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空の中  作者: 黒部伊織
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果ての湯豆腐

 血をおいしいと思ったことはない。こうして人間から血を啜っているのは私が吸血鬼だからだ。

 さっきまで私と対峙していたこの人間からは最早呻き声すら漏れなくなった。

 やっぱり血をおいしいとは思わない。

 あらかた血を吸い尽くしたのでさっきまで人間だったもの――今でも人間であるのかもしれないが――を床に放り出して私はもと来たところを変える。

 このアパートの埃っぽい空気から早く逃れたいと思った。

 私はドアの外の気配を感じ取って、誰も居ないのを確認してからドアを開けた。古びた鉄扉がぎいいと微かな音を上げた。

 部屋の中には仰向けで顔面蒼白の男が転がっていた。

 罪悪感を感じることは無い、と私は自分に言い聞かせた。

 この男は私の餌になって仕方がないことをしたのだ。私達吸血鬼は組織から指示されてそういう何がしかの罪がある人間を屠ってよいことになっている。

 だからあの男もきっと何かの罪を犯したのだ。死に際に口汚く罵っていた言葉の断片からあまりまともな人間ではなかったようなことは分かったが、私にはあれが何をしたのか本当のところは分からない。

 本人に聞いても良かったけど、そういうのは趣味じゃない。自分の食べ物の一生を聞こうとする人間がいないように。

 私が生きていくためには仕方のないこと――それは本当だろうか?やっぱり血をおいしいとは思えない。鉄っぽくてすこし粘り気があって、喉に引っかかるような味。

 あんなものを食べなくても生きて行けそうな気がする。いや、いずれ死んでしまうのだろうけど、それを受け入れてしまえば食べなくてもいいんじゃないと思える。

 私が人間だった時にも何度かそういうことがあった。食欲が無いので放っておいたらいつまでも食事をしなくてもいい気分になってくる。空腹は感じても何も食べる気がしなくなる。このままでいたら何も食べること無く生きて――そして死ぬんだろうなと思った。

 実際にはそのまま放っておくことはなく、いつだって何かを食べていた。親の目を逃れてせいぜい1日2日絶食した日があったくらいだ。

 そういう時には決まって何を食べても灰色の粘土のような味がした。もさもさして不味くて、味気ない。そういう味。

 吸血鬼になってからもそれは変わらないのかもしれない。血を吸ってもそれと同じような感覚。

 他の吸血鬼が血を吸うところを見たことは何度かあるが、彼らのように嬉々として旨そうに血を吸うという感覚が私にはない。

 それでも、体が満たされていくのは感じる。それは私の中の吸血鬼の因子が生存本能に従っているせいなのだろうか?

 だけども私は血を吸わないで生きていけるような気がする。本能や欲望とは違うけれど理性でもない、何かによって。

 物思いに耽っていると気が付かないうちに携帯電話のバイブレーションが鳴っていた。

「うまくいったか?」

 電話を取ると六道の声がした。六道一道(りくどうかずみち)――今の私の保護者のようなもの。吸血鬼としての先輩で私に色々と教えてくれた。彼がいなければこのように安全に人間を食らうことも出来なかったに違いない。

「まずかった」

「そうか?まあ、無事ならそれでいい。後の始末は組織の連中がするからお前は帰って来い。女の子が出歩くには遅過ぎる時間だから人目につかないようにな」

「分かった」

 時間は零時を回ったところだったけど、夜はまだまだ長い。私はアパートの外へ出て、空を見上げた。

 雪が音もなく降っている。街の光で白く濁った空の闇からどこからともなく真っ白い雪の粒が落ちてくる。

 雪の正体くらい知っているのに、何故かその光景は私を不安にさせた。

 私はしばらく不安に苛まれてぼんやりとした後、家路へと急いだ。




 アパートの301号室。「六道一道」と書かれた表札がある。そこが今の私の家。

 それにしてもふざけた名前だと思う。道が二つ入っていて六と一なんだから親はなんと思って名付けたのだろうか?もっとも偽名なのかも知れないけれど。

 だけどへんてこなことに関しては私の名前も負けてはいない。如月五月(きさらぎさつき)が私の名前だ。苗字が如月で名が五月だけど、5月生まれじゃないし2月生まれでもない。

 どうしてこんな奇妙な名前になったのかはよく分からない。何度か親に聞いたけれど父親の好きな季節が5月だったかららしいということしか分からなかった。

 もっと深い意味があるのかもしれないけれど名前なんて標識に過ぎないのだからなんだっていい。

 五月というのは考えてみれば普通の名前だ。ただ組み合わせが悪かった。

 組み合わせが悪いだけなら良かったけど、学校という場所ではそうはいかない。ただそれだけで人に好奇心を持たれたりからかわれるのには辟易していた。

 今は吸血鬼になって人目に触れず、ましてや学校になんて行かずに過ごしているのだから気にすることは何もないので幸いだ。

 私が扉の鍵を開けて部屋の中へ入ると居間で六道がテーブルの上にカセットコンロを引っ張り出して来て鍋を用意しているところだった。

 六道の見た目は30歳くらいだろうか。私にとっては20歳くらいから老人になる前までの人間は全部おっさんにカテゴライズされているのでよく分からない。

 六道は飄々としてとらえどころのない奴だ。ただ、酒が好きらしくいつも飲んでいる。

 それでも私がここにいるのは彼が口煩く何かを言うことはないし、何処か悪い人間(というより吸血鬼だが)ではないと感じているからだ。

「帰ったか、どうだった」

「別に。おっさんは何やってるの?」

「これか?湯豆腐作ろうと思ってな。もうすぐ出来るからちょっと待ってな」

「分かった」

 そう返事をして私は自分の部屋に行って上着を脱いだ。この家は居間と私の部屋とおっさんの部屋の三部屋がある。三部屋といってもさほど広くはない上におっさんの物が多い。

 一番酷いのはおっさんの部屋でこれは本やコンピュータ関係の機材が山積みになっている。その上酒の空き缶や空き瓶が散乱、というよりは堆積していて人が一人分入るスペースがようやくある程度だ。

