淡々と過ぎる日々 前編
――バタンッ。
乱暴にドアを閉め、私はブレザーを脱いで床に放り投げる。
「……はぁ」
ため息が出る。リボンを解いて、ワイシャツのボタンを外す。
告白した。思い出すだけで胸が痛い。
きっぱりと断ってくれれば、きっとこんなに痛まない。
私が好きだった彼。彼は何も言わず逃げ出してしまった。
ふざけんな。そう思った。
椅子に座る。机に伏して、腕に顔を埋めた。
内気な私が。せっかく告白したのに。
彼はどう思ってるだろうか。
後悔? それとも何?
私は彼ではない。彼は私の告白に了承も拒否もしなかった。
ただでさえ他人の気持ちなんて分からないのに。これじゃあますますわからない。
目頭が熱い。嗚咽を堪える。堪える必要は無いけど、癖なんだ。きっと。
もし、彼と付き合えていたら。どうなっていただろう。
考えるだけ虚しい。それは分かっている。
けれど、つい、妄想が始まる。
せっかくだ、数奇な運命のほうが面白い。
まずは、出会う所から。
「淡々と過ぎる日々 前編」
宮村 春彦。
彼は高校生活に特別な憧れがあった。中学時代に読んだ漫画や小説。ゲーム。
ゲームや漫画の中で繰り広げられる楽しい学園生活。それに憧れ、特に恋愛というものには多大な興味と、期待があった。俺も高校入ったら彼女つくるぞ!
だが現実、高校に入っての一年目は普通に過ぎていった。思い出は人並み。学業もそこそこ。友達も少なくは無い。お世辞にも多いとは言えないので、きっとリア充というヤツではないが。
女の子とフラグが立つようなイベントもあったのかもしれないが、恐らく見事に全て逃してしまったため、まだ誰とも友達以上に至っていない。もっと積極的に行動していれば、もしかしたら彼女が出来ていたかもしれない。
だが、悲観するにはまだ早い。浮いた話は同じ学年の中でも何度か聞いたことがある。
それに、春彦は一年目を普通に過ごせたのだから。
「兄貴」
二年目、今日は始業式。ここから、ここからだ。
「兄貴!」
ギャルゲーのような恋がしたい! そう意気込んで昨日寝た。
腹の上に何かが乗る。春彦は目を開けない。開けてはいけないのだ。弟に腹に乗られて、喜ぶのは一部の女性の方々だ。
「起きろよー。兄貴?」
こうして声を聞いていると、女性の声に聞こえなくも無い。
少しトーンは低いが、男として考えれば十分高い。
「兄貴……そうか、もう、手遅れだったか」
突然調子が下がり、黙る。
「モテナイ現実に絶望して、リア充学園生活を満喫しに行ってしまった……ふ……くくっ」
笑いを堪えるような声。そしてキュポッ、と、マーカーペンのキャップを外す音。額に伝わる感触から、肉と書かれたに違いない。駄菓子菓子。春彦は頑なに無表情のまま目を閉じている。どうせ水性ペンだ。腹にかかる重みが退ける。
「あ、やべぇ」
春彦は肩を震わせた。左瞼を動かし、ゆっくり薄目を開ける。
「こいつ油性じゃん」
「何してくれてんだおい、こら。待てよ、逃げんなよ」
「朝飯だ、兄貴」
馬鹿はペンを机に放り投げて、部屋から出ようとする。放り投げられたペンがワンバウンドする内にキャッチ、寝起きでも春彦は素早い。
「待てって。怒らないから」
爽やかな笑顔で弟の手首を捕まえ、対面する。左手でペンのキャップを外し、反撃準備は整った。
「手遅れだって、俺にだって分かる。肉なんて書かないで星六つの方がよかったんだろ? 明日はそうするから頼むから俺には書くな!」
書こうにも弟は頭を振って拒む。
猫髭なら勢いで書けるな、そう考え、頬にペン先を着ける。
「……っ!」
頭を振った弟の頬に一本、線が引かれる。
頭を振るのを辞めて、春彦を睨む。次はどうする。互いに出方を伺う。
「兄貴。放せよ、このままじゃお互いのためにならない」
「先に書いたのはお前だろうが」
「油性ってのは、嘘だ」
「知ってる」
「…………」
「…………」
春彦は弟の手首を放す。朝からくだらない事をした。後悔の念だけが空しく残る。
兄弟仲良く洗面台で顔を洗う。弟は先に起きていたので二度目の洗顔だった。
「全く、水で落ちるったって簡単には落ちないんだぞ?」
「兄貴が起きないからじゃねぇか」
宮村 秋人。春彦の弟で、妙にハイスペックな弟。
勉強も運動も格闘技も何でもできる。が、女装癖がある。
中性的、というよりも女性的な顔立ちと、男にしては大分高い声。女装した姿は春彦でさえ、一瞬見惚れた事がある。見慣れた今はそんな事は無いが。男に見惚れるなど無い。無い。
口調はいつも通りで、仕草も大体男のもので、見てると次第にがっかりする。
そんな彼は今年、春彦と同じ高校に入った。
今日は、これから入学式だ。午後からは春彦の始業式がある。
定時でもない普通の学校だが、所々変なところがある。
完璧に額の文字が消えた所で、リビングに向かう。
「おはよう、春彦」
食卓に朝食を並べていた母が笑顔で挨拶する。
おはよう、と、挨拶し席に着く。
父はもう仕事に出かけている。平日は、三人での朝食が当たり前だった。
秋人も母を手伝い、ベーコンエッグの乗った皿を並べている。
日常の光景だ。去年も、それより前からずっと変わらない光景だ。
春彦はどこか安心したような、妙な気分だった。
朝食を取り、学校の支度をする。
秋人は入学式で、春彦は始業式。制服を着て空っぽの鞄を持てば支度は済む。
「そういや、女子制服にはしなかったのか?」
秋人の女装癖を考えれば、それくらいやりそうだった。
「女装は趣味だから。学校に行くときはちゃんとした男子制服を着る。当たり前だろ」
趣味でもどうかしてる。春彦は呟いた。
「……さて、準備できたなら行くぞ」
手際よくネクタイを結ぶ秋人。
一方春彦は、一年経つのに未だネクタイ結びに手間取っていた。改めて秋人の器用さを思い知るのだった。
家の前まで母は見送ってくれた。
入学式なのだが、父が仕事、母は体が悪い。そこで春彦が父兄として式に参加せざるを得なくなった。少し古いデジタルカメラは充電と、撮れる枚数が気になる。
「めんどくせぇな」
本日は晴天。絶好の入学式日和だ。狙ったかのように桜も満開。言う事は無い。
舞い散る桜の花びら。入学を祝っているようにも感じる。
「弟の入学式をめんどくせぇって。この兄貴は」
「当たり前だ。超絶美少女な妹の入学式なら一眼レフ用意するのに」
「……世の中春だってのに、兄貴の春はまだまだ先だな」
秋人はやれやれと手を広げる。
歩いている人といえば、通勤の会社員。入学式に向かう新入生と父兄。
思わず女の子を探してしまうのはサガだろうか。
「ま、大丈夫さ。兄貴にも春は来る」
「……ありがとよ。気休めでも嬉しいわ」
秋人は微笑んでいた。
「流石に、ギャルゲーみたいに、とは行かないだろうけどな」
「分かっとるわ」
長い学校までの道のり。
住宅街から少し離れた坂の上に学校はある。
春彦の家から三十分程度の道のりだが、緩い坂が長く、学校に近づくにつれ坂も急になる。
自転車通学なんてすれば、行きだけで体力を使う。帰りは逆に爽快だろう。
運動部なんかにはもってこいだ。去年一年帰宅部を立派に努めた春彦には関係ない話だが。
一年。それだけの間、行き帰りを繰り返すと、もうすっかり慣れたもの。
いつかここを、彼女と歩く日は来るだろうか。
期待と、僅かな不安。楽しみと怖れ。春彦の胸にはそんな物があった。
校舎と渡り廊下で直通の体育館。
体育館はいつに無く厳かだった。色々変で、色々緩い学校だが、大事な式はきちっと真面目に執り行う。
春彦は、後ろから数えて三番目の、左から五つ目のパイプ椅子に座る。
ここなら、体のでかい人が前に座らない限り大丈夫だ。
大体、在学生が前に座るのは気が引ける。
しかし思いのほか早く着いてしまった。
ふと、左隣に女の子が座る。どう見ても父兄ではない。ここの学校の制服に身を包んでいる。
前髪はパッツン。後ろの髪は短い。特徴を挙げるならもみ上げだ。肩に先が当たる程に長い。
髪と同じ茶色の瞳。少し高い鼻。薄い唇。髪型が特徴的なだけで、顔は至って普通だった。身長は春彦と変わらない。
だが誰だ。春彦は思い出せない。
「……?」
女の子は春彦に笑顔を向ける。窓から射し込む朝日を吸収して更に輝く笑顔。
「春彦。おはよう」
「おはよ。 ……えっと、誰だっけ?」
声を掛けられたということは、あっちは知っているのだろうか。春彦はもみ子に名前を尋ねる。
「…………っ」
一瞬彼女の眉が動いた気がした。
「三舞 茉莉子。覚え、ない?」
茉莉子は力なく笑う。何かを諦めたような顔だ。春彦は茉莉子の顔を見て、思い出そうとするが、全く思い出せない。
「悪い。覚え、無い。 ……どっかで会った事あったか?」
「覚えてないんでしょ? じゃあ、きっと私が間違えたんだ。こんな変わった髪型した奴、忘れたくても忘れられないじゃん?」
確かに、茉莉子の髪型は変わっている。忘れたくても忘れられない。
ならきっと、彼女の言うとおりなんだろう。春彦はそう思うことにした。
「でもさっき名前言ってたし、その、茉莉子は俺の事知ってるのか」
茉莉子の瞳が、一瞬濁る。
「…………うん、まぁ。そーだね」
間をおいて茉莉子はぽつりと話した。どこかよそよそしい。
「入学式、始まるよ」
「いや、まだ五分あるし」
「う…………っ」
それから茉莉子は黙って俯いてしまう。時々ちらちらと春彦の顔を見る。
良く分からない奴に出会ってしまった。
しかし春彦は、ギャルゲーじみたこの展開に内心ワクワクしていた。
会話も無いまま五分が経ち、入学式が予定通り始まった。
入学生が入って来る。最初に入ってきた列の中、秋人を見つける。弟なのだから、見つけられて当然だ。カメラを構えて一枚撮る。横顔だったが、十分だろう。春彦はカメラを仕舞う。
入学生の列を見ていると、とある女の子に目が留まる。
ふんわりとした、アオゾラの色を塗ったような蒼いセミロング、ぼんやりとした瞳。
新一年生、まだ幼い顔の子は多い。そんな中、彼女はとりわけ幼く見える。身長が他の子より頭一つ小さいからかもしれない。
どこかから「気味が悪い」と聞こえてきた。
黒か茶の髪が殆どを占める中、彼女だけが蒼かった。目を引くのは当然だった。
春彦は無意識の内にカメラを取り出して、彼女を撮っていた。
全員が雛壇に整列する。
木を隠すなら森の中。人を隠すには人ごみと相場は決まっている。
彼女にはきっと、永劫適用される事はないだろう。
式はつつが無く、滞りなく進み、終わった。
去年は入学生として経験した式も、逆の立場では見え方も変わってくる。
入学生の時は緊張していたものだ。父兄の側から見ていると感慨深い。
弟は無事に高校に入学できた。しかし春彦は感慨深い気持ちよりも、蒼いあの子が気になっていた。存在自体がギャルゲーっぽい。それだけでワクワクする。
「そんなことだろーと思ってたよ。全く」
結局秋人の写真は最初の一枚だけだった。
式が終わった後、秋人に呆れられてしまった。
「まぁ、気持ちは分かるぜ兄貴。ただなぁ……」
頬を掻いて、言葉を濁す。
「なんだよ」
「ロリコンって呼ばれるぞ。それに、その、なんか犯罪っぽくね?」
「一個下の後輩だろが」
突っ込みながらも春彦は納得する。
彼女は高校生なりたて、というよりは中学生になりたて、と言われた方が納得がいく。
外見は高校生に見えないから。
「そうだけどさ。 ……名前、聞いとくよ」
「悪いな」
「気にすんな」
秋人は右手を振って体育館から出て行く。
その姿を見送って、春彦は身近のパイプ椅子に腰掛ける。
「弟さん、だよね」
近寄ってきた茉莉子は春彦の顔を覗く。
「ああ、秋人って言うんだ。仲良くしてやってくれ」
「うん」
茉莉子は春彦の隣で、後ろで手を組んで立っている。
そわそわとしていて落ち着きが無い。
「座れよ」
隣のパイプ椅子を指してやる。
「……あー、うん。いいや、トイレ行ってくる」
そのまま茉莉子は体育館を出て行ってしまった。
出て行くより、後方の用具倉庫の隣にあるトイレの方が近い。
出て行ったら、わざわざ校舎に入る必要がある。遠回りだ。
春彦は時計を見る。始業式は一時間半後。
体育館の中に人は少ない。先輩の姿はちらほらいるが、話した事ある先輩はいない。
同級生は居るが、そいつらはそいつらで固まってる。
俺って、友達少ない? そんな不安が春彦の頭をよぎる。
その後、始業式ギリギリまで春彦の友達が来る事は無く、ただただ暇な時間が続いた。
