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姫塚

 (次は終点、、姫塚です。お出口は左側です。足許にお気をつけください)

 車内アナウンスが響き渡ると、しばらくして電車の速度はゆるやかになった。は車窓を流れる景色が完全に止まるのを待ってから、席を立つ。ゆっくりと通路を歩いて開いたドアからホームに出た。姫塚は終点だ、焦ることはない。事実、乗り合わせた他の客たちも皆、誰もがゆったりとした足取りでホームに向かっている。

 ――やっと着いたわね。

 絵莉彩はホームで溜息をついた。肩にかけた旅行鞄をかけ直し、辺りを見渡す。コンクリートの地面があるだけのホームは短く、狭い。そこにたった今まで乗っていた一両編成の電車が停まっている。それ以外には特に見るべきものもない。そもそもここは電車が通っていること自体を奇跡と称えていいような田舎の集落だ。羽田から飛行機で一時間以上、そこからさらに高速バスと電車を二回も乗り継いでやっと到着できる場所で、到着しただけでなんともいえない達成感が込み上げてくるのを感じる。ここまで四時間以上かかった。これほど長い時間をかけて移動したのは久しぶりのことだ。

 達成感があると、同時に早くも疲労感が湧いてくる。目的地はまだまだ先なのだと、絵莉彩は気を引き締めた。ホームを歩いて、出迎えてくれた駅員に切符を渡し、改札を出る。改札の外は、自動販売機と公衆電話、それにプラスチックのベンチが二つ置かれただけの殺風景な待合室があるだけだった。待合室には誰の姿もない。電車が来たことで慌てて外に駆けていく人々もいなかった。待合室しかないと、わざわざ外に出なくても駅前の様子はよく見える。電車が到着したというのに、バスもタクシーもいない。駅前広場などというものはなく、駅の外には片側一車線の道路が通っているだけだ。その道路もまた、閑散としている。車の一台も通っておらず、向かいに見える商店も、すでに営業しているようには見えなかった。前に来たときは美容院とラーメン屋が一軒ずつ、開いていたはずだが、ラーメン屋のほうはシャッターが閉ざされており、美容院に至ってはすでに跡形もなくなっていた。美容院があったはずの場所は駐車場になっており、そこに幾台かの乗用車が停められている。絵莉彩とともに電車を降りた乗客たちは、我先にと駅を出ると、誰もがその駐車場に向かって足早に歩いていった。これから各々、車に乗り込んでそれぞれの目的地へ向かうのだろう。この辺の住人は、公共交通機関など使い慣れていないかもしれない。絵莉彩はふと思った。姫塚集落にはバスも一日に二本しかやってこない。車なしに生活できる場所ではなかった。

 絵莉彩はその様子を見るともなしに見やると、自らは駅を出ず待合室に残った。絵莉彩の住んでいる辺りではもはや重要文化財同然に希少なものとなっている公衆電話に向かい、ハンドバッグから財布を出して十円硬貨を数枚取り出す。姫塚集落では今でも携帯電話が通じにくい。全く繋がらないわけではなかったが、雑音が酷くて聞き取りにくいことがよくあった。屋外で確実に会話をしたいと思ったら、今でも公衆電話を使うのがいちばん確かなのだ。絵莉彩は受話器を取り上げて十円玉を電話機の投入口に落としこむと、壁の広告を見ながら番号を押していく。地元のタクシー会社の番号だった。駅から絵莉彩の目的地であるの家までは少し距離がある。今から歩いて行ったら陽が暮れてしまうかもしれない。姫塚にはレンタカー業者なんていないのだから、タクシーを呼ぶのがいちばん早かった。今までは優莉花の家に電話して迎えに来てもらっていたが、今日訪ねてきた用事を思えば、さすがに今は送迎を頼むわけにはいかない。

 それでタクシー会社に電話して一台、車を頼むと、絵莉彩は受話器を戻して傍の自販機で缶コーヒーを一つ買った。券売機も自動改札もない姫塚駅で見ると、自販機でも最新の設備に見えるから不思議なものだ。実際、姫塚集落で飲み物を買おうと思えばこの待合室がいちばん品揃えがいいことを絵莉彩はよく知っている。この待合室はこの集落で数少ない社交場のひとつなのだ。ここから学校や仕事に行こうと思えば、必ずといっていいほどこの駅を使うことになる。ここはこの集落の人間がほとんど毎日のように訪れる場所、玄関のようなものなのだ。

