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6/8

少女を襲う妄想 後編

 ☆☆☆☆☆



 四月一日。


 秋人と春彦は校門を抜けて、入学式の会場に向かう。

「兄貴、ちゃんと――」

「分かってるよ、撮るよ」

「頼むぜ?」

 秋人は笑う。


 秋人と別れた春彦は、体育館に向かう。入ってすぐに父兄席に向かい、適当な席に座る。


 時間は巻き戻った。春彦は今でも信じられない。そして何より驚いているのは、記憶が鮮明だということ。

 これまでは思い出せなかった、前の週回の出来事が鮮明に思い出せる。

 だが、それ以前、一つ前以前は相変わらず不明瞭なままだ。

「隣、いい?」

 聞き覚えのある声だった。春彦は声の方へ顔を向ける。

 長いモミアゲ。後ろはバッサリ切ったような短さ。明るい笑みを浮かべる少女、茉莉子だ。

「ああ」

「初めまして?」

「茉莉子、だろ」

「ご名答。覚えてくれてたんだ」

 茉莉子は「ふふふっ」と嬉しそうだ。

「茉莉子はどこまで覚えてるんだ?」

「一つ前、かな?」

「……そっか」

「春彦も同じ、でしょ」

 春彦が頷くと、茉莉子は春彦の左手を握った。

「似た者同士、仲良くしよう?」

「…………」

 春彦が黙って茉莉子から目をそらすと、茉莉子は察したように手を離した。

「なんてね。春彦はまだ私を選んではくれないね」

 余裕すら含めた言い方だった。自分が一番で、ちょっと違う子に目がいってるだけであって、最終的に自分に目が戻ると確信しているのだろう。

「ごめん」

「いいよ。許してあげる」

「…………なんか、上から目線だな」

「許してあげるよー」

 茉莉子は胸を張って得意げな顔をする。春彦は思わず失笑した。

 放送が入り、入学式が始まった。



 始業式、クラス発表、ホームルーム。春彦はまた窓際後方二番目。後ろに金髪。前と右を男子で固められた。クラス委員は優。副委員長に奈々枝。

 教室の後ろの出口側の一番後ろで、先生に指名された奈々枝の様子は、いつもと違った。

 暗い。髪型はポニーテールではなく、ただ下ろしてるだけ。表情に生気は無い。目は開いているが、誰も見ていない。

「なぁ」

 春彦は金髪に声をかける。

「奈々枝って、あんなに暗かったかな?」

「んー知らん。しっかし、先生もなんで奈々枝を選んだんだろーな?」

 無作為に適当に選ばれたのか、それとも何か理由があるのか。考えられるとすれば成績だ。文化祭での各クラスの予算は、前期中間試験と期末試験――二年以降は前年後期中間考査と期末考査も――の成績次第でクラス内の平均と委員長、副委員長の成績で競われる。優は成績優秀だから問題無い。やはり成績だろうか。春彦達その他クラスメイトも、高い平均値になる様に努力しなくてはいけない。

 奈々枝は、何だか辛そうだ。嫌なのかもしれない。ただ口には出さない。

「……先生」

「なんだ、柴田」

「奈々枝さんは、嫌みたいですよ」

 優なりに気を遣ったのだろう。先生は奈々枝を真っ直ぐに見て。

「嫌なのか?」

 と聞いた。奈々枝は顔を伏せて、相変わらず黙っている。怯えているようにも、春彦には見えた。

「本人が何も言わないんじゃ、私からは何も言えないよ」

 先生は投げ出した。自主性を重んじたり、個人の意見を尊重するあまり、発言しない奴はただ流されてしまう。どうしても、どこでもある話だ。

「ともかく、決定だ。だがもしどうしても嫌なら、後で私にちゃんと話しなさい。自分の口で、どうして嫌なのか、ね」

 先生自体は、きっと自分から行動する事を促しているんだ。だけれど、その発言からそう解釈する者ばかりじゃない。奈々枝はきっと、別な解釈をしたに違いない。

 余計に沈んでいるように、春彦には見えた。



「春彦ー、いっ――」

「悪い、今日は無理」

 解散になってすぐに金髪が誘ってきたが、春彦は一蹴する。

 優と奈々枝は職員室に呼ばれたが、奈々枝はさっさと帰ろうとする。優は変に気遣ってか、何も言わずに先生に「奈々枝さんの分も、俺がやります」と言って、先生と一緒に教室を出ていった。

「奈々枝」

 春彦が声をかけると、奈々枝は春彦の方に顔を向ける。赤縁の眼鏡の奥、目の下にくまが出来ている。肌もなんだか荒れているようだ。目も濁っている。

「……な、なに?」

 小さな、儚い声だった。

「あー……えっと」

 春彦は何も考えていなかった。声をかけようと、体が先に動いた。

「……一緒に帰らないか?」

「えっ」

 少し奈々枝の顔が赤くなり。

「う、うんっ」

 嬉しそうに口元を緩めた。



 奈々枝はチラと春彦の方を見て、何か言おうとする。けれどやめて、また視線をはずす。その動作を繰り返している。

「奈々枝?」

 春彦が声をかけるとビクッと肩を震わせた。恐怖ではなく、驚いた風だ。

「な、なに?」

「いや、何か言いたいことでもあるのかな、って」

 春彦なりに助け船を出したつもりだった。

「あっ……うん」

 少し話しやすくなったようだ。

「あのね、何で、春彦君は私と一緒に帰ろうと思ったの……?」

 正直に言うなら、奈々枝を救う為だ。彼女は放っておけばいずれ自殺する、その繰り返される運命を変えるために、今春彦ができること。それは奈々枝のそばにいることだ、そう春彦は考えている。

 が、もちろんそんなことを言うわけにはいかない。

「一緒に帰りたいと思ったから。じゃ、だめかな」

「…………」

 奈々枝は顔を真っ赤にしてそらす。

 なんだか微笑ましくて、思わず春彦は顔がほころんだ。

「ね、ねぇ、春彦君」

 奈々枝はうつむいて、地面を見ながら言う。

「ん?」

「春彦君て、不思議だよね。全然怖くない」

「怖くない?」

「うん。他の子はさ、怖いの」

 これは、上手く会話を繋いでいけば何かヒントが得られるかもしれない。春彦は少し緊張する。

「怖い、って……どんな風に?」

「うん、と……何て言うんだろう。分からないから怖い、て言うのかな。何を思っているのか分からなくて、怖い」

「つまり、例えば俺が奈々枝の事を……本当はどう思っているのかが分からなくて怖いって――」

「春彦君は」

 奈々枝は春彦の言葉を遮った。

「春彦君は……私の事嫌いなの?」

「……なわけないだろ」

 ミスだった。例えが悪かった。

「そうだとしたら、奈々枝を誘ったりしないよ」

「……私、ね。被害妄想が強いんだ」

 奈々枝は足を止めた。

「誰かが私を見つめている。誰かが悪口を言っている。誰かが後を尾けてきている。誰かが私を監視している。私の意思とは関係なく、そう思ってしまう」

 奈々枝が毎回自殺してしまう理由。その答えは今奈々枝が言った、被害妄想なのだろう。

 質の悪い状況だと春彦は思う。被害妄想が原因だとして、だったらどうすればいい。精神病院にでも連れていけばいいのだろうか。それとも? どうしたらいい。むしろどうすれば救える。

