやりとそのためのプロセスが浮かんできた。ぼんやりとそれを弄びながら意識を徐々に手放していく。睡魔は穏やかに忍び寄ってきたが、しかしあと一歩で絵莉彩を完全に支配できるという寸前で、慌てて駆け去っていった。絵莉彩は強力な圧迫感に包まれて目を覚ました。
――なに?
疑問を感じたが、それを考える余裕はなかった。絵莉彩は息をすることすらできなかった。空気を求めてこの圧迫感から逃れようと身じろぐが、手足は何者かに押さえつけられたかのように全く動かなかった。否、押さえつけられている。必死で圧迫感から逃れようと身体を動かしているうちに、感触がそれを伝えてきた。自分は今、誰かに布団越しに馬乗りにされて、首を絞められている。
――殺される!
あまりの事態に絵莉彩は恐怖しか感じなかった。無我夢中で迫りくる死に抗うことしか考えられなかった。動かない身体を必死で動かし、身をひねり、どうにか殺戮者を振り払うと、絵莉彩はその勢いのままに起き上がって悲鳴をあげる。這うようにしてベッドから逃げ出し、部屋を駆け出そうとしたところで、こちらを見つめてくる視線と目が合った。
絵莉彩は身動きがとれなくなった。硬直したように身体が動かない。部屋を逃げ出そうにも部屋を出入りする扉の前に殺戮者の姿があったからだ。室内に照明がないせいで、その誰かの姿は単なる黒い影にしか見えない。しかし漂ってくる殺意は濃厚だった。絵莉彩は思わず後退りした。
すると殺戮者も近づいてきた。絵莉彩が後ずさったぶんだけ、音もなくこちらに近づいてきた。それで絵莉彩の理性が壊れた。絵莉彩は再び悲鳴をあげて逃げ出し、室内にたった一つだけある窓に飛びつく。そこから外に出ようと、手を伸ばしてクレセント錠に手を伸ばした。窓の下に置いてある整理箪笥が邪魔になってなかなか指が錠まで届かない。どうせ使いもしないのだからと、掃除の時でもない限りは普段から閉め切っている窓だ。どうして、今夜に限って鍵などかけておいたのだろうと、絵莉彩の心は徒に逸る。この窓さえ開けられれば、すぐにマンションの共用廊下に出られるのに。すぐに助けを呼ぶことができるのに。
だが絵莉彩のその死に物狂いの行為は、ついに自らを助けることが叶わなかった。絵莉彩は錠を開けるために懸命に爪先立っていた足を、突然誰かに引かれた。バランスを崩して倒れそうになり、咄嗟に箪笥の縁を摑んで背後を振り返る。すると、ベッドの下の暗闇に、殺意に妖しく光る双眸があり、絵莉彩は総毛立った。整理箪笥の上を飾っていた、ぬいぐるみなどを手当たり次第に投げつけてみるが、むろんそんなもので殺戮者の動きを封じることなどできず、絵莉彩は強い力で引かれてその場に引きずり倒された。絵莉彩は必死でその動きに抵抗し、箪笥の取っ手に指をかけ、床に爪を立てて抗うものの、再び上から押さえつけられてそうした些細な抵抗すらもできなくなった。殺戮者は二人いた、そうしたことを考える余裕すらなかった。ひたすら悲鳴をあげ続けることしかできなかった。だがその最後の抵抗の手段さえも、殺戮者に封じられてしまう。絵莉彩は再び息ができなくなった。首に何かが食い込む痛みを感じ、呼吸のできない苦しさを感じ、意識が遠くなった。ものを考えることなどもはやできなかった。白い光が突然に目を灼いても、何も感じなかった。
「絵莉彩!どうした‼」
だからその光とほとんど同時に耳元で走った大声や、直後に感じた頬への強い刺激の意味も、すぐには理解できなかった。
「いったい何があったんだ?隠さなくていい。本当のことを話してごらん」
絵莉彩の父が絵莉彩の顔を心配そうに覗き込んできた。言葉にしていなくても娘の正気を疑っているに違いないと絵莉彩は確信できたから、絵莉彩はなんとなくげんなりとした気分で肩を落とした。
「・・今、話したとおりよ。私が就寝中に悪夢を見て、魘された挙句に錯乱しました。それが事実です」
絵莉彩は項垂れた。絵莉彩としては不本意だったがそうした。それ以外に自分でも説明のつくことではなかったからだ。
――いったい、あいつらはなんだったの?