 絵莉彩はそんなことを思いながら待合室のベンチに腰を下ろし、缶を口に運びながら壁に貼られたポスターを眺めた。ずいぶん色褪せてしまった観光ポスターが何枚も貼られている。姫塚神社や、姫塚公園という文字はまだ残っていたが、わざわざここを訪れる人はいないだろうと絵莉彩は思わざるをえなかった。実際、絵莉彩はどの観光地もよく知っているが、観光客の姿を見かけたことはない。この駅に降り立ち、姫塚集落に入っていくのはほぼ全員が地元の者だ。そうでなければ帰省客か、絵莉彩のような集落の親戚を訪ねてきた者とだいたい決まっている。純粋に旅行だけが目的で訪れた観光客など絵莉彩はまだ一度も見たことがない。まったくこの土地と関係なくここを訪れる者といえば、業者だけだった。郵便や宅配便の配達員や、自販機の補充を行う人たちばかりで、その人たちは駅など使わない。観光ポスターなど見ることもないだろう。

 それでも他に見るものもないと、自然に視線はそのポスターに向かってしまう。ポスターに掲載されているのはそれらの自称「観光地」の施設や渓谷のような場所だったが、それらを紹介するという体裁で何人かの女性モデルも映っていた。モデルといっても有名な人物は一人もおらず、半分以上は地元の人だということも絵莉彩は知っている。色褪せた写真はどれもかなり古かった。写真に残された若さでいたことが信じられないような年齢の者たちがほとんどで、そのうちの一人は他ならぬ優莉花だった。姫塚神社をPRするポスターで、巫女姿で微笑んでいる少女がそうだ。十年前、まだ十三歳だった頃の彼女が、あどけない表情をこちらに向けて微笑んでいる。

 ――あんな気味の悪い神社、わざわざ観光に来る人なんているわけないんだけど、でも、けっこう貴重な経験ができちゃったんだ。あの時だけはこの村の生まれでよかったって思えたもの。私の顔じゃ、モデルなんてありえないことだし。

 当時、小学校の夏休みを利用して初めて一人だけで訪ねていた絵莉彩に優莉花はそう言って笑っていた。確かに、平凡な容姿で決して美人というわけではない優莉花に、モデルになる機会は他になかっただろう。笑うと愛嬌のある可愛い顔立ちをしているとはいえ、優莉花はお世辞にも商業雑誌で活躍できるようなルックスではなかった。しかし気味が悪いといいながらも優莉花が姫塚神社に愛着を持っていることは絵莉彩もよく知っている。小さい頃は絵莉彩も遊びに来るたびに優莉花とよくその神社で遊んだからだ。姫塚神社の境内は子供にはけっこう広く、駆け回って遊ぶには最適だった。都会の神社のように厳格に管理されているわけでもないから、逆に神社にも鎮守の神様にも、親しみを持つことができていた。

 ――被写体として写っているモデルが亡くなったら、あのポスターはどうなってしまうんだろうか。

 ふいに絵莉彩はそんなことを思ってしまった。亡くなった人をモデルにしている観光ポスター。なんだか縁起の悪いものを感じてしまう。するとやはり、あのポスターは撤去されてしまうのだろうか。そしてまた、新たに誰か別の少女をモデルにしたポスターが掲示されるのか。それはやめてほしいと絵莉彩は思った。あのポスターは今や、優莉花の形見に近い。彼女が死んだからといって、剥がして捨てるなんてそんな惨いことをしてほしくはなかった。

 だが、駅のポスターの行方を絵莉彩にどうにかできるはずもなく、絵莉彩は溜息をついてコーヒーを飲み下した。すると、視界の端に人影が映る。呼んだタクシーの運転手かと思って振り返ったが、待合室に入ってきたのは一人の老女だった。

 こんにちは、絵莉彩が老女に挨拶をすると、老女もまた会釈して待合室のベンチに腰を下ろした。その際にちらりと絵莉彩のほうを窺い見てきて、絵莉彩ちゃんかね?と声をかけてくれる。

「そうです。私のことをご存知でしたか?」

 老女は頷いてきた。懐かしいものを見るような目を絵莉彩に向けてくる。

「ようく知ってるよ。毎年、盆正月になると木之本さんとこにえらい美人のお嬢さんが来るって噂になったもんさ。うちの孫なんか絵莉彩ちゃんが買い物に来るとどきどきしてたもんさ。店に近づいてくるのが見えると、頼みもしないのに店番を申し出てきたりね。孫ももう、遠くの大学を出て就職しちまったけどさ」