「被害妄想だって、分かってるんだよ。だけどね、やめればいいなんて、簡単なものじゃない。どうしてもめられない、ってことがあるよね。私は被害妄想を止められない」

 奈々枝はぶつぶつと、独り言のように言い続ける。

「考えないようにすればするほど、より強くなる」

 春彦は奈々枝の手を握った。

「いいから、帰るぞ」

 その手を引いて、歩き出す。

 春彦にとれる手段は限られている。

「奈々枝」

「…………?」

 奈々枝は顔を紅潮させたまま、春彦の次の言葉を待っている。

「俺は、君を悪く思ったりしない。絶対に。誓っても良い」

「…………うん」

 奈々枝は微笑んだ。その笑顔に裏があるのか無いのか、春彦には分からない。



 奈々枝の住むマンションに着いた。

「そんじゃ、また明日な」

「……ま、まって」

 奈々枝は慌てて携帯電話を取り出す。赤色のガラパゴス携帯だ。

「電話番号、教えて」

「ああ。いいよ」

 春彦は携帯を取り出して、赤外線通信モードを起動する。

「あっ」

「ん? どうした?」

「機種、同じだ……」

 奈々枝に言われて、春彦も気づいた。色違いだけど同じ機種だった。奈々枝はとても嬉しそうに言う。

「お揃い」

 赤外線通信で互いの電話番号とメールアドレスを交換し、奈々枝は早速番号にかけてみた。

 春彦の携帯が振動する。画面を見ると、「華舞 奈々枝」の文字が表示されている。

「もし、辛くなったら電話してくれよ」

「うん」

「…………あのさ、それと。明日、一緒に登校しないか?」

 奈々枝は少し迷ったように視線を動かし、それからゆっくりと頷いた。

「明日の八時位に、ここに来るから」

「うん……待ってる」

「それじゃ、また明日な」

 春彦はそう言って、踵を返す。すると奈々枝は走って、春彦に後ろから抱きついた。

 暖かな人の温もり。ただ奈々枝は少し体温が低いのか、ほのかに暖かい。そして背中に感じる柔らかな胸の感触。こればっかりは春彦も男だ。反応せざるを得ない。

「な、奈々枝?」

「…………」

 黙って抱きついたままの奈々枝。春彦は振り替えることもできず、ただ立ったまま離してくれるのを待つだけだった。

 一分か二分か。奈々枝は春彦から離れる。

「また、明日ね」

 紅潮した頬、柔らかく笑う奈々枝の笑顔。幸せ、という感情がにじみ出ている。

「あ、ああ」

 春彦の背中には、まだ少し、奈々枝の温もりが残っていた。



 ☆☆☆☆☆



「なぁ秋人」

 金髪セミロングのウィッグ、紺色のブラウス、藍色のジーパンの秋人はテレビから春彦の方へ顔を向ける。テレビは九時のドラマが終わり、十時のニュース番組が始まったところだった。

「なんだよ」

「明日、奈々枝と一緒に登校しようと思うんだ」

「すれば?」

「うん、する。 ……どうしたら、奈々枝が自殺するのを防げると思う?」

 それは秋人にしか相談できないことだった。周回する世界の中で、同じように記憶を持ち越している数少ない仲間。茉莉子もそうだが、春彦はこの事を相談しようと思うほど彼女を知らない。

「…………」

 秋人は腕を組み顎に手を当て考える。

「俺さ、今までどうしてた?」

 春彦がそう聞くと、秋人の顔が険しくなる。

「…………ただの一度も、奈々枝を死なせなかったことはなかった」

「どうして?」

「兄貴。兄貴ってさ、真面目だよね。大真面目、生真面目って感じ」

「そうか?」

 春彦は全然そんなつもりはない。ただ、言われてみれば少し真面目に考えすぎる節はあるかもしれない、そうは思った。

「それが原因なんだ。一人で誰かを救えるわけがない。漫画でもゲームでもドラマでも、一人で誰かを救うことはできないんだ。手を借りるとか今みたいに相談するとか、利用する、って言い方は悪いけど、そうするのも一つの手段なんだ」

「……つっても……なぁ」

「まぁ、ともかく。絶対に奈々枝を一人ぼっちにするな。まずそれ」

「…………頑張ってみる」

 簡単なように聞こえた。だが、自分がただの一度も奈々枝を死なせなかった事はなかった。ということは、ただの一度も一人ぼっちにしなかった事は無い。という事なのだ。

 とても難しいこと、春彦にそれができるのか。自信なんて無かった。



 ☆☆☆☆☆



 翌日春彦は予定通り学校には向かわず、奈々枝の住むマンションに向かった。

 エレベータの前で奈々枝は待っていた。春彦の姿を見つけると、口元を緩めて笑う。

「おはよう、春彦君……」

 まるでとても長い時間離ればなれだった、というような雰囲気がある。

「おはよう。行くか」

 春彦が踵を返そうとすると、奈々枝は慌てた様子で、春彦の手を握った。その手は少し冷たい。

「ま、まって」

「お、おう、どうした?」

 突然手を握られて、春彦は困惑するもなんとか平静を装った。

「……私……学校、行きたくない……」

 思い詰めた顔で、そう呟いた。

「行きたくない、って……どうして?」

 昨日言っていた被害妄想、それだろうか。だったら春彦はどうしたらいいのだろう。学校に連れていって、大丈夫だろうか。それとも一緒にサボってどこかに行けばいいのか。

「学校って、怖い」

「怖い?」

「何が何なのか、分からない。人が多すぎて、分からない。誰が私を嫌って、誰が安全なのか。安全なのは本当なのか、どうして安全か。裏があるかもしれない見えない分からない、怖い」

 ぶつぶつと、独り言のように奈々枝は呟く。

「奈々枝……」

 声をかけて、それからどうする。

「…………奈々枝、とりあえず、学校に行こう」

 金髪と優、二人に協力を仰ぐんだ。絶対に安全な場所を作る。

 家に帰してしまって、春彦が一緒に居たとしても、何もしてやれない。彼女の被害妄想を打ち消すには、裏がない、奇妙な関係を作ってやる必要があると春彦は思った。


 要するに、善意だけの関係だ。

 人間関係というものには必ず、裏がある。一切裏、つまり相手に対する負の感情を持たないということはまずあり得ない。

 被害妄想というのはきっと、その負の面ばかりを妄想し、信じ込んでしまうのだろう。

 都合の良いことばかりを考える人間の逆というわけだ。

 春彦が作るのは、悪意など考えないバカの金髪と、奈々枝に好意を抱く優、そして自分。場合によっては秋人も引き込んで作る、彼女に対し一切の悪意を持たない人だけで作る関係だ。

 何も解決しないかもしれない。だけど、解決するかもしれない。結果は予想できない。予想できるほど春彦は頭が良くない。

 やってみるしかないのだ。



 学校には遅刻ギリギリに着いた。奈々枝が人通りの多い通りを嫌うため、遠回りをしてきたからだ。

 ホームルームと一時間目を終えて、春彦は金髪と優を男子トイレに呼んで、奈々枝の被害妄想についてと、さっきの善意だけの関係について話した。

「えーっと、つまり?」

 金髪は全く理解できていないようだった。

「奈々枝に対して悪意を抱くな、ということだろう」

「そう」

「悪意って、例えば?」

 金髪は他人に対しあまりマイナスの感情を持たない。春彦はそれを知っているから彼にも相談することにしたのだ。

「……正直、今の奈々枝に副委員長は無理、と言うとか」

「下心も不味いよな、お前みたいにハッキリ言うのも不味いな」

 優は金髪を見て言った。金髪は難しい顔をする。

「……まぁ俺もそれは失礼だと思うよ。けどさ、口から出ちまうんだ」

「普段だったら、それは良いことなんだがな」

「お前の長所なのにな」

「NOと言える男になりたいんだ」

「今だけはイエスマンの方がいいな」

 金髪は、出来るかなぁ、と不安そうだ。

「……しかし被害妄想、どうしてあげればいいのか」

 優は腕を組んで顔をしかめる。何とかして、軽くしてあげたい。そう思うのだろう。

 金髪は頭の後ろで手を組む。

「まさか生徒全員に奈々枝の悪口言うな、って言い回るわけにもいかないしな」

「実際、奈々枝の事を悪く言う奴はいない。 ……はずだ」

 優は自信なさ気に言う。絶対そうだとは言えない、確認をすることもできない。だから確証はないが、無いと信じたい。そう表情に現れている。

「…………ところで春彦」

 少し間を開けて、優は春彦に向かって言う。

「お前も奈々枝の事――」

 そこまで言いかけたところで、予鈴が鳴る。

「何?」

「後で話そう。昼休みとか時間のある時に」

「おう」

「さ、戻ろ戻ろ」

 


 奈々枝は机に顔を伏せている。何も見たくない、聞きたくないと態度で示しているようだ。

 先生が入ってくると流石に顔をあげて、教科書とノートを机から取り出す。ただ、先生が教室内を見渡したとき、奈々枝の方に視線が行ったとき、奈々枝は首を動かして、あからさまに見えるほどに目をそらした。

