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淡々と過ぎる日々 後編

 アーケード通りの、ラーメン屋の隣に目的地はある。

 古い建物だが、一階から三階まで全部ゲームセンターだ。一階にはクレーンゲームとプリクラが揃っている。二階には大人気対戦ロボットアクションゲームと音ゲー、悪名高いタイムクラッシャー。三階が春彦と奈々枝の目的地だ。

 2D格闘ゲームだけを集めた三階は、他の階に比べ男性の人口が圧倒的に多い。言い換えれば、しっかりと住み分けられているとも言える。

 唯一ここに足りないものは麻雀ゲームだけだ。

「ストギア空いてるね。やるの?」

「俺はやるよ。奈々枝は?」

 今日は珍しく人が少ない。ストリートギア以外の昔の2D格闘ゲームには、ちらほらと人が居る。それも老人ばかりだ。

 若者と呼べるのは、春彦と奈々枝だけだった。

 春彦は椅子を引いてストリートギアの台に座り、百円を硬貨投入口に入れる。正常に投入されたことを効果音が知らせてくれる。スタートボタンを押して、キャラクター選択画面に入る。落ち着いたBGMが流れる。春彦が選ぶキャラクターは決まっていた。

「やっぱり鬼頭なんだ。次回作も居るといいね」

「いなかったらまた別なキャラ使うよ」

 黒い着物を着て、頭に角を持つ人型式神。という設定の鬼頭。

 一面の相手はいきなり、鬼頭の主が相手だった。

『また抜け出して酒を盗んで飲むつもりか?』

『まぁまぁ、ちょっと出かけてくるだけだって』

『許すものか。たまには私の式らしく、私の仕事を手伝え!』

『俺は部屋に篭ってるのはイヤなんだよ!』

『お前を生んだのは間違いだったな。一度作り直してやる!』

 ラウンド1が始まった。

「相変わらずとんでもない陰陽師だなー」

 後ろの奈々枝が冷めた口調で言う。

「ヤンデレだしな」

「多分このゲームで一番怖いよね」

「ああ」

 陰陽師の攻撃は中距離がメインで、鬼頭とは相性が悪い。リーチの差が大きい。

 弱点は殆どの攻撃が直線で、上ががら空きだということ。攻略法が分かっている相手ほど楽な相手は居ない。これがコンピューターではなく人間だったら怖い。

 陰陽球ヨーヨーをジャンプして回避、上から蹴りを起点にコンボを決める。

「おー、すごい。一気に半分」

「技も入れればもっと削れるよ」

「絶対アンタと対戦したくないわー」

 奈々枝は隣の「シングル台」と書かれた台に座り、硬貨を投入する。選択したキャラクターは、クラマ=ソウヤ。このゲームのストーリー上の主人公だ。

 春彦の座っている台の向かいに、男子学生が座る。画面にでかく「決闘!」と表示される。対戦を申し込まれたのだ。

 相手が選択したのは奈々枝が選んだキャラクターと同じ、クラマ=ソウヤだった。

「対戦?」

「うん。よりにもよってソウヤ」

「苦手?」

「上手い奴が使うと、ありえないくらい強いから苦手」

 まずは相手の出方を窺う。しかし窺うまでもなかった。相手はごり押しで突っ込んでくる。鬼頭を使う人が少ないから、対処を知らない人間は意外と多い。鬼頭相手で、一番簡単に勝つ方法は、絶対に近寄らせないこと。クラマ=ソウヤは手にしている剣を振るう中格闘を駆使すれば、鬼頭相手なら楽に戦える。のだが、相手は弱格闘から繋げる癖があるようで、わざわざ春彦の間合いに飛び込んできてくれる。

 春彦にとり、これほど楽な相手は居ない。

 出の早い弱から小技で浮かし、キャンセル、レバー下中格闘で相手を地面にバウンドさせ、掴み投げ。これだけで三分の一が消し飛ぶ。浮かした相手をバウンドさせるのはタイミングがとても難しいが、実践で使えれば見た目も面白いしダメージもでかい。バウンドさせると掴み投げしかできないが、十分だ。

 相手は戦法を変えてきた。剣を使った中距離攻撃に絞って、近づけないようにするつもりだ。しかしそんな相手とは幾度も戦ってきた春彦に、そんな戦法は通じない。

 カウンター技などない。ガードをすることで徐々に端に追い詰められる。

 端で中格闘を防いだ瞬間にコマンド入力。最終奥義を発動する。

『大甘だぁ!!』

 地面に拳を叩き込むと同時に、鬼頭の前と後ろに石柱が飛び出す。遅れて一本ずつ、計三本出てくる。この技の欠点はコンボに組めないこと。拳を地面に叩き込む少しの間の間にガードが可能になってしまって、発動を見てからのガードで対処が可能なのだ。俗に言うロマン技だった。

 相手は中格闘を終えてガードが可能になる前に石柱に当たってしまった。BGMが主題歌に変わった。大きく上空に飛ぶクラマ=ソウヤ。飛び上がった鬼頭に連撃を浴びせられる。

 踵落としで地面に落とされる。そして止めは空中から回転しながら落下して、エルボーを叩き込む。

『デストロォイ!』

 デスボイスと共に演出とBGMが元に戻る。

 2ラウンド目が始まる。最終奥義は一回の戦闘中一回しか出来ない上に、使ってしまうと、その対戦中一切のキャンセル行動が出来なくなる。攻撃を繋げ難くなり不利になるが、最終奥義を決められて、意気消沈するのは初心者か中級者。相手のキャラクターの動きはもう、やけくそだった。

 適当にやってても勝てるレベルだった。

「容赦ないね」

 隣で敵の攻撃をガードしながら見ていた奈々枝が呆れたように言う。

「むしろチャンスだと思うんだけどな」

「いや、あれだけ自分のキャラが痛めつけられて、意気消沈しない方がおかしいよ」

「こっちはキャンセルできないとまともにコンボ繋がんないんだぜ?」

「いやいやいや……」

 奈々枝は自分の戦いに戻る。

 2ラウンド目の止めは巴投げ。

 戦いが終わり、台の向こうを見ると、そこにはもう誰もいなかった。



 ☆☆☆☆☆☆



 一階のクレーンゲームコーナー。奈々枝と春彦は景品を見て歩く。

「春彦君は、お菓子取ったことある?」

 チョコレート菓子が景品の筐体。その前で奈々枝は止まった。

「これ欲しいの?」

「いやぁ、別に」

 見れば、取れない事はなさそうだった。袋が山積みになっており、奥から持ち上げれば簡単に落ちそうだ。春彦は百円を投入する。

 狙い通り、奥から持ち上げれば簡単に落ちた。

「ほら。これは簡単だろ?」

「すごいね。私、取れたことないよ。これと同じ奴なんだけどね」

「俺だってあまり得意じゃないさ」

 ふと外が騒がしい事に気づく。救急車とパトカーのサイレンだ。

「なんかあったっぽいな」

「……通り魔、かな」

 奈々枝は外を見つめる。不安なのだろうか、顔色が悪い。

「パトカーも居るみたいだし、捕まったんじゃね」

「だといいね」



 春彦と奈々枝は電車の車内、無言だった。

 野次馬の話に聞き耳を立てて聞いていると、どうやら通り魔に襲われたのは金持ちのオバサンで、いつ刺されたのか、誰もわからなかったらしい。そしていつも通り、財布だけがなくなっていた。

 犯人は捕まっていなかった。もしかしたらこの車内に居るかもしれない。私服のサラリーマンが私服警官にも犯人にも見える。とても落ち着かない。

「春彦君」

 奈々枝はチョコレートの包みを開けて、一つを春彦の口に入れる。

「甘い物食べれば、落ち着くよね」

 まるで、自分に言い聞かせるように言っている。春彦はうなづいた。



 日は殆ど沈んでいた。

 駅から出た二人は帰路に着く。

「怖いね」

「何が」

「電車にもし、犯人が乗ってたらさ、今度はこの町にいるんだよ」

 犯人は捕まっていない。行方も分かっていない。今日の夜のニュースでも見れば、隣町なのか、二人の住む町の中なのかが分かるだろう。もっとも、あてにはならないだろうけれど。

「……それじゃ、私、こっちだから」

「家まで送るぞ」

 奈々枝は手を振る。

「大丈夫だよ。チョコもあるしね」

 どんな理由だよ、と春彦は笑う。奈々枝が去っていく背。一抹の不安を感じるが、春彦は気のせいだ、と思うことにした。犯人がどこに居たって、やっぱりどこか身近な気はしないからだ。



「ただいま」

 家に着くと、すでに夕食の支度が整っていた。秋人が作っていたのだ。

「おかえり、兄貴」

 ツインテールがくるりと舞う。ワイシャツにスカート。足にはストッキング。秋人は女装していた。

「オムライス?」

「悪いな、作りたくなってさ」

「いいけど。着替えてくる」

「おう」

 部屋に行き、鞄を机に投げ出して制服を脱ぐ。夕方過ぎると、気温が一気にという程下がるので、長袖のシャツを着る。これ一枚だが、冬用だから十分温かい。

 居間に戻ると、秋人が座って、テレビのリモコンを弄っていた。

「また通り魔だって」

「知ってる。隣町のだろ」

 席について、手を合わせていただきます。オムライスの玉子は半熟だった。スプーンで切ってみると、中から湯気が噴出す。

「兄貴、隣町に行ってたのか」

「ああ、奈々枝と一緒にな」

 秋人はリモコンを置いて、手を合わせいただきます。

「青春できてるじゃん。よかったな」

「まぁ、ゲーセンだけどな」

「いいんじゃね。別にあいつ等だって嫌じゃないだろ。幸音も、ぬいぐるみ取ってもらった、ってよろこんでたしな。確かにデートコースとしては最低かもしれないけど、まだ友達なんだ、どこでもいいだろ」

 まだ友達。春彦としては、それ以上の関係になる人が欲しい。それは誰だろう。幸音? 奈々枝? 茉莉子? もしかしたらもっと別な誰かかもしれない。

 何せ、まだ春彦は青春の入口から動いていない気がするのだ。スタートラインで、メンバー確認しただけ。

「……ん、あ、そうだ。秋人、奈々枝には秋人に話した事、内緒にしてくれ」

「は?」

 秋人は目を丸くする。こいつは何を言っているんだ。

「だから、一緒に隣町に行ってたってこと」

「……ああ、その事ね。そこまで悪趣味じゃねーよ。俺が兄貴の敵になるような事は絶対にしねぇよ」

 秋人は本物の女子の様な笑顔で笑う。そしてその台詞も、是非彼女に言ってやりたい。



 食後、春彦は家庭用のストリートギアを遊ぶ。遊ぶゲームモードは「サバイバル」。

 キャラクター選択時に隠しコマンドを入力すると、全ての敵が最強になる。専用技まで付くので、完全に超級者向けだ。だが春彦にはこれで十分だ。ただのコンピューターレベルMAXでは人間の上級者の方が強いのだから。ストリートギアのコンピューターは他の格闘ゲームに比べてかなり弱めなのもある。ストーリーを簡単に楽しめるように、だろう。

 サバイバル+隠しコマンドの難易度は中級者程度だと、一人倒すのすら厳しいらしい。

『甘めぇな!』

 投げで決めて、一戦目はノーダメージ。

「兄貴も飽きねぇな」

「いやぁ、しばらくやってないからどこまで行けるか」

 秋人は食器を拭きながら春彦のプレイを見ている。

「乱入歓迎だぞ」

 二戦目が始まる前に、春彦は2Pコントローラーを床に置いた。

「せいぜいエンジン温めておくんだな。いつも通り兄貴じゃ俺には勝てねぇよ」

 余裕たっぷりな発言。いつものことだ。春彦より秋人の方が格闘ゲームは上手い。


 六戦目も終わる頃、春彦の隣に秋人が座り、コントローラーを取る。

 秋人がスタートボタンを押すと、画面に「決闘!」と表示され、キャラクター選択画面に移る。いつもの落ち着いたキャラクター選択BGMではなく、激しい曲調でノリがいい。テンションが上がる。

 秋人が選ぶのはいつも通り「天狐」。ステージはランダムでBGMは「第二次式神大戦」。

 和ロックで人気が高い。

「少しは手抜いてくれるか?」

「バカ言え兄貴。十秒は遊んでやるよ」

 不敵な笑みと余裕の発言。お互いのキャラクター同士の短い掛け合い台詞を挿んで、一ラウンド目が始まった。

 秋人は画面上の制限時間で十カウント経過しないと攻撃してこない。それは春彦に限らず、誰に対してもそうなのだ。しかも質が悪いのは、それが相手を舐めての事ではない。

 画面端に追い込み投げを当てようとするが、ダメージの無い吹き飛ばしで飛ばされてしまう。しかも投げ以外の攻撃は全て防がれる。秋人は春彦のコントローラーを見ているわけではない。

