意識不明
病院に到着すると正面玄関前は報道陣でごったがえしていた。
やはり、と思う。そうだろうとは思っていたと絵莉彩は生まれて初めて警察に感謝した。絵莉彩が単独で明花の手を引いてタクシーで病院に到着していたら、足が地面に降りる前からカメラのフラッシュに曝されていたかもしれない。なにしろ明花はこの前代未聞の通り魔事件の被害者の、娘だ。取材する価値は充分にあるはずだ。
バレエスクールに明花を迎えに行った時、明花は父親を襲った理不尽な凶行のことなど何一つ知らない顔で、どうして絵莉彩おねえちゃんが迎えに来るのかと訝しんでいる様子だった。絵莉彩は何も知らない風情の明花に父親のことをどう説明したもんかと悩んだが、その悩みは悩む必要もなかった。バレエスクールの講師が呼んだ警官が、絵莉彩が来てから明花に説明してくれたからだ。パパが怪我して病院に行ったから、これから絵莉彩おねえちゃんとパパのいる病院に行くのだと、とても優しい感じで、説明を代弁してくれた。警官のほうが絵莉彩よりもスクールに到着するのは早かったらしい。彼らだけで明花を病院に連れて行こうとしなかったのは、スクール側の事情だろう。預かった大事な子供を、保護者の許可なく第三者に引き渡すわけにはいかない、ということなのかもしれない。絵莉彩の名前が緊急連絡先として提示されている以上、松谷氏が意識不明で保護者の役を果たせない今は絵莉彩がスクール側にとっては保護者代理だ。それで絵莉彩のケータイに電話があったということなのだろう。絵莉彩は自分の学生証を示して自分の身元を証明すると、松谷氏の代わりに明花を引き取って警官とスクールを後にし、警察の車でこの病院に辿り着いたのだ。この病院が、あの事件が起きた駅からいちばん近くて大きく、設備の整った病院なのだという。それで事件の被害者たちは、犠牲者の遺体も含めて全員がこの病院に運び込まれたということだった。警官に案内されていたから、病院に入る時はスムーズで、入り口にたむろしていた報道陣に囲まれることもなかった。病院側の配慮なのかどうかは分からないが、絵莉彩たちは路地に面していて外部の人間は入りにくい、病院の職員用出入り口から院内に入ることができたからだ。
明花の様子には、全く変わったところはなかった。あの通夜の日、一緒に将棋を指した時と変わることのない無邪気な様子だった。今も、病院内を興味深そうな顔で見回しながら歩いている。いかにも初めて来たこの場所に興味いっぱいといった感じで、その稚い表情には昨日の異常さは全く見られない。聞けば、明花は今日はちゃんと幼稚園にも行ったという。父親と一緒に登園し、幼稚園が終わった時に迎えに来た父親と一緒にいちど自宅に帰ってお菓子とミルクの間食を摂ったらしかった。松谷氏は企業の営業職に就いていて、外回りが多いからそうしたこともできるのだろう。それから松谷氏にバレエスクールまで送ってもらい明花は父親の身に起きた悲劇など知らないままずっと一心にレッスンを受けていたのだ。レッスンが終わったのは六時頃のことだったらしいが、しかし終わっても父親は今度は迎えには来なかった。バレエの講師にパパが迎えに来られなくなったから絵莉彩が来るまで待ってくれと言われたらしい。どうして来られないのかと聞いても講師は教えてくれなかったと、明花はとても不満そうに話していた。しかし警官がパパは怪我をして病院だと話すと、それなら仕方がないのだと納得しているようだった。パパは痛くて辛いんだからと、大丈夫かなと、彼女なりに父親を心配しているようだった。その様子は本当に当たり前の子供で、それどころか普通の子供よりも思いやりのあるいい子に見えた。だから絵莉彩はなおさら昨日との様子の違いに苦しんだ。これは、いったいどういうことなのだろう。昨日か今日か、どちらかの明花は、本来の明花ではなかったのだろうか。明花が無理して作っていた、偽りの明花だったのだろうか。だとしたら、彼女が故意に自分を偽る理由はなんだろう。
「・・明花ちゃん、明花ちゃんは、どこか、辛いところはないの?」
絵莉彩は松谷氏の治療が続いている集中治療室がある廊下沿いの長椅子に、明花と並んで座って彼女に話しかけた。意識のない松谷氏は当然まだ面会謝絶で、明花と会わせられる状態ではない。絵莉彩がなんとか、パパは寝ているみたいだねと言って明花を納得させたが、そのことがかえって絵莉彩の心を落ち着かなくさせた。もしもこのまま、松谷氏が意識を取り戻さないまま死んでしまったとしたら、今こうして明花を廊下に留まらせている自分は、子供から親に会う機会を永久に奪おうとはしていないだろうか。