始業式は簡単に終わった。
礼。教頭挨拶。校歌斉唱。校長挨拶。礼。
礼に始まり礼に終わる始業式だった。
クラス発表が下駄箱前掲示板に張り出されていた。
春彦は人ごみの真ん中から背伸びで確認しようと頑張るが、見えない。
もう少し進もうにも、後ろから押され、前から押し戻されでどうしようもない。
「春彦君は二組だよ」
いつの間にか隣に茉莉子が居た。
「サンキュー。それだけ分かれば、こんな、地獄から、抜け出そうぜ」
カニ歩きでゆっくりと人ごみを抜ける。
対して茉莉子はスイスイと抜けていく。慣れているようだ。
「はぁ、あれだよな、うちの学校やっぱ男子多くね。むさい」
その通り、春彦の通う「天星川高等学校」は去年まで男子が多かった。数年前まで男子校だったのと、近所に女子が少ないこともあって、名前に反してむさい高校だった。
今年の入学生は女子が多いので、今年になってようやく男女の総数のバランスが良くなる。
「妙に体格の良い人多いもんね。今年も筋肉自慢大会とかやるのかな」
学園祭の出し物の一つ。筋肉自慢大会。男子は全員参加。
男子校の名残で、毎年最強のマッスルを決める激しく汗臭い対決が繰り広げられる。
細マッチョ部門なんて物も、いつしかできていた。
春彦は細マッチョ部門で去年、三回戦まで進み、化け物じみた先輩に敗れた。
「期待のエースになり得る奴なら、今年入ったぞ」
「そうなんだ」
「秋人はああ見えてすごい奴だからな」
「見えなかったけどね」
茉莉子は微笑む。その顔は無理をしているようにも見える。
「……なんだか元気ないな」
その無理をした微笑に、春彦は不思議な違和感を抱く。
こんな奴だったっけ? そんな、さっき会ったばっかりの人間が思うには不自然な気持ちだった。
「そうかな。うー……んっ」
茉莉子は身体を伸ばす。伸びる身体。控えめなバストが顕わになる。
本人は気づいていないだろうが、多分危険なことだと春彦は思う。
後ろを振り返ると男子数人が茉莉子を見ている。
「意外と人気なのか」
「誰が?」
茉莉子を指差す。理解した茉莉子は自嘲気味に笑う。
「嬉しくない」
「そういうもんか?」
「彼氏候補は居るからね」
へぇ、と春彦は意外そうな声をあげる。
初対面の会話を思い出すと、俺か! と一瞬心臓がはねる。
「それより、教室行こうよ」
「あ、同じクラスなのか」
茉莉子の顔に薄く影が掛かったように春彦は感じた。
「私は三組だよ」
「そうなのか」
正直、春彦は残念だった。同じクラスだったら。それこそ本当にギャルゲーのメインヒロイン枠だろう、彼女は。
でも振られた時のダメージが少ないって利点もある。想像したくは無いが。
茉莉子は後ろで手を組んだまま、春彦に背を向けて歩き出す。
春彦は彼女の後ろに着いていく。
一階と二階を繋ぐ階段の踊場。そこで彼女は立ち止まり、くるりと振り返る。
右と左の長いもみ上げがふわりと舞う。
「春彦君は、青春するのかな」
にっこりと茉莉子は笑う。
「……したい」
見惚れながら春彦は呟いた。
「出来るといいね」
彼女はそう言ってまた階段を上っていく。
春彦は立ちつくしていた。デジャブ。そんな物を感じていた。
春彦が思い出せないだけで、きっと会ったことがあるのだ。
そうでなきゃ、既視感なんて感じないはずだ。顔はにやけているかも知れない。だらしの無い顔になっているだろう。
青春が始まった。春彦はそう、思った。
教室という場所は、どこの教室、どこの学校でもあまり違いは無い。
机があって、教卓があって、黒板がある。自分の席があって、そこを中心に学校生活を送る。
クラスが変わり、新たなメンバーが集ったここ。二年目ということもあってか、グループは大体出来上がっている。春彦ももちろんグループの一つの中にいた。今はまだ席が決まって無いので、窓枠に背を預けて、友達二人と話していた。
「二年目は本格的に恋の季節だ、と思うわけだ」
春彦はそんなことを言っていた。春彦の前に立つメガネ男子はメガネを直す。
「そうだな。がんばれよ」
「なに。お前は青春しないのか?」
メガネは首を振る。
「俺は将来が決まってるんだ。下手に恋人作ると将来に響く」
「いったいどんな将来なんだ……」
春彦の隣で女子を眺めている金髪。黒いストレートロングの地味めな子。少し濃いメイクの子。清楚な子、スポーティな子。巨乳。一通り眺め終えると、ため息をついた。
「こう、あれだよ。美少女でロリ巨乳で優しくって、やらかくて甘ぁい子って、実在しないかなって思うわ」
「分かる。でもその幻想は諦めろよ。青春以前の問題だろ」
「実在してもビッチは嫌だからな。やっぱ、普通よりちょっと可愛いくらいが一番安牌だよなぁ」
金髪の視線の先にはクラス一の童顔女子が居る。
彼は最初こそイケメンイケメン呼ばれ、ちやほやされていたのだが、一年経てば見慣れたもの。言う女子はいても、昔ほどの勢いは無い。だがそれだけで、一般男子(春彦含む)には羨ましいのだが。
「そーいや、茉莉子と仲良かったんだっけ?」
金髪は視線を春彦に向けて聞いた。
「いや」
そう返すと金髪は、えっ、と短く声を上げる。
「さっき下で話してたじゃん」
「いや、話しくらいしね?」
「そうでもない。アイツ、メンヘラだって噂だからな」
メガネが腕を組む。
「メンヘラ?」
「心に病気を患ってるって事だ。真実かどうかは知らないが。少なくとも、雰囲気は普通じゃない。授業もしょっちゅうサボっているらしい」
「アイツが誰かと話してるとこ、俺見た事ねー」
春彦は茉莉子の一挙一動を思い出せるだけ思い出す。
けど、変な所なんて――
「あった。変なとこ」
「どこ?」
金髪は面白そうな物を見つけた子供のように、目を輝かせる。
メガネは真剣な面持ちだ。
「あっちはこっちを知ってる風だった。マジで俺、茉莉子に会った事無いんだ。名前だって知らなかったんだぜ?」
「次会ったら聞けばいいんじゃね?」
「彼女は妄想の中に居るんじゃないか? メンヘラ――本当に精神病に掛かっているなら、ありえる話だ」
片や気楽な意見。片や面倒な意見。
春彦は大袈裟にため息を吐く。
「恋愛はしたいけど、その後の人生に響くって考えると難しいな」
メガネの意見を頭の片隅に置いて、気楽な意見は捨てた。
先生が入ってきて、黒板に座席表を張る。騒がしかった教室は更に騒がしくなる。
窓際後方二番目の席。
春彦の読んだことのあるライトノベルの中では、大体の主人公が座る席。憧れの席から見た外はとても綺麗だった。満開の桜から、桃色の花びらが舞っている。一陣の強い風が吹くと、花びら達は空高く舞い上がる。窓を開ければきっと、手に花びらが乗るだろう。清清しい景色を眺めながら、春彦は思う。
どうして、周りを男で固められなくてはいけないのだろうか。
春彦は運命を呪う。
どうして、この学校は、このクラスは女子が少ないのだろうか。
今の春彦は、とても濁った、沼のような目をしている。外の世界に旅立ちたかった。
「――――というわけで、学級委員長は彼。副委員長は彼女にお願いする」
先生が二人の生徒を指差した。
春彦は気を取り直して窓の外から教室の中に視線を戻す。
教卓の前に二人の男女が立っている。メガネ(男)とメガネ(女)だった。
「悪いんだけど、二人にさっそく仕事やってもらう。これ、委員会名簿。ちょっと職員室に戻らなきゃいけないんだ」
先生はそう言って、委員長に名簿を渡して教室を後にする。
名簿を受け取った委員長は教壇立って、咳払いをしてから始める。
「……では、委員会の役員を決める。図書、保険、文化祭実行委員。この三つ、各二名だ。立候補したい奴は手を挙げろ」
上からの物言いも、このクラスは寛容だった。
春彦は、委員長の隣、副委員長を見ていた。
赤い下縁のメガネ。パッチリした目。ポニーテール。そしてEはあるであろうおっぱい。
テニスが似合いそうな健康的なスタイル。
彼女は黒板に委員会の名前を書き出している。とても丁寧な字だった。
「高嶺の花って奴だなぁ」
後ろからの声。金髪はだらしない顔をしていた。
「へっへっへ……春彦。Eだぜ」
戦慄が走る。
「……マジで」
春彦はゴクリと生唾を飲む。
「ああ。そして夜道が危ないタイプだ」
「そーだな」
春彦はそこだけ適当に流す。そんな会話をしている内に、委員会決めは終わっていた。
名簿に名前を書き終えた彼女は名簿をメガネに渡す。メガネは名簿を持って教室を出て行く。
小声で後ろの金髪に話す。
「パットじゃなくて」
「それはわかんねぇけど、アイツ彼氏いないし」
パットだったらがっかりだ。
後でちょっと話してみよう。そして仲良くなってみよう。
もしパットだったらパット委員長。略してパット長と呼ぼう。
春彦はくだらない事を真剣に決意するのだった。
「ん、そういやアイツの名前……なんて言うんだ?」
委員会決めが一瞬で終わり、先生不在の教室は、瞬く間に喧騒に包まれる。
隣のクラスもそのようで、時々笑い声が聞こえる。
「華舞 奈々枝。最高級おっぱ……去年は一組の委員長やってたらしいぜ」
春彦は後ろの席に、椅子ごと身体を向ける。金髪は頭の後ろで手を組んでにやけていた。
「あれだけ目立つ巨乳を知らなかったのか?」
「乳で覚えるってのも失礼な話だな」
「全くだよ」
金髪の後ろに影が立つ。副委員長のお出ましだった。
「おっぱいしか見て無いでしょ。あんた等」
春彦は、違うと主張する。
「俺は顔も見てたし、足も見てた。スポーツ得意だろ」
金髪は頭にハテナ、奈々枝は顔を顰める。
「残念でした。運動全般壊滅。悪かったね」
「マジすまん」
春彦は苦笑いで謝る。
「そういやさ、春彦君」
奈々枝は腕を組む。豊満な乳が強調される。
「…………。茉莉子と仲良いんだって?」
一瞬、ドライアイスのような冷たい眼差しが向けられたが、春彦は気になって仕方ない。乳が。
「仲良くねぇよ」
「せめて目線をもう少し上げてさ……」
「耳で話は聞いてる」
奈々枝は呆れ果てた顔をする。
「そこまで堂々としてる春彦に痺れる憧れるぅ! 師匠と呼ばせてくれ!」
金髪が机に手をついてダイナミックに頭を下げた。
「俺、実はある人の弟子なんだ。師匠曰く、弟子は弟子を取ってはいけないんだよ」
「どんな師匠ぉ?」
奈々枝はあまり興味なさそうだ。
「物事は万事「カニ」だって言う師匠。公園に時々いた小学生なんだけどさ」
「そ、それは……」
「春彦君、刑罰が軽くて名前公開されないのは未成年の内だけだからね。れっつ犯罪ライフ! 満喫してね!」
奈々枝はグッと親指を立てる。太陽のような温かくて眩しい笑顔だった。やめろ。
「いや、従兄妹だし」
「従兄妹でも犯罪は犯罪。ロリコンは犯罪なんだおっ」
奈々枝はけらけらと笑いながらケータイを取り出す。
「通報しないデー」
「いや、友達からだよ。メール」
奈々枝は素早くメールの返事を打つ。慣れた手つきの、素晴らしい高速入力だった。
「そーいや、委員長様はどこ行ったんだ?」
「名簿渡しに行くついでにトイレだって」
「誰に渡すんだ?」
三人は腕を組んで同じように唸る。
「先生?」
「戻ってからでいいじゃんよ」
「逢引!」
「誰と?」
教室のドアが開き、先生とメガネが戻ってくる。
奈々枝は春彦と金髪に小さく手を振って自分の席に戻る。
「なぁ、マジでそんな師匠いるのか?」
「いた。過去形だよ。師匠は東京に引っ越した」
いーなーとーきょー、と、金髪は上体を机に投げ出す。
「そこ、すぐ終わるから話を聞け」
先生に注意された。
先生の連絡は簡単なものだった。
二年が一番中弛みしやすい時期だ。ダラダラ過ごしていたらあっという間。来年には就職活動、大学、専門学校受験。
聞いているだけで、新学期早々鬱になる。
そんな春彦の気分とは裏腹に、後ろで眠っている金髪。
「――以上。今日はもう終わりだが、遅くまで寄り道しないように。補導とかされるとお前等だけじゃなく、俺まで評価下がるんだから。補導されない範囲で寄り道しろよ。ハイ終わり」
先生は早々に教室から出て行く。
「ほら、終わったぞ」
「…………おー。おう、おう……」
金髪を揺するが起きない。メガネが鞄で金髪の頭を叩く。
「……はぁい、すいません! 乳の事で頭が一杯で……なんだ、委員長の方か。がっかりだぁ」
「悪かったな。終わったし、帰るぞ」
「そんな。ゲーセン行こうぜ! タイムクラッシャーやろうぜ!」
金髪は机の脇に掛けた空の鞄を取りながら喚く。
「しゃーねーな。俺は行くけど、お前は?」