 いつしか画面上のカウントは十を超えた。途端、天狐の動きが変わった。

 積極的に接近してくるようになったのだ。相手が普通の挑戦者なら春彦にとり、チャンスなのだが、秋人相手では話は別。秋人相手にまず守りの戦法は通じない。

 一歩でも前に出ようとガードを切った瞬間。

 フェイントによる足元狙い。

 下手に隙の大きい攻撃が繰り出すと、素早く背後に回られ、そこで確実にやられる。

 それこそコンピューターの超反応を習得しなければいずれ破られる。格闘ゲーム最強のウメ○ラでも連れてこないと勝負にならない。

 ゲームセンターのストリートギアで負け知らず。それが宮村秋人だ。

 相変わらずの超反応で攻撃をガードしてくるので、某小隊長が言った「守ったら負ける! 攻めろ!」、これそのままに、相手の攻撃に被せて当たり判定で勝つか、上手く投げを決めてから、必殺のコンボを決めるしかない。

 春彦は一番確実な、投げからのコンボを決めようと隙を窺う。ようやく隙を見つけコマンドを入力した。

「……っ…………あ」

 しかし痛恨。操作ミス。

 投げは出ず、最も隙の大きい強パンチを出してしまった。その隙を拾わない秋人ではない。

 流れるコンボ。一体どうやったらそこで繋がるんだ、とメーカーに直談判したくなる連携コンボ。秋人が編み出した即死永久コンボだ。天狐の攻撃力が低い性で、体力ゲージの減りが遅いのが更にイライラを加速させる。かの小隊長はこうも言った「一思いにやれぇ!」。

『お前が……勝利者だ……がくっ』

 鬼頭は情けない声でそれだけ言って、倒れた。

「…………」

「投げ技ミスるとか、致命的だな」

「うるせぇ」

 春彦はスタートボタンを押して、ゲーム終了を選択する。『まだ戦えるぜ!?』と鬼頭の声で引き止められるが、迷わずに終了する。

「もっと粘れよな」

 秋人が口を尖らせる。持っていたコントローラーを置いて、春彦が持っていた1Pのコントローラーを取る。そしてさっき春彦がやっていた「サバイバル」を選択、隠しコマンドを入力する。

「即死永久コンボなんて食らったらもう萎えるわ。ホント、バグだろ絶対」

「ゲーセンだと使えないんだよ。家庭版だけな」

「やっぱバグじゃねーか。セコいぞ秋人」

 秋人は正座したままプレイしている。画面では極悪凶悪コンボによる瞬殺芸が披露されている。ステージ背景には相手キャラを応援する女の子達がいる。これでは公開処刑だ。

「なんなら封印してもいいぞ? それで兄貴が俺に勝てるの?」

「…………ちっ」

 舌打ちするのが春彦に出来る唯一の負け惜しみだった。

 コンボを封印してもらってようやく互角。操作ミスさえなければきっと一回位は春彦だってコンボを叩き込めた。だが、それは手を抜いてもらっている、ということだ。どうせ勝つならお互いハンデ無しがいい。その方が勝ったとき気持ちがいいだろう。

「……なぁ兄貴」

 秋人は画面から目を離さず、一切操作の手を緩めないまま話し始める。

 画面では次の対戦相手との戦い。相手の素早い剣技を正確にガードしている。

「隙を窺って、技を決めるよりも、もっと積極的に攻めてこいよ」

「バカ野朗、お前相手に下手に攻めたら速攻で負けるだろ。つーか、負けたし」

「それこそバカだよ。兄貴は分かってないな、積極的に攻めるんだよ」

「隙を見て一撃決める方が確実だろ?」

「言っとくけど、俺にそれは通じないし」

「闇雲に攻めて勝てるのか?」

 華麗に必殺技で締めた。秋人は呆れとも、ヒントを与えようとしているとも取れる微笑を春彦に向けた。

「……闇雲に、じゃなくて、か」

「現実はゲームのように行かないと思うだろ? でもさ、スポーツだって恋愛だって。攻めたもん勝ちなんだよ、兄貴」

「遠回しに、何が言いたいんだ?」

「兄貴は攻め方が下手」

 春彦はため息を吐く。立ち上がり、居間を出て行った。

「積極的に攻めろよー」

 後ろから秋人に声を掛けられる。

「……って! うわ、やべ、食らってる食らってる!」

 秋人は慌ててゲームに戻った。すでにライフは四分の一だった。



 ☆☆☆☆☆☆



 翌日、天気は曇り。雨雲からいつ雨が降り始めてもおかしくは無い。

 傘を持っての通学は荷物が増えるのと、雨が降らず晴れた時に、何となく気恥ずかしいからだ。春彦はそれが何より面倒だ。

 何故気恥ずかしいと思うのかは分からない。空が晴れていて、周りが傘など持っていないから、自分が可笑しく見られている、と意識するのだろうか。だとすればとんだ自意識過剰だ。春彦は眉間に皺を寄せて、そんなくだらない事を考えていた。

「あ、春彦さん!」

 信号が赤になり、待っている所だった。声がした方を向くと、青いふんわりとした髪、幸音がこちらに歩いてくる。トテトテと効果音を付けたくなる歩きだ。

「おはようございます」

 お辞儀をされ、春彦も思わず小さくお辞儀をして返した。

「あ、ああ、おはよう」

 今日の幸音は機嫌が良さそうだった。

「何かいい事でもあった?」

 春彦が聞くと、よほど話したかったのだろう、心底嬉しそうに話す。

「はい! なんと、今日の占いで私、一位だったんです!」

 春彦にとってそれがどの位嬉しいのか全く分からない。占いなど信じていたのは小学校までで、中学から今では心底どうでもよくなっていた。一位だからなんなのだ、と。

「占い……テレビの?」

「はい。占いで一位だと、今日は何でも出来る気がしませんか?」

「…………」

 どう答えればいいんだろう、と春彦は悩む。こんな時、秋人なら話を合わせるに違いない。それも、相手にさも自分もそう思っているように見せる事ができるのだろう。

 しかし春彦はそこまで器用じゃない。

「まぁ、気分はいいな。最下位よりはいい」

 幸音はニコニコと笑顔を絶やさない。きっと今日一日、ずっと機嫌よく笑っているのだろう。微笑ましい、小動物のようだった。

「こういう幸せって、誰かにおすそ分けしたいですね」

「幸せの、おすそ分け」

「そうです。私が幸せな分、誰かが不幸なんです。だから、私の幸せをおすそ分けできたらな、って」

 可愛らしくもあり、聖母の様な発言だった。そして無責任でもある。

 春彦は言いたい事を飲み込んだ。今の彼女の幸せを壊してしまうからだ。

「春彦さん、はい」

 幸音は鞄の中からドロップの入った缶を取り出し、中から宝石の様な飴を掌に出して、春彦に差し出す。

「……ありがとう」

 飴を受け取り、口に入れる。甘いレモンの味だった。

「少しは、おすそ分けになりましたか?」

「まぁ、少しは」

 口の中でころころと飴を転がす。学校は目前だ。



 下駄箱で靴を履き替えて、傘立てに傘を挿す。ふと、頭に思い浮かぶ顔があった。

 茉莉子だ。前に屋上で会って以来、校内でも街中でも彼女の姿を見た事が無い。

 日にちが経って冷静に考えてみれば、告白しておいて、自分は姿を現さないっていうのはおかしい。意味が理解できない。

 まさか未だに屋上で春彦を待っているのか。いやまさか、授業には出ているはず。だとすれば、偶然、会わないだけだろう。春彦はまた悶々と色々考え出していた。


 授業にも身が入らない。会いたくてしょうがない。聞きたくてしょうがない。

 一限目と二限目の間にでも行こうかと思う。けれど、春彦には確信がない。茉莉子が屋上にいなければ空振りで終わる。それでもまた次に行けばいいのだ。

 しかし、空は見れば見るほどに今にも振り出しそうだ。振り出せば、屋上には絶対に居ない。

 チャイムの電子音。

「お? 春彦、トイレか?」

「いや、ちょっと」

「?」

 金髪はキョトンとした顔で春彦を見送った。


 階段を上る。手には傘を持って。わざわざ一階の傘立てから傘を持ってきた。

 屋上へ出る扉に手を掛ける。居る事を願って扉を開ける。

 隙間から、湿った風が入ってくる。湿度を多分に含んだ空気、雨の匂い、という奴だろうか。屋上に出て空を見る。あまりにも降らないくせに焦らしてくる雨雲はむしろイライラする。

 春彦はまず、軽く周囲を見渡す。茉莉子の姿は無い。梯子を昇り、一番高い場所へ。

 茉莉子は寝転がっていた。胸の前で手を組んで、まるで死んでいるかのように目を閉じている。春彦が隣に座ると、茉莉子の瞼はゆっくりと開いた。

「やぁ、春彦」

「雨降るぞ」

 茉莉子は短く笑う。

「まだ降らない。降るのはお昼頃だよ」

「分かるのか?」

「うん、分かるよ」

 すげぇな、と春彦は言って、寝転んだ。

「……なぁ」

 ん、と返事する。

「どうして、俺のこと好きなんだ? 俺はお前に会ったことなんかない。一目惚れだっておかしい。俺はイケメンでもないし、普通……かどうかもわからない。埋もれた石ころの一つだと思うけど」

 茉莉子は黙っていた。やがて、短い笑いから、大笑いになる。腹を抱えて笑い出した。

「ふふ……あはは、あははははは! そうだね、可笑しいね」

「俺より、お前がおかしい」

 笑いが引くまで、茉莉子は笑い続ける。

「…………ああ、可笑しい。ホント可笑しいね。春彦は誰か好きな人でもいるの?」

「そういうわけじゃねーけど」

「じゃあ黙って私にOKしてくれればいいじゃん」

 茉莉子は春彦の方に寝返りを打つ。そのまま腕に抱きついた。

「…………俺は、茉莉子のこと何にも分からない。それに、好かれる理由も分からない。それで付き合おうとは思わない」

「ふぅん。そういう事言うんだ」

 茉莉子は春彦の腕を離す。目は春彦の顔を捉えたままだ。

「どうして、俺の事が好きなんだ?」

 明確な理由。それが今春彦に欲しい物だ。他に何も要らない。それで納得できるなら、春彦は茉莉子と付き合うことを受け入れる事が出来る。

「どうしてだと思う?」

「想像なんか付くかよ。お前みたいな分けわかんねー奴の思考なんか分かるか」

 茉莉子の目が濁っていく。顔の笑みも消え、まるで茉莉子では誰かのような。

「……大人しく、OKしなさいよ。〝また〟逃げる気?」

 春彦は奇妙な感覚を覚える。茉莉子ではない何かがそこに居る気がする。

 背筋がゾクッとする。春彦は体を起こし、茉莉子を見つめる。ゆらり、と茉莉子は体を起こす。まるで操られているようだ。

 悪霊。そう思った途端、また背筋に寒気が走る。

 しかし奇妙なのは、既視感を感じる事。

 春彦の脳は必死に記憶を検索する。

「春彦」

 声にハッとする。頭が真っ白になっていく。茉莉子はくすりと笑う。

「春彦が私の事、好きって言ってくれたら教えるよ」

 さっきまでの茉莉子に戻っていた。茉莉子はポケットからガムを一枚取り出す。

「はい」

 ガムを受け取る。茉莉子は黙って立ち上がり、梯子を降りて校内へ戻っていった。

 春彦は手の震えに気づいた。

「……俺」

 昔のことを思い出そうとする。しかし、幽霊になった人なんて、思い当たらない。祖父も祖母も元気に生きているし、友達も、亡くなった人なんていない。誰だ。誰なんだ。

 思い出せない。どれだけ記憶を掘っても、死んだ人なんていない。俺は未だ、ただの一度も葬式を経験していない。親戚も、誰も、死んでいない。

 やがて予鈴が鳴る。

「いかねぇと」

 ガムを制服の胸ポケットに入れて、春彦は校内へ戻る。

 


