第9話 若輩二人、邂逅す
夢を見た。ひどく懐かしい夢だ。自分がまだかなり幼い頃の、何もかもが手に入ると信じて疑わなかった頃の夢。
すべてをねじ伏せるだけの力も、誰をも出し抜く程の頭脳を持ち合わせていたわけでもないのに。自然と自信で満ち溢れていたひどく浅ましかった頃の自分。
***
自己主張の強い草木がこれでもかと思うほど伸び続け、自分の頭上遥か上まで到達している。
しかし不思議な事に日光が遮られることはなく、森の中にしては妙に明るい。
「まってよ、––––ちゃん。追いつけないよ」
夢の中の自分は遥か先にいる少女に手を伸ばしている。
俺は彼女の名前を思い出そうとするが何故か頭が痛む。
「ふふ、遅いよタクト。そんなんじゃいつまで経っても追いつけないよ」
白いワンピースを着た少女はクルリと回ると自分に手を差し伸べた。
彼女と共に翻ったワンピースは陽光を浴び、純白のドレスを想起させた。
だが、そのワンピースがくすんで見える程彼女の笑顔は眩しかった。
眩しすぎて神々しささえ……いや、俺はこの日初めて彼女に対して畏怖の感情を覚えた。およそ人間では作り得ないその笑顔に。
自分は彼女の手を恐る恐るとると岩場をよじ登った。
彼女は俗に言う天才だった。自信だけで満ち溢れていた自分とは比べ物にならない程の。
今なら分かる。オッチャンに天才と言われた父さんに言われていたのだから。父さんの言う天才という言葉がどれ程の事を表していたのか。
「どうしたのタクト? 元気ないけど具合でも悪いの? 少し休もっか?」
「だ、だいじょうぶだよ! へーきへーき」
自分は笑って誤魔化す。
今思えばこの時の俺は唯意地を張っていただけなのかもしれない。何も大丈夫じゃないのに、凡人が天才に肩を並べられる訳がないのに。薄々は気づいていたのかもしれない。でも気づかないように、自分の心を騙すように俺には無理矢理笑う事しか出来なかった。
そうしなければ、彼女はあっという間に遠くへ行ってしまうと思ったから。
だが俺が頑張って笑い続けていたにも関わらず、その日は唐突に訪れた。
「ねぇタクト、《アモルファス》って知ってる?」
突然そんなことを彼女に聞かれた。
当然、当時の自分が知ってるはずもなく、首を傾げ訊き返した。
「なにそれ? 動物の名前?」
「うーん……《アモルファス》って言うのはね、簡単に言うと化け物かな? とっても強い化け物」
「化け物? どれ位強いの?」
「そうね、今のタクトには一般魔法兵ぐらいの力があるけど、そのタクトが五人いて一体倒せるかどうかね。仮に倒せても四人のタクトは確実に死ぬわ」
「そっ、そんなヤツが……! 」
当時の俺には相当衝撃的な話だった。そんなヤツを相手に何が出来るかなんて想像もつかなかった。
「それでね、その《アモルファス》が今各地に点々と現れ始めたの。それでわたしがアナタのお父さんからお願いされたの。《アモルファス》を排除しろって」
「……でも、それじゃ––––ちゃんが……」
「なーに言ってんの! わたしの力はよくしってるでしょ? それより自分の心配をしなさい。良い? 今からわたしが言うことをよく聞きなさい。近いうちにね–––」
刹那、不安を煽る地響きと共に三メートルほどの体躯を持つ黒い生命体が現れた。
不思議なことに当時の俺にはそれが彼女の言う《アモルファス》だとすぐに分かった。
圧倒的な威圧、心を絶望で埋め尽くされそうな恐怖、どれをとっても今までに経験した事のないものだった。
「グ、グオォォォー!!」
耳を劈く奇怪な雄叫びと同時、頭部にある二つの紅点が硬直して動けない自分の姿を捉えた。
そこから先は走馬灯のようにはっきりと覚えている。
化け物が猛烈な勢いで腕を振るう。
腕に絡め取られた大気は渦を巻き、竜巻きとなって自分に襲い掛かる。
当然の事だが、ここまでで数瞬の出来事。自分は身動きは疎か指一本さえ動かせずにいた。ここで死ぬ。俺は子どもながらに自分の死を悟った。
瞳を閉じその時を待つ––––。が、死んだような感じはしない。もちろん、死を経験した事はないのだからどんな感じかは、知っているはずもないわけだが……。
「う〜ん。やっぱ、タクトにはちょっと早かったかな?」
俺は彼女の声を聞き、ゆっくりと眼前に広がる光景をを見た。
信じられないことに彼女は化け物の腕を華奢な指先一つで無力化していた。
「あはっ、暴れてる暴れてるー。今はまだ良いけどタクトもあと二年ぐらい経ったら、この程度の化け物片手で殺せるぐらいにはなっててね」
彼女は化け物に目も向けず、まるでくすぐったいとでも言いたげに平然と笑い俺にそう告げた。
彼女が当然のように言い放った殺す、という言葉を聞いた俺はこの時初めて、彼女と自分とでは住む世界がまるで違うことに気づかされた。
俺がのうのうと過ごしていた間、彼女はきっと化け物共を相手に死と隣り合わせの日々を送ってきたのだろう。
「あっそうだ、タクトに面白いもの見せてあげる!《 エア・デルプ》!」
彼女は不敵に笑うと、聞いたことも無い発音で言の葉を紡いだ。
刹那、彼女の指先に深淵を見た。
その深淵は彼女の指先を離れ、明滅を繰り返しながら化け物を犯し、穢し、壊し尽くした。
「どう? すごいでしょ!!」