春彦はメガネに問う。
「すまん、用事がある」
「委員長の仕事か?」
「副委員長がさっさと消えてしまったから一人でやらなきゃいけないんだ」
教室の中にはもう男三人しかいない。
「手伝う?」
「どうせすぐ終わるだろう。新学期早々時間のかかる仕事もないだろうし」
そう言ってメガネは小さく手を挙げ、教室から出て行く。
「んじゃ、行くか」
「もちろんワンコインクリア狙いだよな」
「おう。ついでにスコア一位狙うんだ、当たり前だろ!」
タイムクラッシャー・クリムゾン。春彦達が通うゲームセンターに三年前から稼動しているガンシューティングゲーム。拳銃型のコントローラーを使って敵を倒す、反射神経が鍛えられるゲーム。
反射神経が鍛えられる、と言うのは誇張ではなく、このゲームはバランスが崩壊している。
敵の攻撃アイコンが表示されないことが多々ある。画面上に表示される敵の数が、実際の数より少ない、所謂ステルス状態の敵がいる。物陰から一瞬だけ姿が表示される敵がいる。もちろん判定は姿が見えた一瞬だけだ。こちらが撃つまで撃たない敵がいる。などなど、バグと仕様が入り乱れるカオスなゲームとなっている。
ただし銃コントローラーがワイヤレスだったり、グラフィックが他のゲームより二世代上を行くリアルさなのに、動きがかなり滑らかだったりと妙にクオリティが高い。音楽も騒がしいゲーセンの中でありながら、クリアに聞こえる謎技術。しかもどの曲も熱く、人気がある。効果音一つでさえ手を抜いていない。
ただし、ゲームがゲームだけにプレイしている人は全然見かけない。
たまにプレイする人も現れるが、あまりに理不尽な難易度に一面を超えることが稀。
ランキングも初期から殆ど変わっていない。クリアしないとランキングに入らないからだ。
しかし唯一クリアした人間はいる。ランキングの一位、「AKT]。
そのスコアを塗り替えた者は未だ現れていない。
「しっかし、俺たち三面の初めまでしかいけないのに、AKTって人間なのかなー」
下駄箱で靴を履き替える金髪が漏らす。
「あれだろ、ニュータイプなんだよ。きっと」
「見える! とか、そこだ! とか言いながら撃ってんの? かっけぇな」
「……」
「……」
二人の周りは、空間を切り取ったように、そこだけ別な空間だった。
見えないステルス兵。ランダムな銃撃。一瞬のミスで大切な残機が、水泡のように消える。
このゲーム最大の糞仕様。それは、無敵時間が存在しない。
他のゲームでは一発受けると、無敵時間が発生するのだが、このゲームはそれが存在しない。ランダムな銃撃は最大で六回連続で襲ってくる。残機は三。一回受ければたちまち残機を失い、ゲームオーバーだ。
銃を画面に向けなければ、主人公が手にしている盾で弾を防いでくれる。
そして唯一の救いは、制限時間が存在しないこと。銃撃が止む一瞬を狙える。
だがすでに三度チャンスを逃した。金髪は一度銃撃を浴びたが、首の皮一枚生き残った。
本当に運がいい。
「…………っ! 今だ!」
春彦は銃を画面に向ける。刹那、銃撃が止み、春彦はトリガーを引く。
敵達の後方、赤いドラム缶を撃つ。春彦はサッと、銃を引っ込める。
数発の銃撃の後、爆発。敵を一掃した。ステージクリアの表示が出る。
「……やっと三面だぜ」
「マジかよ。俺もうだめ……」
「諦めるな!」
金髪の背に声が掛かる。いつの間にか春彦と金髪の周りに人が集まっていた。
全三面。最終ステージだ。
「そうだ諦めるな! クリア、するんだろ?」
春彦は金髪の肩を叩く。
「……ああ!」
金髪の目に闘志が宿る。熱い火だった。
春彦の闘志も再び燃え上がる。二つの火は炎となった。
最終ステージ、市街地の中での戦い。主人公二人はシールドと銃のみでテロリストの大軍と戦う。上官は死亡。最期の言葉は「なんとしても食い止めろ」。
銃撃もかつて無い程の密度、もはや弾幕だ。
一瞬を見定めながら着実に倒していく。
だが――。
「…………うわぁぁ! くそ、すまん!」
金髪はやられた。春彦は一人になってしまった。
――三面は、コンティニュー不可。コイン投入口に百円を入れようとした金髪が気づき、手を止めた。
春彦は更に慎重に銃撃の隙間を探る。
目に見える敵は六人。ステルスが二人。物陰から一瞬見えた敵も一人いる。
隙が出来た。そう確信し銃を構えた直後。
春彦がそれを認識するのに数秒掛かった。認識を超えた速度で残機が減る。
ゲームオーバー。春彦は銃を床に落とした。
タイムクラッシャーの横には自販機が設置されている。
春彦と金髪は自販機に背を預けて、缶ジュースを飲んでいた。
「三時間か」
「かなりだなぁ。二時半位に始めたんだっけ?」
タイムクラッシャーは制限時間が無い代わりに、敵の攻撃が馬鹿みたいに激しい。おかげで、三面に行くだけで、他のガンシューティングの何倍もの時間が掛かる。
正にタイムクラッシャーである。
金髪は携帯を取り出す。
「うわ、姉貴から着信来てたわ……いいや、後で」
春彦は缶ジュースを飲み干し、ゴミ箱に缶を捨てる。
ふと、クレーンゲームコーナーを見ると、茉莉子がクレーンゲームをやっていた。
「茉莉子?」
「あ? ホントだ。珍しいな」
春彦は茉莉子の側に向かう。金髪はメールを打ち終えてから、缶を持ったまま春彦の後を追う。
春彦が側に来ると、茉莉子はクレーンゲームから春彦に目線を移す。
「春彦」
短く名前だけ呟く。春彦はよっ、と挨拶の代わりに手を上げる。
クレーンゲームの景品は、長方形の箱に入ったパンダの置時計だった。
茉莉子は指先で百円を転がしている。目線は春彦から景品のパンダへと戻った。
「欲しいのか?」
「出来るの?」
「出来ないけどさ」
茉莉子は目を細める。
「かれこれ五回は挑戦してるけど、アーム弱い」
ここのクレーンゲームのアームは弱く設定されていることが殆どだ。
取る方法は幾通りもあるが、それを出来る人間は中々いない。何度も挑戦し、色々試す。
その苦労の果てに取った景品には愛着が湧くものだ。
「うーん、一回やってみるか」
「別に、欲しいわけじゃない」
「取れたら俺が貰うから良いんだよ」
茉莉子の肩を押し、退かす。正面に立って目標を見定める。
パンダの入った長方形の箱を二枚の板の間に落とさなければならない。その隙間は長方形の箱を縦にしなければ入らない。
現在箱は、奥が板の間に挟まっている。手前を持ち上げれば、いけるかもしれない。
百円を投入する。
1のボタンを押す。アームが右に動く。箱の正面で止める。
「いけるか?」
金髪が声を掛ける。春彦は首を振った。
「無理だと思う」
茉莉子は手の中で百円を転がして遊んでいる。
春彦は2のボタンを押す。アームは奥に向かって進む。
突き出している箱の手前、その上でアームを止めた。
箱の下にアームが降りていく。ゆっくりとアームが閉じ、上がる。
持ち上げられた箱は徐々に縦に近づき、そして――。
「あ」
ストン。景品は下に落ちた。
「マジかよ、成功するのかよ」
三人の中で春彦が一番驚いていた。
持ち上げて縦にしても、大体縦になりきる前にアームが離れて、景品の位置が戻る。
酷いと手前に来てしまう。
「これ、板の隙間がでかいんじゃね」
金髪が台の中を覗きながら言う。
春彦は台の下、取り口から長方形の箱を取り出す。
ゆる動物時計シリーズ32 パンダ時計。デフォルメされたパンダが、笹とボール型の時計を持っている可愛らしい置時計。
「あ? これ、アラーム機能無いのかよ」
箱の裏に赤文字で記されていた。
「はぁ? 置き時計なのに?」
金髪も赤文字を見る。茉莉子は百円を財布にしまっていた。
「そのシリーズはいつも無いよ。なんでかは知らないけど」
「じゃあいらんわ。ほら」
春彦は茉莉子の胸にそっと箱を押し付ける。
茉莉子は受け取ると、頬を赤らめる。
「…………ありがとう」
うるさいゲームセンターの店内で、その一言は春彦には聞こえなかった。
ゲームセンターの外に出ると
「送ってかなくていいのか?」
金髪の提案に、茉莉子は首を振った。
「私の家はちょっと変だから、あまり見られたく無い」
「そんな言い方すっと、気になるだろ」
春彦が聞くと、茉莉子は少し目線を下げる。聞いてはいけない事だったようだ。
「……家族がね、問題なんだ」
金髪は肘で春彦の肩を軽く突く。晴彦は気まずくなり頭を掻く。
「すまん。立ち入ったな」
「いいよ。ただ――」
茉莉子は目線を上げて、寂しそうな、無理をした笑顔を浮かべる。
「尾けないでね」
「やんねーよ」
春彦は両手を広げる。
よっぽど、複雑で面倒な家族なのだろう。茉莉子は背を向けて歩き出す。
「何かあったら、よかったら相談してくれよ!」
春彦は歩く背に声を掛けた。一瞬止まって、頭が少し動いた。
再び歩き出すその背を、二人は見送った。
「――って、事があったんだ」
ラーメンをすする。
自宅に戻ると、母はおらず、秋人が夕食のラーメンを作っていた。
母は秋人が帰ってくるのと同時に家を出たらしい。向かった先は病院。
身体の弱い母は、月に二回診察を受けに行く。いつも泊りになるため、必然的に家事は春彦か秋人がやることになる。父は寝に帰ってくることが殆どで当てにならないため、母がいない間、家事炊事は秋人が行うことが殆どだった。おかげで主夫が板に着き始めている。
今は秋人の作ったラーメンを食べながら、夕方の茉莉子の話をしていた。
テーブルを挟んで向かいに座る秋人は、黒髪ロングのウィッグを着け、茶色いセーターを着て、ジーンズ地のロングスカートを履いている。女装していた。
髪の毛を片手で押さえながらラーメンを口に運ぶ仕草は女性そのものだった。
「ふーん…………っまぁ、あれだな、よかったじゃんギャルゲー展開」
見慣れた姿とはいえ、やはり異常な光景なのか、と春彦は思う。
秋人の作る料理はどれも誇張抜きで美味い。母に似て、料理が上手いのだ。
女装癖さえなければ、本当に完璧なのに。
「食わねーの? 伸びるぞ。 ……ああ、そうだ。名前聞いといた」
秋人はチャーシューを半分食べる。春彦はラーメンをすすり、次の言葉を待つ。
「っ、名前は雪舞 幸音。髪の色は生まれつき。背が低いのは体質だとさ。メアドとかは明日、自分で聞いてくれよ」
「あ、なに。会わせてくれんの?」
春彦は縦切り半分のゆで玉子を口に入れる。ほんのり味付だ。
「機会は作ってやる。後は兄貴次第だ。まぁ頑張れ」
「ありがとな」
「手伝えることなら何でも協力してやるよ。兄弟なんだ、頼れって」
秋人はウインクする。本物の妹なら萌える所なのだろうが、弟では苦笑いしか出なかった。女装さえなければすごく頼もしいのに、残念だった。
春彦はスープを飲む。さっぱりしていて飲みやすい塩味。
「――ごちそうさま」
「お粗末様。自分で流しに持ってけよ」
春彦は言われたとおりに、お椀を流し台に置いて、冷蔵庫を開ける。
ペットボトルのウーロン茶をコップに注いで飲む。
「スープ飲んだばっかなのに、まだ飲むのか?」
「俺なりのシメだよ」
今日は割りと青春していたなぁ。
春彦は二段ベットの下。横になって、漫画を読みながらそう思った。
漫画の中の主人公は今の自分と似ていた。始業式でヒロインAと出会い、新しいクラスでヒロインBに出会う。違うとするなら、学校帰りにヒロインCに出会っている。
春彦はヒロインC相当の女の子、幸音に出会わなかった。
「……甲斐甲斐しい妹か。いいなぁ」
主人公の妹に萌える春彦だった。
読み進めていく。一ページ一ページ。絵とふきだしの台詞を。
春彦は三分の二を読んだ所で、アンケートはがきを栞代わりに挟み本を閉じる。
「なんでこいつらってこんなに語彙センスというか、引き出しが豊富なんだ?」
ぼそっと呟く。漫画の中の主人公に限らず、ヒロイン、サブキャラ、ちょっと会話に入ってくるモブABC。それらの話の切り出し方は上手い。だからこそ物語が成り立つのだが、現実、漫画のような人間は存在するのだろうか。
「……違うな、俺がそうならなきゃいけないんだ。でないと、これみたいに彼女ゲットなんか出来ないな」
創造主たる作者の意図で物語は進む。けれど、描かれたキャラクター達は間違いなく、漫画の世界の中で生きている。考えて生きているように感じられる。もちろん、そう描かれているのだから当然だ。
だが、生きているなら真似られる。真似できないなら参考に出来る。アクションシーンは無理だが台詞回し、返し方。タイミング、話題。出来そうな物は沢山ある。