 微笑む老女を見るうちに、絵莉彩はこの老女が優莉花の家から坂を下ったところにある小学校の、斜め向かいの駄菓子屋の人だということを思い出した。姫塚で絵莉彩が買い物をする場所といったら、この待合室の自販機か、その駄菓子屋くらいしかなかったからだ。そういえば、あの駄菓子屋には自分より幾つか年上の、スポーツ刈りの少年がいたはずだ。あの少年が、この老女の孫だろう。確か一度だけ、ユウキと呼ばれているのを聞いたような気もする。

 ちょっとした会話ですぐに相手の素性が分かる。これも絵莉彩の住んでいる辺りでは考えられないことだ。毎度のことながらそのことに驚き、絵莉彩は老女に語りかけた。

「お婆さん、ひょっとしてあの駄菓子屋さんの方ですか?小学校の傍の、杉下さん?」

 老女はちょっと目を丸くした。

「そうさ。まだ覚えててくれたのかね?嬉しいよ。絵莉彩ちゃんはよく来てくれてたからね。うちの飴菓子が美味しいって」

 絵莉彩も微笑んだ。確かに絵莉彩は杉下の駄菓子屋で、よく飴菓子を買っていた。果物を水飴でくるんだ単純な菓子だが、安く、あの水飴に独特のとろりとした食感と甘味が、絵莉彩は好きだったのだ。あの菓子は杉下菓子店のオリジナル商品だから、他の店では売っていなかった。

「覚えてますよ。今は、お店のほうは?」

 何気なく訪ねると、老女はもう閉めたさ、と肩を落としたような、でも仕方がないというような感じで答えてくる。

「子供がおらんき。菓子も売れんくなった。小学校も一昨年、とうとう児童がいなくなったんで廃校になった。今じゃだあれも、私の店には来てくれん」

 絵莉彩は首を傾げた。

「子供が?あの、ちゃんは・・」

 子供がいないなんてことはないはずだと絵莉彩は怪訝に思った。優莉花には明花という娘がいるはずだ。明花は来年、小学校に上がるはずではないのか。

「明花ちゃんは電車とスクールバスで隣の、大森の小学校に通うことになるらしいさね。明花ちゃんが入る時には新入生が一人しかおらんくなるとかで、けど、明花ちゃんは遠くの私立に入るとかて言われてる。松谷のお父さんが単身赴任するときに明花ちゃんを連れて都会のほうさ行っちまったさ。私らはもうずいぶん、明花ちゃんは見てないさね」

 ああ、そういえば、と絵莉彩もようやく思い出していた。そんな話を聞いたことがあった。明花は東京の私立に入れるから、受験指導をしてくれる幼児教室を探していると。父親が単身赴任とやらで都心に行くことになったのを幸いに、娘も都心に移してそこで学校に通わせることにしたらしい。それなら公立ではなく、できるだけ有名な私立に通わせたいということだった。まだ五歳の幼児を、母親から長期間、離して育てることが良いことなのかどうかは分からなかったが、母子関係の密着よりも娘の教育環境の充実のほうを父親が優先したというのなら、絵莉彩に何か言うべきことはなかった。それで幾つかの知っている幼児教室を教えた。明花は今、絵莉彩が教えたそれらの教室のどれかに通っているのだろう。

 結果としてはそれで良かったのかもしれないと絵莉彩は思った。優莉花がこんな形で世を去ることになった以上、遅かれ早かれ明花の暮らしの拠点は父親の生活拠点に移ることになる。ならば、早めにそちらの環境に慣れることで、より早く順応できるのかもしれない。

 ――明花ちゃん、どうしてるかな。

 絵莉彩はもうずいぶん会っていない、従姉の娘の顔を思い浮かべようとしたが、うまくできなかった。最後に会ったのが生後三か月の時だから、どういうふうに成長したのか、うまくイメージできない。さすがに大学に入ってしまうと、子供の頃のように長期休みだからと行き来することもできなくなる。この駅に来るのも五年ぶりのことだった。

「失礼します。あの、大森タクシーの者ですが、大園絵莉彩さまは・・」

 絵莉彩が感傷に耽っていると、突然呼びかけられて絵莉彩は慌ててそちらを振り返った。見ると、いつの間にやら紺色の制服姿の男性が戸口から待合室を覗き込んでいる。絵莉彩は慌てて立ち上がるとそちらに歩み寄っていった。

「私です。姫塚集落までお願いします」


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