第2話 旅立ち
「タクト、ねぇタクトってば……そろそろ起きないと遅刻しちゃうよ?」
耳元で囁かれる可愛らしい声を聞いて、奏 タクトは目を覚ました。
黒い髪に黒い瞳。背は低くないが高くはない。そんな何処にでも居そうな容姿をした彼には一つだけ他の人とは異なる部分がある。それは右眼。右眼だけルビーをはめ込んだかの様に朱いのだ。
彼の右眼が朱くなったのは、十年前のあの日彼の父親が別れ際に彼に魔法を掛けた事が原因では? とシュナイザーが言っていた。
「…… 天響?」
まだ寝ぼけているのか、声の主を認識するのに少しだけ時間が掛かった。
「やっと起きた〜。なんかタクトうなされてたけど大丈夫? 恐い夢でも見た?」
「夢……ああちょっとな」
思い当たる節があるのか、タクトは彼には珍しく素直に肯定する。
「タクトがうなされるなんて珍しいね。あっ、朝ごはん出来てるから着替えたら下に降りて来てね。パパもいるからなるべく早くね〜」
そう言って天響は小走りに駆けていく。
全身に冷や汗をかいていた彼はタオルでキレイに拭き取り、制服に着替える。そして今朝見た夢を思い出す。
あの日気がつくとタクトはシュナイザーの家、つまりこの家にいた。
シュナイザーの話によると、光が消えた後、レイも姿を消し、数分後に王都の方で爆音が鳴り響いたかと思うと、唐突に幾千もの稲妻が走り、空はこの世のものとは思えない程真っ赤に燃えていたとのことだ。
レイはたくさんの《アモルファス》を殺すため、大規模魔法を使用したらしい。けどそれは《アモルファス》を殺すだけでなく、王都にも甚大な被害をもたらした。
ケガ人は出たものの、死者が出なかったのはせめてもの救いだ。
王都に居た《アモルファス》が全滅し、尚且つ王都に甚大な被害をもたらす程の大規模魔法を受け、何故死者が出なかったのか、と言うとこれには理由があり、《アモルファス》殲滅を任されたのがレイとごく一部の精鋭だけで、他の者達は皆魔法障壁を展開し、防衛していたからである。
こうしてあの事件は終わったわけだが、いまだにレイは疎か精鋭も五人中四人の行方が分からない。
「タクト、さっきからぼーっとしてるけどどーしたの? 今日のタクトなんかヘンだよ?」
タクトの瞳を心配そうにじっと覗き込む天響。
彼女は百鬼 天響。
シュナイザーの一人娘で、タクトが彼に育てられる前から仲が良かったいわゆる幼馴染み。
陽光を浴びたように煌びやかに輝く金色の髪、蒼く澄んだキレイな瞳、雪のように白く透き通るような肌、若干背は低い気もするがそれもまた彼女の一つの魅力だと言える。
「いや、今朝見た夢が十年前のあの日のことでさ、あの時は何も出来なかったけど、今ならどうにか出来たのかな〜って少し考えてただけだ。心配する程のことじゃない」
「う〜ん、それならいいけど」
安心させるように言ったつもりだが天響はまだ納得していないのか若干不安げに見える。
「タクト、お前は何でもかんでも一人で背負い込もうとしすぎだ」
今まで一人黙々と食事をしていたシュナイザーが急に沈黙を破ったことにタクトは驚いたが、真剣な表情でこちらを見ていたため固唾を飲んで続きを促す。
「お前はこの十年で確かに強くなった。俺やレイは兎も角その辺の兵士に負けることはない。其れこそ五、六体の《アモルファス》相手なら問題なく対処できる程にな」
「けどよー昔のお前はどうだ? 『何も出来なかった?』 ハッ笑わせるな、たかだか五歳のガキに何が出来る? そんなもん出来なくて当然だ。お前が気に病むことじゃない。むしろ誇れ、ヤツらから自力で逃れたことを」
タクトを励ます様に言葉をかけたシュナイザーの表情が何を躊躇ったのかほんの一瞬だけ歪んだ。
「……タクト、悪かったなお前の親父を助けてやれなくて」
「おじさん? 急にどうしたの?」