 二時限目は社会科、現代社会だ。

「えー……まずは簡単な質問からしましょう。奈々枝さん、1989年の日本国内の出来事を、何でも良いからひとつ挙げれますか?」

 奈々枝は肩を震わせた。当てられた事で驚いた、だけとは春彦には思えない。それよりもフォローしなくては、と焦る。奈々枝はひどく狼狽えている。

「はい」

 声と共に挙手したのは優だった。

「優君」

「昭和から平成に改元されました。それから消費税が実施され――」

「ひとつ、でいいんですよ。よくできました」

 先生は教科書の二ページ目を開くように指示を出す。

 春彦はホッと胸を撫で下ろす。すると後ろから金髪が声をかけてくる。

「あいつすげーな、俺なんかゲームボーイが発売されたこととベルリンの壁が壊されたことしか覚えてねぇもん」

「ベルリンはともかく、ゲームボーイはテストは出ないだろ」

「覚えてんだもん」

「そこうるさい」

「「すいません」」



 三時限目が終わり、五分休憩に入る。春彦は教室を出て隣の教室に行く。ちょうど出てきた茉莉子に用事があった。

「今日の昼休み、屋上を使いたいんだ。だから行かないで欲しい」

「えー、私他に行くとこ無いよ?」

 茉莉子は困ったように笑う。

「そこをなんとか」

 春彦は手を合わせて頭を下げる。

「はいはい頭をあげて」

 周りの生徒は何事かと訝しんだり、からかいの笑みを浮かべている。

 茉莉子は春彦の肩を叩くと同時に耳元でささやく。

「肯定も否定もダメ」

「え?」

「次、期待してるから」

 茉莉子は春彦の肩を軽く叩いて教室から出ていった。どこか足取りが軽いように見えた。



 それから奈々枝が授業で当てられることはなく、昼休みを迎えた。

「ちょっと奈々枝の相手を頼む」

「おう、頑張る」

 金髪は奈々枝の元に向かう。奈々枝に一緒に弁当を食べないかと誘うためだ。春彦と優は飲み物を買いに行ったと奈々枝に言ってもらう。

 春彦は優と共に屋上へ向かう。重いドアを開けると、その先には開放的だが閑散とした空間が広がっている。空はどんよりとした雲が覆っている。今にも降りそうな天気だ。

 ドアを閉めた優が先に話を切り出した。

「春彦、単刀直入に聞く。お前も奈々枝が好きなのか?」

 春彦は驚かない。そう聞かれると思っていたからだ。

 ただ返答は未だ考えていた。

「……うん、と……」

「正直に答えて欲しい」

 優は真っ直ぐに春彦の目を見つめる。

 正直に言ってしまえば、奈々枝の事が好きなのではない。幸音との約束であり、この無限のループからの脱出。その為の過程に過ぎない。好きだから助けたいと言うのではない。そういう意味では、優よりも半端な気持ちだと春彦自身、思う。

 だが。

「俺は…………奈々枝が好き、なんじゃない」

「違うのか」

「俺は。俺は俺の青春のために、楽しいはずな未来あしたの為に奈々枝を助けたい」

「楽しいはずな、あした……」

 日本語が崩れたことに少し気恥ずかしさを感じるも、それを無視して春彦は続ける。

「奈々枝は大事な友達だ。そいつが困ってるんだ。力になりたいと思うのは当然だろ。俺の青春、今は今しかない、やらない後悔よりやる後悔の方が俺は良い。だから、俺は奈々枝に元気になってもらいたい。俺と優とアイツと奈々枝、その四人でこの一年を過ごしたい!」

「…………」

「ワガママだって分かってる。ただ」

 自殺してしまう結末はもう沢山だ。その気持ちを込める。

「俺は奈々枝を救いたい」

「…………」

 優は一瞬視線を泳がせ、言う。

「だったら。俺は……」

「優、やる後悔の方が良い。そう思わないか? 今は今しかないって、そう思わないか?」

 春彦はふと、奇妙な既視感というか、自分の今の発言と似たことを優に言われた事があるような気がした。

「……俺は、彼女に告白したい。好きだって言いたい」

「だったら今日の放課後、言ってみるか」

「えっ!? ま、待ってくれ、それは……早くないか?」

 珍しく優は狼狽えている。春彦は思わず噴き出した。

「言うだけ、答えは保留で良いからってさ。もしかしたら良い効果があるかもしれないし」

「……少しは、元気になってくれると思うか?」

「悪くはならないと思うぜ」

 優は少し考えてから、心を決めたようで力強く頷いた。

「やってみる」

「頑張れ!」

「ああ。 ……戻ろう、奈々枝が待ってる」

 金髪の名前は忘れられていた。



 ☆☆☆☆☆



 空の暗雲は不吉を予言していたんだと春彦は思った。

 教室内、幾人かの小さな堪えるような笑い声。それは、英語の時間。当てられた奈々枝は震えた、小さな声で英文を読んでいた。そして噛んだ。もし前週の奈々枝であったなら。明るかった奈々枝であったなら、きっと照れたように笑っていた、と春彦は思う。

 奈々枝は口元を押さえて教室から逃げるように立ち去った。優がすぐに立ち上がったが、春彦の方が先に教室から出て奈々枝を追った。

 奈々枝は女子トイレに駆け込む。春彦は一瞬躊躇うも、入ることにした。

「奈々枝……」

 水の流れる音、そして小さく聞こえる嗚咽。

「はる……ひこくん……」

 震えた肩。怯えきり蒼白の顔に、大粒の涙。

「わたし……やだ、ここ……やだぁ」

 子供のように怖がり、震えて泣く。

 ちょっと噛んだだけだ。それだけだというのに、こんなになってしまうのか。

「う、うぅ…………かえりたい」

 奈々枝は春彦の袖をとてもか弱い力で引っ張る。

「…………」

 もうすぐ誰かが来るだろう。先生だろうか、足音が近づいてくる。

 春彦は。

「…………帰ろう、奈々枝」

 沢山、選択肢はあるはずなのだ。この世の人の数より、星の数より、無限にあるはずだ。

 だが結局、茉莉子の言う通りなのだ。ほんの少ししか思い付けず、選べない。



 ☆☆☆☆☆



 春彦は奈々枝に付き添って家まで送ることになった。

 フラフラと歩く奈々枝が、足がもつれたのか倒れそうになる。

「危ない!」

 とっさに腕を掴んで引っ張る。奈々枝はまるで動じない。

「…………」 

 奈々枝は一言も口を利かない。春彦が何を話しても、こうして助けても、なにも言わない。



 マンションに着いて、エレベーターで七階に向かう。

 エレベーターを降りて三号室に向かおうとすると、三号室のドアが開いた。中から一人の女性が出てきた。

「おかあさん……」

 ふと奈々枝が呟いた。その女性は奈々枝の姿を一瞥するも、横を素通りしていった。

「あの」

 春彦はその女性を呼び止める。

「なにか」

 女性は迷惑そうな顔で振り替える。

「奈々枝さんのクラスメイトの、宮村春彦です。奈々枝さんの具合が悪いので早退して、その付き添いできたんです」

「それで?」

「それで、って」

 冷たく突き放す言い方だった。

「私はこれから、その子の為に働きに行くんです。それとその子のそれは甘えですから、無視して大丈夫ですよ」

「そんなっ……親だろ、アンタ」

「親だからその子の為に働いているんです。高校生にもなって鬱ごときで甘えてる子でも娘だから。それでは」

 春彦は非常に不愉快な人だと思った。家族だったら、娘が辛いとき側に居てやるものじゃないのか。それに鬱ごときで甘えているという発言。あまりに冷酷だ。

 奈々枝は声を殺して泣いている。こんなに辛そうじゃないか。春彦は奈々枝の肩を抱いて、優しく言う。

「……帰ろう、もうすぐそこだ」

 本当に辛い人間に、辛く当たることが逆にプラスになることもあるのかもしれない。現に、そういう人間はいる。社会のあちらこちらに、例えば毎朝すれ違う学生やサラリーマンやアルバイト、誰でも辛い経験があり、いつも誰かに励ましてもらえるわけじゃない。時には厳しいことを言われ、さらに落ち込む事もある。

 問題は落ち込んでそのままか、本人が前を向くか。

 無理にでも前を向いて生きていくのが世の中の多数、当たり前だ。

 だが奈々枝は、落ち込んだまま、いや更に落ち込んでしまった。あの人ではダメだ。奈々枝の母親には任せられない。奈々枝に前を向かせてあげることはできない。春彦はそう半ば確信のように思った。

 母親なりの責務を果たそうとしているのは、春彦にだって分かる。だが責務、お金を稼ぎ、養うだけが責務ではないはずだとも春彦は考える。だが例え春彦が説得しても聞き入れてはもらえないだろう。



