白日の凶風と、禁忌の解放
その日の夕刻。
逢魔が時にはまだ早い、西日が網戸越しに長く伸びる午後四時。
李王組本家、奥座敷。桜は指定の夏服ブラウスのまま、自室の畳の上に泥のように倒れ伏し、浅い微睡の中を彷徨っていた。
ジリ、ジリ……と。
遠くで鳴り始めた初夏の蝉の声が、網戸を抜けてくる生ぬるい風に乗って鼓膜を撫でる。い草の青臭い匂いと、自身の首筋にべっとりと張り付いた汗の不快感。
身体が、鉛を流し込まれたように重い。指一本動かすことすら億劫だった。
昨夜、繁華街で関西の分家の本隊を灰燼に帰し、大広間で軍議を開いた後。夜の女王である桜は、そのまま本家で休むことなどしなかった。
『我が庭を荒らす塵芥どもは、一匹残らず喰らい尽くせ』
自らが下したその号令を完遂するため、彼女は百鬼夜行の先頭に立ち、夜明けの光が王都を白く染めるギリギリまで、シマの各地に潜伏していた分家の残党どもを文字通り「狩り尽くして」いたのだ。
圧倒的な九尾の狐火。それを一晩中、絶え間なく行使し続けた代償は、人間の肉体に戻った瞬間、想像を絶する『負債』となって桜に襲いかかった。
人間と妖怪の肉体を切り替えるための、絶対的なルール。
一度リミッターを外せば、次に妖力を安全に解放するためには、最低でも『十二時間』、人間の姿で魔力回路を完全に休ませ、冷却しなければならない。規格外の妖力を通した人間の血管は、いわばオーバーヒートを起こしたガラス管だ。熱を逃がし、微細なヒビを修復する時間を設けなければ、次に力を通した瞬間、内側から木っ端微塵に弾け飛んでしまう。
(……あつい、痛い……っ)
桜は、畳に頬を擦り付けたまま、小さくうわ言を漏らした。
ブラウスの下、右脇腹のあたりが、炭火を押し当てられているようにジリジリと熱を持っている。
今日の昼間、人間の姿で過ごした『学校』は、桜にとって文字通りの地獄だった。
立っているだけで内臓がズキズキと痛み、視界がチカチカと明滅する。それでも彼女は、親友の美波や結衣の前で「ちょっと寝不足なだけだよ」と笑い、平然を装って見せた。
黒板の数式をノートに書き写すたびに、指先がカタカタと痙攣した。お弁当のおかずを口に運んでも、昨夜嗅いだ『肉が焦げる異臭』がフラッシュバックして吐き気が込み上げ、すべて砂を噛んでいるような味がした。
誰にも頼れない。誰にもこの痛みを打ち明けられない。
その絶望的な孤独と極度の疲労に耐え抜き、放課後のチャイムが鳴った瞬間、桜は逃げるように本家へと帰還した。そして、制服を着替える気力すらなく、自室の床に倒れ込んで今に至るのだ。
壁掛け時計の秒針が、カチ、カチと無機質な音を刻んでいる。
時計の針は、午後四時を少し回ったところ。
冷却完了(十二時間)まで、まだあと二時間を残していた。
「……ん」
不意に、桜は微かな耳鳴りを覚えて重い瞼をこじ開けた。
空気が、おかしい。
初夏の生ぬるい風が、急激に乾き、肌を刺すような冷たさを帯び始めている。
――ヒュゥゥゥゥッ……!!
