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通り魔

「――こういう時って、どういうふうに接してあげるのが適切なんだと思う?」

 絵莉彩は紙コップのコーヒーに口をつけながら向かいに座る愛由夏を見た。ランチ時のカフェテリアは多くの学生で混雑しておりかなり騒々しいが、会話に不自由するというほどでもない。というよりも、ここでしか会話はできない。愛由夏と自分は学部が違うから、昼休み時でもない限りなかなかスケジュールが合わないのだ。

 愛由夏は絵莉彩の問いかけに首を傾げてきた。

「うーん、そうだな。私だったら、まずはとりあえずその子がやりたいようにやらせてみるよ。それから少しずつ話をしていって、心を開いてもらえるよう努力してみるかな。まずはあなたを受け入れてあげるっていう姿勢をみせることが大事だからね。それがないとできる会話もできなくなってしまうから」

 愛由夏の言葉には自信など感じられなかった。仕方ないのかもしれない。愛由夏が心理学部に在籍しているといっても、彼女も自分と同じ年なのだから。彼女もまだ、自分と同じく基礎を学んでいる段階だろう。具体的にどういう対処するべきかなんて、まだよく分からないに違いない。

 それでも絵莉彩としては愛由夏に相談したかった。子供の心理とかそういう事柄には彼女のほうが詳しいというだけではない。愛由夏に相談すると絵莉彩が落ち着くのだ。愛由夏はどんな問いかけをしても真剣に聞いてくれる。曖昧な答えに逃げずいつもきちんとしたアドバイスをくれた。だから彼女に話せばどんな悩みでも孤立せずにすむのだと思えたのだ。

「ってことは、とりあえずそっとしておいて、干渉しないほうがいいってこと?ほっといて、様子を見ていたほうがいいの?」

「あまりほったらかしにしておくのもよくないけど。そうだね、干渉しすぎるのもよくないかもね。あまり干渉しすぎちゃって子供が萎縮しちゃうと後で問題になることもあるから。でもすごいね、その子、よっぽどお母さんに懐いてたんだろうね。そんなふうに荒れちゃうくらい」

 そう、なのかな。絵莉彩は思わず考え込んでしまった。そうなんだろうか、と思えてしまう。勿論、今の自分の話だけを聞けば明花がとても自分の母親に懐いていたが故の異常と誰もが考えるのだろうが、通夜の日に明花の言葉を直接聞いている絵莉彩にはとてもそうは思えなかった。明花は通夜が始まる前からママは嫌いと明言していた。母親の傍にいたがる様子も見せず、亡骸の安置された仏間でも退屈そうだった。あの時の様子を思い出せば、明花が優莉花の死で心に異常をきたすとは思えない。明花が中学生くらいなら強がりや虚勢から演技をしていたとも考えられるが、あの子はまだ五歳だ。五歳の子供に、他人にそれと気づかれないような演技が自然にできるものだろうか。きちんとした台本のある舞台なら、あるいは練習次第で可能になるのかもしれないが、あの場はそんな場所ではない。

「・・そんなふうには、見えなかったけど。ねえ、愛由夏、そうだとしたら、五歳の子供が母親を好きなのに嫌いと嘘をつく理由って、どんなのがあるの?」

 え、と愛由夏は目を瞬いた。

「なに、それ?それもその子のこと?その子が、そんなふうに言ってたの?」

 絵莉彩は頷いた。

「そう。だから余計に気になって。母親が嫌いな子が母親が死んで、心を病むことがあるのかと思って」

「あー、それは確かにね。本当に真実、その子がお母さんが嫌いなら、かえって母親が死んで喜びそうだもんね。まあ、人間関係は外からは分からないから。小さい子だって親と仲違いすることぐらいあるだろうし。小さいからこそ、母親の死というものがきちんと理解できなくて、つい思ったままを口にしてしまうってこともあるかもしれないよ」

 愛由夏の言葉はあっさりとしていた。彼女は絵莉彩ほど明花の言動を気にした様子ではなかった。では、明花の言動から彼女に対する虐待の有無まで疑った絵莉彩は少々早とちりなのだろうか。確かに見た目には、明花にそんな様子はなかったし、その心配はないと思う、いや、そう信じたいのだが。