 昼休み、春彦は学食で秋人を見つける。幸音の姿は無く一人だった。

「秋人」

 秋人お手製弁当を秋人の向かいに置く。秋人もまた、お弁当を食べていた。

「珍しいな、何か用事か?」

 秋人は卵焼きを箸で掴み、口に運ぶ。春彦は席について、弁当を開ける。二段弁当の一段目は、ミートボールに卵焼き、ブロッコリー、簡単な煮物。二段目は日の丸だった。

「食事中にする話題じゃねーんだけど」

「まぁ、周りが聞き耳立ててなきゃ大丈夫だろ」

 春彦はブロッコリーを箸で掴む。

「……俺、悪霊に好かれてるかも」

「…………」

 秋人の目が点になるのは当然だろう。ゆっくりと怪訝な表情へと変わる。

「……まぁ、何かあったんだな? 話してみろよ」

 声に哀れみが乗っている気がしたが、春彦は話す。

「この前、茉莉子に告白されたんだ。でも、俺を好きな理由が分からないんだ。今日聞いてみたんだよ。そしたら……」

「……そしたら?」

「大人しくOKしなさいよ。また、逃げる気、って」

「……また……か。つまりなんだ、茉莉子に幽霊が憑いていて、そいつは生前兄貴に告白して逃げられた事がある。んで、茉莉子に憑依してまた告白した、と」

 春彦は頷いた。箸が進まない。

「でも……俺達の親戚に、亡くなった人なんていないしな。兄貴は……分からないんだな」

「ああ」

 秋人は箸でミートボールを掴み、口に入れる。

「そいつが誰か、聞かなかったか?」

「いや」

「勘違いだといいな。 ……というかそもそも、兄貴が茉莉子を振った事は?」

 春彦はこの前、秋人の入学式の日に初めて茉莉子に会った。それ以前に会った事は一度も無い。

「ある訳無いだろ。だって、始業式の日に始めて会ったんだ」

 春彦はふと、メガネの言っていた事を思い出す。

 ――あいつは、メンヘラだからな。

「……なぁ、秋人。メンヘラって、なんだ?」

 秋人は携帯電話を取り出し、操作、画面を差し出す。「ネットスラングまとめwiki」というサイトだった。そこには「精神が病んでいる人」と太字で書かれていた。その下には詳しい説明がびっしり書かれている。春彦には最初の太字だけで十分だ。

「つまり、なんだ?」

「メンヘラってのはなぁ……うーん。 ……ふむふむ」

 秋人はブロッコリーを租借しながら携帯を操作し、読み進める。

「私を愛して。愛してくれなきゃ死んじゃうぞ、って奴かな」

「ヤンデレ?」

「それは、あなただけをこの世で一番愛してます、だ。 ……ヤンデレもメンヘラも、メンドクサイことには変わりないけどさ。ちなみに本当の使い方は精神疾患を患ってる人に使うんだ。心を病んでると、誰かに側に居て欲しくなるんだろうな。だから誰かに依存して欲しくなるんだろ。構って欲しいとも言えるかな」

「……ヤンデレが、愛したいのか。で、メンヘラが愛されたい」

「そう。 …………茉莉子がメンヘラだと思うのか?」

 春彦は答えない。分からないからだ。

 その言葉が正しいなら、茉莉子はメンヘラではない。だって愛してくれとは一言も言っていない。告白の返事を催促されただけじゃないか。

 メンヘラ、なのだろうか? それとも、ただ、春彦が気づいていないだけで、ずっと茉莉子は春彦の事が好きだったのかもしれない。去年の文化祭の時にでも何かあったのか。

「……ん? 文化祭?」

 春彦は顎に手を当てる。

 文化祭、何時あったんだ? 春彦はその時の記憶が無い。それどころか、天星川への入学式も、他の行事も、何も思い出せない。

 それだけじゃない、この前の秋人の入学式以前の記憶が全て曖昧だった。

 地名や人の名前は思い出せる。父と母の顔も。

 しかし、出来事だけが曖昧で、霞がかっている。

「……兄貴?」

「なぁ、秋人」

 春彦の顔が青ざめる。

「兄貴、どうした。不味いか?」

「違う、思い出せない。思い出せない!」

 叫んでしまった。周りは何事かとこちらを見る。秋人は箸を置いて、席を立つ。春彦の側に立ち、弁当を片付ける。

「兄貴。話を聞いてやる。場所を変えるぞ」

 春彦は頷く。秋人は春彦の弁当を片付けると、次は自分の弁当を片付ける。



 外は雨が降っていた。一階の家庭科室前。長椅子に二人は腰掛けていた。

 春彦はお茶の入ったペットボトルを仰ぐ。一回で半分飲んだ。

「――ぷはぁっ! ……はぁ……はぁ……」

 息を整える。秋人はミルクティーの入ったペットボトルを手の中で転がす。

「思い出せない。って言ってたな、兄貴。何が思い出せない?」

「……出来事、だ。秋人の入学式以前の記憶が、曖昧だ」

「思い出せない位、曖昧なのか」

 秋人は目線を落としている。何か知っているのではないか、と勘ぐってしまいそうだ。

「秋人、俺、何か事故にでもあったのか? だから、記憶が飛んでるのか?」

「…………」

 秋人は答えない。春彦はペットボトルを長椅子に置く。

「知らない訳無いんだろ、なぁ!?」

 声を荒げるが、それでも秋人は沈黙を貫く。

「……ちっ。何なんだよ。ホント、何で茉莉子は俺の事を……」

 思い出せない事と何か関係があるのかもしれない。

 春彦は、今までこの曖昧さに何故気づかなかったのだろうか。自分を責める。これだけ重大な問題があったのに何故俺は気づかなかったんだ。自責の念だけが沸く。

「…………なんか、言ってくれよ、秋人」

「……兄貴。茉莉子は……悪霊に取り憑かれているんだ。兄貴は選ぶんだ。どうしたらいいか。道は二つだ、兄貴」

 秋人は立ち上がる。春彦の前に立って、見下ろす。春彦は顔を上げた。

「記憶を追及するなら、茉莉子の告白を受けろ。それか、記憶の事は……忘れろ」

「なんで忘れなきゃいけないんだ…………?」

 秋人の目は、見た事が無いくらい真っ直ぐな目だった。

 決断しろ、と言われているようだと、春彦は感じる。

「…………」

「兄貴。いや、宮村春彦。決めるんだ」

「……何様だよ」

「いいから! 殴りたければ後で殴れ! いいから決めるんだよ兄貴!」

 春彦は秋人を殴った。力いっぱい、全力で。全てのイライラとモヤモヤを乗せて殴った。

 だが何も、変わらなかった。秋人は殴られた頬を摩る。

 それでもなお、秋人は春彦に真っ直ぐな目を向ける。

 春彦は口を開き、言った。



 ☆☆☆☆☆☆



 夕方、土砂降りだった。春彦の決断を責めるような、土砂降りだった。

 結局春彦に、茉莉子の告白を受ける気は無かったのだ。理由が無い、そう言う自分。それに逆らう事が出来なかった。

 学校から帰る、今にして思えば正解だったのかもしれない。それはきっと言い訳だが、きっとメンヘラの茉莉子と付き合っても暗い結末しか待っていないのだ。だから春彦は本能的にそれを察知し、避けた。そう自分に言い訳をしながら、帰り道を歩く。

 記憶が無いから、なんだというのだ。地名は覚えている。人の名前も、家族の顔も覚えている。それに今は思い出せないだけで、時間が解決してくれる。そうだ、そうに決まっている。

 春彦は徐々に、平常心へと戻っていく。落ち着いた。

 土砂降り、ザァと横を通る車。目の前には相々傘をするカップル。後ろにはサラリーマンと少し地味な傘を差した同級生。至って普通の帰り道だった。



 家に帰り、すぐシャワーを浴びて、居間に向かう。まだ秋人は帰ってきていない。春彦はテレビを点けた。

「――被害者です。本日午後三時半ごろ、刺殺された男の遺体が発見されました。場所は――」

 近所だった。春彦は急に不安になり、窓の鍵を確かめる。そして玄関に向かい、鍵をかけた。しかしそれでも、妙な胸騒ぎが胸から消えない。

 居間に戻り、テレビの入力を切り替え、ゲームを始める。



「ただいま」

 秋人が帰ってきたのと同時に、春彦はゲームをやめた。今日は何だか調子が悪い。

 秋人は買い物袋をテーブルに置いて、中身を出す。

「ええっと……これとこれが冷蔵庫、と。あ、兄貴、チョコ食べるか?」

「いや、いらん。部屋に居るから」

 おう、と返事を確認して、春彦は居間を出た。自室へと入り、適当な漫画を取ってベットに背を預け読み始める。いつも通りの青春ラブコメ漫画。漫画の中で主人公は、美少女達と涙あり笑いありの楽しそうな青春を送っている。

 特に、部活だ。女子だらけの中に男子一人。問題なくハーレムだ。

 その男子が鈍感なのは古今東西どこも一緒だった。たまに気づいていて無視してる、というパターンや、稀に特定の相手だけを好きだったりもするパターンもある。

 最近はヤレヤレ系が多いそうだが、春彦にはどれも一緒に見えた。

 ブブブ……ブブブ……と携帯が振動する。春彦はポケットから取り出して確認すると、画面には「幸音」の文字。メールだった。

『明日、いつ家を出ますか? よかったらまた、一緒に登校したいです』

 こそばゆくなるメールだった。春彦は返信を考える。

 そもそも何時に家を出ると決まっているわけでもない。何時にするか。

『八時半位に、今日会った交差点のところで待ちあわせよう』

 そう返信した。携帯は床に置いて、漫画に戻る。ちょうど、主人公がヒロインとメールのやり取りをしているシーンだった。他愛ないやり取りだ。コーヒーに砂糖を何杯入れるか、だとか、この前ラテアートやってみようとして、ネコを描くつもりが不気味な怪物が出来た、だとか。

 携帯が振動し、床を這う。幸音からだった。

『わかりました。楽しみです。 それと、ちょっとだけ相談に乗ってもらってもいいですか?』

 幸音は絵文字を使わないのだろうか。それだと文面を工夫しなければどうしても文が固い。

 春彦もあまり絵文字は使わないが。

『いいよ。何?』

 返して、また漫画に戻る。


 メールが返ってくるのと、春彦が漫画を読み終えるのと、秋人が部屋の戸を叩くのは同時だった。

「兄貴、飯出来たぞ」

「ああ、メール返したら行く」

 携帯を開く。メールの文面を読んでいく。

『最近、誰かに後をつけられている気がするんです。最初は気のせいかな、って思ったんですけど、違いました。ちょうど学校が終わって帰る頃、必ず誰かが私をつけてくるんです。警察にはお母さんから被害届けを出して貰ったのですが、受理されなかったそうです。春彦さん、私、どうしたらいいですか?』

 春彦は困った。どうしたらいいですか、なんて聞かれたところで春彦にはどうしようもない。警察も警察だ。そうやって受理しなくて、後々事件になるなんて展開は何度もあったじゃないか。それなのになぜ、何もしない。何かが起こってからしか動かない。春彦はそんな思春期の、ちょっとどこかで不正が発覚しただけで社会はダメだ、これだから何々は、とか言ってる子供の様な思考ばかりが頭に沸く。

 返しを考えていると、ふと、ある事が脳裏を過ぎった。

 通り魔事件。

 春彦は頭を振る。犯行現場が近所だからって、意識しすぎだ。

『ならしばらく、秋人と一緒に帰ったらいい。アイツは頼りになるからな』

 他人ではなく自分が名乗り出るべきなのだろう。だが春彦は、幸音の後をつける人間が、本当に通り魔だったとしたらどうしてやる事もできない。秋人なら暴漢相手でも絶対に負けないから、秋人に任せた方が絶対に安全だ。