彼女は満面の笑みで振り返る。
「……ッ!」
ザッ。
俺はあまりの次元の違いに思わず、後ずさりしてしまった。
「……そっか……。タクトもわたしをそーゆー目で見るんだ。でも良いよ、タクトにも理解出来る日がそう遠くない内に来るから」
何処か諦めたような儚げな表情を見せ、彼女は目に溜まったひとしずく涙を拭った。
「ち、ちがっ––––」
「違わないよ。分かってる、この歳で化け物を平然と殺せる女の子が人間な訳無いよね? 分かってたよ。最初から……。期待もしてない。ごめんね。わたしもう行くから」
「まって……!!」
「自分の命と天響ちゃんのことはしっかり守るんだよ? タクトが強くなれば、わたしのことは思い出せるから……」
それじゃっと指をパチンと鳴らし、彼女は空間に真っ黒な穴を作り、そこへ半身を預けた。
「だめだ! 行かな……、ぐあっぁあぁぁぁー」
彼女に手を伸ばし、走り出そうとした刹那、左手の甲に雷が落ちたような激痛が走り、俺の意識はあっさりと刈り取られた。
***
「…………」
薄暗い森の中、タクトは奇妙な鳥の鳴き声を聞き目を覚ました。
意識があまり定かではないのか、何度か瞬きをした後、ようやく自分が仰向けに倒れていることに気づき起き上がる。
「……ぐっ、どうして俺はあんな大切な事を忘れていたんだ?」
長い間眠っていたのかタクトの体は重く、倦怠感が全身を襲う。
「んあ? 何だこれ? 紋章……?」
左手に鋭い痛みを感じたタクトは、左手の甲を見た。
そこには憶えのないヘビが自分の尾を飲み込み、輪っかになったところへ、螺旋状に鎖の絡みついた剣が串刺しになった紋章が浮かび上がっていた。
左手を翳してみる……。当然だが、なにも起こらなかった。
そこで突如頭に直接届く声が脳漿を揺さぶった。
「がっ……! な、んだこれ?」
あまりの痛みに地面に這い蹲るが、痛みは治まるどころかどんどんと激しさを増していく。
『あー、あー。えーみなさん聞こえますかー? 少し頭が痛むと思いますが、まあ、我慢してくださいね』
間延びした女の声が、脳内を反響する。
『えーとですね〜、とりあえず事実確認だけしておきますか? 単刀直入に言いますと、あなた方は先ほど死にました。ハイ、もーね、あまりにもあっさりと。厳密に言うと少し違いますが、まあ、死とほぼ同義ですね。平たく言うなら、臨死体験ってやつですかね? ……あれ? みなさん反応がありませんね。あーハイ頭痛でそれどころじゃないですね!』
先ほどタクト達を皆殺しにした無駄にテンションの高い女試験管はフザけた口調でそんな事を言い出した。
『みなさん言いたい事は多々あるとは思いますが、残念ながらみなさんの頭の方が限界に近いと思うので、本題に入りましょう』
試験管は尚もベラベラ喋り続けているが、本当にタクト達は限界寸前まできていた。
『実を言うとまだ試験は続いてまして、先程のは一次試験と言いますか、みなさんの対応力を見させてもらいましたが、次は実力を見させてもらいます。えーみなさんで殺し合って下さい。……応答ないですね。沈黙は肯定と見なしますよー? ハイじゃあ始めちゃって下さい! 心配しなくても、ここは私の〈固有結界〉内なので死んでも死なないので大丈夫ですよ〜。ただですね〜死んだ時の痛みは直に反映されるので注意して下さいね! ではでは夕暮れ時にまた!』
ブツンっとまるで脳内の血管が千切れたような致命的な音を最後にして、それ以降試験管の声はまったく反響しなくなった。
「クソッ! 早く天響を見つけないとまたあの痛みを天響に……! それだけは絶対に駄目だ」
タクトは地面を蹴りつけ、覚悟を決める。
(正直雑魚共が束になったところでは天響なら問題無く対処出来る。だがあのチビ女の側にいた兄だけは絶対天響に合わせる訳にはいかない。だったら俺が……)
「もう出し惜しみはしない。全力で行く。俺はもう絶対に死なせないし、死なない。オッチャンも天響もあの子も、みんなを守れるだけのチカラを学院でつける!!」
瞬間、タクトの周囲に六つの殺気が生まれる。
それにタクトは左右の指をパチンと弾き、空間からナイフを六本取り出し、殺気に向かって放つ。それだけで戦闘は終了した。即死だ。ここまでで僅か〇.二秒、驚異的と呼べる速さだった。
そしてタクトはポケットから、青い光沢を帯びた半割れの結晶を取り出し、親指で上空へ弾いた。
「オッチャン、ホント感謝するよ。共鳴しろ––––《輝晶石》……!」
式句を唱える。
刹那、世界から光が消失し、遥か上空に浮遊する《輝晶石》の元へと収斂されていく。
《輝晶石》––––《アモルファス》が死に際に結晶化することで得られる希少な《晶石》の一種。微量の魔力を込め、式句を唱えるだけで、ほぼノータイムで、事実上の無詠唱で上級魔法を軽く凌駕するほどの魔法を引き起こすことが可能な優れものだ。
また、使用後は使用者の魔力許容量を一次的に底上げする効果もある。
その時にはタクトは既に次の行動に移っていた。
《輝晶石》の真下へ移動すると、地面に高速で魔法陣を描き込んでいく。
(今の俺なら、《輝晶石》の魔力供給で大幅に増幅した俺の魔力なら、上級高等魔法––––《瞬転移》でも使えるハズだ!!)