 結局、絵莉彩が愛由夏から得られた助言は、とりあえず静かに様子を見て、明花を受け入れること、それに尽きた。別れ際に、愛由夏は児童心理の教授にも相談してみて、もっといい対処法があったら教えてあげるとも言ってくれたが、これ以上の接し方はないようにも絵莉彩には思えてきた。とりあえず今は、明花と向き合い、明花を理解する以外にできることがあるとは思えない。心の問題が通常の疾病とは異なることぐらいは絵莉彩にも分かる。薬を与えてすぐに症状が改善するようなものではないはずだ。対処方法だって一種類ではないだろうから、まずは明花の様子を見ること以外にできることがあるとも思えない。

 愛由夏はせっかく相談してくれたのにいい助言ができなかったことを申し訳なさそうにしていたが、そう思えたから絵莉彩はさほど気にならなかった。愛由夏に礼を言い、午後の講義に出るためにカフェテリアを退出しようとすると、扉をくぐる直前に拾った音声に足が止まる。音声が聞こえてきたほうを振り返ると、壁際のテレビが昼のニュースを映し出していた。男性アナウンサーの顔が画面に大写しになっており、その下に白字でテロップが出ている。住宅全焼、一家四人死傷、とあった。

 テロップの文字を認識できると同時に画面が切り替わった。夜空を焦がす赤い炎が画面に映し出されている。炎は家全体を覆っており、絵莉彩の見ている前で屋根や壁が燃え落ちていった。その光景に、アナウンサーの解説と字幕の文字が被さっていく。

 ――恵瑠奈さん・・、ひょっとして、お葬式の時の・・?

 気がついたら絵莉彩はテロップを凝視していた。燃えているのは大森という地区にある民家、古い木造の二階建て、被災したのは住んでいる家族六人のうち四人、無事に逃げ出せたのはそのうち一人、焼け跡から遺体で見つかったのは三人、高原という七十代の女性が煙を吸って重傷だと出ている。年齢からするとたぶん家主の高原氏の妻だ。その家主と孫の恵瑠奈、の三人が遺体で見つかったとある。年齢は恵瑠奈が二十七歳、美礼奈が二十五歳となっていた。おそらく姉妹だろう。恵瑠奈のほうは名前の字も、字幕に出た大まかな住所も、年齢も職業も一致していた。顔写真は出ていなかったが、それ以外の全ての情報が、あの日に弔問に訪ねてきた高原恵瑠奈と一致していた。大森は姫塚ほど寂れてはいないが、それでもここまで一致する以上、とても別人とは思えない。

「・・絵莉彩、どうしたの?知っている人?」

 傍らから声をかけられて、絵莉彩は意識をカフェテリアに戻した。絵莉彩がテレビに見入ってしまったからか、愛由夏が心配してくれたらしい。絵莉彩は首を振って気象情報に切り替わった画面に背を向け、彼女と外に出た。講義棟へと続く小道を歩きながら愛由夏に話しかける。

「優莉花の葬儀の時、弔問に来てくれた女性と、今の火事で亡くなった女性が、同じ名前だったから、ちょっと気になっただけ。同じ人かなって」

 へえ、と愛由夏が少し興味深そうな表情をした。

「同じ人だったの?」

 さあ。絵莉彩は曖昧に答えた。

「分からないわ。写真は出てなかったから」

 首を傾げてみせて、じゃあねと、絵莉彩は小道の分岐点まで来た時に愛由夏と別れた。医学部と心理学部は講義を行う棟が異なるから、絵莉彩は愛由夏と同じ部屋で講義を受けることはない。それで別れた後は絵莉彩は愛由夏に会うことなく午後の講義を終え、まっすぐに帰宅した。医学部の学習量は多い。日々の講義に乗り遅れないようにするためには家に帰ってからも自習が欠かせなかった。それに時間を取られるために絵莉彩は大学に入ってからはサークル活動のようなことはしていない。高校時代は吹奏楽部でフルートを担当していたものの、自分の技術がプロを目指せるほどのものでもないと悟ると、それ以上は続ける気になれなかった。ならば大学生である以上、学業に専念するべきだ。

 ――それにしても遅いわね。

 今日までの復習をあらかた終えてしまうと、絵莉彩は軽く休息をとるためキッチンでやかんに湯を沸かし、リビングで紅茶を飲んだ。今日の昼過ぎには帰宅してくるはずの両親が、七時近くになっても帰ってこない。電話のひとつもなかった。自分と違い姫塚行きに慣れていない両親が、乗り換えに手間取っているのかと思えたが、行く時ならいざ知らず帰り道で迷うとも思えない。どうしたのだろうと思った。一度、ケータイに電話してみようか。今どこにいるのか聞いたほうがいいだろう。いい加減、絵莉彩も空腹になってきた。夕食は両親が帰ってきてから三人で、と考えていたから、帰ってからまだ何も食べていない。あまり遅くなるようなら先に何か作って食べようかと思う。