春彦は漫画の表紙をジッと見つめた。春彦と同じ高校二年の女子高生が表紙の学園物。奈々枝のようなポニーテール。残念なことにメガネと豊満なバストは無い。
彼女は主人公の幼馴染で家が隣。勉強が出来て、スポーツも出来る。恋心に疎いが、密かに主人公を想う純粋乙女。
そしていつの間にか主人公の周りには沢山の女の子が。徐々に嫉妬心からおかしな行動にでる所で次巻に続く。
春彦は一ページ目から読み直す。主人公の台詞に注目しながら読み進めた。
ガチャと部屋のドアが開いた音で春彦は顔を入口の方に向けた。
「兄貴、明日の事なんだけど」
秋人が紅茶の入ったカップを片手に入って、勉強机の椅子に座る。
この部屋には机が二つある。秋人の部屋もあるのだが、秋人の私物でベットも置けない。なので春彦の部屋には二段ベットがあるのだ。それに秋人は知らない間に宿題も勉強も済ませてしまうため秋人用の机はいらない。
「昼休みでいいよな」
「ああ、いつでもいい。 ……ん? 明日は午前で授業終わりなはずだぞ?」
春彦は漫画を開いたまま腹の上に置く。秋人は紅茶を飲む手を止めた。
「……マジか。じゃあ、放課後。校門前で待ってるからな」
「おう」
会話が終わり、春彦は漫画の続きを読み始める。
しばらくその光景を見ていた秋人が、仕方ないな、といった風に息を吐く。
「変に準備するより、ありのまま話した方がモテると思うぜ?」
春彦は漫画から秋人に視線を移す。秋人はカップを机に置いて、優雅に頬杖を付いて、春彦に微笑みを向けている。女装した弟からの微笑だった。
「やっぱそうか?」
「下手に気取ってると、笑いものにされるって」
「それは嫌だな。けどさ、どう話したらいいか分かんねぇよ。相手は新入生、しかも女子だしさ。男ならもっと軽く絡めるんだけど」
先輩のイメージも最初が肝心。最初に滅多なイメージを抱かれると厄介だ。春彦は今まで後輩という者を意識したことが無い。そもそもイベントでもなければ後輩の、それも女子となんて話す機会は少ない。なまじ帰宅部だった春彦に、機会は両手の指で数えられる程度だった。
その数少ない機会を逃しまくって現在に至っている。明日の機会は絶対に逃せない。せっかく今日がギャルゲーの一日目なら、明日は二日目、その先も続けて彼女を手に入れる。春彦の野望は始まった。
「ま、何事も漫画やアニメの様にはいかないから、覚悟しとけよ」
ニッと歯並びのいい歯を見せて秋人は笑う。
「兄貴、おやすみ」
「おやすみ」
電気を消してまぶたを閉じる。ふと、茉莉子のことが気になり始める。
だがそれは茉莉子の家族が問題だと言っていた。首を突っ込んではいけない、と自制する。けれど気になる。それに初めて会った時の「覚え、無い?」という質問。
茉莉子は春彦の事を知っているようだった。
「まさかな……」
いくら思い出そうとしても思い出せない。昔は髪型が違ったのかもしれない。
思い出そうとする内に、春彦の意識は静かに、底へと沈んでいく。
☆☆☆☆☆☆
「ふがっ」
春彦は間抜けな声を出して目を覚ました。ぼーっ、と二段ベットの天井を見ていた。段々意識がはっきりとしてきて、枕元の目覚まし時計を取る。
まだ起きる時間から二十分も早い。まだ寝れる。春彦が枕元に時計を置いたのと同時に、部屋の入口のドアが開いた。
「あーにきー。起きろー。ちょっと早いけど、手伝ってくれ」
秋人がベットの横に立つ。女装ではなく、男子制服を着ていた。
「あれ、兄貴起きてんの? 珍しいな、そのまま起きろよ。母さんいないから朝飯用意するの大変なんだよ。だからさっさと起きてくれ」
「……ああ、そーだった」
母は昨日、泊りがけで検査入院していた事を思い出す。春彦はゆっくりと上体を起こす。
「さっさと来いよ」
「ああ」
春彦は大きな欠伸をする。秋人はやれやれと息をつきながら出て行く。
秋人が出て行ってから、春彦はベットから出る。四月とは言え、若干肌寒い。さっさと制服に着替えて洗面所に向かう。顔を洗って、居間に入る。
居間の中央、食卓の上はがらんとしている。まだ何も準備されていなかった。
「兄貴、皿だして」
「あいよ」
台所に向かい、朝食を作る秋人の隣で食器棚から皿を出す。秋人はキャベツの葉を毟ってボウルに入れている。トーストが焼けて、春彦は電子レンジから二枚のトーストを皿の上に置く。バターを適当に塗って、食卓に運んでいく。
「何か後一品欲しいな」
食卓に皿を置いた春彦は腕を組む。サラダとトーストだけの朝食。確実に昼まで持たない。
「冷蔵庫の中何も無いんだよ。今日はそれで我慢してくれ」
「弁当は?」
「今日は学食しかないだろ。せっかくだから兄貴のオススメでも教えてくれよ」
トマトを切る秋人を横目に、学食のメニューを思い出そうとする。
素うどん。
かけそば。
みらくるラーメン(教頭謹製)。
どれもこれも麺類ばかりが思い出される。そもそも弁当を持参することが多い為、学食をあまり利用しない。
「オススメなんかねーよ」
「はぁ? おいおい、兄貴の一年間はなんだったんだよ」
「学食だけで人の一年否定すんなよ」
秋人が取り皿二枚とサラダの入ったボウルを食卓に置く。
「……ってか、だから今日は午前で授業終わりだってば」
「あれ、そうだったっけ」
ボケが始まったのかと、春彦は心配になる。若年性アルツハイマーとかだったら秋人の学園生活に多大な影響があるだろう。
「お前も病院行ってくれば?」
「うっせぇな。大丈夫だって」
心底迷惑そうな顔をする秋人。春彦は席についてトーストをかじる。
秋人も席について取り皿にサラダを取る。テレビも点けていないからだろうか、いつもよりも静かだった。
春彦は椅子の背もたれに瀬を預けて、顔を窓の外に向ける。
今日も晴天。一片の雲さえ流れていない。まぶしい朝日を遮る物は何も無かった。
「そうだ、天気予報」
秋人は食卓の上のリモコンを取って、テレビを点ける。ちょうど天気予報が始まったところだった。
今日の天気は晴れのち雨。外を見れば、雨が降る気配など無い。
「雨降ると思うか?」
春彦は外を向いたままトーストの耳をかじる。
「折り畳み、兄貴持ってたっけ?」
「いんや、持って無い」
そうか、と、言ってテレビを消す。
「じゃあ、降ったらやばいな」
にやにやと笑う秋人。彼は折り畳み傘を持ち歩いている故の余裕。
「どうせそんなに降らないだろ」
「甘いな」
「土砂降りだったら運が悪かったってな」
「はははっ、それで風邪引いたらホントにアホじゃんよ」
いいんだよ、と、春彦はトーストを皿に置いて、サラダを取り皿に取る。
キャベツもトマトも、新鮮で瑞々しい。朝日を反射する水滴がとても綺麗に見えた。
通学途中、秋人は攫われてしまった。
部活の勧誘だった。秋人は入学早々人気者になっているようで、テニス部の部長自ら秋人の前に現れ、有無を言わさず連れ去った。
春彦は、去年は俺も攫われたっけなぁ、と、散る桜を見ながらしみじみと思い出す。
学園のイケメンはテニス部に集っている。実際、テニス部を見学に行く女子は多いし、長期休みにもなれば他校の生徒が見に来ることもある。
春彦からすれば、一生関わりたくない部活だった。未だに勧誘された理由が分からない。
「春彦」
背中から声がかかり、振り返ると茉莉子が立っていた。
「おはよう」
「おはよう。あ……弟君とは一緒じゃないんだ」
茉莉子は春彦と並んで歩く。相変わらずの髪型。肩に掛かるもみ上げ。切り落としたような短い後ろ髪。一度見れば嫌でも印象に残る。
まじまじと見ていると、茉莉子は首を傾げる。
「……何?」
「ああ、いや、すまん。 ……秋人なら、テニス部の部長に攫われたよ」
ふーん、と、さして興味も無さそうに言った。
「今年もイケメンテニス劇やるのかな」
「至極どうでもいいよね」
「まぁな。茉莉子はああいう、イケメンとか興味ねーの?」
茉莉子の顔が不機嫌になったのか、歪む。
「ああいうのは何だか、テレビの向こう側みたいで、どうでもいいなって思う」
「そーだよなー、ちょっと次元が違う気がするよな」
「そうだよ。だから春彦も、彼女を選ぶならテレビの画面を選んじゃ駄目だよ。テレビの向こうに世界があっても、春彦も私もいけないんだから」
なんだか余裕を感じるのは僻みだろうか。
「……そういやさ、昨日言ってた彼氏候補って誰のこと言ってんの?」
自分でも意地悪で性格が悪い質問だと春彦は思う。口に出さなきゃよかった、そう後悔する。
しかし、その後悔を他所に、茉莉子は春彦の前に立つ。春彦は足を止め、向かい合う。
「誰のことか、知りたいの?」
怒っているわけでもなく、真顔。純粋にただイエスかノーかを聞かれている。
「…………」
答えられず、春彦は目線を逸らすことしかできない。そんな態度に茉莉子はそれ以上言わず、さっさと歩き去っていった。
意気地が無い。春彦は「はぁ」とため息をついた。
「何やってんだろ。俺か、なんて、考えればありえないことだよなぁ」
軽く頭を振って、今の出来事を頭から払う。目線を歩き去っていった茉莉子に向ける。そこまで離れてはいない。けれど、今は話しかけることが出来なかった。
一時限目。数学。
簡単な復習の小テストと、次回以降の流れを大雑把に解説し、授業は終わった。
「いきなり小テストとはなぁ。全然書けなかったわぁ」
机に上体を投げ出した金髪が喚く。春彦も全然だった。
「まぁ、でも、あくまで小テストだから、試験でちゃんと点取ればいいじゃんさ」
「こいつはそうもいかないだろう」
メガネが金髪の後ろに立つ。くいっ、と中指でメガネを直す素振りには、余裕がにじみ出ている。
「お前は頭いいからなぁ、このガリ勉。ゆーとーせー。って、お前の場合委員長だもんな」
模範的でいいと思うぜぇ、と脱力した喋りで話す。
この学校では、学年毎に試験の成績によるランク付けがあり、成績が良いと文化祭でのクラス毎の予算が増える、学食でスペシャルメニューが注文できる等の特典がある。なおスペシャルメニューは絶不評。おおよそ食べ物とは呼べない物が出る。逆にランクが低い、成績が悪ければ、文化祭の予算削減、長期休み中の補習。もちろん全員参加である。
ランクは四回行われる試験でのクラスの平均点と、委員長の成績だ。委員長の成績は、平均点よりもランクに大きく影響する。委員長の成績が悪いと、例えクラスの平均点が良くても学校内でのランクは下になってしまう可能性がある。最初のランク付けは前期中間考査。委員長の責任は重大だった。
「模範的になるつもりはない。でも正直、勉強しか取り得がないから、いい成績は取る。後はクラス平均さえ低くなければ中の上は狙えるだろうさ」
メガネは一年の時から、放課後は用事があって、あまり居残ることが出来ない。文化祭の準備を手伝う事が出来ない代わりに、良い成績を残してランク上げに貢献してくれた。おかげで去年は他のクラスよりも多く予算が貰え、余裕を持って準備に取り組めた。今年もきっと、そうしてくれる。この事を知る春彦と金髪は、メガネに対し足を向けて寝れない。
「そろそろ次の授業だな、じゃ、また後でな」
メガネは自分の席に戻っていく。
「……ほーんと、ゆーとーせーだよなぁ」
金髪は相変わらず緩い口調で独り言を呟いている。春彦は机から国語の教科書を取り出す。筆箱を取り出して、ふとあることを思い出した。春彦は振り返り、金髪に問う。
「なぁ、シャー芯無い?」
「わりぃ、今日は鉛筆の気分なんだわ」
「どんな気分だよ……しゃーねーな」
鉛筆の気分とやらをブツブツと語る金髪を放って、春彦の居る列の一番前、奈々枝の所にシャープペンシルを持って行く。奈々枝は本を読んでいた。
「奈々枝、悪いんだけどさ」
「何?」
奈々枝は本を閉じて春彦の方を向く。
「シャー芯持って無い?」
ああ、と言って、机の中から筆箱を取り出す。青色の長方形のポーチで、ネコなのかリスなのか分からないマスコットがぶら下がっている。中には、春彦には使いきれない程の沢山のペン。内ポケットから細いクラフト紙で出来た円柱型のケースを取り出す。
「ハイ」
「濃さは?」
「2B」
「さんきゅ」
春彦はケースを受け取って、手早くシャープペンシルに芯を入れて、奈々枝に返した。奈々枝はケースを仕舞って、授業の用意を始めた。春彦が席につくのと同時に先生が教室に入ってくる。退屈な授業が始まった。
☆☆☆☆☆☆
――――誰のことか――
暗い視界の中。声だけが聞こえる。茉莉子の声。
――知りたいの?