以前父が教えてくれた記憶を頼りに円陣を構築し五芒星を描き、周囲を命令式で満たしていく。
やがてそれは、淡青色に明滅を繰り返し始めた。完成した証拠だ。
タクトは魔法陣に掌底を叩き込む。
「我、汝と共鳴せん––––素は素と為りて、汝は我と為り、光と成る––––《瞬転移》!!」
大地が撓み、腕を呑み込み、頭上と地中で蒼光が爆ぜる。
空虚な破砕音と共に、《輝晶石》がそれだけで失明しかね無い圧倒的な光量を放つ。
それと同時、タクトの全身は淡くきらめく。彼が軽く地を躙っただけで体躯は宙を舞い、光内を遥か上空めがけ一直線に加速した。
今、地上の者は皆《輝晶石》の発した光により、一時的に視力を奪われていることだろう。
その間にタクトは天響の脅威になりかねない、自分と同等かそれ以上の敵を探る。そして見つけた。妙に顔の整ったこの国では珍しい––––タクトと同じ色の髪を持った––––黒髪の男だ。
恐らく演習場で美少女少年の側にいたあの男だろう。
タクトはその男に向かって渾身の投擲を放つ。この距離だ。避けられるのは目に見えている。だがタクトはそれを見込んだ上で数多のナイフを時間差で放った。男がどの位置に回避しても、必ず一手、二手と襲うように。
鈍色の無機質なナイフが、陽光を纏い妖しく光りながら男へと吸い寄せられて行く。
そこでようやく気がついたのか、男は目を細めながら忌々し気にタクトを睨んだ。
ここにいる一般的な院生候補なら、最初にタクトの放ったナイフを回避するのが精一杯だろう。だが男に動揺した様子は窺えない。
(さあ、どう出る?)
タクトは男の一挙手一投足に目を配る。
男の目の前にナイフが迫った瞬間、男は重心を後ろに傾けた。それにより、彼の口唇が三日月のように妖しく尖がった。何か言っているようだが、タクトには聞き取りも読み取りも出来なかった。
しかし次の瞬間、彼の足下に闇よりも濃く暗い漆黒の渦が生じ、信じられないことにすべてのナイフを無力化した。
これでタクトの予測は確信に変わった。この男は強い。それも生半可な強さではない。全力を出して互角が良いところだろう。
「はっ……んだよソレ、おもしれーじゃねーか!」
タクトの額に多量の脂汗が滲む。シュナイザーが言っていた事とはまるで違う。世界は途轍もなく広かった。同年代で自分と互角以上に戦える人間が早くも見つかってしまったではないか。それだけではない、この世には《アモルファス》以外にもタクトより強い人間が沢山いて……。
タクトは頭を抱えたくなった。これからやるべき事がまだまだ山ほどあるのだ。だが不思議と悪い気はしない、むしろ自分が平凡な人間であることを執拗に思い知らされ、清々しささえおぼえていた。
男の足下に黒い魔方陣が生まれる。身を屈め、バネのように爆ぜる。タクトとの間合いが一気に詰まる。
空中で二本のナイフと男の剣が交錯する。すさまじい量の火花と耳を劈く金属音。
「クソっ……!」
ナイフが衝撃に耐え切れずタクトが後方へ吹っ飛ぶ。だが後方に吹っ飛んだことにより、威力を相殺する事が出来た。
「とんでもねーな、お前、名前は……?」
タクトが問いを投げかける。
「…………」
「俺はタクト、奏タクトだ」
それに、男がゆっくりと口を開く。
「俺は……白夜––––」
そしてこれが奏タクトと白夜帳。二人の少年の出会いだった。