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起こり

「僕の名前はリヒトっていうんだ、よろしく。高校一年生で陸上部短距離所属。先週、学校のリレーで盛大に転んで足の骨を折っちゃってさ。この病院に入院したんだ。……君の名前、教えてくれるかな?」


ギプスに包まれた足をベッドから投げ出し、松葉杖を傍らに置いたリヒトは、窓の外を寂しそうに見つめる少年に向かって、努めて明るく話しかけた。その少年は、手足が一本ずつなく、片目には痛々しい眼帯が巻かれていた。


「……」


「あ、あんまり教えたくなかったら、無理に言わなくてもいいよ」


「……カナタ。カナタっていうんだ」


「カナタくんか! いい名前だね。なぁ、何かテレビで観てる面白い番組とか、アニメとかスポーツってある?」


「あんまり……」カナタは自嘲気味に呟いた。「自分ができもしないのに、スポーツなんて観たってどうしようもない気がするし。そそられるアニメもない。バラエティ番組だって、みんな大して面白いこと言っていないのに、テレビの向こうも、周りの人間もみんな笑ってる。……なんか僕、いつの間にか、笑うことができなくなっちゃったんだよね」


「そっか……。じゃあ、何したら笑えるようになるかな。いろいろ、僕と遊んでみない?」


リヒトは談話室から借りてきたボードゲームを広げた。

カナタは少し驚いたように眼帯のない方の目を見開いたあと、「いいよ。みんなあんまり、僕と遊んでくれないから」と言って微笑もうとしたが、やはり上手く笑えなかった。


二人は夜になるまで、時間を忘れてゲームに没頭した。


「あはは! たくさん遊んだね! どう? 少しは楽しかったんじゃない?」


「まぁね。負けた時は悔しいし、勝ったときは嬉しい。……でも、やっぱり、心の底から笑うことができないんだ」


悲しそうに俯いたカナタは、ぽつり、ぽつりと自分の過去を語り出した。


「僕はね、四歳の頃くらいまで、よくお父さんとお母さんがお見舞いに来てくれてたんだ。でも、いつからか全く来てくれなくなって……。看護師さんたちの話を盗み聞きしたんだけど、僕の実家は大富豪らしい。大方、片手片足片目を失った不完全な自分の子供の世話を、面倒がって捨てたんだろうね」


「そんなこと……!」


「でもね、お父さんは最後に言ってたんだ。『何か困ったことがあったら、この住所の場所へおいで。お前のために、夢を叶える道具を作っているから。きっといつか、全部治してやる』って。……でも、実際に行って突き返されたりしたらどうしようって思ったら怖くて、今まで行けなかった。ねぇ、リヒトくん」


カナタは小さなメモ用紙をリヒトに握らせた。


「ここへ行ってみてくれないかな。僕が両親から、本当に愛されていたのかどうか……それが確認できたら、僕、今度こそ心の底から笑える気がするんだ」


「わかった。任せてよ。君はきっと、今でも両親に愛されているはずだよ。すぐに行ってくる!」


リヒトはカナタに力強く頷いた。

だが、今のリヒトは足を骨折している身だ。夜中に松葉杖を突いて自力で遠出するのはあまりに無理がある。そこでリヒトは、病院の備品の車椅子を拝借し、深夜の看護師の目を盗んで、執念で病院を抜け出した。上半身の力と、折れていない方の足で車椅子の車輪を必死に漕ぎ、夜の街へと繰り出したのだ。


メモに書かれた住所へ向かうと、そこは気味が悪いほど静まり返った、古い廃ビルが立ち並ぶ見知らぬ場所だった。


「ここか……」


リヒトは車椅子を入り口に止め、松葉杖に掴まりながら、不気味な廃ビルの一つへと足を踏み入れた。

散乱するボロボロの書類、さびついた金庫。本当にこんな場所に何かあるのだろうかと思いつつ、リヒトが奥へ進むと、天井が崩落して満月の光がスポットライトのように降り注ぐ場所に、それは静かに佇んでいた。


「何これ?……ペンダント?」


拾い上げて歪んだ金属の蓋を開けると、そこにはまだ赤ちゃんの頃のカナタと、彼を愛おしそうに抱きしめる両親の幸福な写真が収められていた。やっぱり両親はカナタを愛していたんだ。リヒトはそう確信し、急いでペンダントを病院へと持ち帰った。


「カナタくん、これ見て! ペンダントだよ! 君とお父さんお母さんが、一緒に写っている写真が入ってる!」


病室に戻り、リヒトがそれを手渡した瞬間――カナタの顔が、見たこともない邪悪な歪み方をした。


「ハハッ……ありがとう……あはははは!」


カナタが狂ったように笑った瞬間、病室全体を巻き込む凄まじい爆発が起きた。


「うわああああっ!?」


衝撃波で壁まで吹き飛ばされ、がれきに埋もれたリヒトは、激痛に耐えながら執念でコンクリートを退けた。煙が立ち込める中、窓のあった壁は完全に消失し、夜空の満月が露出している。