遠くで、風が鳴った。
いや、それは自然の風の音ではない。数千の刃が空気を切り裂くような、暴力的な風切り音。
次の瞬間、本家の広大な敷地を覆っていた『認識阻害と防御の結界』が、巨大なガラスが砕け散るような甲高い悲鳴を上げて、跡形もなく粉砕された。
「な……っ!?」
桜が跳ね起きたのと同時。
ドンッ!! と、屋敷全体が直下型地震に直撃されたかのように激しく揺れ、障子が木枠ごと吹き飛んだ。
庭先に突如として巻き起こった局地的な竜巻が、樹齢数百年の老松を根こそぎ薙ぎ倒し、本家の母屋を半壊させる。
「お頭ァッ!! ご無事ですか!!」
吹き飛んだ襖の向こうから、血相を変えた若頭の鬼道が転がり込んできた。その巨体には、すでに無数の切り傷が刻まれ、血を流している。
彼の背後、土煙が舞う中庭には、すでに李王組の組員たちが何十人も血の海に倒れ伏していた。
「鬼のおじさん! 何が、一体何が起きて……」
「北の空から、突如として大軍勢が降りてきやがった! 関西の分家じゃねえ。……北関東の霊峰を牛耳る武闘派、『大天狗』の一族ですぜ!!」
大天狗。
その名を聞いた瞬間、桜の全身の血液が、サァッと音を立てて凍りついた。
鬼道の悲痛な叫びを裏付けるように、中庭の上空が「バサッ、バサバサッ」という無数の巨大な羽音で埋め尽くされる。猛禽類特有の、血と獣脂の生臭い匂いが、突風と共に本家の奥座敷へと吹き込んできた。
――北関東の『大天狗』一族。
それは、人間の街の影に溶け込み、共存と極道の掟を重んじる李王組とは対極に位置する、古き山岳信仰のバケモノたちだ。自らを神に連なる純血種だと驕り高ぶり、人間を『餌』か『奴隷』程度にしか見ていない。
先代である桜の父が関東の裏社会を統一した際、最後まで血みどろの抗争を繰り広げ、渋々不可侵条約を結ばせた最大の宿敵。彼らは、人間との共存を掲げる李王組のやり方を「妖怪の誇りを捨てる軟弱者」と忌み嫌い、ましてや人間との『半妖』である桜が三代目の座に就いたことを、耐え難い屈辱として憎悪していたはずだ。
(……なぜ、奴らが。不可侵条約の掟を破ってまで、なぜ『今』……ッ!)
桜の混乱する思考に、ひとつの冷酷な事実が閃いた。
昨夜の、関西の分家による常軌を逸した祭りの襲撃。
禁術を使ってまで大妖怪を人間の街に放ち、李王組の本隊を釘付けにした、あの無謀すぎる捨て身の暴挙。
点と点が、最悪の形で線に繋がる。
(……関西の分家は、ただの『捨て駒』……っ!?)
大天狗の真の狙いは、シマの奪い合いなどではない。
昨夜の襲撃は、すべて桜に『九尾の妖力』を限界まで使わせるための巨大な罠だったのだ。夜明けまで残党狩りに奔走させ、魔力回路を完全に焼き切らせること。
そうすれば必ず、今日の昼間、桜は妖力を一切使えない『ただの人間の小娘』として、本家で十二時間の強制冷却(無防備状態)に入らざるを得ない。
「……ハッ。気づいたようじゃな、忌まわしき半妖の小娘よ」
天を劈くような、傲慢で強大な声が響いた。
バサァッ!! と、空を覆い隠すほどの漆黒の羽が舞い散る。
上空から、ひときわ巨大な竜巻を纏って降り立ったのは、身の丈三メートルに迫る巨漢。漆黒の豪奢な装束に身を包み、背には六枚の巨大な黒翼。手には大気を操るヤツデの羽団扇を持った、大天狗の頭領その人であった。
彼が羽団扇をひと振りするだけで、本家の分厚い瓦屋根が紙屑のように吹き飛んでいく。
「な……」
桜は、絶望に目を見開いた。
彼女が戦慄したのは、頭領の圧倒的な妖気に対してだけではない。
頭領の背後――西日が差し込んでいたはずの上空が、彼らが引き連れてきた異常なまでの『どす黒い雷雲』によって、完全に分厚く覆い隠されていたのだ。
時計の針は、まだ午後四時を少し回ったところ。
太陽の光(陽の気)が満ちるこの時間は、本来、妖怪たちにとって最も活動が制限され、力が出せないはずの『人間の時間』だ。それゆえに、この時間に本家の結界を破って大規模な襲撃を仕掛けてくる組織など存在しないと、誰もが完全に油断していた。
だが、大天狗一族は、その『空を操る力』で太陽の光を物理的に遮断し、王都の一角に、局地的な『人工の夜』を強引に作り出していた。
すべては、冷却期間中で絶対に反撃できない桜の首を、この時間で確実に刎ね飛ばすためだけに。
「関西の愚物どもを利用し、祭りの夜に小賢しい探りを入れて正解であったわ」
大天狗の頭領が、見下すような嘲笑を浮かべて桜を睨み据えた。
「李王組の三代目は、昼間は喧嘩一つできぬただの『人間の小娘』であるとな! 夜になれば誰も勝てぬ九尾のバケモノも、陽が落ちる前のこの時間ならば、ただの脆い肉塊よ!」
烏天狗や山伏の姿をした数百の屈強な妖怪たちが、刃のように鋭い突風を操りながら、李王組の本家を完全に包囲していく。
逃げ場はない。味方の主力は昨夜の疲労が抜けきっておらず、何より総大将である桜自身が、指一本動かすことすら苦痛な人間の身体のままだ。
極道の掟も、妖怪の常識もすべてかなぐり捨てた、純血至上主義者たちによる『必殺の奇襲』。
圧倒的な質量を持った死の気配が、午後四時の薄暗い本家を、完全に重く押し潰していた。
(……っ、この男が、すべての黒幕……!)