 メールを返し、春彦は部屋を出る。秋人にも伝えておかねばならない。



 ☆☆☆☆☆☆



 夢の中、俺は一通の封筒を持っていた。

 春彦君へ。と書かれた封筒。差出人の名前は無い。

 中には一枚の折りたたまれた紙。広げると、潰れて読めない字が書かれている。

 目を凝らしても、近くで見ても、全く読めない。

 ふと気づくと、ここは体育館の裏だった。人気も無く、どこからも何の音もしない。

 世界中の人間と音が消えてしまったように感じる。

 不思議な事に、俺はここに何をしに来たのかだけは分かる。

 俺は、この手紙に書かれていた場所に、書かれた時間通りに来たのだ。

 だが誰もいない。

 ぼーっとしていると、どこからか、ふわりと温い風が吹いた。一瞬、後ろに人気を感じた。

 しかし体は動かない。

 そして耳元で、ささやかれる。


 ――好きです、春彦君。



 ☆☆☆☆☆☆



 翌日、春彦は心ここに在らず。ぼーっと通学路を歩く。

 そういえば待ち合わせの交差点だ、と思い、時間を確認する。

 八時半。だというのに、幸音は来ない。しばらく待つが、幸音は現れない。

 仕方が無い、と春彦は信号が変わると共に歩き出す。もしかしたら体調が優れなくて、休んでいるのかもしれない。

 それよりも、夢の内容が気になって仕方が無い。


 教室に入る。

「よう! 春彦!」

 金髪は元気に挨拶してくる。

「よう」

 自分の机に鞄を置いて、中の教科書を机にしまう。ふと、前の奈々枝が目に止まる。

 机に突っ伏している。

「なぁ、奈々枝、具合悪いのか?」

 春彦は後ろの金髪に聞いてみる。金髪は両手を広げた。

「さぁ? あ、分かった、あの日だ!」

 近くに居た女子に白い目を向けられる金髪。デリカシーが無い男ってナイよねー、と彼女等はわざと聞こえるように言った。金髪は顔が青ざめている。

 春彦は奈々枝の元へ行く。

「奈々枝? 具合悪いのか?」

 奈々枝は答えない。それどころか、少し震えている。

「おい、大丈夫かよ……」

 肩に触れようとするが、手を引いてしまう。声を掛けられる雰囲気では無かったからだ。

 学校生活は長い。少しくらい、こうして病んでしまう事もある。春彦はそう、納得する。

 自分の席に戻ると、後ろから金髪が春彦に声を掛ける。

「なぁ、どうしたんだ、アイツ?」

「分からん。何かあったんだろ」

「ふーん。やっぱさ…………なんでもない」

「デリカシー」

「気をつけます……」

 予鈴ギリギリにメガネが教室に入ってきて、それから少しして先生が入ってきた。

 今日も眠い一日が始まった。



 ――ガタッ。

 誰もが、そっちの方を見る。

 奈々枝が立ち上がろうとしてよろけて倒れたのだ。

「大丈夫か、奈々枝」

 低い先生の声。周囲のどよめき。どうしたんだろう。大丈夫かな。

「……ぐ、具合……悪い…………ので、ほ、保健室………」

 ゆっくりと起き上がった奈々枝が発した、消えそうなほど、小さい声。

「ああ、誰か、ついていってあげなさい」

 この間もこんな事があった。

 その時と今、何も変わってはいない。誰もが先生が行く事を望んでいる。

 そうすれば少しの間授業を受けなくて済むのだから。もちろん、春彦だってそうだ。

 手を上げれば、奈々枝を保健室まで送っていかなければならない。面倒だ。

 それに、まだ夢の事を考えていたいのだから。

「…………一人で、行けます……」

 一瞬だけ、奈々枝は春彦の方を見た。春彦は気づいていたが、無視した。

 奈々枝は教室から出て行く。先生がついていかなかったので、授業は続行。

 何人かの小さな舌打ちが春彦に聞こえた。



 昼休み、教室で春彦と金髪とメガネが弁当を食べていると、教室に秋人が入ってきた。

「兄貴。幸音知らない?」

「いや、今日は見てないけど」

「……そうか。邪魔したな」

 秋人はどこか焦っているようだった。しかし春彦には何故焦っているのか分からない。聞く前に、秋人は教室から出て行ってしまったのだ。

「弟?」

 金髪は焼きそばパンを食む。こいつの昼食はどこか古典的だった。

「ああ」

「幸音、というと、あの青い髪の子か」

 メガネは持参した弁当の中のプチトマトを食べる。

「よくトマト食えるよなぁ。俺無理だわ」

「何を言ってるんだ、美味いだろう。トマト」

「ええー……」

 春彦が返答するより早く、話題がトマトの好き嫌いの話題になった。

「…………」

「あ、すまん」

「全く」

「……そうだよ。青い髪の子だ」

 春彦が答えると、メガネは顎に手を当てた。

「何か知ってるのか?」

「……いや、勘違いだ」

「なんだよ」

「何でもない。 ……それよりも、奈々枝、どうしたんだろうな」

 メガネはアスパラガスを食べる。春彦は奈々枝の様子を思い出してみる。

 震える肩。そして倒れた時の小さい声。一瞬だけ春彦を見た目線。

 まだ保健室で寝ているのだろうか。それとも早退したのか。

「春彦、玉子焼き貰うぜ」

 金髪は春彦の弁当から玉子焼きを取って食べた。

「せめて許可取れよ」

 笑う。春彦が気にしたところで、奈々枝の体調が良くなるわけではない。

 明日か明後日か、数日もすればいつも通りの奈々枝に戻るはずだ。

 明日も絶対に空は青いに違いない。そう誰しもが信じているように、春彦は奈々枝がすぐに体調を回復させる事を疑わなかった。



 ☆☆☆☆☆☆



「宮村、弟君がどこにいったか知らないか?」

 放課後、秋人のクラスの担任の先生に聞かれた。春彦は「いえ」と否定する。聞けば、昼休みから姿が見えないらしい。

「サボるような奴じゃないんですけどね……」

 秋人は理由も無く授業をサボる事など、春彦には考えられなかった。今まで一度だって、そんなことは無かった。曖昧な記憶だが、それはなんとなく確信があった。

「これ、渡す予定だったプリントなんだが、渡しておいてくれるか?」

 プリントを受け取り、春彦は鞄にしまう。

「気をつけて帰るんだぞ。通り魔に会わないようにな」

 先生はやはり、警戒しているようだ。

「はい。それじゃ、さよなら」

 春彦は下駄箱へと向かう。ふと、携帯が振動を始める。取り出し、画面を開く。

 幸音からのメールだった。

『今日はごめんなさい。明日、今日決めた時間に会いましょう』

 それだけが書かれていた。

 携帯を開いたついでに、秋人にメールを送る。

『今どこ?』

 携帯を閉じて、ポケットにしまう。

 靴を履き替えて外に出ると、外は妙に暗く感じた。

「傘……ねぇな」

 黒に限りなく近い灰色。今すぐ土砂降りの嵐になってもおかしくない。落雷すらありそう。

 嵐と落雷の合体攻撃で停電が起こるかもしれない。

 携帯が振動する。

『ごめんなさい』

 秋人からのメールだった。何について謝っているのか、春彦には分からなかった。



 夜十時を過ぎた。外は大荒れ。窓を雨水が叩く。

 春彦は居間で、携帯ゲーム機で遊んでいた。ゲーム内でも大嵐。主人公が対峙するのは嵐を操るドラゴン。パターンを見切ったこいつは、春彦には雑魚同然だった。

 大人気ハンティングゲーム。素材集めは必ずしも付きまとう頭痛の種。

 秋人は帰ってこない。携帯から通話も繋がらない。メールも返ってこない。

「……あ」

 油断して一発貰う。体力を半分持ってかれてしまった。

 家の中は、雨水が窓を叩く音とゲームのBGMと効果音だけが鳴っている。

 ゲームをしているのに、退屈で、全く集中できない。

 突然外から轟音が聞こえた。地鳴りの様なゴゴゴ。落雷だろう。一瞬外が光った事に春彦は気づかなかった。ゲームを一時中断して、窓の外を見る。

 相変わらず、激しい雨。また一瞬空が光った。

 そして一本の光の筋。木の枝のように見えた白い光。落雷。

「……寝るか」

 万一停電になっても、眠っていれば気にならない。困るとすれば秋人だが。

 一応春彦は玄関の靴箱の上に懐中電灯を置いてから、洗面所に行き、歯を磨く。


 居間の明かりを消して、自室に入る。

 パジャマに着替えていると、ブブブ……と携帯が振動しているのに気づく。

 電話だった。一瞬秋人からかな、と春彦は思ったが画面には知らない番号が表示されている。間違い電話だろうか。無視するのもかけてきた相手に失礼か、と思い、電話に出る。

「もしもし?」

『……あ、春彦、君?』

「奈々枝? どうした?」

 電話の主は奈々枝だった。

『やほー』

 空元気なのが、電話の向こうからも伝わってくる。

「……体調、悪いのか?」

『まぁね』

 お互いに沈黙する。電話している意味がない。

「……なぁ、具合悪いなら、ゆっくり休んでさ、治せよ」

『…………』

「学校、無理して来る必要ないだろ?」

『……そうだけどさ。でもでも、私が居ないと、寂しくない?』

 自意識過剰なのだろうか。

「別に」

『…………っ!』

 次の言葉を言うよりも先に、奈々枝は息を飲んだ。

「具合悪いままでいるよりも、さっさと治して元気取り戻してから……って、奈々枝?」

 全部言う前に、奈々枝の異変に気づいた。小さく、短い嗚咽が聞こえてきたのだ。

「奈々枝、大丈夫か?」

『……うん……なんでもないよ! あのさ、お願いがあるんだけど』

「なんだ?」

 また無理に明るさを取り繕った奈々枝。

 春彦は出来ることなら何でもしてあげたいと思う。

『来週の月曜日、さ……一緒にサボらない?』

「……はぁ?」

『わざわざ学校に行って、私また三時間目に保健室に行こうとするから。春彦君、私と一緒にそのままサボろうよ』

「…………」

『……ダメかな?』

「……副委員長とは思えないなぁ」

『あはは』

 春彦は脱力し、ベットに寝転がる。

 全く、どこの世界にそんなサボり方する奴がいるのか。春彦は正直、黙って寝てろ、と言いたいが、さっき出来ることなら何でもしてあげたい、と思った手前、撤回する気にはなれない。

「しゃあねーな。で、サボってどこ行くの?」

『家に来てよ。お母さんと二人暮らしなんだけど、お母さん、滅多に帰ってこないから』

「…………」

 よからぬ想像をするのは思春期だからだろう。だがそう思うのも無理はない。

 けしからん胸、けしからん足。けしからん体型がいかんのだ。春彦は頭を振る。

 そして自分の頭を呪う。そーいう事考えるな、俺。

『……あー、やらしいんだ。全く、春彦君にはシツボーだよ』

「いや、その……考えない方が無理です。はい……」

『オトコノコだねぇ。じゃあ、春彦君はどこかいいとこ知ってるの?』

「うーん。また隣町のゲーセンでも行くか?」

『春彦君てゲーセンしかないんだね』

「そーいう事言うな。それしかねーんだから」

『ダメダメだよ……』

 奈々枝は呆れている。そりゃそうだが、少しずつ、普段どおりに戻ってきている。それが春彦には嬉しかった。

「まぁ、奈々枝の家でもいいんだけどさ」

『じゃあ、それからどうするかは家に来てから決めよっか』

「おう」

『うん、それじゃ。おやすみ、春彦君』

「おやすみ」

 通話が切れる。途端に春彦は自分の顔がにやけている事に気づく。画面に映った顔を見たわけじゃないが、何となく顔が緩んでいるのが自覚できる。

 携帯の画面で時間を確認する。十二時を過ぎて、日付が変わっていた。相変わらず秋人は帰ってこない。

 春彦は欠伸をして、携帯を充電器に挿してから、布団に入った。



 ☆☆☆☆☆☆



 土日は特に何も無かった。というか、春彦は土日があったのかすら覚えていなかった。

 金曜日の夜、奈々枝との電話の後に布団に入って、次に目覚めた時には月曜日だった。

 ありのままに今起こったことを話したいくらい、何が起こっているのか分からねーと、春彦は焦る。が、そういう曖昧さはもう慣れ始めていた。

 ただでさえ、入学式以前の記憶が曖昧なのだから。

 でもやはり、何かの病気ではないかと不安にはなる。

 けれど春彦は、まぁそのうち、程度で保留にする。

 

 朝はいつも通りに起きたはずだった。春彦が居間に入って目に入ったのは、用意された朝食と昼食用のお弁当。秋人の姿は無かった。

 先に学校に行ったのだろう。と春彦はあまり気に留めなかった。


 つい三日前の大荒れの天気のことなど、もう殆ど覚えていない。今日も空は晴れている。

 交差点に、幸音は現れない。いつまで待ってもだ。遅刻ギリギリまで待って、それでもこない。忘れているのか。それとも何かあったのか。

 頭に浮ぶ暗い考え。

 通り魔。そして秋人からの「ごめんなさい」と書かれたメール。

「……考えすぎだな」

 信号が変わり、出勤するサラリーマンと一緒に渡る。もう学生の姿は殆どない。


 そして三限目。予定通り、奈々枝は席から立ち上がる。

「……奈々枝、またか?」

 先生の声は少し苛立っている。

 具合が悪いなら大人しく休んで欲しいのだろう。一々保健室に出て行かれると、その分授業が進まないから。先生達の間では、奈々枝の体調を心配する反面、印象は少なからず悪くなっているに違いない。

「先生、俺、付いてってやります」

「ああ、頼む」

 予定通りだった。どうせ誰も手を上げないから、譲り合うも無い。強いて言うなら、先生にいかせなかったせいで自習にならなかった、と後でクラスメイトから恨み言を言われるかもしれないというだけ。後は妙な噂が立つかもしれない。