だが絵莉彩のそんな内心など知る由もなく、明花は座ったまま首を傾げて絵莉彩を見上げてきた。
「つらいところ?・・ううん、めいかはね、どこもいたくないよ。きょうはね、へいきなの」
辛くないかという絵莉彩の問いを明花は痛いところはないのか、という意味だと解釈したようだった。言葉の意味がよく分からず、パパが怪我をしたから明花は怪我をしたりしてはいないかと訊かれているのかと思ったのかもしれない。だが絵莉彩はその言葉にふとひっかかった。
「今日は平気なの?昨日は平気じゃなかったの?」
明花は頷いた。
「きのうね、めいかね、かぜひいたの。あさからね、こわいゆめみてね、あたま、ぼーっとなってね、きもちわるかったの。そしたらね、パパがね、かぜひいたんだよって、いった」
風邪?今度は絵莉彩のほうが首を傾げてしまった。昨日の明花は、とてもそんな風邪などひいているようには見えなかったからだ。
「明花ちゃん、昨日、風邪ひいたの?」
明花はもういちど頷いた。
「そう。じゃあ、昨日は苦しかったね。ごめんね、気づかなくて。明花ちゃん、風邪ひいてたんだね。だから私が行っても会いたくなかったの?」
明花は首を傾げてきた。
「えりいおねえちゃん、きのう、きたの?」
「うん。行ったよ。でも、明花ちゃんは会いたくないって言ってたから、会えなかった。だから、きっと、すごく具合悪いんだろうな、って、思ったの」
えー、明花は本当に驚いたような顔で絵莉彩を見てきた。それから慌てたように首を振ってくる。
「めいか、そんなのしらない。えりいおねえちゃんがきたのなんてしらないもん。あいたくないなんていわないもん」
明花は懸命にそう訴えてきた。その様子に絵莉彩は少なからず戸惑い、そして明花を抱き寄せた。そうなの、ごめんね。じゃあパパが明花ちゃんを休ませるために嘘をついたのかな、と口から出任せを述べる。安心させるために明花の髪を撫でると、明花はやっと落ち着いたように絵莉彩を見て笑ってきた。
だが絵莉彩は逆に落ち着かなくなった。明花のこの様子はどういうことだろう。昨日のあれは、いったいなんだったというのか。なぜたった一日で、これほど極端に明花の様子が変わってしまったのだろう。
松谷氏の容態は、絵莉彩が病院にいるあいだに大きく変化することはなかった。危篤といえるほど重篤に悪化することもなかったが、かといって快復して意識が戻ることもなく絵莉彩は病院に着いてから三十分ほどで両親と一緒に帰宅することになった。自宅には明花も連れて帰ることになった。優莉花が死に、松谷氏も意識不明とあっては、自分たち以外に明花の面倒をみる人間はいないのだから。一応、病院の人間に松谷氏の親族が現れた場合は連絡してくれるよう伝えてあるものの、絵莉彩はその可能性は極めて低いように考えていた。松谷氏はかつて自分の親族は都心には一人もいないと言っていた。だからこそ緊急の時には絵莉彩を頼りたいのだと。ならば、少なくともいざという時にすぐに駆けつけられる範囲に彼の親族は誰一人としていないことになる。彼の親族がいるとするなら、その人物はよほどの遠方に居住しているはずだ。いや、ひょっとしたら――。
絵莉彩は自分が手を握っている明花を見下ろした。無邪気に自分の手を握ってきたこの小さな子供の先行きを思うと暗澹たる思いがしてくる。この子はひょっとしたら、そう遠くないうちに天涯孤独の孤児になってしまうかもしれないのだ。そうなってしまったらこの子はどうなってしまうのだろう。やはりどこかの施設に入ることになるのか、それともうちで引き取ることになるのだろうか。そうなった場合、この子は幸せに生きていけるのだろうか。
――松谷さん、お願いです。目を覚ましてください。早く元気になってください。
それを思えばそう祈らずにはいられなかった。今の絵莉彩にできることはそんなことぐらいしかない。明花のためにも、絵莉彩は松谷氏に目を覚ましてほしかった。元気になって、再び社会に戻ってきてほしかった。いや、明花のためだけではない。絵莉彩は松谷氏の人柄もとても好いていた。彼をとても善良な人だと思っていたし、彼に死んでほしくないというのも、心からのものだった。
――どうか、お願いします。目を覚まして。