桜は、強風に煽られながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。
人間の姿である今、彼女にはこの大天狗の放つ圧倒的な妖圧を跳ね返す術がない。息をするだけで肺が押し潰されそうになり、立っていることすらやっとの状態だった。
「お頭(神)の寝所に、土足で踏み込んでんじゃねえぞ……ッッ!! 鳥野郎がァ!!」
桜の視界の端から、漆黒の弾丸が射出された。
黒曜蓮だ。
彼は白シャツのまま、両腕を巨大な黒狼の爪へと変貌させ、大天狗の喉笛目掛けて一直線に跳躍した。殺意と狂信に彩られた、必殺の急襲。
だが。
「――狂犬一匹、身の程を知れ」
大天狗が、冷酷な目で羽団扇を裏返した。
ドゴォォォォッ!!
「ガ、ハァッ……!?」
不可視の空気の断層が、巨大な城壁となって蓮の身体を真っ向から打ち据えた。
関東最強クラスの戦闘力を誇る蓮の巨体が、いとも容易く空中で弾き返され、本家の太い大黒柱をへし折って瓦礫の山へと墜落する。
「れ、蓮……っ!!」
桜が悲鳴を上げる。
「無駄じゃ。夜ならばともかく、我が本隊を率いて奇襲をかけた今、貴様らに勝ち目はない。……大人しくその首を差し出せば、組員どもの命は助けてやろうぞ」
大天狗の扇動に合わせ、上空の数百の天狗たちが一斉に刃を構える。
鬼道が、そして駆けつけた雪柳が、血を流しながらも桜の前に立ち塞がる。だが、彼らの目には明確な「死の覚悟」が宿っていた。
昼間の桜を守りながら、この大軍勢と大妖怪の頭領を相手にするのは、物理的に不可能だ。全員がここで死ぬ。
桜は、瓦礫の向こうで血を吐きながらも、再び立ち上がろうと牙を剥く蓮の姿を見た。
傷だらけの鬼道と雪柳の背中を見た。
自分が命を削って守ると決めた、不器用で、愛おしい『家族』たち。
(……時間が、足りない)
桜は、自身の左手首に視線を落とした。
冷却期間の十二時間には、あと二時間足りない。
今、この数珠を外せばどうなるか。人間の脆弱な血管が完全に修復されていない状態で、九尾の規格外の魔力を強引に通せば、肉体のキャパシティを完全に決壊させることになる。
最悪、人間の肉体が内部から焼き切れて死ぬ。
だが。
(ここで私が逃げれば、みんな死ぬ。……妖月組の代紋が、地に落ちる)
恐怖はあった。だが、それ以上に、極道のトップとしての『覚悟』が、人間の脆弱な感情を凌駕した。
桜は、静かに右手を持ち上げ、左手首の数珠に指を掛けた。
「お、お頭!? 駄目です、まだ陽が落ちてねえ! 今リミッターを外せば、アンタの身体が――」
鬼道が血相を変えて制止しようとする。
瓦礫の中から這い出た蓮が、「……あ?」と怪訝な顔で桜を見た。彼はまだ、桜が妖力を使うことで負う『代償(物理的ダメージ)』を知らない。なぜ鬼道が必死に止めているのか、理解できていなかった。
「……構わぬ」
桜の声は、人間の姿でありながら、ひどく冷たく、静まり返っていた。
「我が庭を荒らし、我が家族を血で汚した外道どもに。……極道のケジメを、教えてやらねばならぬのでな」
――カチリ。
数珠の留め具が、外れた。
その瞬間。
「あ、が……ッ!!」
桜の喉から、声にならない激痛の呻きが漏れた。