 廊下に出て、春彦と奈々枝は真っ直ぐ一階の下駄箱に向かう。

「ドキドキするね」

「先生に見つかったらアウトだもんな」

「あれだね、駆け落ちだね」

「ばーか。何言ってやがんだ」

 内心、同じ事を考えていたとは、口が裂けても言えない春彦だった。

 靴を履き替える。その時、カツ、カツ、と足音が聞こえてくる。ALTのシンディ・山口先生だ。彼女は自分で用意した校内用のヒールを履いているので、足音で一発で分かる。

「やばいよ」

「……さっさと出るぞ」

 急いで入口のドアを開けて、外に出る。

 校門を出るまで、春彦と奈々枝が落ち着くことは出来ない。一気に駆け抜ける。

「おい、どこに行くんだ!?」

 呼び止められても構う物か、と二人は校門を目指す。

 校門は当然閉まっているが、乗り越えてしまえば問題ない。

「奈々枝、先に行け!」

「スパッツだから後でもいいよ!?」

「お前運動ダメなんだろうが!」

 奈々枝はそうだった、と言って先に校門を乗り越える。

「こら、お前ら待て!」

 よりにもよって生徒指導の先生だった。

「くそっ! なんでよりにもよって!」

 春彦は校門を乗り越える。奈々枝の手を引いて走る。離れてしまえばもう、追ってはこないだろう、と思うからだ。



 学校からしばらく。最近妙に交差点に縁があるな、と春彦は息を整えながら思う。

 隣の奈々枝は胸に手を当てて息を整えている。

 明日学校に行くのが憂鬱だった。間違いなく指導される。物理的にも。

「はぁ……はぁ……走ったぁ」

「まったく……なんでこんなことに……」

 奈々枝のせいにしたいところではあるが、春彦はすでに脱走の共犯者だ。同罪である以上、どっちが悪いということもない。罪を被りたくなかったら初めから乗らなければよかったのだから。

「……んっ。それじゃあ、家、行こっか」

 奈々枝は笑い、春彦の手を引く。春彦と同じくらいの大きさの手は、しっとりとしている。お互い手に汗をかいている。

「汗かいてんぞ」

「お互い様。手、繋ぎたいから」

 春彦は引く手を握った。奈々枝の機嫌はとても良かった。



 マンションの七階。三号室。

 扉の前で奈々枝は制服の胸ポケットから鍵を取り出す。鍵穴に差し込んで回す。

 カチャ。音がして、奈々枝は鍵を抜いた。

 春彦の視線はやはり、一点に集中していた。

「春彦君。 ……もう」

 奈々枝はドアを開けて、中に入る。春彦も続こうとするが、奈々枝は問答無用で締め出す。

「ごめんなさい。すまなかった、許してくれ」

「許すも何も、何か危ないよ、やっぱ」

「お前、自分の事もっと鏡で良く見やがれ!」

 と言うが、恐らく自分の体を鏡で見ても、どこもおかしくは映らないだろう。だって自分の体だし。

「ええー、酷いなぁ。別に好きでこう育ったわけじゃないよ!」

「ともかく、すまんって。入れてくれ」

「しょーがないなー」

 ドアが開いて、奈々枝が迎え入れてくれる。春彦は入って靴を脱ぐ。

 他人の家というのは、妙に変わった匂いがする。ここも例外ではない。具体的に何の匂いかは春彦には分からない。

「とりあえず、居間の方は行かないで。汚いから」

「掃除とかしてねーの?」

「私、殆ど居間に行かないからさ。ついついやらないでる」

「…………」

 そういう家庭なのだろう。春彦はあまり詮索しないよう、それ以上は聞かなかった。

 奈々枝は玄関から少し先の、「奈々枝」と札が掛かった部屋に春彦を招き入れる。

 中はそこそこに綺麗だった。羨ましいことに、20インチ位のテレビがある。勉強用の机も、綺麗に整頓されている。ベットもキチンとしていた。

「すげー……掃除って、奈々枝がやってるのか」

「自分の部屋だからね」

「俺ん家は秋人にまかせっきりだからなぁ……」

「春彦君はしないの?」

「めんどくさい」

 奈々枝はため息をつく。

「とこっとん、ダメダメだなぁ」

 春彦は恥かしくなる。言い返すのもなんだかかっこ悪い。

「とりあえず、なんか飲み物持ってくるよ。ちょっと待っててね」

 奈々枝は部屋から出ていく。

 一人残された春彦は落ち着かない。むしろ落ち着けって言うほうが無理だった。

 相変わらず昔の記憶は曖昧だが、多分女子の家に来たのは生まれて初めてだ。

 ただ座っていても落ち着かないし、漫画でも読もうかと思っても、おそらく落ち着いて読めない。ふと、本棚の一部に目が行く。

 ゲームソフトが並んでいる。そこにはちゃんとストリートギアもあった。奈々枝は格闘ゲームの他にロールプレイングやシューティングにアクション等、本数は無いが割と色々なジャンルを遊んでいるようだ。無いとすればAVD、俗に言うギャルゲーだとか乙女ゲー、つまりビジュアルノベルゲームだ。

 ついでに本棚に並んでいる漫画のタイトルだけ目を通していく。何か無いか。

「おまたせ」

 奈々枝が戻って来た。手には二つのガラスのコップ。中身は透明な炭酸飲料だった。

「悪いな」

「気にしないでよ。呼んだのは私なんだから」

「……あ、そうだ。なぁ、どうして俺の番号がわかったんだ?」

 奈々枝は炭酸飲料を飲む。春彦も少し飲んでみる。僅かにレモンの風味が香るサイダーだった。

「名簿を見てね。いざと言うときは頼りにしようかなーって」

「俺を?」

 奈々枝は頷く。何だか嬉しくなる春彦。

「まぁ、そーでなくても、お話したかったしね」

「話? 学校でも出来るだろ?」

「出来ないでしょーが。だから、私はゲーマーだってバレたくないの」

「そこなんだよ、なんでバレたくないんだ?」

 別に恥かしいことでもないだろうに。それに、上手くすれば男子との接点になる。それ自体に特にデメリットは無いはずだ。

「皆が春彦君みたいに分かってくれるわけじゃないのよっ」

「……つか、この量でゲーマーもなにもないだろ」

 ここにあるソフトなんて、雑誌で特集が組まれる位メジャーなソフトばかりだ。これだけで判断するなら、ただのライトゲーマーだ。話題に乗れる分、隠す理由は更に無い。

「だーかーらー。普通は、これでも立派なゲーマー、というかゲームオタレベルなの。だから、バレちゃうと女子たちの方がうるさいのよ」

「何で女子が?」

「男子に人気の女子。特にうちの学校ってさ、女子少ないじゃん。あまり沢山の男子と話しが合うような子は、女子グループから外される。あんたは男子と話してれば、ってね。だから、男子、女子半々、程ほどにしとかないと、碌な目にあわないのよ」

 奈々枝の飲んでいる物がカクテルに見える。愚痴るOLのようだ。

「めんどくせぇな」

「女の子は二次元の中のが可愛いと思うよ」

「でもなぁ、ゲームは触れられないし」

 奈々枝は呆れた顔を春彦に向ける。

「ただ触りたいんじゃ、ただの痴漢だよ。ほーんと春彦君って、下心が分かりやすいなぁ」

「いやでも…………てゆーか、下心じゃねーし。俺は、リアルの女の子と青春したいんだよ!」

「いいね、それ」

 奈々枝の表情が柔らかい。意見に賛同する、と表情が言っている。

「春彦君は、エロゲー的な学園生活がいいの?」

「……いや、ただ普通に恋愛がいいわ。というか、エロゲやったことねーし」

「え。無いの?」

「無いよ」

 奈々枝は目を丸くする。そんなに驚くか、と春彦は少し傷つく。

「意外だなぁ。春彦君位だったら、ドキドキしながらエロ本をコンビニで買ったりするんじゃないの? あの、金髪君とこっそり交換したりとかさ」

「いつの時代だよ」

 春彦はコップの中のサイダーを飲み干す。奈々枝は手を差し出して、飲み終わった春彦のコップを受け取る。

「で、これからどうしようか」

「まだ十二時前だもんな」

 時計はもうすぐ十二時を指す。

「あ、俺の弁当、鞄のなか……つーか、荷物全部だよな……」

 今更ながら、やはり間違いだったのではないかと春彦は思う。鞄の中には財布も弁当も何もかも入っている。今春彦が持っているのは携帯と家の鍵。それと生徒手帳くらいだ。

 それは奈々枝も同じだった。前に倒れた時はいつの間にか鞄を回収して早退していたようだが、今日の場合は教室から出てってそのまま奈々枝の家に来たから。

「とりあえずお昼だねー。どこかに食べに行く……っていうのもなんかマズイよね。あ、でも着替えちゃえば分かんないよね。フリーターカップル?」

「……せめて大学生って言えよ」

 何だか切ない。

 奈々枝は自分のコップのサイダーを飲みきって、部屋を出て行く。台所で洗って片付けるのだろう。そのついでに冷蔵庫を見てくるのかもしれない。

 なんにせよ、春彦は特に何も決めてこなかった。考えてもいなかった。ただ奈々枝の家に遊びに行ける、と浮かれていた。計画性が無いことに後悔しながらこれからの予定を考えてみる。

 まず外食だが。財布がない。END。奈々枝の家には何も無いのだろうか? 女子の手料理なんか出てくれれば、それだけでどんな物でも嬉しいが。そもそも、どこかに食べに行く、と言っていたからには、おそらくこの家には昼食になるものは何もないのだろう。

「………………はぁ」

 春彦は情けなくてため息が出る。あーでもないこーでもないと考えていると、奈々枝が戻ってきた。

「何考えてんの?」

「いや、あーだこーだ考えてた」

「いやだから何を、って」

「これからの予定」

 ああ、と奈々枝は腕を組む。

「うーん、お互い財布も無いしねぇ。冷蔵庫の中も空だったし。サイダーで腹を膨らますのもね」

「わびしいなぁ。 ……家行けばなんかあるかもだけど」

「じゃあ、そうしよっか。あ、春彦君、部屋出て待っててくれる? 着替えるから」

 流石の春彦も堂々と着替えを見せてくれとは頼めない。よしんば言ったところで見せてもらえる物でもないが。

「んじゃあ、外で待ってるよ」

 部屋から出る。居間の方が気になるが、大人しく玄関に向かう。靴を履きつつ、更に色々考える。春彦はこれからの事だけを考える。そうしないと、明日の事を考えてしまうからだ。それは後で考えたい。主に寝る前に。

 外に出て奈々枝を待つ間も、出来ればずっと考えていたかった。

 ああ、不安だ。明日絶対怒られる。何で学校を抜け出したんだ。そうしかめっ面で春彦に聞くのだ。明確な理由も述べられなければきっとお説教が待っている。憂鬱だ。

 ガチャ、とドアが開く。

「おまたせー」

 私服に着替えた奈々枝だった。青色のブラウスにジーパン。ラフだった。

「おう。行くか」

「うん」



 なんとも形容しがたい気分だった。

 春彦は制服なのに、隣の同級生は私服。奇妙な二人だった。

「ねぇ、春彦君」

「ん?」

 並んで歩く奈々枝は手を差し出す。

「手、繋いで」

 その表情はどこか暗い。

「あ、ああ。いいけど」

 さっきの汗だくの手ではない。少ししっとりとはしているが、スベスベで柔らかい手だ。

 春彦は、奈々枝の手を握る。少しだけ、小さく感じる。そして奈々枝の暗い表情が消える。優しく、彼女は微笑んだ。春彦の心臓が跳ねる。

 こいつ、こんなに可愛いのか。と目をあわせられない。

「春彦君ってホントに女子に免疫無いんだねぇ」

 いたずらっぽいその声でさえ、今の春彦には可愛くて仕方ない。



 春彦の家の前。

 春彦は鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。回すとすぐに、ある違和感に気づく。

「あれ?」

 開錠する方に回すが、手ごたえがない。ドアノブを回し、引くとドアが開いた。鍵は初めからかかっていなかった。

「…………」

 春彦は唾を飲み込む。まさか、泥棒か? いやいや、そんなまさか。俺が鍵をかけ忘れたんだ、と自分を落ち着けようとする。

「春彦君。大丈夫?」

 奈々枝も不安そうだ。

「大丈夫だ。多分」

 意を決し、中に入る。

 廊下の先、居間の方で誰かが何かをしている。足音と物音がするのだ。

 恐る恐る、靴を脱いで、居間に向かう。

「誰だ」

 居間に入り、音の主に声を掛ける。

「…………っ! な、なんだよ、兄貴か」

 そこに居たのは女装した秋人だった。黒いフリフリのゴスロリドレス。そして窓から差す光を受けて煌く銀髪のウィッグ。ノーメイクの癖に素晴らしく男に見えない顔。間違いなく秋人だった。春彦が間違えるはずがない。