「春彦君」

 ベットに腰掛け、俯いて泣いていた奈々枝はぽつりと呟いた。

「何?」

 春彦は鞄を置いて、隣に座る。

「鬱……と私の被害妄想って、甘え、なのかな……」

「それは」

 分かるわけがない。春彦はそのどちらでもないのだ。

 そしてわからないから、今もどうしていいか分からない。

「…………」

「……奈々枝は、辛いんだろ?」

「うん……みんな、笑ってたね。嫌だった、笑わないで欲しかった。笑われるの、いやだ」

 奈々枝は左手を春彦の手に重ねた。

「もう、いきたくない。学校はもういやだ」

「…………」

 どうするのが、正しいのだろう。

 ふと、茉莉子の言葉を思い出した。


 肯定も否定もダメ。


 あれはもしかして彼女なりにヒントをくれたのか。何も分からない春彦には、その言葉にすがってみるしかない。

 しかし、肯定も否定もダメとは、どうすればいいのだろうか。

 ヒントのはずが余計に混乱する。

「……なぁ、気分転換しないか? ほら、ゲームとか」

 見れば本棚にはいくつかゲームがある。奈々枝の手を振り払うわけにもいかず、かといってここからじゃ、何のゲームがあるのか分からないが。

「そんな気分じゃ……」

「気分転換、だよ。ただ泣いてるより、何かして落ち着こう。奈々枝、ソフトは何持ってる?」

「……えっと」

 奈々枝は立ち上がり、本棚へと向かう。何本かのゲームソフトを取り出して、パッケージと裏面を見て選んでいる。春彦も隣に立って、一緒に見ていく。

 ただどれも一人用だ。ストリートギアは対戦しかできない。少なくとも今やっていいゲームではない。

「あ、これは?」

 ディストラクション・カンパニー。2Dベルトスクロールアクションゲーム。二人協力プレイが可能だと、パッケージ裏に書いてある。

「…………」

 微妙そうだ。

「やっぱり、ゲームやりたい気分じゃないよ……」

 奈々枝はゲームソフトをしまう。

「んじゃぁ……」

 何をしたらいいだろう。春彦は腕を組む。

「ねぇ、春彦君」

「ん?」

 奈々枝は胸の前で両手の指を絡めて、気恥ずかしそうに言う。

「お兄ちゃん、って……呼んでいい?」

「…………あ、ああ、いいけど」

 春彦は顔が熱くなるのを感じて、奈々枝の方から顔を逸らす。

「……お兄ちゃん」

「な、なに?」

 奈々枝は春彦に体を寄せ、話始めた。

「お兄ちゃんが、欲しかったんだ。 ……ううん、多分お兄ちゃんじゃなくてもいいんだ、家族なら」

「……家族」

 母親は稼いで養うだけで、愛情を与えない、さっき春彦が受けた印象通りの人なのだろう。

「寂しくてさ、怖くてさ。一人ぼっちな事が多くて……だから、兄弟が欲しかった。兄弟がいたらきっと寂しくないんだろうなぁ、って」

「それも、兄弟によるだろ」

「あはは……そうだけど」

 奈々枝は少し笑って、春彦の顔を見つめる。

「春彦君みたいなお兄ちゃんだったら寂しくないよ、私」

 春彦が嬉しくないわけがない。その嬉しさを表現できないほどに。思わず奈々枝を抱き締めてしまう。

「ありがとう、奈々枝」

「……好きだよ、お兄ちゃん」

 抱き締めながら、嬉しさを感じながら、心の中にすきま風を感じずにはいられない。

 なぜなら、好きだと言われたのは春彦ではないからだ。



 気がつけば、六時を回っていた。カーテンの隙間から見える外は薄暗い。

 春彦と奈々枝は漫画を読んでいたのだが、春彦がふと時計を見てようやく体の空腹感に気づいた。

「奈々枝、お腹空かないか?」

「えっ? ……ああ、もうこんな時間」

「何かあるのか? 無いんだったら買いに行かないと」

「待っててお兄ちゃん、見てくる」

 奈々枝は部屋からでて、居間へと向かった。

「俺も行ってみるか」

 一人で漫画を読んでいるのもなんだか申し訳ない。それに、一人にするのは危ない。

 春彦は漫画を置いて、居間へと向かう。



 居間は不自然に感じるほどに片付いていた。奥のソファーの上だけが鞄やらパジャマらしき服やら枕やら布団やらが散乱しているが、生活感と呼べる物はそこにしかない。

 薄く埃が積もるテーブル、古いブラウン管テレビ。時の止まった壁掛け時計と一緒に多くの物の時間が止まっているように、春彦には見えた。

 キッチンの冷蔵庫の前に奈々枝はいた。

「お兄ちゃん、何か食べたいものある?」

「何があるんだ?」

「簡単なもので、パスタかラーメンのどっちか」

「うーん……パスタかな。ソースは?」

「レトルトの梅しそ。これ美味しいんだよ」

 奈々枝は笑って、梅しその袋を春彦に見せる。

「じゃあ、それもらおうかな」

「待ってて、今作るから」

 春彦はテーブルの椅子を引く、同時に携帯が振動した。

 椅子に腰掛け、携帯を開く。秋人からのメールだった。

『夕飯できたけど、今どこ?』

 春彦は『奈々枝の家にいる。ごめん今日は奈々枝の家で食べるよ』と返信した。

 次に来るメールは罵倒か、多分の意味が隠った一言か。連絡しなかった春彦が悪いのだ。

 奈々枝はまだキッチンにいる。パスタを茹でるのにまだかかりそうだ。そこで、携帯で「被害妄想」について調べてみる事にした。


 「被害妄想」という言葉は、そのままの意味で、何でもない仕草や言動を自分への悪意に感じ取ってしまう事だ。

 うつ病や精神疾患の一つ、統合失調症等の症状の一つとある。

 例えば向こうの席で二人の女子が話している、というシチュエーションの場合、実際には近所のクレープ屋の話や他愛の無い世間話をしていたとしても、被害妄想を発症している人間には、陰口を言われているとか何か企みをしている、と思い込んでしまうわけだ。

 他にも盗聴されている、思考を読まれている、誰かに尾行(ストーカー)されている、等々。


 春彦は一旦検索ページに戻り単語を追加しようとすると、目の前に出来立てのパスタの盛られた皿がおかれる。

「…………」

 奈々枝は暗い目で春彦を見ていた。

「……君の被害妄想を、どうしてやろうかと思って調べてたんだよ」

 春彦は待ち受け画面に戻し、携帯をポケットにしまう。

「誰とメールしてたの?」

「秋人、弟だよ」

「愚痴?」

「なわけないだろ。言ったろ、俺は奈々枝を悪く思ったりしないって」

「…………」

 訝しむ目は、その暗さを増す。

「奈々枝、被害妄想は病気だ。だから治す。医者じゃないけど、治してみせる。治るまで一緒にいてやるし、お兄ちゃんでいてやる」

 奈々枝はまるで告白されたかのように顔を紅潮させる。

「……うん……あり、がと。でも……」

 その先の言葉、春彦は分かった。

「治るよ。風邪だってインフルだって、治るだろ」

 それと一緒にするのは間違いだが、そう言うと何だか大したこと無いように聞こえる。それで少し気が楽になってくれれば、春彦の思い通りだ。

「ほら、食べよう。冷めちまうぞ。 ……奈々枝? フォークは」

「あっ……ごめんっ」

 奈々枝は慌ててフォークを取りに行った。

 

 

 ☆☆☆☆☆



 被害妄想を発症している人に接するとき、基本は茉莉子の言う「肯定も否定もダメ」、それから目を見て話すこと。

 目を見て話すことによって、脳の前頭葉が活性化、話を理解しやすくするそうだ。つまりきちんと理解できず、妄想、脳が勝手に話をマイナスに解釈してしまうのだろうか。

 場合によっては否定もアリだと、春彦が見ているページには書かれている。そもそもなぜ肯定も否定もダメかと言うと、被害妄想を肯定してしまえば妄想はより強くなり、否定すれば反発を生み、不信感を与えてしまうからだ。「そんなことはない、絶対にそうだ」と強く思い込んでいる状態の人間に何を言っても無駄だと言うことだろう。

 奈々枝の場合どちら、肯定による更に深い思い込み、否定による反発で自殺に至ってしまうのだろう。

 反発を生まずに対応するには、彼女が疑った物の、正しい見方を教えなくてはならない。それには知識や経験といった、同級生もとい高校生程度の人間が、ましてやそこまで賢くない春彦にはとても説明してやる事はできない。どうやら返答は即答レベルでなくてはならないらしいので、益々春彦には無理難題だ。

 そして、肯定も否定もしないならどうしたらいいのか。それは本人に答えを与えるのではなく、答えに導いてやらなくてはならない。

 彼女を興奮させず落ち込ませず、あくまで冷静に考えられる状態のまま、他人が――今ならば春彦が――奈々枝に「誰も奈々枝に悪意を持っていたわけではない」事を教えて、彼女自身がそれを考え、納得しなくてはならないのだ。


「難しいな」

 春彦は声を出したか息を吐いたか位の小声で呟いた。

 奈々枝は食器を洗っている。


 次項へ、を選択し、ページが読み込まれる。次は具体的な改善法だ。


 その一、生活リズムを整える。キチンと夜に寝て、朝起きて日光を浴び、ラジオ体操ないし散歩等をし、食生活を見直しましょう。


 被害妄想は不安や恐怖といった感情が脳を過剰に興奮させる。その不安や恐怖を抑える脳内物質に「セロトニン」というものがある。これは栄養素の「トリプトファン」「ビタミンB6」、そして朝日を浴びて体を動かす事で作られる、と書かれている。