一呼吸してからシュナイザーはゆっくりと話し始めた。
「あの日、俺ならお前の親父を止めれた。けど俺は軍人、レイとお前の運命を見捨て、民間人を優先した。未だにあの日の選択が正しかったのか俺には分からない。もしあの時レイを止めていれば、お前の人生も––––」
「おじさん! そーゆーのは言わないはずじゃ?」
突如、シュナイザーの身体から圧倒的な殺気が膨れ上がる。
「くっ、体が……」
タクトの体はまるで金縛りにあったかのように、全く動かない。目から自然と涙が溢れ、全身の毛は粟立ち、膝が嗤う。
想定外の事態に今更になって気づき、タクトは脳をフル回転させて思考を巡らす。
しかし明らかに後手に回っているこの状況では打開する策が限られる。いや、無いと言ってもいいだろう。
そう思ってタクトが今迄シュナイザーに見せなかった力を使おうとしたところで、この状況を作った張本人から声が上がる。
「ほ〜う、まだ考える力が残っているか、それに、ははっ実力も隠しておるな? 中尉クラスのヤツでもヘタすりゃ気絶する程度の力は込めた筈だか? という事はつまり……あ〜力を使うのはやめとけ解除するから」
「はあ……はあ……」
「タクト、お前此処が戦場で俺が敵だったら今ので死んでたぞ?」
タクトは驚愕に目を見開く。しかしそれは何も死ぬという言葉に怯えたからではない。シュナイザーが自分より強い事は分かっていた。けどそれは実力を隠した状態の自分と比べてだと思っていた。しかし実際はその自分を遥かに凌駕する力を持っていたシュナイザーにだ。
そしてそのシュナイザーに自分は試され、身動き一つできなかった。
「クソッ!」
タクトは怒りの矛先を床に向け、拳を思い切り叩きつける。拳が痛み微かに熱を帯びるがそんなことはどうでもいい。
「ち、ちょっとタクト急にどーしたの?」
急に床に倒れたタクトを見た天響は、慌てて彼の元へ駆けて行く。それをタクトは手で制し、立ち上がりながら埃を払う。
「大丈夫、少しめまいがしただけだから」
「でも、めまいがしたのになんで床を殴るの?」
「…………」
至極当然の疑問を投げかけられ、タクトは返答に困る。
「タクト、その喋り方やめたらどうだ? 話しにくいだろ?」
「えっ?」
その言葉に天響が反応する。
「……ッ!」
タクトは全てを見透かされている様な気がして、まいったと言わんばかりに両手を上げる。
「オッチャン、そーいや何で天響は無事なんだ?」
「オイオイ急にタメ口かよ。ま、お前にはそっちの口調の方が合ってるけどな」
「だって実力隠してるのバレたし、その俺よりも遥かにつえーの分かっちゃったし、これはその何だ、俺なりの敬意の表し方っつーか」
「ははっ、まー何でもいいけどな。あーそうそう天響が無事な理由だけどよ、お前だけに幻術を掛けたんだ。実際には何も起こっていない。だから天響にはお前が急に倒れた様に見えた訳だ」
「まじかよ。でもオッチャン前に『俺は魔法は得意じゃない』って言ってたじゃん!」
「別に得意じゃないってだけで使えないわけじゃない。この程度なら造作もない。まーお前の親父と比べたら雑魚同然だがな」
この程度、とシュナイザーは言ったが此れ程の幻惑魔法(シュナイザーが言うところの幻術)を使える者は一般魔法兵にはまずいない––––と言う話を聞いた事があったタクトは又もや驚きの表情を見せる。
すると今度は、タクトにも分かる程度の幻惑魔法(幻術)をシュナイザーは掛けた。
「タクト、ここからはよく聞いておけ」
余程大切な話をするつもりなのか、またもや突然声音を落として話し始める。
魔法がどの程度の範囲で影響するのか確認する為タクトは天響の方を向き、声を掛ける。
すると、何も聞こえていないのか、彼女は一人黙々と箸を進めている。