絵莉彩は項垂れながらも激しく混乱していた。絵莉彩の認識では、確かに深夜に寝ている自分の首を絞めている腕があったのだ。自分の身体に馬乗りになって、誰かが確かに首を絞めていた。絵莉彩は必死でその誰かから逃れようとして、窓を開けようとしたがうまくいかず、そうしているさなかにベッドの下にも潜んでいた別の誰かによって引きずり倒され、再び誰かによって首を絞められた。それが真実だったのだ。
だが絵莉彩の悲鳴を聞いて駆けつけてきた父や母にとっては、そんな人々などいなかった、ということなのだ。父や母が突然響いた絵莉彩の悲鳴に驚いて飛び起きて、絵莉彩の部屋に駆けつけてみると、絵莉彩の部屋のドアは鍵がかかっていて開かなかった、というのである。両親は開かないドアに狼狽え、なかから響いてくる娘の悲鳴に外から必死で呼びかけたものの、絵莉彩が出てくることはなかった。それでも二人が部屋に入ってくることができたのは、明花が室内からドアを開けたからだった。暗闇のなかで明花は絵莉彩の悲鳴に目が覚めて、絵莉彩の起こした騒ぎに怯え、暗闇のなかでドア越しに聞こえてくる両親の声を頼りにドアに近づき、手探りでつまみを回してドアを開けたのだという。明花の背丈では、踏み台を使わないと一人では天井の照明を点けることができず、一人で暗いなかさぞ恐ろしい思いをしたに違いなかった。その明花は今、絵莉彩の母が抱きかかえて両親の寝室に連れて行っている。今夜はもう、明花の面倒は自分たちがみると絵莉彩は母に言われた。母は何も言っていなかったが、絵莉彩の精神が不安定なようでは心配だとその目が告げているように見えた。気持ちは分かると、不本意ながらも絵莉彩は納得している。絵莉彩が逆の立場でもそう思っただろう。悲鳴が聞こえて部屋に飛び込んでみれば、娘が暗い室内で一人で錯乱しているのだ。少なくともそうとしか思えない状況にあった。挙句、文字通り自分で自分の首を絞めていたようでは両親にとっては今の絵莉彩の精神状態よりも気がかりなことはないに違いない。
勿論、両親が自分で自分の首を絞める絵莉彩を見たわけではない。だが室内で錯乱していた娘の首筋に絞めた指の跡が残っていれば、それは娘が自分でつけた痕だと判断するのが普通だろう。絵莉彩の部屋はドアも窓も内側から鍵がかけられていた。誰かが入ってきたはずはないし、明花のはずもない。絵莉彩以外に絵莉彩の首を絞められた人間はいないのだ。
絵莉彩はそっと自分の首筋に手を当てた。思い出すだけで今でも鳥肌が立つような寒気がする。両親が飛び込んできて意識を取り戻した後、すぐに室内のスタンドミラーで見た自分の姿が頭を過ぎった。首筋にはくっきりと、自分の首を絞めていた誰かの指の痕が残っていた。両親が飛び込んでくるのがあと少し遅ければ、自分はあのまま得体の知れない何者かによって絞め殺されていたかもしれない、そのことが直截に身に迫って実感でき、背筋が震えるほど恐ろしかった。
――さっきのあれは、いったいなんだったの?
絵莉彩にはわけが分からなかった。自分が見たあの影は、あの殺気は、あの手は、あの視線はいったいなんだったというのだ。あれが夢だったはずはない。夢であれば、いくらなんでも自分の首筋にこんなはっきりと痕が残るようなことはないからだ。では、やはり誰かが自分に馬乗りになり、自分の首を絞めていたのか。ならばその誰かは、いったいどこから現れたというのか。そしてどこに消えたのか。
絵莉彩は怖かった。これほどの恐怖を感じたことはかつてなかった。もしも自分を襲ったのが、単なる行きずりの暴漢であったなら、ひょっとしたらこれほど恐ろしくはなかったかもしれない。しかし絵莉彩を襲ったのは、そんなものではないのだ。絵莉彩は確かに誰かに襲われた。しかしその襲った誰かを、両親も、一緒に寝ていた明花も見ていないのだ。それが怖かった。どこから現れたのかも分からない、どうやって去ったのかも分からない何者かに絵莉彩は襲われたのだ。誰も何も見ていない、それどころか絵莉彩の必死の抵抗は、絵莉彩以外の者には絵莉彩の精神錯乱としか見えなかっただなんて。では自分はいったい、この部屋で何に襲われたというのだ。何が自分の生命を奪おうとしていたのだ。ここにはいったい、何がいたというのか。
――怖い。
絵莉彩は自分で自分を抱いた。寒いわけでもないのに、震えが治まらなかった。自分の家のなかがこれほど恐ろしいと思ったのは、初めてのことだった。