 紅茶を飲み終えてしまうと、絵莉彩は自室に戻り、明日の講義に備えた予習のための書籍類を机の上に広げると、鞄に入れておいた自分のケータイを取り出した。登録してある母親の番号を画面に呼び出して、通話ボタンを押す。呼び出し音は長く続いた。あまりの長さにまだ飛行機か新幹線のなかだろうかと思いかけたが、通話が繋がるとどうもそうではなさそうだと理解できた。移動中の車内や機内にしては母の背後が静かだ。単に何か、すぐには電話に出られない事情があっただけだろう。

「――絵莉彩、どうしたの?」

 母の声は小さかった。周囲を憚っているような囁き声だ。あまり堂々と電話をかけにくいところにいるのかもしれない。絵莉彩はそう察して、手短に用件を話すことにした。

「べつに。今どこにいるの?何時頃に帰ってくるのかなあって」

「・・もう東京には着いてるわ。というよりさっき着いたところよ。今は病院。様子を見てから帰るわ。遅くなるかもしれないから、夕飯は適当に食べてなさい。キッチンにレトルトがいくつかあったはずだから」

「病院って、なにかあったの?お父さんの具合が悪くなったとか?」

 病院にいるとの言葉に絵莉彩は驚いて母に訊き返していた。いったいどうしたのだろう。食中毒か何かだろうか。昼食にでもよくないものを食べたのか。今は夏ではないが、食中毒の危険は一年中あるし、それ以外にこんなにも急に、母が自宅にも帰らず病院に直行する理由は思いつかなかった。

「違うわよ。絵莉彩、あなたひょっとしてまだテレビのニュース見てないの?」

「テレビ?見てないわよ。べつに見たい番組なんかないし」

 電話越しに母が首を傾げた気配があったので、絵莉彩は頷いた。テレビなんか今日はまだあのカフェテリアで垣間見たニュース以外見ていない。そもそも絵莉彩は普段からテレビは滅多に見ない。ニュースや天気予報はネットで調べたほうが便利だし、ドラマやバラエティに興味はなかった。

「そう?じゃあ今すぐ、・・ああもう、時間は終わったかしら。それならネットで調べてもらったらまだ出てるかもしれないわ。あのね、仁輝さんが大変なことになったのよ。私たちは出発前に空港の待合室のテレビでそれを知ったんだけどね。到着してすぐ病院に向かったの。まだ危ない状態らしいから、落ち着いたらまた電話するわね。絵莉彩は家にいていいから、いい子にしてるのよ」

 母はそれだけ言うと一方的に電話を切った。絵莉彩が口を挟む間もなかった。まだ訊きたいことがあったのにと少し不満に思ったが、再度かけなおすようなことはせず電話機を鞄に戻してしまうと、すぐに机に駆け寄ってパソコンの電源を入れた。検索サイトを表示させていつも見ているニュースサイトに繋ぎ、入力窓に松谷仁輝と打ち込んでみる。すぐに検索結果は出てきた。やはりニュースを見るにはネットがいちばんいい。テレビでは、点けた時に知りたい情報が流れているとは限らないからだ。

 ――通り魔、そんなことが起こってたの?

 絵莉彩は愕然として検索結果に見入っていた。表示された数はかなり多かった。つまりそれだけの大事件だと世間に認識されているということだ。いくつか配信時刻の新しいものを選んでクリックしていく。事件が起こったのは今日の午後四時頃、ちょうど絵莉彩が午後の最後の講義を終えて帰宅した頃のことだ。大学から地下鉄で十分ほどの場所にある大きな駅で白昼堂々と通り魔が現れて大勢の人々を殺傷したらしい。車で駅前ロータリーから駅に突っ込み、ちょうど改札口のところにいた人々を轢いた挙句、逃げ惑う周囲の人々をナイフで次々に刺していったのだという。犯人は男で、すでに取り押さえられたが動機は不明。意味不明なことを繰り返し喚いており薬物中毒などが疑われるような趣旨のことが、ほとんどの記事には記載されていた。