天響が反応しないことから、魔法が適用されているのは自分だけだとタクトは理解した。
「お前もいつか戦場に出ることになる。戦場に出れば想定外な事などいくらでもある。自分の判断ミスや一瞬のためらいが仲間の死に直結する。正しい選択をしろとは言わない。正しいか正しくないかは後になってみないと分からない。その時その時でお前が最善だと思うことを迷わず行え。それができる頃にはお前は今より格段に強くなっている筈だ」
「よし、これで一通りのことは教えた。後のことは学院で学びな」
「オッチャン、ありがとな。本当に感謝してるよ。この十年辛いこともあったけど、楽しかった。オッチャンのことは本当の父さんだと思ってる」
「どうした急に? 照れるじゃねーか」
タクト以外の人が見ても気づかないほど僅かに視線を泳がせるシュナイザー。
シュナイザーの照れる表情を見たタクトは、不意打ちに弱いことを認識した。
「そうだな。あれからもう十年も経ったんだよな。俺達が一緒に過ごして……タクトこれからはお前が天響を守ってやってくれ」
「ああ、分かってるよ。たとえ神が相手だろうと、天響は絶対に俺が守ってみせる。天響は俺にとっても、大切な人だから。……オッチャンもう幻惑魔法解いてもいいぜ」
(もう二度と大切な人は失いたくないんだ。あんな悲しい事はもう要らない)
タクトは改めて強い決意を胸に刻む。
「……ぷっ、くくく」
今度は誰が見ても分かるくらいに手で口を覆い、体をプルプルと震わせながらも、必死に笑いを堪え––––切れていなかった。
「ハハハッ聞いたか天響? 神が相手でも守るってよ」
彼にとって余程面白い事なのかシュナイザーは大口を開けて高らかに笑った。
「天響? お、おいまさか! 魔法は––––」
「とっくの昔に解いたわ」
「そんな! いつの間に!」
「お前が俺の照れる素振りに騙されてる間さ。どうせ弱点発見〜とか思ってたんだろ? 甘いっての」
「冗談だろ?」
タクトの額から滝のように冷や汗が流れる。
「冗談じゃないさ、隣を見てみろ。まあ、天響は俺が予想してたのと違う反応をしたんだがな」
言われた通りタクトは素早く、天響の方を見る。
ボンッと言う音が聞こえてきそうなくらい顔を真っ赤にして、湯気を出しながら慌てふためく天響。
「あ、あの、タクト、た、大切な人って」
「い、いや〜俺は天響を家族だと思ってるし、か、家族を大切な人っていうのは当然のことだろ?」
「タクト、別に照れることでもないだろ?」
「照れてなんかねぇーよ」
「顔を赤くして言っても説得力ないんだが?」
「くっ!」
タクトは図星を突かれたのか、反論出来ず彼を睨むことしかできなかった。
「と、とにかく天響のことは心配すんな。絶対に死なせないから。んじゃ、そろそろ時間だし俺達行くわ」
これ以上この話を突かれたくないのか、そそくさと学院へ行く準備を始めるタクト––––と言っても彼は魔法で異空間に物をしまう事が出来るので、手ブラな状態で言い訳だが。
「パパ、行ってくるね。じゃあね〜」
無邪気に笑いながら別れを告げる天響。だがその表情はどこか暗い。まるでその暗さに気取られないように無理矢理笑っていると思える程に。
天響も分かっているのだろう。彼等がシュナイザーと次に会うということはつまり、彼等二人ではどうしようもない事態に陥った時、という事を。そしてそれは同時に中尉クラスの人間が対処できない事を意味する。
だから彼女は父親と一緒にいられる時間がこれで最後になることを祈るのだろう。
「ああ、気ぃつけてな。天響、困ったら何時でも呼びな。すぐ駆けつけるから」
微かに涙を滲ませながらもシュナイザーは俺達のことを優しく見送ってくれた。
「うん」
そしてタクトと天響は十五年育ったこの街“エデルタ”を離れ、王都“ミールヴィア”にあるエルトリア王国魔法軍事学院へと向かった。