無表情な顔がそこにいる気がした。
俺は二の句を継げなかった。聞くなんて、出来なかった。
だって怖いじゃないか。
俺は自分の事だと、愚かにもそう思ったんだぞ。
それで、俺以外の名前を言われたら、きっと辛い。
だから、聞けない。
逃げだって分かってる。聞かなきゃ分からないことも分かっている。
けど、怖い。自分の理想が、願いが、そうであって欲しいって願望が、崩れるのが、堪らなく、怖い。
茉莉子の無表情が、ずっと俺を見つめている。
☆☆☆☆☆☆
ぺしっ、と後頭部の軽い衝撃で、春彦は目を覚ました。
「起きろっ。シャーペンの芯貰っといて居眠りですかっ!」
顔を上げると、豊かな乳と、呆れる奈々枝の顔があった。
「……だぶるえべれすと」
「寝ぼけてるのか起きてるのか。もいっかい、そいっ!」
今度は拳骨だった。奈々枝は力が強い方ではない。大した衝撃も、痛みも無かった。
「効かねーな」
「起きてるでしょ、全く」
身体を起こして、筋を伸ばす。肩を回して凝りを解す。机で寝ると身体が凝って仕方ない。
「次の授業、科学室だからね」
そう言って、奈々枝は春彦の前を後にし、教室から出て行く。
見れば、教室の中は春彦一人だった。金髪すらいない。時計を見れば、次の授業まで時間が無い。
「……あいつ、起こしてくれてもいいじゃねーかよ。まぁ、奈々枝に起こしてもらったし、いいか」
女子に起こしてもらうなんて、素晴らしいイベントだった。春彦は口元がにやける。教科書と筆箱を机から取り出して教室を出る。階段の手前、茉莉子と鉢合わせる。
「春彦」
茉莉子は手ぶらで、これからトイレに行くようにも見えない。
「よ、お前も授業か?」
「ううん。こっちは自習だよ。暇だから屋上に行こうかなって」
朝の出来事なんか無かったような、いたって普通な茉莉子だった。春彦ももう、その事には触れないで置くことにした。
「いいなー。俺もサボりてぇ」
「サボりじゃないから」
苦笑する茉莉子。
きーんこーんかーんこーん、と電子音の予鈴が鳴る。
「やべ、じゃあな」
「うん」
手を振って別れ、春彦は駆け足で階段を下りる。
いたって普通だった茉莉子。昨日会ったばかりなのに、どうしてそう感じるのか。春彦の中に燻る種がまた一つ、増えた。
科学室に集まった意味は無かった。科学の先生が指定し、これから毎回ここに集まること。そう説明されたが、それなら教室でよかったのでは、これだけはクラス中の誰もが思っただろう。なぜなら、各自教科書を読んで自習。これだったからだ。
「くそー、暇だぜぇ」
金髪が教科書を閉じて机に突っ伏す。長方形の机に五つの丸椅子、科学室の中に五つその机があり、春彦達は一番後ろ。実験器具の入っている棚が近くて大変便利。
「教科書読むだけなんてツマンナイねー」
奈々枝も教科書を閉じて頬杖を付く。メガネだけが黙々と教科書を読んでいる。
「何か面白い実験とか、ない?」
奈々枝がメガネに質問する。そうだな、とメガネがページをめくる。
これなんかどうだ、とテルミット反応のページを開く。
「これを応用すれば爆弾を作れる」
「……物騒だねー」
奈々枝は苦笑いを浮かべる。メガネはまた別なページを探す。
「……炎色反応はどうだ。青とか緑とか、色々な色の炎が見れる」
「それはいいね。原理は知ってるし、中学の時やったけど」
「俺も花火作ったなーそーいえば。 ……っつか、いーんちょーもやったじゃん」
ううむ、とメガネが困る。地味に貴重なシーンだった。
春彦は考えていた。今なら、屋上にいける。屋上に行って、茉莉子と話せる。聞くことが出来る。茉莉子の言う、彼氏候補。何故アイツはその話を春彦にした。
春彦は席から立ち上がる。
「ちょっとトイレ行ってくるわ。センセー、トイレ行ってきます!」
先生は、おう、とだけ言った。教室を出て、春彦は真っ直ぐ階段を目指した。行き先は屋上だ。
階段を上る途中、何度か足を止めた。いいのか、それで。怖いんだろ、なら別にいいじゃないか。そんな思いに春彦の足は止められた。そして、屋上へと出る扉。一度深呼吸をしよう。若干埃っぽい空気を吸って、ゆっくりと吐いた。
そんなんじゃ、駄目だ。ギャルゲーみたいな恋をするんだろ、俺。春彦は自分を叱咤する。
重い扉を開くと、開放的な空間が広がった。暖かい風が春彦の横を流れていく。
広い空、眼下の校庭、目線をちょっと上げれば町が見える。そして町から伸びる桃色の道。緑色フェンスが邪魔に思える程に綺麗だった。
そんな景色に圧倒されながらも、春彦は周りを見渡す。茉莉子の姿は見えなかった。
「春彦、こっち」
上からだった。振り返って見上げると、微笑んだ茉莉子が居た。入口の脇にある梯子を昇って、一段高い所に上る。
そこから見える景色は、美しい、そんな言葉では表しきれない、そんな光景が広がっていた。言葉にならない春彦は、口を開けたまま、立ち尽くしていた。
「綺麗だよね。ここが、一番高い場所なんだ」
隣に立つ茉莉子。二人で並んで、春風を感じる。春彦の中にあった恐怖心は薄れていく。ただの、何てこと無い世間話を切り出すように、スッと言葉が出る。
「イエスだ」
「……なんの、イエス?」
茉莉子は頭にクエスチョンを浮かべている。同じ無表情なのに、今度は怖くなかった。
「彼氏候補、教えてくれよ。絶対秘密にするからさ」
へへっ、と笑ってやる。茉莉子も釣られて笑う。はにかんだ笑顔が可愛らしかった。
「……私の彼氏候補。この言い方、何だかずるいね」
「そーだな。ビッチっぽいな」
「ホントはね、好きな人は一人しかいないんだ。まるで何人もいるような言い方して、どんな反応するのかなって、見たかったんだ」
意地悪な奴だな、と自分の事を棚に上げて春彦は笑う。
「聞いてもらいたかったんだ。だから答えるよ。私が好きなのは――」
風が吹いて桜の花びらが舞う。茉莉子は春彦の前に立つ。後ろで手を組んで、顔を赤らめて。小さい唇が動く。
「――春彦」
ドキッ、と、最初の一回を皮切りに、心臓の鼓動は早くなる。
「…………あ…………えっと……」
「今すぐ答えなくていいよ。私はずっと待ってる。ただ、ハッキリしてね?」
それだけ言って、茉莉子は立ち上がり梯子を降りていった。
残された春彦は、ドサッと尻餅をついた。
初めての告白だった。まだ心臓は高鳴っている。そのまま床に倒れる。
嬉しい。けど、どうしてだろう。またすぐに答えを出せなかった。やっぱり、意気地なしだな。春彦は舞う桜の花びらと青空を見ながら息を吐いた。
茉莉子は春彦の答えを聞かずに去っていってしまった。まるで分かっていたように。
すぐに答えが出せないと知っていたように。
春彦は、考えすぎだよな、と上体を起こし、学校で一番高い所からの景色を眺めた。
☆☆☆☆☆☆
結局、あれから茉莉子に会う事は無かった。放課後になり、春彦の気持ちはは未だに浮ついていた。告白されたことが、こんなにも心を浮つかせるなんて。春彦はそんなことを思う。
下駄箱で靴を換える。金髪は家の用事で足早に帰ってしまった。メガネと奈々枝は委員長としての仕事があるらしく、職員室に行った。春彦は一人で帰ることになった。
正門を過ぎたところで、後ろから声がして振り返る。
「兄貴! 待てよおい、約束忘れてんじゃねーよ!」
秋人と蒼い髪の少女、幸音だった。
「約束……あ、わりぃ」
「はぁ、全く……ごめんな、幸音。兄貴が馬鹿で」
体力のある秋人はともかく、幸音はあまり体力が無いようで、息を切らせている。
「はっ……はぁ……はぅ……はぁ、ううん、気に……しないで……」
彼女が息を整えるのを待って、三人は町へと向かう。
道すがらに公園に立ち寄って、ベンチに座って自己紹介を済ませる。メールアドレスと電話番号を教えあった。右から春彦、幸音、秋人と、幸音を挟む形で座っている。間近で見た幸音はやはり高校生に見えない。背も176センチある春彦のちょうど胸の辺りに頭が当たる。髪の毛がふんわりしてることも相まって、とても子供っぽい。彼女が気にしているかもしれないので口には出さなかったが。春彦の視線に気づいた幸音は首をかしげた。
「春彦さん?」
彼女は「先輩」とは呼んでくれなかった。まるで従兄妹のように、親しげに「春彦さん」と呼んでくる。春彦自身も彼女にそう呼んでもらうことは満更でも無い。むしろ顔がにやけそうになるくらい嬉しかった。
「あ、いや、すまん。なんでもない」
純粋な眼差しの前に、思わずたじろいでしまう。幸音は不思議そうに春彦の顔を覗きこむ。
「とりあえず、どうする? これから」
秋人がベンチから立ち上がり、二人の前に立つ。
「とりあえず、駅前まで行かないと何にも無いだろ。でも駅前のどこに行くか」
春彦は腕を組んで考える。秋人や男友達なら、適当に昼飯はラーメンやファストフードでいいだろうが、幸音がいる。彼女の好みはもちろん分からないし、一番の問題は、その逆が分からないことだ。
「幸音は、どっか行きたい店とかある?」
秋人が悩む春彦を見かねて問う。幸音ははにかんで笑って
「お二人にお任せします」
と、返せない返され方をされ、秋人は苦笑いを浮かべる。
「はは…………じゃあ、俺も兄貴に任せる。兄貴、いい店を紹介してくれ」
「えぇ。困ったな……」
幸音を連れるとなると、ラーメン屋ってのはまずい。ファストフード、これがギリギリか。春彦は唸りながら、色々考える。そして結局。
「……はんばーがー」
「兄貴には困ったもんだな。雪音、ジャンクフードは?」
「えっと、大丈夫だと思います」
春彦はその回答に驚く。「大丈夫です」ではなく「だと思います」と彼女は言った。彼女はジャンクフードという物を口にしたことが無いのだろうか。春彦からすれば、そんな奴は二次元にしかいないものだと思っていた。
「食ったことねーの?」
聞くと幸音は、はい、とおずおずと返事をした。
「私、外食ってしたこと無いんです。だから、お店の料理って、食べたこと無いんです」
二次元から来たのか、と本気で思ってしまいそうな発言だった。春彦と秋人は顔を見合せ、目線で会話する。
嘘じゃないよな。
ああ、こいつ、マジだ。
意見が合うと、堪らなくなって二人は噴出す。何なのか理解できていない幸音は交互に二人の顔を見る。
「ふふっ、いや、ごめんな幸音」
秋人の方が先に謝った。春彦は頭の後ろで手を組む。
「幸音みたいな子って実在するんだなーってさ」
「私、ですか?」
「ジャンクフード食ったこと無いなんて言う奴はいねーもんだと思ってたからさ。珍しいなと」
春彦の顔にジトッとした視線。秋人からだった。余計なこと言うな、と目が訴えている。
「あはは……」
幸音は愛想笑いを浮かべている。秋人はため息を吐いた。
「兄貴は思ったことすぐに口に出すから……」
「気にしないでください」
雪音はずっと笑顔を崩さない。ずっと楽しそうに笑っている。
「せっかくですから、お二人のよく行くお店に行ってみたいですね」
人差し指を立てて提案される。秋人と春彦は揃って腕を組む。
「そうすると……」
「……あそこだよな」
二人の考えた場所は同じだった。駅前のラーメン屋、「縁」。塩ラーメンが美味い店だが、一番人気は豚骨だ。それ自体は問題ないのだ。問題は店内の臭い。換気が追いつかず、店内は独特な臭いに包まれている。春彦と秋人は慣れているし、大体駅前に遊びに来た際に、一番最後に来る場所だ。帰ってすぐに風呂なりシャワーなりを浴びる。とにかく臭いが問題で、とても幸音のような女の子を連れて行く場所じゃない。
「……無難なとこでいいんじゃね」
「そうだな」
幸音は頭にクエスチョンを浮かべて、二人を眺めていた。
アーケード通りをちょっと外れた裏通り。でかでかとしたMの字が目印のファストフード店。アーケード内にもっと規模の大きな店舗があり、客は大体そっちに行ってしまう。そのためここは比較的静かで、客も少ない。ファストフード店というよりも喫茶店に雰囲気は近い。