 そしてそのセロトニンを原料に「メラトニン」という睡眠ホルモンが作られる。

 不眠症まであるのならこれで解決するかもしれない。


 その二、様々な物に触れ、匂いを嗅ぎ、経験する。

 経験による裏付けが不安や恐怖を減らす。知っているものは怖くないということだ。

 そして触覚からの刺激は脳を活性化させる。安心感を与え、脳を落ち着けるにも効果的だ。簡単な方法は手を握ってあげる、それからハグ。


「…………ハ……ハグ……」

「さっきから何を調べてるの?」

 奈々枝は春彦の後ろから、携帯の画面を覗く。春彦はドキッとする。見られたからではない。ハグという単語のせいで妙に意識してしまっているからだ。さっきやったのに、である。

「あ、ああ……被害妄想の治し方を調べてたんだよ。さっきと同じ」

「……別に、治らなくてもいいよ。ううん、治んない方がいいかも」

 奈々枝は春彦に後ろから手を回す。春彦の後頭部に柔らかく心地よい弾力のある感触が。

「奈々枝……」

 普段なら嬉しいシチュエーションはず。けれど嬉しさは無かった。

「……本当に調べてただけ?」

「うん。なんなら履歴見るか? メール見てもいいぞ」

「履歴って消せるよね。内部にデータが残ってても私は調べられない。いくらでも隠せるよね」

 それはその通りだ。携帯のネットの履歴もメールも削除ができる。都合が悪ければ消してしまえばいい。ただ春彦はネットの履歴削除を一度もしたことがないのは事実だ。第一やり方を知らないのだ。

「信じられない?」

「信じられない」

 春彦はおもむろに立ち上がる。奈々枝は春彦の首から腕を外し、一歩後退した。

 春彦はまず、証拠を見せようとした。しかし奈々枝は見てすらくれない。きっと次に春彦が取る行動は彼女の依存性を高めてしまうかもしれない。けれども、何かしらしなきゃいけなくて、方法も今知った少しの情報から実践できるものを選ぶとするなら、春彦はこうする。

「…………っ」

 奈々枝を思いきり抱き締めてみる。ハグだ。

「……」

「信じてほしい。 ……奈々枝はさ、また、学校に行きたくないか?」

「今は、絶対に嫌」

「そうか」

「……少し、引きこもってたい。お兄ちゃんと」

「引きこもってたって、良いこと無いと思うぞ?」

「いいよ、良いことあるもん。お兄ちゃんが居てくれる、そうでしょ?」

 そうだけど、と春彦は言葉を濁らす。やはり、依存性を高めただけか。しかし考えようによっては、これで自殺のリスクが減ったと考えられる。少なくとも、春彦の前で自殺することは無い。お兄ちゃんでいる間は。

 


 ☆☆☆☆☆



 十二時を周る。普段なら春彦はもう寝ている時間だ。

 そうさせない原因は同じ布団で、隣で寝ている奈々枝だ。小さく寝息をたてて、春彦に背を向けて体を少し丸めて寝ている少女。決して嫌らしい意味ではない。

 どうしてあげればいいのか、いまだに悩んでいる。逃げ道はあるのだ、まぁいいか、明日考えればと先延ばしにしてしまえば簡単だ。

 だが、春彦はそうしたくない。

 奈々枝の引きこもりたいというのも、その通りにしてあげれば奈々枝は喜んでくれるだろうし、幸せだろう。それはそれで、救われることになるのかもしれない。

 先延ばしという選択。それはあくまで最終手段で、最悪の選択だ。


 ブブブ……ブブブ……


 春彦の携帯が振動している。メールだ。

「……優?」

 一瞬なんでメールアドレスを知っているのか疑問に思ったが、友達だ、教えてあってもおかしくない。一瞬であってもそういう風に疑問に思ってしまったのは悪いなと春彦は思った。

 メールの本文は一行だけだった。

『奈々枝の様子は?』

 春彦は少し内容を考えてから、本文を打つ。

『少し思い悩みすぎてるだけだ。元気付けてみる。』

 もぞり、と隣の奈々枝が寝返りをうった。目が開いていた。

「メール?」

「優からな」

 本文の内容と、優からのメールを見せて、携帯を閉じた。返信するのを忘れたことに気づくのは後で。

「…………」

「……やっぱり、副委員長なんていやだった?」

 奈々枝は小さく頷いた。

「じゃあ、断ればよかったじゃない」

「……でも、できないよ。なんて思われるか……考えちゃって」

「なんて思われるかなんてわからないだろ?」

「何でお前やらないんだよ、めんどくせぇな。とかさ」

「…………」

 否定はできない。春彦自身――成績的にありえないが――もし万一選ばれたらそう思ってしまうだろう。

「お兄ちゃん」

「ん?」

 奈々枝は体をよじって、春彦に近づく。

「お兄ちゃんは……学校で自分の居場所、って、ある?」

「……ちょっとだけ、考えていい?」

「……」

 奈々枝は上目使いに、春彦の表情を見ている。春彦は寝返って、奈々枝の顔と正面に向き合う。目と目を合わせつつ、思考を始める。

 居場所。言われてみれば、あるっけ? と春彦は思う。そもそも居場所とはなんだろうか。春彦は何か部活に入っているわけではないし、委員会も特にやっていない。去年の文化祭の事は思い出せない。

 ただ学校に入学して、適当に出来た友達と駄弁っていただけな気がしてならない。

「…………っ」

 春彦は思わず失笑した。奈々枝は少しだけ怪訝な顔をした。

「いやさ、俺、学校に入学してから居場所とか考えたことないな、って思った」

「無い、ってこと?」

 それは違う。居場所として挙げられるところを、春彦は三つ見つけた。

 秋人の居る場所。

 優や金髪と居る空間。

 茉莉子の居る屋上。

 幸音が居たなら、彼女の側も候補に挙がるのだが、彼女はいない。その事を考えると春彦は少し寂しくなった。思わず、奈々枝の体を抱き締めてしまう。

 幸音とは違う、ほとんど身長は春彦と同じくらいの奈々枝。肩幅なんか、春彦と同じくらい――春彦の肩幅はそれほど広くない――と思っていたが、小さく感じる。ただ温もりは不思議と、似ている気がした。

「お兄ちゃん……」

 奈々枝は上擦った声をあげた。

「居場所はある。優やけいが居れば、とりあえず居場所はある」

 圭、金髪の名前だ。実は春彦は今まで忘れていたのだが、これは彼の胸の中に永遠に隠されるべき秘密だ。

「…………そう」

「奈々枝、居場所がほしいのか?」

 奈々枝はすぐには答えずもぞもぞと布団の中に潜り、春彦の胸に顔をうずめてから答える。

「ここが居場所」

「……それはそれでいいけどさ。学校でだよ」

 奈々枝は答えない。答えてくれないと、どうなのか分からない。察しがいいわけではない春彦には分からない。

 それからしばらくして奈々枝は再び眠ってしまった。

 春彦は今更、青春的煩悩に悩まされるのだった。巨乳少女が近くて無防備。恐らく怒られない。いやいやいや。



 ☆☆☆☆☆



「お兄ちゃん」

 奈々枝が少し甘えた声を発しつつ、春彦の肩を揺する。春彦は薄く目を開ける。

 部屋の中は薄暗いが赤縁の眼鏡をかけた奈々枝の微笑みは見えた。わずかに顔に陰があるのが残念だ。

「おはよう、お兄ちゃん」

 目をちゃんと開けて目を合わせてやると、奈々枝は微笑みを笑顔に変えた。キスでもしてきそうな雰囲気があった。

「おはよう、奈々枝」

 実は春彦は少しだけこの状況が楽しくて嬉しい。何故かというと、多少難はあれど奈々枝は可愛い。春彦的には好みな方だ。さらに好みに近いとすれば前週の明るい奈々枝の方なのだが。