「…………はぁぁぁ!? 秋人!? 秋人なんで、お前ここにいるんだよ!? 学校は!?」

「いやいやいや、兄貴が言うなって」

 秋人はヤレヤレと手を広げる。

「えっと、春彦君。この子は?」

 後から居間に入ってきた奈々枝は状況が飲み込めていない。そりゃそうだ、奈々枝は秋人のことを知らないのだから。

「あ、ああ。俺の弟の、秋人だ」

「え。え!? 弟!?」

「ああ、そう。弟だ」

 秋人は腕を組む。ドヤ顔も、少女フェイス。

「ええぇ……信じられない。嘘じゃなくて? 妹じゃなくて? 実は義理の妹とかじゃなくて?」

「ああ、間違いなく兄弟だな」

「…………」

 放心状態の奈々枝。口をあんぐりと開けて固まっている。

「おーい、奈々枝?」

 春彦は目の前で手を振る。奈々枝は我に返る。

「な、なんだろう。そこいらの女子よりすっごく可愛い……見た目だけ。 ……自信無くすなー。元々あんまり無いけど」

「……そんなにか」

 秋人は眉を顰める。本人はあまり、周りの目を気にしていなかったのだろうか。

「秋人。とりあえず着替えて来い。そんで、飯作ってくれ。なんでもいいから」

「飯、って……冷蔵庫の中なんもないぞ? まぁ、そうめんとチョコならあるけど」

「もうこの際そうめんでいいよ。頼む、秋人」

「そうめん位、自力で何とかしろよ」

「頼む」

「……ったく。でも着替えねぇからな」

 秋人は渋々、台所に向かう。

 奈々枝は少し、落ち込んでいた。春彦はどう声を掛ければいいか、分からない。



 テーブルの上に用意されたそうめん。二つの大皿に盛ったそうめん。席についている春彦と、奈々枝の分だけだった。

「秋人は食わないの?」

 麺つゆを待ちながら春彦が聞いた。

「俺はもう食べたからな。これ出したら、すぐまた出かけるから」

「どこにいくんだ? 昨日も何時帰ってきたんだよ?」

「……今は、言えないんだ。後で絶対に説明する。だから今だけは聞かないでくれ」

 二つのお椀に麺つゆを入れて持ってきた秋人は、真剣な眼差しで言う。

「…………ま、後でちゃんと、必ず説明しろよ?」

「ああ、約束する。指きりしてもいい」

「いいよ、高校生にもなって」

 秋人は表情を緩めた。そのまま、行ってきますとも言わず、出て行った。

「どうしたんだろうね?」

「さぁ。それより、食おうぜ」

 箸を取り、大皿の上のそうめんを一塊取って、麺つゆに浸ける。

「まだそうめんって時期でも無いのに、よくあったね」

「そうだよな。でもまぁ、いいじゃねーか」

 ずるずるとそうめんを啜る。

 春彦の隣でも同じくずるずる。

 しばらく部屋の中はずるずると啜る音だけが鳴っていた。

 話題が無い。どう切り出せばいいのだろうか。ふと春彦はテレビのリモコンに気づく。

 麺つゆの入ったお椀と箸を置いて、テレビのリモコンを取る。椅子を引いて体を捻って後ろにあるテレビにリモコンを向けて、電源を点けた。

 少しの間を置いて、映像が映る。五分間のニュース番組だった。

『――本日、通り魔事件の犯人を名乗る人物が、警察署に自首しました――』

 映し出される顔写真。顔のパーツはそこそこに整っている。一見しただけでは通り魔をするような悪人だと分からない。芸能人に、こんな見た目の人がいた気がすると春彦はなんとなく思う。春彦の記憶ではもちろん思い出せないが。

華良かりょう、幸雄だって。すげぇ名前だな」

「自首したの?」

「そうだってさ」

 奈々枝も椅子を引いて、体を向きを変えて、テレビを見る。

「…………春彦君」

「ん?」

「本当に、あの人がやったのかな」

 きっと、奈々枝には通り魔の犯人には見えていないのだろう。

『――幸雄容疑者は、警察の質問に対し「目的は達した。だから自首した」とだけ答え、いまなお、動機や、目的については何も分かっていません――』

「……分からん。でも、わざわざ自首するくらいだし、本人なんじゃないか?」

「そう……だよね」

「不安なのか?」

「まぁね。地元だし」

 地元で起こった事件だからと言うのなら、春彦も不安ではあるが、やはりこれは犯人が自首した。それで無事解決したと思いたかった。もちろん春彦自身が被害に遭いたくないというのもあるし、秋人の帰りが遅いのも心配だ。そうでなくても、やはり地元で事件が起きているというのは気分が悪い。さっさと解決して欲しいと思うのは当然だ。

「まぁ、今日は一日、一緒に遊ぶんだろ?」

 たとえ別の通り魔に遭っても、俺が守ってやる。とは、思うだけで春彦は言わなかった。

「……うん、そうだね! じゃあさっさと食べちゃおっか」

 豪快に塊を取り、麺つゆに浸けて食べる。



 春彦の家にあるゲームはどれも、一人用のRPGか格闘ゲームばかりだった。

 春彦は奈々枝に対戦しないか、と誘ったが、もちろん断られた。

「勝てるわけないでしょー……」

 そもそも対戦ゲームが好きってわけでもないのだから、誘った方が間違っている。というか、ついこの間ゲームセンターで春彦の戦いぶりを見ていたのだから、勝ち目が無いと思うのも無理は無い。嫌な思いを進んですることも無い。

「春彦君は、なんか協力プレイできるゲーム持ってないの?」

「うーん……FFファイナルフィールド9が一応協力要素あるけど……戦闘中だけ」

「それは微妙だね……」

「後は……あ。 ……ああ、そうだ、コントローラーが二つ無いんだ」

 奈々枝は首を傾げる。

「昔のゲームなんだけど、ガンサバイバーヒーローズってのがあるんだ。けどコントローラー無くしちゃってな」

「ちゃんとしまっておかないからだよ。 なんならもう一回家行く? 一緒に出来るソフトあるし」

「そうすっか」

 引っ張り出したゲームソフトをしまう。

「ホントに飯食いに来ただけだったな」

「しょうがないね」



 外の天気は雲ひとつ無かった。嘘の様な天気だ、と春彦は思う。青い天井のようだから。

 手を繋ぐのは今日これで三回目のはずだが、どうにもやはり、こそばゆい気持ちは消えない。春彦が意識しすぎるのがいけないのだが、意識しないようには出来なかった。

「ねぇ、春彦君」

「……ん?」

 奈々枝は春彦の顔を覗く。春彦は出来るだけ平常を装ってみる。

「…………」

「……な、なんだよ」

「もしさ、私が……」

 奈々枝は言いよどむ。心なしか薄く紅潮している頬。光の当たり方だろうか、と春彦は自分の心を騙す。過度な期待をしないように心を騙す。

「……こ……告白……してきたらさ……」

「……うん」

「春彦君は、おーけー……してくれる?」

「…………」

 奈々枝と一緒に居て、楽しいと思う。一緒に居たいし、話や趣味も合う。彼女にするのに、これほど良い人はいないだろう。そう、理屈では、分かっているのだ。春彦も。

 けれど、春彦はどこか恐れている。その正体は責任なのかもしれない。もっと別な、本能的にこの子はヤバイ、と思っているのかもしれない。一部分は見えるのに、全体像は分からない。

 何が、ゲームの様な恋愛がしたい、だ。この恐れがある限り、春彦は誰かと付き合うことに、一歩を踏み出せない。

「……ごめん、多分、すぐには答えを出せない」

「…………」

「いっぱい、考えるんだ。俺なんかでいいのか、とかさ、どうして俺なんだ、とかさ。そういうメンドクサイ事をはっきりさせないまま、何も考えないでOKしちまうのって、なんか、無責任だし……」

「なーんにもしてないのに、もう責任の事考えるんだ。ハゲちゃうよ?」

 笑んで、ハゲの心配をする奈々枝。

「い、いや! その……でも、多分、色々考えても……奈々枝に告白されたら、OKすると思うよ」

 お世辞レベルの回答を、脳をフル回転させて思いついた。

「……そっか。じゃあさ、もし」

 奈々枝は足を止める。春彦は少し追い越した所で止まり、奈々枝の方に振り返る。

「私が、誰からも嫌われるような状況になったら。春彦君は大勢に流されないで、私のそばにいてくれる?」

 その質問の意図はなんだろうか。春彦は無意識に意図を探ろうとしていた。

 しかしもちろん、その意図は読めない。

「……どういう、意味だ?」

「そのまんま。 ……だから、そうだなぁ…………うん、例えば、私がオタクだってバレて、女子には鼻で笑われ、男子からも白い目を向けられています。春彦君の友達も、アイツきめぇよな、とか言ってます。 ……そんな事になっても、春彦君は、私のそばにいてくれる?」

 ここで即答できれば、きっとかっこいいのだろう。

 漫画や小説、ゲームの主人公は、一切迷わずに「当たり前だろ」と言うんだ。

 それが当然だし、当たり前だ。

「…………」

「…………」

「…………当たり前だろ」

 春彦はほんの一瞬迷った。

 クラスで総スカンを食らう奈々枝。春彦が彼女に味方するとすると、それはたった一人で彼女の味方でいることになるだろう。金髪はともかく、メガネは委員長だ。春彦が奈々枝を守っているが為に、彼等に迷惑が掛かるのは、嫌だった。

 一瞬とは言え、天秤にかけてよかったのだろうか。春彦は胸が痛む。

「友達、なんだから」

 奈々枝は笑う。腹を抱えて笑い出した。

「……ぷふ、あはは! 本気で考えてくれたの? ありがとね!」

 冗談のつもりだったのだろうか。質の悪い冗談である。

「さ、行こっか!」

 奈々枝は春彦の手を引いて、グイグイ引っ張っていく。



 ☆☆☆☆☆☆



 ディストラクション・カンパニー。

 そこそこ古いベルトスクロールアクションゲーム。キャラクターデザインに有名漫画家を起用しているため、プレイヤーキャラクターも敵キャラクターも等しく皆美少女やイケメンばかりだ。設定では殆ど全員十八歳以上なのに、見た目がやたら若い。大人分が足りない。

 ゲームの内容的には凡作レベルだが、爽快感はちゃんとあるし、動きをキチンと見切って対処すれば難しい敵はいない。初見殺しな罠も少ない。問題点はザコ敵の少なさと、ボスまで長い上に、会話イベントがやたら多い。

 スキップすればいいのだが、奈々枝が聞きたいと言うので、春彦はスタートボタンでスキップが出来ない。

 しかし、最初こそ鬱陶しく思っていたが、しっかりと練られたシナリオを見ていくうちに、春彦もすっかりハマってしまっていた。

 四面のボスを倒し、会話が終わる。

「……思ったより面白いな、これ」

「私も、二面以降ははじめて見たよ」

「え、クリアしたことねーの?」

「無いよ。だって難しいんだもん」

 春彦的にはそこまで難しくは無い。でもそれは人それぞれのプレイヤースキルの問題だ。それに向き不向きもある。易々と、簡単だろ、とは言えない。

 ふと時計を見ると、六時を過ぎていた。

 時間的にはいい時間だ。そろそろ帰っておいた方がいいだろう。家に秋人が居るかどうかは分からないが、もし帰ってきて入ればもう夕食を準備しているか、すでに出来上がっているだろう。

「ところで奈々枝、これ、セーブは?」

「オートだよ。ステージクリア毎にね」

「そうか。なら、俺はそろそろ帰るわ」

 奈々枝は春彦の袖を掴む。

「ま、まって……クリア、しようよ」

「いや、そういうわけには」

「何で?」

 すがるように、奈々枝はコントローラーを落とし、両手で春彦の袖にすがりつく。肩に奈々枝の頭が乗る。行って欲しくない、そう言いたいのだろう。

「……明日、続きやりに来るよ。教科書取りに帰らないと。鞄は学校だから、弁当の事も秋人に言わないと」

「メールでいいじゃん」

「いや、直接……」

 奈々枝は顔を上げる。目の端には、涙が溜まっていた。

 帰らないで、帰らないで、と表情がそう懇願する。

「…………」

「お願い……一緒に、居て」

 春彦は少し、ほんの少しだけ、奈々枝を不気味に思い始めていた。茉莉子に対して思った、不吉で薄気味悪い不気味さではない。相手に依存される、というはっきりとした不気味さだ。

「……明日、生徒指導の渕山に適当言っておかないと。それに、授業のノートも委員長辺りから借りないと。それに――」

 春彦はコントローラーを置いて、奈々枝の肩を、退けた。

「俺たち……そういう関係じゃないだろ」

 奈々枝の息を飲む音が、春彦には聞こえたのだろうか。

 春彦の意図は、夜遅くまで一緒に居るような関係ではないと、そう伝えたかった。

 今一度、自分の言葉を反芻する。そしてハッとして

「あ、い……いや……その、ええっと…………は、ハハハ。ほ、ほら、夜遅くまで男女が一緒にいるってのも、なんか、その……なんかあっても、困るし――」

「――出てってっ!」

 奈々枝は春彦を突き飛ばす。春彦はバランスを崩し、背中から床に倒れ、後頭部を床に打ち付けた。

「な、奈々枝……?」

「出てって、今すぐ」

「どうして?」

 奈々枝の表情には多くのドス黒い感情がにじみ出ている。怒りだろうか。失望だろうか。奈々枝が何を思い、何故今そんな表情を春彦に向けているのだろう。そして、どうしてさっきまでとこんなに違うんだ。春彦の頭は混乱して、体が動かない。