店内には二組のカップルと、休憩に来たのであろうサラリーマンが、喫煙席に座っている。客が少ないから、クルーも暇そうだった。厨房内からポツポツと話し声が聞こえる。春彦達は、窓際の端の席に座る。四人席で、ソファになっている椅子に秋人と幸音が座り、固いクッションの椅子に春彦が座る。空いた席にそれぞれの薄い鞄を置いた。
「何食う?」
秋人が春彦に対して聞いた。幸音は始めから秋人に任せるので、春彦の注文だけが必要だった。
「いつもの」
「五百円で済む様に、だな。OK行ってくる」
春彦は大体金欠だ。アルバイトもしていないのだから、収入は月々のお小遣い。それも大抵遊びに使うので、すぐに使い切ってしまう。追加なんてもちろん無い。
「五百円だと、何が買えるんですか?」
カウンターへ向かう秋人の背中から春彦の顔に視線を戻し、幸音が聞いた。
「そうだな、二百円でチーズバーガー二個、百五十円でポテトM、百五十円でドリンクMって所かな。そこそこ食えるよ」
へぇ、と幸音は楽しそうに聞いている。秋人を待っている間、春彦は幸音を観察していた。彼女は本当にこういう店が初めてらしく、キョロキョロと辺りを見渡している。どこかそわそわしていて落ち着きが無い。そんな光景が微笑ましかった。程なくして秋人が両手にトレーを二つ持って戻ってきた。春彦の前に置かれたトレーには、ハンバーガーが一つとMサイズのポテトとドリンクが載っている。秋人と幸音の間に置かれたトレーにはハンバーガー二個とLサイズのポテト、Mサイズのドリンクが二つあった。秋人は水色の包み紙に入ったハンバーガーを一つ、幸音に渡す。
「はい、これ、幸音の分な。それと、飲み物は白ブドウでよかったかい?」
「あ、はい。ありがとうございます」
幸音はハンバーガーを受け取り、包み紙を開ける。出てきたハンバーガーを見て、目を輝かせている。
「サンドイッチと、似た物を感じますね」
「カロリーは遥か上を行くし、そもそも全然別物だって」
春彦はポテトを二つ摘んで口に運ぶ。今日のポテトは塩が薄かった。幸音は小さな口を開け、ハンバーガーを一口齧った。春彦や秋人、他の客に比べ、とても上品に見えるのは気のせいだろうか。咀嚼を終え、飲み込む。
「本当に別物ですね。油っこいです」
「油っこいのダメなのか」
幸音は、いえ、と言って春彦の方に視線を移す。
「家では基本、薄味なんです。でもこれはこれで、美味しいですよ」
その笑顔は心からだろう。彼女は美味しそうに食べている。秋人もハンバーガーの包みを剥いで食べ始めている。春彦はコーラで喉を潤し、ハンバーガーを取る。
久しぶりに食べるハンバーガーは微妙に知っている味ではなかった。少し味が薄い気がするし、何かが足りない。
「……? なんか足りないような?」
半分食べたところで、違和感の一部に気づく。ピクルスが入っていない。
「お、珍しい。兄貴、ピクルス入ってねぇ」
「え、秋人もか?」
幸音が、何事かと首を傾げる。頬はもごもごと動いている。
「なんてこった。無いと無いで寂しいな」
「全くだなぁ。あ、悪い幸音、ちょっと上のパン外してみてくれないか」
秋人が指示してやると、幸音はハンバーガーの、上のパンを摘んで持ち上げた。するとそこには、あるはずの緑色のピクルスが無かった。
「マジかよ……」
「え、っと……ピクルス入ってるんですか?」
幸音がおずおずと秋人に尋ねると、秋人は腕を組み唸る。
「うーん。入ってるはずなんだけどなぁ……」
春彦はちらっと、レジの向こう、厨房のクルーを見る。小声で談笑している。レジのクルーも随分暇そうだ。そんな彼等は彼等で楽しそうではある。
「まぁ、いいか。パンや肉が入ってなかった訳じゃないしな。ちょっと物足りないけど」
春彦は口をあけてハンバーガーにかぶりつく。やはり、ピクルスは不在だった。
店を後にした三人は、アーケード通りを散策した。店には寄らずにただ歩くだけだ。幸音が提案したことだった。近所のスーパーマーケットまでは行った事があるが、駅前までは来たことが無いそうだ。今までどうしていたのか気になる。
「幸音って、お嬢様なのか?」
春彦が幸音に問うと、幸音は、違いますよ、と手を振って答える。
「ただ、ちょっと過保護かな、とは思ってました。けれど、それは私を心配しての事です。ほら、私の髪の毛。人と違う物があるから、尚更心配に思うんでしょうね」
本人は何でもないように話す。けれど、春彦や秋人には分からない事情があるのだ。それだけは感じ取れる。
「心配、か。じゃあさ、今日は俺達が連れ出したのって、不味かったかな」
春彦は頬を掻く。幸音は首を振った。
「いいえ、大丈夫ですよ。むしろ感謝してます。お二人に私の世界の外を、見せていただいたんですもの。ありがとうございます。春彦さん。秋人さん」
幸音は歩きながら、小さく腰を折って、お辞儀をする。
こういう時、ギャルゲーやハーレム漫画の主人公ならなんて言うだろう。きっと、彼女の狭い世界を広げてあげようとするだろう。春彦は頭の中で言葉をつなげていく。けれど、上手い言葉が出来上がらない。
「どういたしまして」
そう言って、返すしか出来なかった。ふと、秋人の携帯が鳴る。
「お? …………あー、悪い、俺、母さん迎えに行かないと。これから病院行ってくるわ。幸音、兄貴なんかで悪いけど、我慢してくれ」
春彦は、なんだと、と顔を顰める。秋人は裏道に入って、奥の角を曲がっていった。
「お母さん、具合悪いんですか?」
隣で心配そうに春彦の顔を見上げる幸音。
「大丈夫だ。ちょっとした検診だから」
「そうなんですか。春彦さんは行かなくていいんですか?」
少し痛い質問だった。病気の母の迎えに行かない長男。印象はあまり良くないかもしれない。春彦はうーん、と唸る。
「俺と秋人って、昔からさ、いつもいつも秋人が先に動いてさ、その後に俺が割って入ると、大体余計なことしちまう。だから、アイツが動く時は俺は首を突っ込まないようにしてる」
幸音はそれでも……、と表情を曇らす。
「それに、アイツは頑固なんだよ。自分のする事に口を挿まれるのが大嫌いなんだ。必要になったらあっちから連絡寄越す」
「そう、なんですか?」
「ああ。 ……俺も、正直悔しいんだ。弟の、秋人の方に連絡が来るのがさ。アイツの方が出来てるからさぁ」
春彦は頭の後ろで手を組む。内心、出た愚痴に後悔していた。幸音は春彦の前に立つ。
「そんなこと無いですよ。兄弟のどっちが出来てるだとか、そんなの、関係ないはずです」
後ろで手を組んで春彦に微笑む少女。その微笑に、春彦は惹かれていた。
「関係ない、か。そーだよなぁ。必要になったら連絡してくれるんだし」
春彦はうし、と気を持ち直す。
「ゲーセン行くか。なんか取ってやるよ」
ちょうど目に付いたゲームセンターを指差す。幸音が指の先に顔を向ける。
「ゲームセンター、ですか……」
「嫌か? だったら――」
いえ、と幸音は頭を振る。ふわふわと蒼い髪が揺れた。
「行きたいです。あれですよね、ほら、あの子達みたいに、ああいうぬいぐるみ、欲しいです」
幸音はゲームセンターから出てきた二人の男女を指差す。ツインテールの女の子が、白いキノコ型のぬいぐるみを抱えている。=)という顔が描かれている。
「おう、任せとけ」
春彦と幸音はゲームセンターに入っていった。
☆☆☆☆☆☆
「今日はありがとうございました」
夕方、西日は殆ど沈んだ。幸音の家はもう目と鼻の先だ。彼女の鞄に付いた小さいマスコット。茶色いクマが、赤チェックのシャツを着て、ミニシルクハットを被っている。これが今日の戦利品だった。
「その、ごめん。それしか取れなくて」
「いえ、気にしないでください。むしろ、大丈夫なんですか? お金……」
万年金欠の春彦は見栄を張って貴重な千円を崩したのだが、結果、ネコのぬいぐるみ相手に惨敗。準備体操にやって取れたマスコットだけが、唯一の戦利品だった。幸音はお返しします、と申し出てくれたが、春彦は全力で断った。
「大丈夫だって。大丈夫。それこそ、気にすんな」
本音で言えば申し出は受けたかったが、それではかっこ悪い。いや、死活問題なのだが。
「……はい。このクマさん、大事にしますね」
彼女は愛おしそうに、鞄に付いたクマを撫でる。それでは、と言って、彼女は振り返り、帰宅する。春彦はその様子を眺めて、彼女が家の門を潜るのを見届けてから、自分の帰路に着く。
まずは角を右に。少し先に見えるのは公園。住宅街の中心に作られた小さな公園だ。中央に噴水があり、夏の昼間ともなれば子供達で賑わう。噴水以外には特に見るものは無く、遊具も無い。幾つか青いベンチはあるが、今位の時間だとサラリーマンが占拠している。公園を横目に素通りする。人気の無い住宅地を歩いていると、携帯電話が振動し、着信を知らせてくれる。春彦はマナーモードを解除するのを面倒くさがるので、基本的にいつもマナーモードになっている。未だにガラパゴス携帯を愛用していた。ズボンの右ポケットに手を入れ、携帯電話を取り出して開く。画面を確認、着信は秋人からだった。
『もしもし兄貴? 悪い、帰りに牛乳買ってきてくれ』
「めんどい」
『コンビ二で買えるだろーが。頼んだ』
ぶつり、と通話が切れる。春彦はしょうがないなと、携帯電話を閉じてポケットに戻す。いつもであれば右に曲がる所を真っ直ぐ進んで、コンビニへと足を運ぶ。空は暗く、心なしかどんよりと曇っている気がした。
ガラス越しの雑誌コーナーに見知った顔を見つける。春彦はノックしてやると、彼女は気づいて、驚いたように目を丸くする。そして見る見る内に顔が赤くなる。春彦は店内に入る。
「いらっしゃーせー」
やる気の無い店員の声がレジの下から聞こえた。雑誌コーナーにいた彼女、奈々枝に声を掛ける。彼女は私服だった。白いパーカーにジーンズ。
「よう。奇遇だな」
「そ、そーだね。奇遇だねぇ」
妙に挙動不審だった。さっきガラス越しから見たとき、雑誌までは見なかったから奈々枝が何を読んでいたのかは、春彦は知らない。
「何か用?」
愛想笑いを浮かべる奈々枝。
「……なんか、挙動不審だなぁ」
薄ら笑いを浮かべてみる春彦。奈々枝はうぅ、と目線をそらす。雑誌コーナーの中で唯一不自然な位置にあるゲーム雑誌。週刊誌と漫画雑誌の間に妙に雑な刺さり方をしている。これでは、表紙か裏表紙の端が折れてしまっているかもしれない。よほど焦ったに違いない。春彦はその雑誌を抜き取る。表紙に書かれた特徴的な狐的なキャラクター。
「これ読んでたのか」
パラパラと適当にページをめくっていく。気になる記事を眺めながらだったが、五分と掛からず読み終わり、適当な場所に戻す。
「そんなに気になるなら買えばいいじゃん」
春彦が言うと、奈々枝は照れ臭そうに右手で頭の後ろのポニーテールをいじる。
「いやー、それもそーなんだけどさ。お金が無くて」
金欠なのは春彦にも良く分かる。ついでにコンビ二なんて、いつ同級生が来るか分からない。この近所は殆ど天星川の生徒しかいないし、雑誌コーナーは外から丸見えで隠せない。リスクが大きすぎて、エロ本の立ち読みなんかできやしない。
「奈々枝、いくら持ってる?」
「え。ああ、ちょっと待って」
ジーンズの左ポケットからがま口の財布を取り出す。ピンクの桜柄だった。開けて中を確認する奈々枝。すぐに表情は暗くなり。
「ひ、百九十七円」
雑誌は二百九十円。全然足りなかった。
「じゃあ、百円くれ。後は俺が出すから」
「いや、いいよ! 別に欲しくないし!」
「欲しいけど、金が無いんだろ? けど欲しい、だろ? 俺も読みたいんだよ、これ。毎週買ってるしな。先に貸してやるから、百円払え」
「……最後がすごく余計だなぁ。でも、ありがとう」
「買って、渡してから言ってくれ」
奈々枝から雑誌と百円を受け取り、次に奥のパック飲料のコーナーに行き、牛乳を取る。レジに店員の姿は無く、店内を見渡すと、雑誌コーナーにいた。呼ぶと、ダルそうな声と共に歩いてやってくる。接客もダルさ全開だった。ある意味、素晴らしい店員だった。
「雑誌と飲み物、別の袋でお願いします」