 弟に妹の真似事をされて起こされるのではなく、女の子が妹の真似事をして起こしてくれるのだ。嬉しい。あまり褒められた性癖ではないが。

 性癖。その単語を浮かべた瞬間に、春彦は自分自身が少し情けなくなった。

「俺って、妹萌えなのか……」

「?」

 奈々枝は不思議そうに首をかしげた。

「何でもない。 ……それよりも」

 春彦は体を起こし、ベットから出てカーテンを開けた。

 部屋の中に外の光が差し込む。奈々枝は眩しそうに、手で目を覆った。

「眩しいな、こっち東か」

 よく見なくても太陽が昇っている。春彦は窓の下にあったレッサーパンダの置時計を手に取る。短針は九時と十時の間を指している。

「余裕で遅刻だな。どっちにしても、俺は教科書家だしな」

「今日は家で過ごそうよ」

「そうだな」

 春彦の心には少し余裕があった。それは時間がループしているというのが根拠で、学校をサボってしまっても然して問題ないという安心感があるからだ。

「つっても、ずっと籠りっぱってのも、よくないだろ」

「外は怖いよ」

「今日は平日だし、お互い私服着てればフリーターカップルに見えるんじゃない?」

「……でーと?」

「するか?」

 奈々枝は頬を紅潮させる。

「お兄ちゃんとでーと……」

 嬉しそうに何度も反芻している。しかしその姿は何だか奈々枝ではないようにも見えて、春彦には不思議だった。

 まるでいつぞや、茉莉子が見せたような――。



 降下するエレベーターの中、春彦は制服のままだ。奈々枝はブラウスの上に薄いカーディガン、藍色のロングスカート。髪は綺麗な黒のストレート。清楚な印象を受ける。

「まずは俺ん家に行こうな。俺、着替えないといけないし」

「うん……」

 奈々枝の顔は浮かない。一階に着いて、エレベーターを降りる。

「…………っ。やっぱり、いや」

「……」

 無理に連れ出せば、どうなるだろうか。良い選択ではないということしか、春彦には分からない。

「……じゃあ、いっか。戻ろう」

 無理強いはすまい。時間はあるのだから。春彦はそう思って、閉ボタンと七階のボタンを押す。ドアが閉まって、エレベーターが上昇を始める。

「どうして、いや?」

 何気ない調子で春彦は聞いてみた。

「……怖い。私今、暗い顔してる。だから、不気味に思われるかも」

「そう、考えちまったのか」

 奈々枝は頷いた。彼女の言う通り、その表情は暗い。だが不気味には見えない。せいぜい今日は彼女にとって少し日差しが強いのかな、と思う位か。いやそもそも、誰も気にしないだろう。

 少しの沈黙を挟んで、エレベーターは七階に到着した。



 窓から光が差しているから部屋の中は明るい。が、雰囲気は暗かった。

「ダメ。やっぱり、ここでお兄ちゃんといたい」

「……」

 奈々枝は膝を抱えて、部屋の隅、日の当たらないところで体育座りをしている。

 春彦は一つ、聞いてみることにした。

「何を、考えたんだ?」

「……何、って?」

「エレベーター降りたとこで、でもいいし、その前でもいい。ともかくどんな風に思った? 俺はさ、よく分からない。思ったこともない。だから奈々枝の辛さがいまいち……ピンときてない」

「…………すごい、色々」

「思い付いたのから、話してくれていいよ。俺は聞きたい」

 奈々枝はしばらく黙って、ぽつりと呟く。

「朝っぱらから若者がぶらぶらしてて恥ずかしくないの? って、誰かが思っている」

「別にいいじゃないか。平日だからって出歩いちゃ行けないってこともないし。俺はまぁ、制服だからサボりに見えるかもしれないけどさ」

 最後だけ自嘲気味で、後は何でもない風に春彦は答えた。

「……奈々枝、最後にさ、「と思った」って付けて考えてみたらどうだ?」

「何で?」

「そうすると、あくまで妄想だって自覚できそうな気がしない? さっきの奈々枝の言い方だと、まるで本当に誰かがそう思ったみたいだ」

 春彦の言った方法は実は昨日見ていたサイトにも載っているのだ。春彦はそのページまでたどり着かなかったのだが、効果のある方法だ。

「…………そう、だよね。妄想、だもんね」

「できたらでいいからさ、それを付け加えて、話してみて」

 また奈々枝は黙って、何もない方を見て思考している。

 本当は思考させちゃ、まずいかもしれない。春彦の中に一抹の不安はある。だが、春彦は言葉で言ってくれなければ理解できない。奈々枝本人には辛いことかもしれないが、言葉にしてもらって、どういう心中なのかを知らなければ春彦もどうしていいか分からないのだ。

 ただ、思考の暴走だけは怖い。それが奈々枝を自殺に追い込むかもしれない。奈々枝の様子は、できる限り気をつけた方がいい。春彦は心に決めた。



「私はこんなに不幸なのに、どうしてああも暢気な顔して歩いているんだ…………と、思った」

 昼食のきつねそばを食べている時、奈々枝は呟いた。

「そういう風に呪う奴は、明日には忘れてるよ。気にすることじゃない。俺もそんなもんだよ」

「お兄ちゃんも……誰かを呪うの? 不幸を願うの?」

「誰でもそうだよ。自分が不幸なら他人の幸せが妬ましく見える。そうだろ?」

「……うん」

「そう思う奴はいるだろうけど、そいつは明日にはチョコ○ールの金のくちばし当てて喜ぶから」

「…………なんでチョコ○ール?」

 奈々枝の表情が少し柔らかくなる。

「そうそう、奈々枝はあれ当たったことある?」

「銀だけなら、五枚集まったことあるよ」

 本当に他愛のない話をして、時間が過ぎる。しかしさっきまでの思い話から、今は何でもない会話ができたことが春彦には嬉しかった。少しでも、回復しているような気がしたからだ。



「……あ」

「ん、どうした?」

 春彦は漫画を閉じて、奈々枝の方を見る。奈々枝は何か思い付いたようだが、言うのを躊躇っている。

「…………えと、これはいい」

「そうか? まぁ、無理に言わなくてもいいよ」

 春彦は笑いかける。本人が言いたくないなら無理強いはしない。

「…………」

「…………」

「……やっぱり、聞いて?」

「ん、どうぞ」

 言う決心はついたようだが、まだ指と指を絡めたり、足の指がせわしなく動いてるところを見ると、まだ躊躇いの方が勝っているようだ。

 春彦はつい、ちょっと可愛いな、なんて暢気な事を考えた。

「……襲ってみたい、と、思った」

「…………はぁ」

 予想外の台詞に呆気を取られる春彦。

「こ、これは、夜とかに、思う」

「そ、そうだな、夜は危ないな」

 奈々枝のスタイルの良さは春彦も知っている。そう思い、実行する悪い人間がいることも、無くならない性犯罪という言葉が示している。

「でも……怖い、やっぱり、そういう人はいるんだよね」

「……まぁ、な」

 春彦は男としての立場に立ってみれば、気持ちが全く分からないとは言えない。同じ男だ、スタイルの良い女性を見ればよほどの仙人か聖人でない限り下心は沸くだろう。

「…………」

 一瞬、守ってやるよ、なんて気軽に言ってしまう所だった。

「そういうことはさ、思ってもしょうがないよ。そう思わないようにするしかない」

「……どうしたらいい?」

「一人でいない……かな?」

 月並みだと春彦も思う。が、それしか言えなかった。

 奈々枝はまた黙ってしまう。春彦も、それ以上声をかけられなかった。



 時計の音と、時おり春彦が姿勢を変える音。奈々枝が少し動く音。外を走る車の音。漫画をぺらとめくる音。

 窓から差す光が、室内を暖かくしている。

 いつしか春彦は、うとうとと、睡魔に襲われていた。



 ☆☆☆☆☆



 ……。


 …………。


 ………………。


「おきろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」



 ☆☆☆☆☆



 春彦はハッとした。零れかけていた涎。危うく奈々枝の漫画を汚すところだった。

 すごく聞き覚えのある声だった。夢だったのだろうか。春彦はふぅ、と息を吐いて、時計を見た。もうすぐ六時だ。

 部屋の中に奈々枝はいない。遠く、居間の方で物音がする。奈々枝が夕食を作っているのだろうか。春彦は行ってみることにした。



 居間に入ってすぐに、春彦の前には理解しがたい事態が待っていた。

 奈々枝が、首を吊ろうとしていたのだ。四つあったテーブルの椅子の一つに乗り、天井にあるフック――何に使われていたのかは分からないがかなりの重量に耐えられそうだ――から延びるビニールテープは、先がわっかになっている。