「……出て行け」

 今、奈々枝の胸中にある感情をぶつけられた気がした。春彦はゆっくりと立ち上がり、部屋から出て行った。そのまま暗い廊下を歩いて、玄関で靴を持ち、外に出る。

 外の廊下で靴を履いて、もう一度、奈々枝の家の方に振り返る。もちろん、奈々枝が出てくるわけが無い。春彦は、半ば逃げるような気持ちで、奈々枝の家を後にした。



 ☆☆☆☆☆☆



「……ただいま」

 家では、居間で白いゴスロリドレスに白く長いウィッグを付けた秋人がテレビを見ていた。テレビでは、素晴らしいボケと突っ込みが繰り広げられている。テーブルの上には夕食がラップを被っていた。

「遅かったな。 ……なんだよ、奈々枝と何かあったのか?」

 秋人は春彦の雰囲気を察した。春彦に食欲は無い。さっきの奈々枝の事で頭がいっぱいだった。秋人はテレビの音量を少し下げる。

「……なんでも、ない」

「あるんだろ。隠し事すんな」

「お前もな」

 今の春彦には、秋人との会話さえ鬱陶しかった。夕食を食べる気にならないので、居間を出て、自室に向かった。

 真っ暗な自室。春彦は着替えもせず、そのままベットに倒れこんだ。

 さっさと眠って、明日になりたかった。目を閉じているが、頭だけが働き、奈々枝の言動や表情を、脳裏に再生する。頭を振ってそれを振り払おうとする。しかし振り払えない。

 目を瞑って、ただひたすらに夢に落ちて、明日を迎える事を望んだ。



 ☆☆☆☆☆☆



 ようやく思考が止んだ。恐らく夢に落ちたんだ。

 俺の体は全く動かないが。

「兄貴」

 秋人? いやでも声がやけに女っぽい。秋人の声は、男子にしては高いが、それでも聞けば男だと分かる。

「ごめんね。また、守れなかった」

 何を? と聞きたいのに、体は動かないし、声も出せない。

「ねぇ、兄貴。もう…………いや、いっか。どうせ聞こえてないよね。これまでだって……そうだったんだ」

 聞こえているよ。秋人。何を言いかけたんだ? 教えてくれよ。

「……もう、時間ないな。兄…………春彦。おやすみ」

 秋人の足音が聞こえて。そして、パタンと小さく戸を閉める音。秋人、どこに行くんだ?

 お前のベットは、この、俺が寝ているベットの上の段だ。どこにいくんだ、秋人?



 ☆☆☆☆☆☆



 キチンとパジャマに着替えるべきだった。キチンと夕食を食べておくべきだった。

 後悔先に立たずである。

「兄貴、朝だぞ」

「ああ……着替えてから行く」

 ベットから出て、制服に着替える。着替える途中で腹の虫が鳴る。空腹感もハンパではなかった。パンでもいいから今すぐに食べたい。特に今、居間の方から美味しそうな匂いがするのだ。おそらくいつもの朝食だが、今の春彦にはどんな物も天の恵みと思える。

 着替え終わり、ついでに今日使う教科書を纏めて、ビニール袋に突っ込む。



 居間のテーブルには、昨日の夕食の酢豚があった。

「朝から酢豚なのは我慢しろよ。昨日食わなかったんだから」

「いや、マジでありがたいです。いただきます!」

「座ってから言え!」

 椅子に座る前に箸を取り、酢豚の肉団子を取って口に放り込む。

「……っ…………うん! 美味い!」

「おう、ありがとさん」

 秋人は今日はシリアルを食べている。

「それだけで足りるのか?」

「ああ、今日は体育もねーし」

 体育が無いのなら、そこまでエネルギーを蓄える必要も無い。だがそれでも、足りるかと聞かれれば、春彦には全く足りない。

「まぁ、いいけど……あ、ところでさ、昨日の夜中、俺に何か言わなかったか?」

 昨日の、あれはきっと夢だったに違いないが、それでも妙にはっきりと覚えている。春彦は今、微妙に夢と現実が曖昧だった。そもそもいつからが夢だったのかすら分からない。

 奈々枝のことも、夢であって欲しい。春彦は少しだけそう願っていた。

「……は?」

 秋人はシリアルを掬うスプーンを止め、口を開けたまま硬直する。

「あ、いや、夢に秋人が出てきてさ」

「それで」

「え?」

「なんか、言ってたか?」

 秋人は真っ直ぐに春彦を見ている。

「えっと……守れなかった、とか」

 秋人は息を飲む。

「どうせ聞こえてない、とか。もう時間が無い、とか」

「…………」

 秋人は掬ったシリアルを口に入れる。

「……あー、その、やっぱ夢だな。うん」

 ハハハ、と笑って誤魔化す。秋人はフッ、と笑って、何か確信を得たような顔になる。

「……ああ、夢だな。訳わかんねーし」

「全く、夢にまで侵略してくんなよなー。この女装野朗」

「身に覚えがありませんねぇ」

 春彦の中に残っていた鬱は、無くなった。すっかり、いつも通りの気分だった。



 今日は秋人と一緒に登校する。春彦はこの光景が少しだけ懐かしく感じた。

「なんか久しぶりだな。二人で登校すんの」

「そうだな」

 秋人は片手をポケットに突っ込んでいる。もう片手に鞄が無ければ、春彦のように両手をポケットに突っ込むのだろうか。やはり兄弟だ、と春彦は思う。

「…………どうした?」

「いんや。やっぱ俺達は兄弟だなぁ、って思っただけさ」

「は? なんだ藪から棒に」

「ポケットに手を突っ込む癖。そっくりだ」

「あ……ああ。そうだな」

 秋人は無意識だったに違いない。言われて初めて気づいたようだ。

「……なぁ、秋人」

「今度は何だ? つむじの共通点でも見つけたのか?」

 春彦と秋人は殆ど身長が変わらない。それでつむじを見て共通点を探すのは、それはそれは滑稽な姿だろう。

「違げぇよ。なんでつむじなんだよ」

「大丈夫だって、兄貴も俺も禿げねぇから」

「だから…………そろそろ、どこ行ってたか教えてくれよ」

 秋人の顔から笑みが消える。少し目線を落とし、しばらくして、顔を上げた。

「すまん」

「……ま、いいけどね。危ないことはしてないんだろ?」

「ああ。もちろん」

「通り魔は自首したってニュースで言ってたけど、あいつがもし真犯人でなきゃ、まだ――」

「いや、アイツが犯人だ」

「は?」

 秋人の断定した言い方。まるで見ていたような。

「……なんでお前がそう言えるんだ?」

「…………」

 秋人は黙り込む。

「教えてくれよ」

「…………悪い」

 それが最後だった。それから学校に着くまで、一度も言葉を交わすことはなかった。



 授業中。春彦の後ろからは金髪の寝息。

 春彦は一人、悶々と考えていた。

 どうして今日、奈々枝は来ていないんだ。そしてそこから思い出される、昨日の彼女の豹変。一体、何をしてしまったんだ。

 秋人は何を知っているんだ。そして、あいつは何をしているんだ。

 そうだ、幸音。幸音は今、どうしているんだ?



 授業と授業の間の休み時間。一年の教室へ行く。丁度出てきた先生に聞いてみる。

「幸音さん? ……ここしばらく、学校にも来てないみたい」

「来て、いない?」

「ええ、噂では、警察に捜索願いも出てるらしいの」

 捜索願い。春彦が知らない間に、事態は深刻な事になっているようだ。

「あ、そうだ。ねぇ、秋人君知らない?」

「え? 今日はちゃんと学校に来てるはずですが」

「そうなの? でも教室にもいないし、授業にも出てないの」

 それはおかしい。だって一緒に登校したじゃないか。一体何時逃げ出したんだ?

 そして何で、学校を抜け出したんだ? 春彦の中で不安は大きくなる。

 何かが起こっている。いや違う。起こっていたのに気づかなかったんだ。

「……帰ったら、一言言っておきます。それじゃ」

 先生の返事を聞かず、その場から逃げるように教室へと戻る。



 秋人の事、奈々枝の事、幸音の事。全てが不安として春彦にのしかかっていた。

 そして昨日の夢。守れなかった。とはどういう意味だ。

「……まさか」

「何だ? 宮村、分かるのか?」

 そう、今は授業中だった。どうやら黒板に書かれた問題を、黒板の前に行って解かなければならないらしい。みんなの視線が痛い。

「え!? い、いや……あ、ハハ、勘違いです。やっぱ違ってました……」

「そうか。恥をかかずに済んだな。 ……他に、分かる奴」

「はい」

 遠くでメガネが手を挙げた。

 春彦はホッとする。春彦がまさかと思ったのは別のことだ。授業など全く聞いていなかった。

 改めて、守れなかったという意味を思い出す。不意にさっきの出来事が起こったせいで、頭のどッかに飛んでいってしまった。何だったっけ、と思い出そうとするが、一度飛んでいったそれを、思い出すことが出来ない。

「ぁ」

 ああ、そうだ。と危うく声が出そうになった。先生は大分離れていたから、聞かれることも無かった。

 もしかして、守れなかったのは、幸音の事なんじゃないのか?

 幸音。そう、幸音はどこに行ったんだ? 捜索願いが出ている、というのはただ事じゃない。

 ふと、昨日の昼に奈々枝とそうめんを食べながら見たニュースを思い出した。

『「目的は達した」』

 それと行方不明の幸音と、関係があるのではないか。

 秋人はあの自首した「華良 幸雄」という男が通り魔事件の犯人だと言っていた。あの時の断定した言い方から、恐らく本当のことなんだろう。秋人が嘘を言っているとは春彦には思えない。

 だが、それなら最初から幸音を狙えばいい。何故、その前に何人もの人間を襲ったんだ。

 やはり、それとこれは関係が無いのか。いや、無くていい。無い方が良いに決まっている。

 春彦は頭を振る。シャーペンの頭で軽く額を小突いた。



 ☆☆☆☆☆☆



 昼休みに生徒指導の渕山先生に見つかり、こってりお説教をされた。原稿用紙に換算すると百枚はいったんじゃないだろうか、と思うくらい長いお説教で、春彦は午後の授業は殆ど魂が抜けていた。教訓、非行、イクナイ。

 放課後、鞄に教科書を詰めようと思ったが、やはり二日分の教科書はギリギリ入りきらない。

 何とかならないかと悪戦苦闘していると、金髪が隣の席に座ってニヤニヤと笑う。

「春彦さ~ん。昨日はお楽しみでしたか?」

「は?」

「は、じゃねーよ。奈々枝と一緒に学校抜け出したんだろぉ? まさかお前と奈々枝がそんな仲だったとはねぇ。 …………くっそうらやましいぜ、このやろ!」

 金髪は春彦の足を蹴る。冗談の、軽い蹴りだった。

「別に恋人どーしじゃねーよ。家まで送ってって頼まれて、学校に戻るのがめんどくさくなってバックレただけだっつーの」

「へへっ。まぁ、そういうことにしといてやるよ! ……でも、あれだな。心配だな。何だかんだ言ってさ、あいつ、最近体調悪いんだろ?」

「……ああ」

「どっか悪いのか?」

「分からん」

 ふと、あの時考えた事を思い出す。奈々枝に「もし私が告白されたら」と言われた時だ。春彦は金髪やメガネ委員長に迷惑かけたくない、と一瞬思ってしまい、迷った。

「……なぁ、例えばさ」

「おう」

 金髪は席から立って、自分の席から鞄を取る。

「奈々枝がいじめにあってたら、お前は奈々枝の味方でいるか?」

「そりゃあ、お前。全力で奈々枝に味方して彼女にするに決まってんだろ。あーんな立派な巨乳だぞ巨乳。性格もいいみたいだし、俺は付き合いたいね!」

 発言は発情期の思春期の少年だが、春彦は金髪が羨ましく思った。

 金髪は今の台詞を即答した。それが羨ましかった。それだけ素直なら、きっと奈々枝をあんな風に怒らせることもなかっただろう。

「…………」

「何だよ、何かあったのか? ……まぁ、いいや。な、ゲーセン行こうぜ! タイムクラッシャーやろうぜ!」

「すまん。ちょっと行くところがある」

 ギリギリ余る教科書をビニール袋に入れて、それと鞄を持って春彦は教室から出ていく。

「あ、おい! ……あ、なぁ、最近春彦が冷たいんだよ……だからゲーセン行こうぜ、いーんちょー」

 春彦と入れ替わりで入ってきたメガネはため息をついた。

「……はぁ、しょうがないな。少しだけだぞ」

 そんな会話を背に、春彦は階段を降りて、下駄箱に急ぐ。



 早歩きで、春彦が向かう先。それは奈々枝の家。奈々枝に謝りたいからだ。

 何故怒らせたかは分からない。だがそれでも、怒らせてしまった事に変わりはない。

 謝ろう。そして今日は、奈々枝に付き合ってやろう。そう決めたのだ。

 それが、春彦の素直な気持ちだった。

「――兄貴!」

 後ろから呼び止められて、春彦は振り返り目を丸くする。

 黒いゴスロリドレスを着て、黒い姫カットロングのウィッグを付けた秋人だった。走ってきたのだろう、息を切らせている。しかも、服の所々が破れていたり、草や土がついていたりしている。よく見ると、左頬に小さな切り傷があり、手は土で汚れている。