そう言うと、店員さんが睨んでくる。ガラも悪い。袋を別にしてもらい、雑誌の入った袋を奈々枝に渡す。
「ありがとう」
素直に受け取る。店員にお金を渡し、牛乳の入った袋を取る。
「ありあとやしたー」
そう聞こえた。どこか不貞腐れたような声だった。奈々枝を先頭に店を出ると、奈々枝が足を止める。
「うわ、降ってるし」
見れば、雨がザアザアと降っている。勢いは強く、とてもこの中を行く気は起きない。
「折り畳み、持っとくべきだったな」
春彦は店内に戻り、ビニール傘の一番大きい65センチのを手に取り、レジに向かう。相変わらず店員の接客は素晴らしく、春彦は心の中で拍手をする。
「わざわざ買わなくても、家族とかに電話した方が早かったんじゃない?」
入口で奈々枝にそんなことを言われたが、春彦はいいんだよ、と受け流す。傘を開く。ほらと、傘に入るように促すと、奈々枝は素直に春彦の隣に並んだ。相々傘。
「家まで送るよ」
「ありがと」
奈々枝は照れているのだろう、ずっと下を向いている。
「そこ曲がる?」
聞けば彼女は顔を上げて、うん、と答えてくれた。けれどそれ以外、彼女は話しかけてこない。少し気まずい雰囲気だった。
「……ゲーム雑誌とか、読むんだ」
ぽつりと、春彦は聞いてみた。奈々枝は少し恥かしそうに、こくりと頷いた。
「意外、だなー」
できる限り明るく、気まずい雰囲気を変えようと喋る。
「やっぱ、そう思う?」
奈々枝が少しだけ、顔を春彦の方に向ける。暗い表情だった。
「女の子で、ってのは珍しいなと。そう思ったんだけど」
やばい、余計なこと言ったか。春彦は焦る。
「今時、オタクな女の子って珍しくないでしょー」
奈々枝は笑う。確かにそうなのだが、女子と交流が少ない春彦には、ネットで見る「腐女子」なんていう者は、テレビの向こう側のアイドルみたいな存在だった。身近にいるものなんだと認識すると、なんだか妙に近く感じる。
「できればさ、今日の事は内緒にしてて欲しいな」
「なんで?」
奈々枝は雑誌が入った袋を胸に抱く。
「副委員長がオタクってさ、あんまり印象良くないじゃん?」
あはは、と笑う。奈々枝が少しこちらに寄ってきた。肩が触れ、離れを繰り返す。
「そーかな。委員長のあのメガネ野朗なんか、放課後何してんのかわかんねぇんだぞ。そっちの方が怪しいし、印象悪いって」
「そうだね」
いつの間にか気まずい雰囲気と、奈々枝の暗い顔は無くなっていた。雨だけは変わらず、ザアザアと降っている。
「そこ、そこのマンションだよ」
奈々枝が指差す。アパートや一軒家が目立つ中、群を抜いて高く見えるマンション。入口で奈々枝と別れる。
「傘代、明日払うよ」
「気にすんな。って、言いたいけど、これ、結構高かったからな。二百円でいいぞ」
うん、と奈々枝は頷く。手を振って彼女は階段を上っていく。彼女を見送って、再び帰路に着く。ここからなら十分も掛からずに帰れるだろう。
食卓に母が座っている光景を見て、強い安堵感を感じた春彦。しかし、また明日からしばらく入院しなければならないと告げられる。それ自体はいつもの事だったが、今回だけは何だか不安だった。
「兄貴は変なとこ心配性だなぁ」
母はクスクスと穏やかに笑う。
「大丈夫。梅雨が明ける頃に帰れるから」
優しい口調だが、春彦の不安は拭えない。去年の今頃は半月程度だった。梅雨が明ける頃、七月だろうか。入院期間は確実に伸びていた。
「そうか」
短いその言葉しか、春彦は出せなかった。もっと聞くことや言う事はあるはずなのに、思いつかない。
「雨、大丈夫だったか?」
秋人がキッチンで夕食を作りながら言う。
「ああ、コンビニで傘買ってきた」
「マジかよ、もったいねー」
言いながら秋人は、笑っていた。
夕食を取り、春彦はぼーっとテレビを見ていた。とあるお笑い芸人がボロクソ言われながらも笑っている。無茶振りも全部やってのける。他の、尻込みして誰かに押し付ける売れっ子アイドルや俳優より、ずっと格好よかった。
「兄貴も、ああいう奴になれよ」
春彦の後ろに秋人が立つ。
「なんでお前に言われなきゃいけねーんだよ」
画面から目を離さず、鼻を鳴らして言った。すると秋人は笑いながらキッチンに戻っていく。
スタッフロールの後、出演者達が一斉に「ではまた、来週~」と言って、会場は拍手に包まれた。画面は切り替わりニュースが始まった。
「こんばんは、ニュースをお伝えします」
落ち着いた初老のニュースキャスターだった。
「まず始めに、連続通り魔事件についてです。今日、午後三時過ぎに――」
通り魔事件。始めはOL。次に大学生。小さい会社の代表取締役。寺の住職。そして今回は老人。無差別な殺し方だった。財布が必ず抜き取られていることから、犯人の目的は金だということが分かる。今まで犯人を目撃した人間はおらず、凶器に指紋も無い。足跡も毎回変わっていた。同一犯であるかどうかさえ疑われている。実は連続通り魔ではなく、最初以外は全て、模倣犯である可能性さえ、警察は示している。組織的な犯行の可能性もあるそうだ。
いずれにしても、春彦には関係の無い話のように思えて仕方ない。住んでいる町なのに、テレビで報道される町と、実際に春彦が暮らす町とは違う世界のように感じる。平和な今日が、明日も、その先もずっと続く。確信にも似た感覚があった。
「――皆さんも、夜は出歩かないように。外出の際は、出来る限り一人では出歩かないようにしたり、なるべく人通りの多い道を選ぶように心がけてください。 ……では次のニュースです」
春彦の隣に秋人が座る。ミルクティーの入ったカップが春彦の前に置かれる。
「怖い話だな。通り魔」
「あんなの会うわけ無いだろ」
甘いなぁ、と秋人は薄笑いを浮かべる。
「そういう思考が一番やばいんだって。自分は、自分だけは、ってな。等しく可能性はあるんだから、警戒くらいしておけよ?」
「そーいう秋人は警戒してんのかよ」
「死にたくないからな」
春彦は秋人の淹れたミルクティーを飲む。まろやかで上品な甘みと言うのは、きっとこういう味を言うのだろう、と春彦は思った。美味い。
☆☆☆☆☆☆
夢を見ている。
ここは、学校の屋上。ああそう、茉莉子が言っていた、「一番高い場所」だ。
眼下の町。静かに吹く風。舞う花びら。
綺麗だ。そう思う。
けど、そうじゃない。そんな夢ではない気がする。
何だ、この夢は何を見せたいんだ。
見せたいのか?
夢とは脳の記憶整理。俺はテレビ番組を録画したビデオやDVDを、捨てる前にもう一度観る事と同じだと考えていた。
じゃあ、これは? その考えで行くと、俺は。
ここを捨てようとしている?
☆☆☆☆☆☆
春彦は目を覚ます。枕元の時計を取って、時間を見る。
「……五時」
もう一寝入りしようと、時計を戻して寝返りを打つ。ふと夢の内容を思い出す。一番高い場所。学校の屋上、入口のすぐそばの梯子。あそこから見た景色は素晴らしかった。
また見たい。
かと言って、今から学校に行くのか。春彦は目を閉じ、目の前の選択肢に向き合う。
「……………………すぅ」
眠りにつくのはあっという間だった。その速さたるや、未来のロボットを友達に持つ小学生の如し。
次に目を覚ました時には、事後だった。起きて顔を洗いに洗面所に行くと、春彦の顔には達磨のような模様が描かれていた。
「……う、うおぉぉぉっぉぉっぉぉぉ? おお!?」
鏡の前で驚きのあまり発狂する。玄関先に置かれた達磨の顔そっくりそのまま高クオリティ。ご丁寧に目の周りや瞼にまで着色されており、片目を瞑ると、目の周りの白、瞼の黒で完全に達磨だ。髪の毛を赤くされていたらと思うと、ゾッとする。幸い、水で目一杯洗ったら綺麗に落ちた。全力を出して洗ったため少し息が荒くなる。
荒い息のまま居間に駆け込む。
「秋人ぉぉ! ……母さん! 秋人は!?」
食卓に秋人の姿は無く、キッチンにもいない。母は食卓に着いて、食卓に肘を着いて紅茶の入ったカップを両手で持っていた。相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
「先に学校に行くって」
食卓に用意された春彦の分の朝食。今日は和食。焼き魚に味噌汁、白米に納豆。
「何か言ってた?」
母は紅茶を一口飲む。ほぅ、と一息ついてから言う。
「兄貴、ごめん。だって」
「ぜってー謝る気ねぇな、あいつ」
食卓に着いて、胸の前で両手を合わせ、いただきます。焼き魚を口にする。少し冷めていたものの、薄い塩味が美味い。
「美味い。母さんが作ったの?」
うん、と頷く母。心底嬉しそうに、春彦の食事風景を眺めている。
「……っ。そうだ、今日はこれから病院?」
「そう。春彦を見送ってすぐに行くの」
味噌汁をすする。秋人と母の料理の腕はどっこいだが、唯一母に敵わない料理が、味噌汁だった。どちらも美味しく、飲みやすいという点は変わらないが、味噌の濃さと、後はきっと、出汁の差なんだろう、と春彦は思っている。以前に秋人は、母から出汁だけは秘密と言われたらしい。
「なぁ、母さん」
「なに?」
「何か隠してない?」
母の表情を窺う。春彦は母に似て顔に出やすい。隠し事をしているなら、母もきっと顔に出る。そう思って窺っていたが、表情は変わらず穏やかに微笑んでいた。
「全く。心配性だね。ありがとう大丈夫。昨日も言ったけど、梅雨明けには帰ってこれるから」
そうか。春彦はそれ以上言わず、納得する。時計を見れば、まだ時間には余裕があった。
桜はまだ当分咲いているだろう。何となくそう確信めいたものが春彦の中にはあった。学校に向かう道、生徒の数は少ない。緩く、温い風を頬に感じながら歩く。
信号で立ち止まっていると、背中を叩かれる。
「おはよう! 春彦君!」
奈々枝だった。手には鞄と、雑誌の入ったビニール袋があった。奈々枝はそのビニールを春彦に差し出す。
「はいこれ、昨日の雑誌と、ちょっと待ってね」
春彦が雑誌を受け取ると、今度は鞄から財布を取り出して、硬貨を二枚取り出す。
「はい、傘代」
「おう、すまん」
いいって、と言って奈々枝は財布をしまう。春彦は受け取った二百円を無造作にポケットにしまう。
「なんか面白い記事あった?」
袋から雑誌を取り出し、中身を読み始める。
「危ないよ。 ……ストギアの新作が出るって」
ストリートギアⅤ。人気格闘ゲームの新作だ。春彦はへぇ、と目次からそのゲームのタイトルを探す。ページを確認して記事を開く。
「ふんふん。新キャラねぇ。何このロリっ娘」
「媚びてるよね、それ。もう一人は巨乳格闘家で主人公と深い因縁がある。この設定、もう三人目だよね。ラスボス以上に因縁だらけだよ」
奈々枝は呆れながらも、楽しそうに喋る。
「既存キャラの技追加。それから、簡易キャンセル操作追加。 ……しかもこれ、今のよりローコストじゃん」
「酷いよね、使いこなした上級者が余計強くなっちゃうよ。まぁ、私は家庭版出るまで買わないけど。そういえば――」
奈々枝は止まらない。持ちキャラや、ストーリーについて、熱く語ってくれる。
「……奈々枝」
「――ん? ……ぁ。ああ、ごめん。もしかして興味無かった?」
我に返った奈々枝は、しきりに周りを気にしている。心なしか顔が赤い。春彦は思わず噴出す。
「ははっ。誰も聞いてねーよ」
「そ、そう。良かった……」
ほんの一瞬。彼女が俯いた瞬間。彼女の顎から汗が滴った。ふう、と息をついて上げた顔は少し顔色が悪かった。
「……大丈夫か?」
「うん。 ……うん。大丈夫。だと思う」
少し足元がふらついてる。春彦は彼女から目線を空に移す。何か話題を変えよう。頭を使う。
「えっと……ストギア。家にもあるぞ」
「そうなんだ。春彦君も、一人で?」
先程の元気は無いようだが、会話には乗って来た。横目で顔色を窺うと、顔色は戻っていた。
「いや、もっぱら秋人と対戦かな。俺は鬼頭使ってる」