「奈々枝」

 春彦が声をかける。テーブルの椅子に立っていた奈々枝は虚ろな目をしている。こちらは振り向かない。


 奈々枝は椅子を蹴った。


 春彦はとっさに、キッチンへ向かう。包丁を取って、急いでテーブルに登り、フックから延びるビニールテープを切った。

 どさっ、と奈々枝の体が床に落ちた。

「……かはっ、はぁっ…………ごほ、げほっ…………はぁ、はぁっ、はぁ」

 春彦は少し呼吸を落ち着けて、跳ねる心臓を左手で撫でてから、テーブルを降りて、包丁を台所に戻した。

 それから奈々枝の元に向かう。

「はぁ……はぁ……おにい、ちゃん……」

「…………」

 声をかけるより先に、体を起こして、抱き締めた。

「…………死ぬなよ」

「……ごめんなさい」

 奈々枝の目の端から涙が零れた。

「不安で……怖くて……お兄ちゃん……春彦君が……いるから…………っ」

 奈々枝は嗚咽混じりに話す。

「でも、でも……迷惑かな……うざいかな、って思ったら…………っ……もう、止まらなくて……」

 きっかけ一つで、ただちょっと不安に思うだけだった。

 きっとこれまでも、そうだったのだろう。

「そんなに、死にたいのか」

「不安で、不安で……安心できなくて、安心が短くて……不安ばっかりで、もうやだよ…………安心、してたいよっ……!」

「…………」

 安心が欲しいと願いながら、それを得ることは叶わずと知っているからこそ、死を選ぶ。終えてしまえば楽になれると信じて。

「…………ふざけんなよ」

 春彦は抱き締める力を強める。

「死んで、どうするんだ。求めることをやめるな。安心、不安? そんなの、俺だってある。誰だって持ってる。誰だって安心は短くて、不安ばかりが長いのは知ってるんだ」

「…………誰だって、なんて聞きたくない!」

「だからっ! 求めることを、安心を求めることから逃げるな、って言うんだ」

「…………」

「安心が欲しいんだろ? だったら俺が、俺達が与えてやる。だけど奈々枝。奈々枝がそれを拒んじゃ、求めないんじゃ与えてはやれないんだ」

「…………信じれば、いいの? どうしたらいいの?」

「信じろ。俺は絶対に裏切らないし、悪く思わない。だからもう、逃げるな、死ぬな。吊るな」

「…………無理だよ」

「また不安になって、か」

 奈々枝は頷いた。


 ここで春彦は確信する。

 引きこもってちゃダメだ。

 少しでも、俺一人で何とかしようなんて思っちゃダメだ。

 証明しよう。ここ以外で奈々枝に居場所があることと、不安や恐怖が妄想であること、そして。



 ☆☆☆☆☆



 翌日。午前六時。

「奈々枝、学校に行こう」

「えっ……?」

 奈々枝はひどく不安そうな表情をする。

「不安じゃないことを、確かめに行くんだ」

「で、でも」

「今日はずっと、俺がついていてやる。迷惑なんか感じてないよ。俺は、君と学校に行きたい。行って、不安な所じゃないと証明させてくれ」

 奈々枝は視線を泳がせて、迷っている。

「行っても、辛くて不安だらけだと思ったら、もう俺は君に無理強いはしない。ずっとここで、二人でいよう」

「…………なんで、そう急ぐの? 私は、嫌だよ。もう少し待ってくれてもいいじゃない……」

「…………」

 全く急いでいないと言えば嘘になる。奈々枝が昨日自殺未遂をしたから、春彦は焦っているのかもしれない。

「…………今日だけ、行ってみないか?」

「嫌」

「今日だけで良い。今日だけ、頼む」

 春彦は手を合わせて、頭を下げる。

 奈々枝は顔に不信感や、怒りのような感情を浮かべている。

「……ずっと、一緒にいてくれる?」

「いてやる。いる」

「…………もう二度と行きたくなくなる、かもしれないよ」

「……」

 その時は、なんて、もう言う必要を春彦は感じなかった。



 春彦は奈々枝の手を握っている。奈々枝も、握り返している。

 通学、通勤時間だから、人は多い。奈々枝の表情は暗い。

「奈々枝。不安か?」

 奈々枝は小さく頷いた。

「先生とか、怒ってるかな……」

「大丈夫だって、一学期丸々休んでたんじゃないんだ」

「……春彦君ってさ」

「ん?」

「のーてんき、だよね」

 奈々枝の表情が少しだけ柔らかくなった。

「よく言われるよ。難しく考えたりするの、苦手なんだ」

「すごいなぁ」

「俺と一緒にいたら、伝染うつっちまうぞ」

伝染うつしてほしいな」

 奈々枝の表情は、まだわずかな陰を残しているが、かなり明るくなった。良い調子だ、と春彦は思う。しかし。


「副委員長がサボるとかありえねぇよな」


 わざとだった。わざと聞こえるように、後ろの男子生徒は言った。

 せっかく明るくなった奈々枝の表情が、瞬く間に暗くなり、手が震える。

「おい、鷹谷たかや~」

 その鷹谷と呼ばれた男子生徒の後ろから、金髪が現れる。

「あ? なんだよ」

「代わりに副委員長やってやればいいじゃん。そーゆーこと言うなら」

「あぁ? なんで俺がやんだよ」

「サボるのあり得ないんだろー? だったらお前がやればいいじゃん。そーゆーこと言うんだから、サボらないんだろ?」

「嫌に決まってんだろ」

 鷹谷という生徒の事を春彦は良くは知らないが、印象の良い奴ではない。正直腹が立ってしょうがない。一言言ってやらなければ気がすまない、口を開こうとした瞬間。

「その嫌なことを、やる奴がいるから、物事は成り立つんだ」

 優の声だった。

「お前、やるか? 委員長。まだ新学期は始まったばかりだ。変わってやっても良いぞ」

「やんねーよ。お前みてーにガリ勉じゃねーし。めんどくせぇ」

「なら、口出しするな。 ……別に俺はお前の為に点を取るんじゃあない。自分の為、そしてクラスの為に勉強し点を取るんだ」

 春彦の通う学校では、学年別クラス毎の成績ランキングがある。年に一度の文化祭で、もっとも予算をもらい、かつ出し物の計画を先生方に通しやすくするには、そのランキングで上位に入る必要がある。

 生徒の大半は、その文化祭が目当てでこの学校に来たと行っても過言ではない。

 前期中間考査、前期期末考査。一年の時はその二回の試験のクラス平均+委員長、副委員長の合計点で良かったのだが、二年からは前年の後期中間試験、期末試験+前期中間、期末考査全ての成績が関係してくる。

 クラスの平均点が良くても、トップにはなれない。委員長、副委員長の成績が振るわなければ、平均が良くてもランクが落ちる。

 責任は重大なのだ。

 一応、前期中間考査までは、相談すれば委員長の座を誰かに譲渡することもできる。責任が重ければ誰かに変わってもらうこともできる。ただ、それには双方の合意が必要だ。

 よほどの事がない限り、常に成績トップを狙わなければならない委員長などという立場に、誰もなりたがらないものだ。だから先生は、成績の高い者を委員長に選ぶ。普通にそのままでも成績の高い人間だ。副委員長の方は結構成績が並みな生徒から無作為に選ぶらしいが。

 ちなみにこれは後に春彦が優から聞いた話であり、今の春彦は知らない。覚えていない。

「だからってよぉ、いーんちょーさん。副委員長はサボっても良いんすか?」

「その分俺が頑張れば良い。全教科で満点を取ってやる、位でな」

 鷹谷は舌打ちする。

「鷹谷」

 優は少し表情を緩めた。

「安心しろ。何か文化祭でやりたいことがあるんだろ。だから副委員長にちゃんとして欲しい、そうだな」

「……そーだよ」

「鷹谷、企画があるならちゃんと練っておけ。皮肉を言う暇があるならその企画を完成させてくれ。そして皆と話して、準備をしておいてくれ。委員長として、成績は上位に入ることを約束する。企画が通れば、必ず皆が企画を成功させられるように全責任を負うことを約束する」