 次に酷いのが居間だ。よく分からない雑貨や機材が山とある。中には結構値が張るものが混じっているようだけど、それらを戸棚にデタラメに突っ込んだ上に、収納場所の無いものは床に積んである。

 かつては居間にも六道の飲んだ酒の空き缶空き瓶が堆積していたけれど私が全部粛清した。

 私の部屋は一番綺麗で物がない。私が此処に来た時におっさんの持ち物を全部おっさんの部屋に押し込んだせいもあるけれど、私自身があまり物を持たないせいでもある。

 必要最低限の生活用品が置いてあるだけであとはベッドと机代わりのテーブルが一つあるだけ。

「そろそろ出来るぞ」とおっさんの声がしたので居間へ行く。

 行ってみるとカセットコンロの上に立派な土鍋が鎮座しており、その中には昆布と思しき物体が鍋の底から沸き上がってくる水泡に持ち上げられて揺れていた。

 私がテーブルの前に座ると六道はすっとカセットコンロの火を消えそうなくらいに小さくした。

「おっさんって料理出来るんだ?」

 そういえばここに来てから六道が酒を飲んでいる姿を見たことはあっても料理をしている姿を見たことはない。

「やろうと思えば出来る」

 六道はちらりとこちらを見ると静かになった鍋へ厚切りに切った豆腐をぼちゃんと入れた。

「ふーん、でも湯豆腐って料理って言うほどのものじゃないけどさ……でもさ、吸血鬼って血だけ吸ってれば生きていけるんでしょ?」

「そうだ」

「じゃあ、これって無駄なんじゃないの?」

「無駄と思うかどうかはそれぞれさ」

 六道はどうとでも取れる答えを言って一升瓶からぐい呑みに酒を注いだ。

「おっさんもそんなに酒を飲まなくてもいいんじゃない?」

「そうだな、飲まなくても生きていける。お前はこの湯豆腐を食べるか食べないのか?」

「折角だから食べるけど――そろそろ煮えた?」

「もう少しだろう。豆腐がぐらりと揺れるくらいがちょうどいい」

 そこで私は質問を止めた。六道が再び酒を注いでいる音とガスコンロのシューッという音が微かに聞こえた。

 少しだけ間があって、鍋の中で湯豆腐が何か湧き上がるようにぐらりと揺れた。

 私はそれを杓子で掬い上げてタレの入った小皿に運び、一口で食べるには大き過ぎるので箸で4つに分けた。

 豆腐は口の中に入れて噛むとすぐにぼろぼろと崩れた。

 豆腐と、多分鰹節の出汁が入った醤油ダレとが混ざった味が口に広がった。

 六道は私が食べ始めたのを見て自分も食べ始めた。

 私はまた鍋から豆腐を掬った。今度は湯で加減を気にする必要はない。

 そうやって二人とも無言のまま豆腐を掬っては食べていた。

 そうしているうちに豆腐は最後の一切れになった。私はそれを取ろうかと思ったけど逡巡した。

「あのさ、なんかこういう時って『うまいか?』とか聞かないの?おっさんぽく」

「そうかもしれないな」

「そうかもしれないって他人ごとみたいに言うんだね」

「豆腐、もう一丁入れるか?」

「あー……」

 私はちょっと言葉に詰まった。そういえばここのところ人間の血以外食べてなかった。それ以外の何かを食べる必要はなかったし、その機会もなかった。

「食べる」

「そうか」

 六道はそう言うと最後の一切れを躊躇なく自分の皿に取って、鍋に豆腐を入れた。

 私はまだ湯豆腐を食べたいと思っている、と自覚した。変な話だけど。

 それから私たちはほとんど言葉を交わさないままに湯豆腐を食べ続けた。

「豆腐ってさ、豆腐の味するよね」

「豆腐だからな」

「吸血鬼って不老不死なの?」

「そうだなあ。伝説の中じゃそうなっていることもあるけど実際は不老不死じゃない。人間に比べれば気が遠くなる時間を生きられるけどな。おとぎ話のように途中で殺されたりすることもあるし」

「そうなんだ。じゃあ私はこれからどうしたらいいの?」

「さあな――俺には分からない。お前にも分からないだろうが」

「そりゃそうだけどさ。例えばでいいから何かないの?」

「吸血鬼にもいろいろいる。面白おかしく生きているのもいれば塞ぎ込んでいる奴もいる。じっと時が過ぎるのを待っているのもいれば何か目的を持って行動している奴もいる。――けどな、吸血鬼にあるのは時間だ。気が遠くなるほどの永い時間。そのうち何かが見つかるかもしれない」

「そうなんだ。人間とあまり変わらないんだね」

「ああ――だが、何かの意味や目的、好奇心を失うほどに十分な時間もある」

 私は少し怖くなって六道の顔を見た。表情は変わらず、何を思っているのかよく分からなかった。

 ただ、その目は何処か遠くを見ている気がした。それは場所なのだろうか?それとも時間なのだろうか?

「吸血鬼は命の果てにいる」




 私はベッドの中で六道の言葉を思い返していた。

 命の果て――それは一体何なのだろうか?

 閉じた瞼の闇の中でさっき食べた湯豆腐の白い幻がぼんやりと浮き上がって見えた。

「また、食べたいな」

 ぽつりと呟く。

 眠りに落ちて次第に意識が遠のいていく中で、湯豆腐はまだそこにあった。まるで命の果てのうすあかりのように。

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