とことん攻めのキャラクター「鬼頭」。固有技の隙がでかく、コマンド入力も難しい代わりに、決まればその威力は、勝負がほぼ決まる程。弱と中の出が早いので、使い慣れるまでは固有技は封印して戦うのが安定の上級者向けのキャラクターだが、使いこなしたプレイヤーが無双し過ぎた為、首都圏のゲームセンターでは使用禁止になった。
「その、秋人君は?」
「天狐。トリッキーなキャラはアイツらしいよ」
手数で攻める「天狐」。全キャラ中、唯一無限コンボが可能だったキャラ。修正された後は使う人が滅多にいない弱キャラになってしまった。原因は、低すぎる攻撃力。ゲージの五分の四を使うくせに威力が低すぎる固有技全般。微妙に当たり判定がでかい。
「あのキャラ、修正されて弱体化したのに、実は体力三分の二削りきるコンボがあるんだよ。秋人オリジナルのコンボなんだけどさ、食らったが最後、後は時間ギリギリまで逃げるんだ。ちなみに、家庭版ではいまだに無限コンボ出来るんだぜ」
「すごく卑怯だ! えげつねー……」
奈々枝が目を丸くして驚いた。
「でもそういうチートコンボ抜きで、ガチで戦っても強いんだよアイツ」
春彦の勝率は一割に満たない程度。
「二人とも、主役キャラとか使わないの? どっちもサブキャラじゃん?」
奈々枝が首を傾げる。
「いや、だってストーリーモードで嫌って言うほど使ったし」
「あー、確かにね。長い上に、終始キャラ固定だしね」
学校の正門が見えてくる。すると、奈々枝が小声で言う。
「私がゲーム好きなの、内緒だよ」
「分かってるよ」
そんなこと、と鼻で笑う春彦だった。だが、女の子との秘密の共有。意識すると、なんだかこそばゆくなる。
四時限目。国語。
睡魔は容赦が無い。春彦は水飲み鳥よろしく頭をカクンカクンと揺らす。
「……ぐっ…………すぅ」
すぐ後ろで寝息を立てる馬鹿。そして春の気温は、睡魔をより強力な物にする。
「…………っ。 ……ああ、いかん。ノート」
ノートの真ん中、ページとページの間に涎が落ちる。ヤバイと思い春彦はポケットからティッシュを取り出し拭いた。
ノートを写し、先生の話しに耳を傾ける。しかし五分と持たずに再び睡魔に襲われる。
がた、と椅子を引く音。
「先生、保健室に行ってきます」
奈々枝だった。ふらふらと、入口に向かって歩いている。入口に着いた所で一瞬、僅かに振り返った。
「誰か、付いていってあげなさい」
先生は言うが、誰も立たない。先生が行く事を望むかのように。春彦もまた、その一人だった。結局先生がついて行って、少しの間自習になった。まぁ、後五分もすれば授業は終わるのだが。
お弁当を忘れたと気づいたのは昼休みになってからだった。仕方なく学食に向かうと、秋人と幸音が居た。
「おう、秋人。なんか奢れ」
「なんでだよ。朝の事なら謝っただろ」
「あれが謝った内に入るか!」
春彦は秋人の胸倉を掴む。
「何だよ、この手は。痛いぞ兄貴」
「やかましいわ、明日覚悟しとけよ!」
幸音は困惑している。
「こ、ここで喧嘩すると不味いですよ!」
二人の間に立った。春彦は秋人の胸倉から手を離す。
「全く。幸音、聞いてくれ。こいつはな、寝てる俺の顔に達磨の落書きしやがったんだよ。無駄にクオリティ高くな」
「大変だったんだから消すなよ。わざわざ早起きして描いた力作だったんだぜ? もったいない」
「何がもったいない、だ! そんなことに本気だしてんじゃねぇよ!」
「バッカ、何言ってんだ兄貴。くだらない事にこそマジになる。それが俺達だろ?」
「俺はあんなことしねぇよ!」
幸音はオロオロと二人の喧嘩を前に、困惑している。春彦が先に息を漏らす。
「はぁ……くだらねぇ。余計に腹減ったじゃねーか」
秋人の脇を通って、券売機に向かう。本日のオススメは「パエリア」。
「兄貴、オススメは?」
「パエリアだってよ」
「そっちじゃねーって。兄貴のオススメだよ」
春彦の隣で二人が、その後ろに列が出来ている。早く決めなければ、彼等から罵声が飛んでくるだろう。おいまだかよー。
「……天麩羅うどん。大盛り、厚揚げ付き、と」
天麩羅うどんのボタンを押し、続いて盛りを選択。ついでに追加メニューの厚揚げを選択して、五百円硬貨を投入口に入れる。おつりは五十円。券を取って、厨房のオジサンに渡す。
「幸音、どうする?」
「私はお蕎麦にします」
分かった、と秋人は自分のと幸音の分とを選択する。千円札を入れて、おつりの硬貨を財布にしまっている。幸音からも硬貨を受け取った。二人は春彦と同じく、オジサンに渡す。
「なんだか付き合ってるみたいだなぁ」
春彦は笑いながら言った。幸音も秋人も、意味がわからん、といった顔をしている。
「そう見える」
「そんなつもりはないんだけどな」
秋人は苦笑いを浮かべる。
「そうですね。でも秋人さんと付き合うのは考えちゃうかも」
「なんでサ」
秋人が驚いて、声がひっくり返る。
「秋人さんは人の為に頑張れる人だと思います。そういう人って、カッコいいと思いますよ」
知り合ったばかりとは思えない言い方だった。
「他人の為に頑張る……」
春彦は独り言として呟く。
「俺はそんなつもりねーし。幸音が勝手に思い込んでるだけだっての」
適当な席を選んで座る。春彦の前に秋人と幸音が並んで座る。益々恋仲に見えた。
秋人は蕎麦をすする。
「……何これ、ブヨブヨじゃねーか……」
秋人は顔を顰める。それもそのはず、蕎麦の麺はブヨブヨ。食感は最悪だ。汁は辛うじて美味い。それだけが救いだった。
「我慢しろ。食えるだけありがたいだろ」
「ばっか、同じ値段で俺が美味いもん作れるわ」
秋人はブツクサ文句を言いながらも食べ進めていく。
「秋人さんは、家ではお料理するんですか?」
「今度弁当作ってきてやれよ。秋人の飯は美味い。誇張抜きで金取れるぞ」
「母さんには勝てねぇよ。だから金は取れねぇ」
「お金取る気なんですか?」
幸音は上品に笑う。
「……ホント、幸音って上品だよな。昨日も商店街の方行った事無いとか言ってたし、マジでお嬢様だったりすんの?」
春彦は海老の天ぷらを食べる。汁を吸ったからだろう、衣がブヨブヨだった。
幸音の顔に一瞬陰が差した気がした。きっと蕎麦が不味いからだろう、と春彦は思った。
「…………ええ、まぁ。あまり外出とか、許してもらえませんでした」
「昨日、家で何か言われなかったか? 遠慮なく兄貴のせいにしていいんだぞ?」
いえ、と言って幸音は蕎麦をすする。春彦は秋人を睨む。
漫画やゲームではそんなお嬢様キャラはごまんといる。主人公達は、彼女の世間知らずぶりに驚き、振り回される。そしてそれを見る読者やプレイヤーは笑ったり引いたり。
実際に前にすると、なんと言ったものか。春彦はうどんをすすりながら考える。
「義兄は、頼れる友達と一緒に色々な事を知りなさい、と言ってくれました」
「家の方針が変わったのか」
「ええ」
どういう家庭なのだろうか。春彦には想像もつかない。
「あんま人ん家の事情に首突っ込むなよ」
秋人は露骨に不味そうな顔で蕎麦をすする。春彦はそれ以上、聞かなかった。
食堂が閉められ、秋人と幸音は教室に戻っていった。春彦は下駄箱に設置されている自販機に来ていた。何を飲もうか考えていると、不意に声を掛けられる。
「春彦君?」
「あ? 奈々枝か。もう大丈夫なのか?」
奈々枝は財布から硬貨を取り出し、投入する。迷わずにミルクティーを選んだ。春彦は屈んで、取り出し口からミルクティーのペットボトルを取り出す。それを奈々枝に渡す。
「ありがとう。 ……体はもう大丈夫だよ」
「そうか。何、貧血?」
「そんなとこ」
顔色がいいとは言えないが、本人が大丈夫だと言う手前、春彦は何も言えなかった。
「春彦は何飲むの?」
「ああ、なんにすっかな、って」
コーヒーかミルクティーかお茶か、それが問題だった。
「どれでもよくない?」
「そう言うな。俺にとっては大問題なんだから」
腕を組んで考える春彦の横で、両手でペットボトルを弄っている奈々枝。春彦はお茶を選んだ。
「結局、お茶なんだ」
「どれもお茶だろ」
「そういうものかなぁ? コーヒーは違うでしょ」
「あれもお茶だ」
「無茶苦茶だなぁ」
はにかんで笑う奈々枝の顔を見て、少しだけ春彦は見惚れた。しかしすぐ、その顔から笑顔が消えた。何か言いたげに視線を泳がせて、口を小さく開けたり閉じたりしている。
「奈々枝?」
「……ぁ……」
「……戻ろうぜ」
春彦が奈々枝の肩を優しく叩くと、奈々枝は頷いた。その表情は教室に帰るまでずっと、曇ったままだった。
☆☆☆☆☆☆
放課後の春彦は暇だった。メガネは委員長の仕事。金髪は中学の時の友達とカラオケだそうだ。秋人と待ち合わせもしてないので本当に暇だった。
「春彦君」
下駄箱で奈々枝に呼び止められた。
「ああ」
「これから帰り?」
「おう。って、委員の仕事は?」
奈々枝は笑いながら頬を掻き、下駄箱から靴を出す。
「サボるなよ」
「私がいても邪魔になるんだもん」
奈々枝は靴を履き替えて、上靴を下駄箱に入れた。
「だからってサボるか?」
「委員長に心配されちゃったの」
「アイツが心配ねぇ」
メガネが女性を気遣うなんて、春彦には意外だった。
「だから私はゲーセンに行きます」
「おい」
「隣町まで行ってやってきます」
「バカじゃねーの」
こいつは本当にダメだ。春彦はため息しか出なかった。
「いいじゃん」
「お前、ゲーム好きなのバレちゃ困るんじゃなかったのか?」
「隣町まで来る奴いるかな?」
「知らねぇけど」
春彦はもう一度ため息をついて。
「……俺も行くよ」
「え」
奈々枝は目を丸くした。
「俺も行く」
しばらく目を瞬かせる奈々枝。
「隣町なら、丁度いいゲーセン知ってる。俺と秋人しか知らないはずだから、知ってる顔は来ないだろ」
「そうなんだ。じゃあ、教えてよ」
春彦と奈々枝は学校から真っ直ぐ駅へと向かう。
二人が駅に着いて切符を買って、ホームに着くのと同時に電車が来た。二人は電車に乗る。
「タイミングいいね」
「ああ。まぁ、逃しても次来るまでそんなに掛かんねぇじゃん」
「そーだけどさ」
席は空いていたが、たった二駅で座るのは二人とも気が引けた。吊り革につかまって揺られるのも悪くは無い。
電車が発進。少ししてトンネルに入った。短いトンネルを一つ抜ければ次の駅。そこからまた短いトンネルを抜けると目的地だ。
女子と一緒だからか、春彦は落ち着かなかった。
「…………? ……どしたの?」
春彦はハッとする。思わず奈々枝の事を見つめていたようだ。視線に気づいた奈々枝は首を傾げた。
「ああ、や、いや。何でもない」
「何~? あぁ、分かったあれだ、春彦君って女子とこうやって一緒に遊びに行った事とか無いでしょ?」
図星で、春彦はたじろぐ。電車が揺れる。この車内で、二人の事は周りからなんと思われるか。友達か、果ては恋仲と思われているかもしれない。
「そっかそっかぁ。私もだよ」
「あんま男子と遊んだりしないのか」
奈々枝は、身長こそ男子と同じ位だが、スタイルはそこらの女子よりずっと良い。気さくな方だし、結構親しみやすい。現に今、そこそこ視線を集めている。
モテそうなものだが。と春彦は思う。
「まぁね。胸やお尻や足ばっか見てる奴ばーっかじゃん」
春彦は愛想笑いを浮かべる。とても一時はそんな目で見ていたとは言えない。
春彦含め、男子の数が多い天星川だからこそ、余計にそういう、いやらしい視線が多いのかもしれない。彼女が欲しいと思う男子が、学校の中に一体何人居るだろう。そして彼等だって、スタイルが良くて可愛い女の子と付き合いたいに決まっている。
もちろん、春彦だってそうだ。奈々枝は目を細める。
「……春彦君もそーだったね」
「は、ははは……」
愛想笑いも引きつる春彦だった。
「全くもー。春彦君、胸に重りでもつけて、少しは女の子の苦労知った方がいいよ」
返す言葉も無い、と春彦は目線を外に向けた。
トンネルを抜け、一つ目の駅に着いた。次の駅までもう少しだけ掛かる。
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次回、「淡々と過ぎる日々 後編」に続く。