 ――松谷さん、意識不明って・・。

 絵莉彩は自分が見たものが信じられなかった。記事によればこの事件で犠牲になったのは八人、半数が乱入してきた車に轢かれて殺され、もう半数が降りてきた通り魔のナイフで刺し殺されている。犠牲者の年齢や性別はさまざまで、生後半年の乳児もいれば八十代の老人もいた。自分が平和にこの部屋で勉学に励んでいた間、自分もよく利用しているこの駅でこんな事件が起こっていただなんて。この駅は絵莉彩もよく使う。ここから都内でも有数の大きな繁華街に行けるからだ。買い物や遊びで、この駅を利用する人間は毎日かなりの数いるはずで、運が少し悪ければ、あの場にいて殺されていたのは自分だったかもしれない。そう思うと絵莉彩は全身に鳥肌が立つのを感じた。そんなこと、考えるだけで恐ろしい。

 しかし松谷氏はこの事件に巻き込まれているのだ。この、自分だったらと思うと身の毛もよだつような事件に。記事によれば、松谷氏は車に撥ねられて生命はあるものの意識不明の重体だという。重体あるいは重傷の人間は彼のほかに三人いた。いずれも意識はなく極めて危険な状態なのだという。顔写真は出ていなかったが、絵莉彩にはわざわざ写真で顔を確認することでもなかった。名前と年齢が一致していて、今も両親が彼の病院にいるのなら、この松谷仁輝氏が明花の父親の松谷仁輝氏で間違いなどあるはずがない。明花の名前はどこにも出ていなかった。単に負傷はしていないから報道されていないのか、現場にはいなかったからそもそも事件には遭っていないのかは分からない。現場にはいてほしくない、というのが絵莉彩の率直な感想だった。母親を喪ったばかりで、父親が殺されるかもしれないという瞬間を目の当たりにするのは、あまりに惨い。

 居ても立ってもいられなくなってきた。明花は今どうしているのだろう。あの子は今、どこにいるのだろうか。昨日の今日だし、もう夕方だ。やはり自宅だろうか。それとも、幼稚園に行っていて、まだ迎えに来ない父親を待っているのか。あるいは絵莉彩の両親と病院にいるのだろうか。急いでそれを知らねばならないと思えた。パソコンの前を離れ、鞄からしまったばかりのケータイを取り出す。まずはまた両親に電話して、明花がそこにいるかどうかを訊こうと思ったが、それより早く着信があった。見覚えのない番号だった。登録されている番号ではない。一瞬だけ躊躇したがすぐに通話ボタンを押した。

「もしもし、どなたですか?」

 すぐには名乗らず相手の返答を待つ。間違いの可能性もあるから、誰だか分からない電話には絵莉彩はすぐには自分の名前を言わない習慣ができていた。電話の相手はやや遠慮がちに大園絵莉彩さんですかと訊ねてくる。番号だけでなく相手の声にも聞き覚えはなかったが、すぐに相手の素性は知れた。バレエスクールの職員だった。父親の代わりに明花を迎えに来てほしいという要請だったのだ。そういえば松谷氏から絵莉彩のケータイの番号を緊急連絡先として使わせてほしいと頼まれたことを思い出した。絶対に迷惑はかけないから緊急の時に連絡のつく親戚ということでいてほしいと。絵莉彩は拒まなかった。それで明花の通うバレエスクールの職員に自分のケータイの番号が知られているのだろう。昨日の今日で、バレエスクールに行けるほど明花が元気になれたのかと絵莉彩は疑問に感じたが、いま明花がそこにいるのなら放置しておくわけにはいかなかった。松谷氏は娘を迎えに行きたくともいけないのだから。すぐに行きますと答えて電話を切る。手早く出かける支度を済ませると、なんとなく思いついてリビングのテレビを点けた。ひょっとしてニュースが延長されているのではと思ったが、案の定、夕方のバラエティ番組は特別報道番組に切り替わっていた。事件現場となった駅前の空撮映像が流れ、改札前に佇むリポーターが緊迫した表情で現在の状況を伝えている。駅の通路には、まだ衝突の衝撃で前部の壊れた車や犠牲になった人々の血痕が生々しく残されていた。場所が見覚えのある場所だけに、そういった常ならざるものを直接目で見ると余計に恐怖を感じる。

 テレビを点けた時には死者の数が一人増えていた。意識不明の重体だった男性が亡くなったようだった。一瞬ひやりとしたが、名前と年齢が明らかに松谷氏ではなかった。そのことになんとなく安堵してテレビを消した。松谷氏がまだ生きているのなら、いい。とりあえず今は、そうであれば絵莉彩はよかった。母親を亡くしたばかりで父親までもが常軌を逸した事件で喪われたとあっては、あまりにも明花が可哀想すぎる。



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