 優の言葉は力強い。強い意思がある。鷹谷は口を曲げた。

「もちろん、お前も多少は成績を良くしてくれよ。英語と数学、苦手なんだろ」

「日本史も国語もだ」

「俺に至っては全部苦手だな! 体育と保健体育以外!」

 金髪は胸を張った。

「……ま、委員長、副委員長の成績よりもお前らの成績の心配をしてくれ」

「わかったよ」

「じゃあ、勉強のできる彼女でも作るかなー」

「……それ、いいな」

 鷹谷は金髪のその話題にのって、鷹谷と金髪は歩いていった。

「優」

 春彦が声をかけると、優は春彦と奈々枝を見た。そして奈々枝に微笑んだ。

「もう、いいのか?」

「……えっ?」

 奈々枝は何の事か分からず、狼狽える。

「体調が悪かったんだろう? 辛いなら――」

 無理しなくていいんだぞ。優はそう言うだろう。春彦は言葉を遮る。

「優、ちょっと待って。奈々枝、優に話しても良いか? 悩みの事」

 奈々枝は春彦と繋いでいる手を見て、それから春彦の顔、そして優を見て、それでも不安そうな顔で頷いた。

「歩きながら話そう。遅刻しちまう」

 優には話す必要がある。



 優は真剣に話を聞いてくれた。そして。

「…………奈々枝、ここも居場所だ」

 先に教室に入って、優はそう言って奈々枝を招き入れる。

 奈々枝は躊躇いながらも、教室に入る。教室の中の空気は、和気藹々とした、普段通りだった。奈々枝が入ってきても、クラスメイトの一人が入ってきた位にしか思っていない。

「奈々枝ー」

 二人の女子がやってきた。前週、奈々枝をからかっていた二人だ。

「風邪?」

「……」

「もう大丈夫なの?」

「……」

 奈々枝は答えない。三つ編みの女子は少しキョトンとしている。

「にしてもひどいなぁ。いくら素っぴん美人でも顔くらい洗わないとー」

 髪の短い方の女子は奈々枝の手を引いて、連れていこうとする。

「……やめてっ!」

 奈々枝は思わず手を振りほどいた。

「っぅ!?」

 その手は髪の短い女子の顔に当たった。

「あっ」

 奈々枝の顔が青くなる。教室の中も静まり返っている。

「奈々枝。大丈夫か?」

「無理矢理引っ張ってやるな。奈々枝が驚いているだろう?」

 春彦が奈々枝に声をかけ、優はフォローに回った。

新原にいはら、親切なのはいいけど、無理矢理はダメだろ」

「そんなつもりじゃ」

 髪の短い、新原は若干、苛立っているようだ。恐らく善意だったのだろう。それを拒否されれば怒るのも無理はない。

「奈々枝は、そういう風にされるのは苦手なんだ。もう少し優しく接してやってくれ」

「……ねぇ、奈々枝ちゃん」

 三つ編みの女子が奈々枝に声をかける。奈々枝は怯えた目で女子を見る。

「もしかして、怖い? 他人の事」

「…………っ」

「この前、からかってごめんね。あの時「ニーは気づいてなかった」みたいだけど、すごく焦ってたよね」

 ニー、新原の事を言うときだけ鋭いトゲを出していた。


 春彦は、この前、という単語に引っかかった。

 奈々枝がからかわれたのは、前週のはずだ。そう春彦は思ったが、思うだけにとどめた。


「奈々枝ちゃん、昔の私と同じだね。私も中学の頃怖かった。でもね、この高校でニーに会って、少しだけど、怖くなくなったんだ」

「…………」

 奈々枝はその言葉に何を感じているだろう。素直に受け取れない今の奈々枝は、何を感じたのか。

「……ね、ねぇ、古海ふるみさん? あたしが悪い?」

「そうだよ。ニーが余計な事するからだよ。 ……ただ私も、面白がっちゃった。でもニーが悪いってことで」

「古海。その性格、直せ……」

 優はずれた眼鏡を直しながら、やれやれ、という風に言った。

 それなりに歪んでいる子だが、悪い子ではない、春彦はそう思った。ともかく、この場は何とか丸く収まったようで、春彦はほっと胸を撫で下ろす。優も、同じ心境のようだった。



 休み時間。奈々枝は新原、古海と楽しそうに話している。しかしまだどこか不安そうだ。

「ほんとさ、この学校ってへーわだよなー」

 金髪が嬉しそうに言った。

「昨日やってたドラマみたいな学校だったら奈々枝、いじめにあってるところだぜ」

「そんな真似、させないさ」

 優は優しく言った。春彦は新原を見て、苦笑しながら言う。

「……まぁ、新原さんの手を振りほどいたときは、焦ったけど」

「古海がいなければ喧嘩になってたなー」

 笑い話で済んだ事に、春彦はほっとしていた。



 昼休み、春彦達は学食に来ていた。いつもの優や金髪の他に、奈々枝に新原、古海も加わり、今日は賑やかだった。

 長テーブルの右端から、金髪、向かいに優。新原、向かいに春彦。古海、向かいに奈々枝が座った。

「いっただきまーす!」

 金髪と新原はカツカレー。古海と奈々枝は焼き鮭定食。優と春彦は豚カツ定食を頼んだ。

「うん、このレトルト感! いつも通りだ」

 この一言で金髪は食堂の職員からの評判が落ちたことに気づかない。

「圭君って、正直だね」

 古海は皮肉には聞こえない調子で皮肉を言った。もちろん金髪は分かるわけがない。

「イエスマンだからなっ」

「……優、まさか」

「この前の時からそうだ」

 以前男子トイレで話した、今だけはイエスマンがいいな、という春彦の提案を今だ実践しているのだろう。

「…………」

「奈々枝」

 黙々と食べる奈々枝に春彦は声をかけた。

「……」

 奈々枝は視線だけ春彦に向けた。

「まだ、怖い?」

「……」

 奈々枝は頷いた。

「奈々枝ちゃん、ゆっくり直していこう。私も一年かかったから」

 古海は優しく微笑む。

「……新原、さん」

「っん? まに?」

 カツを頬張る新原は奈々枝の方を見た。

「…………殴って、ごめん」

「ん、あれは事故だったんだし。あたしも、ついね。手引っ張られて嫌な人もいるんだって、わかってんのに……」

「ね、ニーがひゃくぱー悪いの。だから奈々枝ちゃんは気にしないで」

 あんたねぇ、と新原は悲しそうな目を優しく微笑む古海あくまに向けた。

「……顔の事、心配してくれて、ありがとう」

 奈々枝は少し表情を和らげて、お礼を言った。

「あ、いや、あ、あはは」

 新原は照れて、スプーンをくるりと回した。そしてわずかに付いていたルーが、金髪の髪と古海の頬に飛ぶ。

「「…………」」

「ご、ごめん!」

 皆が笑い、和やかになっている。

 連れてきたのは正解だった。よい方に転んでよかった。心の底からそう思った。



 ☆☆☆☆☆



 ハッと、春彦は我に返った。

 さっきまで学食にいたはずだが、回りは授業中の教室。時間が跳んだと自覚した。ふと携帯を取りだし日付を見る。日付の表示がおかしくなっていた。

「…………」

「宮村、携帯をしまえ」

「あ、すんません」

 先生に注意され、携帯をしまい、黒板を見るついでに時計を見た。

 秒針と長針が無くなっていた。


 放課後、金髪は姉貴からの呼び出しだ、と半べそかきながら帰っていった。春彦は奈々枝と優の姿を探したが、見当たらない。教室の生徒は一人、また一人と出ていく。

 春彦も帰ることにした。机の中の教科書を鞄に詰めて、ふと財布の中身を確認して。

「春彦君」

 奈々枝の声だった。表情の明るい奈々枝の顔を、春彦は久しぶりに見た。前週の、いや、これが奈々枝なのだ。

「帰ろっ」

「おう。そうだ、ゲーセン行くか?」

「いいよ。あんまりお金無いけど」

「俺もだ。隣町まで行く?」

「ううん、町中でいいよ」



 人気のまばらな帰り道。奈々枝はうつ向かず、真っ直ぐに前を向いて歩いている。

「……さっきさ」

 奈々枝は話始めた。

「優君に、告白されちゃった」

「……それで? なんて言ったんだ?」

 奈々枝は「うーん」と、困ったように笑う。

「それがさ、私、好き、とかよく分からなくって。こんな風に明るく話せるようになったのも、最近だし」

 その最近を、春彦は丸々時間跳躍してしまって知らないのだが、ともかく明るくなったことが素直に嬉しかった。

「思わず、ごめん。って言っちゃった」

「断ったの?」

「いや、違うの。私の気持ちが分かるまで待って。って言った」

「……優、なんて言ってた?」

「いつか、聞かせてくれればいい。待ってる、って」

「いい奴だよな、ホント」

「ねー」

 あはは、うふふ。


 空が天盤だなと、春彦が思うと、ふと幸音の事を思いだした。

 そうだ。幸音と最後に別れたのも、こんな感じの時だった。


「春彦君」

 奈々枝は足を止めた。

「ありがとう。お兄ちゃんになってくれて」

 春彦は振り替える。奈々枝は笑いながら、泣いていた。

「もう、首吊ろうとなんてしない。絶対」

「ああ、死ぬなんて、苦しいだけで終わるからな」

「……ありがとう、学校に連れてきてくれて」

「賭けだったよ。古海さんや新原さんが居てくれて良かった」

「そうだね。 ……春彦君」

「んー」

 春彦は、少しだけ目頭が熱くなるのを感じる。それを我慢するように上を向いた。視界がわずかに白み始めていた。

「……茉莉子ちゃんも、救ってあげて」

「……できるかな」

「できるよ」

「頑張ってみる」

「うん。じゃーね、春彦君」


 ――ああ、またな。


 そう最後に言えたかというところで、春彦は意識を失った。


 次に目覚めるのが四月一日だと自覚しながら。



 ☆☆★★★



 頭痛がひどい。

 妄想日記はいつの間にか、甘い恋愛小説のようになっている。


 私は幸せになりたいのか。

 振られたのに。振られたのに。振られたのに。


 書いたページが多い。少し読み返すと破り捨てたくなる。

 でもここにいる。私の世界。私の春彦君。


 私はペンを取る。次のページを開いて、書き始める。次の妄想日記を。


 ページは、もうあまりない。


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