そこには、信じられない光景が広がっていた。


宙に浮かぶ、不吉な三日月型の結晶。そこに、カナタが腰掛けていた。

カナタの失われていたはずの手足、そして潰れていた片目には、「混沌とした真っ黒な脈動する物体」が補うように形成され、禍々しい肉体を形作っていた。


「カナタくん……何をしたんだ……!?」


「アハハ! 僕はこの不自由な肉体を与えたこの世界を、ずっとぶっ壊してみたいと思っていたんだ! 今、最高に楽しいなぁっ!!」


「その欲望のために、病院を壊して、他の患者さんたちを巻き添えにしたのか!?」


「僕以外の命なんて知ったこっちゃない! 僕が楽しく笑えれば、それでいいんだよ!」


親身になって一晩中遊んだ友の、あまりにも無慈悲な豹変。リヒトの胸の奥から、煮えたぎるような激しい怒りと、それを拒絶する強烈な意志が爆発した。


(ふざけるな……! そんな身勝手な理由で、誰かの日常を奪うな――!!)


その瞬間、リヒトの全身から、カナタの黒い闇とは真逆の、眩い「白一色の光」が激しく噴き出した。骨折していたはずの足の激痛が嘘のように消え去り、濁りのないエネルギーが全身の細胞を駆け巡る。


「そんなこと……絶対に、俺が許さない!!」


「アハハハ! 面白い、そう言うなら止めてみなよ、リヒトくん!」


空中につるされた三日月に座るカナタが、黒い塊となった両手を大きく広げた。

その瞬間、ドゴォオオオンッ!! と、無数の「巨大な物体」が、この空間に一瞬で強制的に作り出された。煙が晴れたとき、崩壊した病院の敷地は、満月の光に照らされた不気味な黒い「空中遊園地」へと変貌していた。


「さぁ、次のアトラクションだよ!」


カナタがパチンと指を鳴らすと、リヒトの目の前に巨大な『メリーゴーランド』が突如として物質化し、狂ったような超高速で回転を始めた。ガガガガガッ! と火花を散らし、支柱から引きちぎられた鉄製の木馬たちが、大砲の弾丸のごとき勢いで次々とリヒトめがけて射出される。


「くっ……!」


リヒトは地面を強く蹴った。白い光が足元で弾け、「絶対的な初速」で、飛び交う木馬の隙間をジグザグに駆け抜ける。


しかし、休む間もなく頭上に巨大な影が差した。超巨大な【観覧車】の車輪が空中に作り出され、巨大な円型のノコギリ刃のように、凄まじい質量音を立ててリヒトめがけて転がり落ちてきた。地面ごとリヒトを真っ二つに叩き潰す構えだ。


(まともに受けたら死ぬ……!)


リヒトは速度を殺さず、直角にコーナリングして横方向へと全速力で避けた。ズドォオオオンッ!! と背後で観覧車が激突し、病院のコンクリート床が粉々に粉砕される。


「あはは! よく避けるね! じゃあ、僕と隠れんぼしよ?」


カナタがクスクスと笑うと、リヒトの視界が一瞬で遮られた。四方八方に、数十枚もの巨大な鏡――『ミラーハウス』が物質化し、リヒトを閉じ込めたのだ。鏡の向こうには、カナタの姿が何百人、何千人と映し出され、どれが本物か判別がつかない。


「どこを見ているの? 後ろだよ」


ゾクッとした瞬間、鏡の奥から急激にレールが伸び、二編成もの『ジェットコースター』が、のたうち回る蛇のようにリヒトの死角から全方位で迫り来る。


「ハァ……ハァ……!」


普通なら逃げ場のない絶望的な迷宮。しかし、リヒトは目を閉じ、耳を澄ませた。陸上部で培った集中力と、全身を巡る「白一色の光」が、空気の振動から本物のカナタの「位置」を正確に捉える。


(鏡の中に閉じ込められたなら……迷路ごとぶち抜いて、最短の『直線』を作るだけだ!)


「おおおおおっ!!」


リヒトが目を見開き、前方の鏡に向かって一歩を踏み出す。足元に白い光の直線コースが走り、彼の爆発的なスピードが物理法則を置き去りにした。


パリンッ! パリィィィンッ!!