「秋人!?」

「はぁ……はぁ、兄貴……はぁ……行くな!」

「何で」

「ダメだ…………どうしても、ダメなんだ!」

「だから、何でだよ! 説明しろよ!」

「…………なら兄貴からだ! 奈々枝に、何を言ったんだ!?」

「はぁ!?」

 どうして秋人がそんな事を聞くんだ。春彦の疑問は増えるばかりだ。

「……兄貴、公園で話そう。 ……飲み物奢るから」

 秋人は春彦に背を向けて歩き出す。春彦はチラと、奈々枝の家の方を見て、また迷う。

 余計に気になる。そして不安も感じる。行きたい。だけど。

 春彦はその気持ちを抑え、秋人の背を追った。



 夕方の公園。子供ももうそろそろ帰ろうかとする時間。日は傾いて、空は茜色。

 でもやがて空は青くなり、その青がゆっくりと濃く濃くなっていく。

 街灯の灯りが灯った。その灯りの下にあるベンチに、春彦と秋人は腰を掛けていた。

 お互いの持つペットボトルの飲み物。秋人のペットボトルの中身はすでに半分以上が無くなっていた。先に沈黙を破ったのは秋人だった。暗い瞳は、地面に向いている。

「……兄貴から、話してくれ」

「…………」

 春彦は昨日の出来事を思い出し、ぽつぽつと、言葉にする。

「……秋人が出てった後、テレビを点けて、ニュースがやっててさ。通り魔事件の犯人が自首した、ってニュースを見たんだ。 ……その後は、奈々枝の家にゲームやりに行くって話になって、奈々枝の家に行く途中、アイツが聞いてきたんだ」

「なんて?」

「……私がもし、告白したら……OKしてくれる、って」

「……兄貴は、なんて答えたんだ?」

 春彦は、少しだけ言いよどんで答える。

「……ぁ……当たり前だろ、って」

「……それから?」

「奈々枝の家に行って、二人でゲームしてたんだ。それで、六時過ぎてたからそろそろ帰ろうかな、って言ったんだ。そしたら――」

 背筋に寒気が走る。あの時の、奈々枝の表情がフラッシュバックする。

「――まって、帰らないで、ってすがり付いてきたんだ。でも俺は、次の日も学校だからって言って。それでもしつこいから……つい、言っちまったんだ」

「…………」

 秋人は春彦の顔を覗く。春彦は、どんな顔をしているのだろう。

「俺達……そういう関係じゃないだろ……って」

「そういう……関係?」

「だって、そうだろ? 友達だ。恋人でもないんだ、ただの友達だ。泊まりになるかもなんて思ったら…………恥かしかったんだ……」

 春彦が頑なに断っていた理由。それは、気恥ずかしさだった。

 女子の家に遊びに行く、という経験も無ければ、ましてや泊まりなんてもう、恥かしくていけない。情けない、と春彦自身そう思う。だけど、恥かしくて恥かしくて、本当はそんなに身構える必要は無いのだ。だって友達なんだから。

 友達と一線を越えることなんて、特に奈々枝なら、あるはず無い。

「……兄貴。兄貴は、奈々枝と……そういう事を、したかったのか?」

「違う……でも、さぁ……恥かしいじゃん……」

「その結果が、彼女を自殺に追い込んだとしてもか?」

「………………え?」

 春彦は耳を疑い、ゆっくりと、秋人の方に顔を向ける。青ざめた顔を。

「じ……自殺……?」

「……次は俺の番だよ。兄貴」

 春彦は震える手で、ペットボトルを開けて、中の飲み物を口の中に入れる。そのまま仰ぎ、苦しくなるまで飲む。

「……っ…………っげほ、げほ……!」

 むせる。器官に入ったのだ。胸に手を当てて必死に咳き込む。

「……まて……秋人、自殺、したのか……奈々枝?」

「ああ。昨日。首を吊った」

 春彦は立ち上がり、秋人の顔をペットボトルで殴打した。

「なんで知ってんだ!?」

「……見た事が、ある展開だから」

「はぁ!?」

「…………幸音は、通り魔に殺された」

「……おい、秋人!」

 春彦はペットボトルを捨てて、秋人の胸倉を掴み、引っ張る。秋人は表情一つ変えない。

「どこまで知ってるんだ。お前は何者だ!」

「言っても、今の春彦にはどうでもいい事なんだ。 ……離せ」

「言え!」

 秋人は黙ったまま、答えない。

「…………守れなかった、って、どういう意味だ」

「……兄貴。覚えてるか? 兄貴は俺に、幸音を守ってくれって、頼んだんだ」

 春彦は手を離す。そう、幸音から相談のメールが来た時だ。

 春彦は秋人の方が頼りになる、とメールを返した。それはただの親切心だった。

 事実、秋人の方が、春彦の何倍も頼りになるから、つい、任せてしまった。

「……守れなかった……って、幸音の事だったのか……!」

「そうだ。あのメール。俺は「ごめんなさい」って送ったよな。 ……あの時には多分もう、幸音は殺されていたんだ」

「でも、その前に来たメール、あれは……」

「犯人が殺して奪った携帯で送ったものか、殺される直前に送ったんだろうな。 ……俺も、犯行現場に居合わせたわけでも、見たわけでもないんだ。遺体だって、今さっき見つけたんだ」

 春彦はガクリと膝を落とす。

 知らない間に、二人も死んでしまった。

「兄貴……殴りたくなったら好きなだけ殴ってくれていい。言わせてくれ」

 秋人はベンチから腰を挙げ、膝を着き呆然とする春彦の前に膝立ちで座る。

「幸音の事は、兄貴が助けるべきだったんだ。奈々枝の事も、兄貴が一緒に居て、彼女の支えになって、立て直してやればよかったんだ」

「……奈々枝は、なんで死んだんだ?」

「兄貴が、最後の希望だったんだ。それに裏切られたと思い込んだんだよ。奈々枝は」

「…………メンヘラなのは、奈々枝の方じゃねぇか……」

 メンヘラは、愛して。ヤンデレは、愛してあげる。

 奈々枝は、恐らく前者だろう。

「……兄貴。帰ろう」

「…………」

「帰るんだ。ここにいても、仕方が無いよ」

「……うわぁぁぁぁぁぁ!」

 春彦は秋人に飛び掛り、顔に拳を叩き込む。

 ガスッ、ガッ、ガッ。強く叩く音だけが公園に小さく響いている。

「……う、うぅ……うぅぅうぅ…………くそぉ……どうして、こうなる……」

「……っう。あ、ぁにき……かえ、ろう……?」

 秋人は、その少女の様な顔で優しく微笑み、春彦の拳を両手で優しく包み込む。

 春彦は泣くことしかできない。だが春彦ごときがいくら泣いても、二人は帰ってこない。


 あまりの無情で理不尽な出来事だ。

 後悔。ただそれだけが春彦の中にあって、それが春彦を泣かせる。



 ★★★★★★



 ベットの中で、春彦はただ二段ベットの天井を見つめていた。何も考えず、じっと。

 ピリリリ……ピリリリ……。

 電話だった。家の電話が鳴っている。秋人は熟睡しているのだろうか。

 春彦は体を起こし、ベットから出る。

 自室から出てすぐ右前の電話機の受話器を取り、電話に出る。

「もしもし……」

『春彦』

「…………っ!?」

 受話器を持ったまま、体が硬直する。目は見開き、呼吸が苦しくなる。

『春彦……どうしたの?』

 茉莉子は受話器の向こうで笑っている。何故だか春彦にはその声が恐ろしく聞こえる。

 笑う、悪魔の声に聞こえるのだ。

「ま、茉莉子……どうして、家の番号を」

『知ってるよ。春彦の番号も、メールアドレスも。何だって知っているよ』

「…………」

 電話を切る。が、しかし。

 ピリリリ……ピリリリ……。

「何なんだよ……」

 電話に出る。

『まだ切らないで。ただ一言だけね』

「なんだよ」

『明日、お昼に屋上に来てよ』

「なんで」

『……奈々枝と幸音』

「…………っ!? おい、お前!」

『くすくす……何を慌てているのかな。また、明日ね』

 ブツ。通話が切れた。



 ★★★★★★



 屋上の風は、寒かった。朝の天気予報では、暖かな陽気と言っていた。

 だが空はどんよりと、曇っている。春彦は心の中を映し出されている気分になる。

 梯子を昇り、いつも通りの場所に、茉莉子は立っていた。

 妖気を纏った、薄気味悪く不気味な微笑み。後ろで手を組んで彼女は待ち構えていた。

「待ってたよ。春彦」

 この場所。茉莉子が立っているのは、後二歩下がればそのまま真っ逆さまに落ちる。

 フェンスも無い、とても危ない場所だった。

「何の用だ……」

 春彦の顔は酷い。目の下の隈のせいで、目つきがとても悪いのだ。

 昨日の事と寝不足で、イライラしている。

「奈々枝と幸音の事、知ってるのか」

 茉莉子はくすりと笑う。

「ねぇ、私の事、好き?」

「…………」

 春彦は表情を変えず、茉莉子の前まで歩き。

 突き飛ばした。

 背中に茉莉子を守る物は無い。茉莉子は不気味な笑みを崩さないまま、下へと落下した。

 グチャ。生々しい音が聞こえて、春彦はハッと、我に返った。

「……茉莉、子……?」

 恐る恐る、下を覗く。

 下で倒れている茉莉子。その顔は笑んだままで、春彦の方をまっすぐ見ていた。

 春彦は逃げ出した。梯子を使わず、飛び降りて、ドアを乱暴に開けて、乱暴に閉めた。

「……はぁ、はぁ……!」

「春彦!」

 誰よりも早くに来たのは秋人だった。

「秋、人」

「……バカ野朗」

「だって、だって!」

「だってじゃ……っ! ……くっ……!?」

 秋人がふらり、とよろける。そして、背中から階段を転げ落ちた。

 春彦は。

「……ふ、ふは、ははははははは……あははははははははは、はははははははは……!」

 笑い出した。

 ひとしきり笑って、力尽きた。

 先生や、野次馬の生徒が集まってくる。



 ★★★★★★



 春彦の脳は完全に思考を停止している。

 普段の生活では思考停止など、滅多なことではあまり無い。

 今はその、滅多なことなのだ。

 足元はおぼつかない。目の前も見えているのに何も見えていない。

 家のドアの前で鍵を三回も落とした。

 家に帰り着いた春彦は、制服の上着だけを脱いで、ベットに倒れこんだ。


 幸音は通り魔に殺され。

 奈々枝は春彦のせいで自殺。

 茉莉子は春彦が突き飛ばして転落死。

 秋人は階段から落ちて、当たり所が悪く意識不明。


 物事は時にとても追いつけない程にめまぐるしい速さで進む。

 春彦は、どうするべきだったのか。

 それを考えることは、今の春彦には出来ない。


 口をポカンと開けたまま、春彦は二段ベットの天井を見つめる。

 その目に生気は無かった。



 ★★★★★★




 私はむくり、と顔を上げる。

 いい、お話だった。三人の誰も救えない春彦。

 あはは、ざまぁみろ。


 ……私は、どうしてこう。性格が悪いんだろう。

 性悪の根暗だ。彼に声を掛けた事だって無い。

 そのくせ、変なところで行動力を発揮して、空回りするんだ。

 告白だって……空回りした。


 時間はまだ、夜中だ。

 まだまだ色々、妄想しよう。

 妄想して、全部発散してしまうんだ。

 そうしたらきっと、諦める事が……。


 やっぱり、いやだ。

 涙が出てきた。

 いや、いやだ。いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。

 諦めたく……無い。


 誰か、救って。

 誰でもいいから、救ってよ……。


 ……ねぇ、春彦君……。


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