リヒトは音速の弾丸と化し、迫り来るジェットコースターを紙一重で躱しながら、立ちはだかる巨大な鏡の壁を肉体一つで次々と粉砕・突破していく。破片が月光にきらめく中、最短距離で迷路を突き破った。


「嘘……僕の迷路を……!?」


初めてカナタの顔に焦りの色が浮かぶ。しかし、カナタの狂気は止まらない。目の前に迫るリヒトの頭上に、今度は天空まで届くほどの巨大な垂直の塔――『フリーフォール』を一瞬で作り出した。


「落ちちゃえぇぇぇっ!!」


何十トンもの重量を持つフリーフォールの座席部分が、最上階から「自由落下」の超スピードのまま、リヒトの頭上へとものすごい風圧を伴って叩きつけられる。


迫り来る巨大な鉄の天井。リヒトは逃げなかった。逆に、その質量に向かってさらに加速した。

フリーフォールが地面に激突してが破裂する、そのわずか数ミリ秒前。リヒトは極限まで溜めたバネを爆発させ、真上へと跳躍した。


激突寸前のフリーフォールの底面を、白い光を纏った足で力強く蹴り、その落下のエネルギーすら自分の跳躍力へと変換したのだ。


ドゴォォォンッ!! と足元で遊具が粉砕される衝撃を背に受けながら、リヒトは光の矢となって一気に天空へと上り詰める。

あらゆる絶望のアトラクションを、ただひたすらの「速度」と「意志」だけでねじ伏せ、リヒトはついに、空中高くに浮かぶカナタの正面へと肉薄した。


「これで……終わりだぁぁぁっ!!」


骨折を乗り越え、白い光を拳に宿したリヒトの決死の一撃が、三日月に座るカナタの顔面へと炸裂した。


リヒトの拳は、カナタの肉体を直接傷つけることはなかった。しかし、その一撃は確かに効いていた。リヒトの纏う白一色の光は、カナタの歪んだ欲望の源――カオスの因子だけを正確に打ち砕いたのだ。


パリン、とガラスが割れるような不吉な音が響く。

カナタを補っていた真っ黒な混沌の腕が、足が、そして眼球が、ボロボロと崩れ落ちて霧のように消えていく。空中遊園地も幻のように溶けて消え、二人は半壊した病室の床へと着地した。


「そ、そんな……やっと二本足で歩けたのに……やっと両手で物を掴むことができたのに………やっと両目で…この世界を覗くことができたのに……」


再び手足を失い、片目になって床に倒れ伏したカナタの目から、大粒の涙が溢れ出す。元の不自由な身体に戻ってしまった少年に、リヒトはゆっくりと近づき、その傍らにそっと膝を突いた。


「君がやったことは、許されることじゃない……。だけど、だからって君が悪人に決まったわけじゃないんだ。……また僕と一緒に、今度は君一人だけが楽しむんじゃなくて、みんなと楽しむことに、君の時間を使ってみない?」


涙ぐむ少年は、自嘲気味に、だけどどこか愛おしそうにリヒトを見つめた。


「……アハハ。初めて会った時から思ってたけど……本当に優しいね、君は。……そうしてみたい気持ちはあるんだけど、どうやら僕は、ここまでみたいだ」


「えっ……?」


「手足や目を作る過程で、身体の深い場所まであの力を馴染ませちゃってたんだ。それが消えちゃった今……僕の命は、もうすぐにでも尽きてしまいそうなんだ」


カナタの肌が、急速に体温を失って白くなっていく。リヒトは息を呑み、彼の残された片手をそっと握りしめた。


「この世界を破壊し尽くしたいって思ってた。でも……死ぬ間際だから、本当の気持ちがわかるよ。僕はね……両親に忘れ去られ、誰の記憶にも残らず死んでいくのが、怖くてたまらなかったんだ。だから、暴れて世界を壊すことで、誰かに僕を覚えてもらおうとしてたんだ」


「カナタくん……」


「誰にも覚えてもらえず、最初からいなかったみたいに消えていくのが……怖いよ……」


消え入るような声で、カナタは涙を堪えながら、胸元からあのペンダントを外してリヒトの手に握らせた。


「だから……忘れないで。僕が、ここにいたこと……」


リヒトはペンダントを両手でぎゅっと握りしめ、溢れ出そうになる涙を堪えて、カナタの目を真っ直ぐに見つめ返した。


「あぁ、忘れないよ。ずっと…僕が生きている限り、君がいたってことをこの世界に忘れさせない」


「……そっか。よかった……」


その言葉を聞いた瞬間、カナタの顔からあの邪悪な歪みが完全に消え去った。

ずっと「笑い方がわからない」と言っていた少年は、最期の最期に、月光に照らされながら、まるでひだまりのようにおだやかな、子供らしい本物の笑顔を浮かべた。


そうして、安堵したカナタは静かに目をとじ、息を引き取った。


静まり返った病室で、リヒトはカナタから託されたペンダントを胸に強く押し当てた。友を救えなかった悔しさと、その遺志を背負う覚悟。リヒトは涙を拭い、その場を後にした。彼の心には、混沌に立ち向かうための、消えない光が灯っていた。

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