未修復の血管を、超高熱の魔力が暴力的にこじ開けながら全身を駆け巡る。体内の水分が沸騰し、細胞が内側から千切れるような、物理的な地獄の苦しみ。
だが、その激痛は、たった一秒で『強制シャットダウン』された。
人間の肉体が限界を超えた直後、彼女の脳髄を、絶対的な『妖怪の妖気』が完全に上書きしたのだ。
痛覚が切り離され、恐怖が凍りつき、圧倒的な『捕食者の怒り』だけが残る。
ドンッッ!!! と、本家の敷地全体を揺るがす極大の妖気が爆発し、大天狗の放っていた突風を一瞬にしてかき消した。
「な、に……!?」
大天狗が驚愕に見開いた視線の先。
砂埃が晴れたそこに立っていたのは、人間の女子高生ではない。
白銀の髪を天高く舞い上がらせ、艶やかな黒着物を纏った九尾の女王。
彼女の全身からは、限界突破による異常な量の『青白い狐火』が、大気をチリチリと焦がしながら立ち昇っていた。
「……よくも、よくも我が微睡を破ってくれたな、小鳥ども」
紅の瞳が、大天狗を射抜く。
その視線には、一切の慈悲はない。
夜を待たずに顕現した、完全無欠のバケモノ。自らの肉体が悲鳴を上げていることなど微塵も感じさせない、圧倒的な王の威圧感。
「――一羽残らず、その羽根を毟り取ってやる」
空気が凍りついた。
夕陽が沈む前の空の下、妖月組と大天狗一派による、朝まで続く凄惨な死闘の幕が、今まさに切って落とされた。
ドゴォォォォォォッッ!!!
本家の中庭を吹き荒れていた暴風雨が、青白い爆炎によって真っ向から弾け飛んだ。
大天狗の羽団扇が巻き起こした、鋼鉄すら切り裂く絶対的なカマイタチの結界。それが、桜の全身から放たれる『九尾の狐火』に触れた瞬間、酸素を奪われてチリチリと無力な火の粉に変わり果てていく。
「な、ば、馬鹿な……ッ!?」
上空でホバリングしていた大天狗の頭領が、驚愕に太い目を見開いた。
夕暮れ前のこの時間、李王の三代目はただの脆弱な人間に過ぎないという確かな情報があったはずだ。事実、数秒前まで瓦礫の中で震えていたのは、無力な小娘だったではないか。
それがなぜ。陽も落ちていないというのに、これほどまでの、空間そのものを歪めるような圧倒的な妖気を顕現させられるというのか。
「……小鳥が、ピーチクパーチクと五月蠅いことじゃ」
桜は、燃え盛る白銀の髪を風に靡かせながら、赤いキセルを虚空に滑らせた。
限界突破。冷却期間を無視して魔力回路を強制接続した彼女の妖気は、普段の完全なコントロールを失い、文字通り『暴走状態』に近い莫大な熱量となって周囲の空気を焼き焦がしていた。
だが、妖怪の脳髄に切り替わった桜の意識は、どこまでも冷徹だった。肉体が内側から悲鳴を上げている感覚は、遠く切り離された無痛の領域に封じ込められている。
あるのはただ、自分の鞘(人間)を狙い、組員たちを傷つけた外道への、絶対的な極道の怒りだけだ。
「鬼。雪女」
桜が、低く艶やかな声で幹部たちの名を呼ぶ。
「は、はッ!!」
「……お頭ッ!」
血まみれの鬼道と雪柳が、畏怖と、そして強烈な『悲壮感』を顔に貼り付けて平伏した。古参である彼らだけは知っているのだ。今、お頭がどれほどの禁忌を犯し、自身の命を削ってこの姿を維持しているかを。
だが、桜はその忠臣たちの悲痛な視線を、冷たく一瞥して切り捨てた。
「泣き面を見せるな。極道の面汚しぞ」
「……ッ、申し訳、ありやせんッ!!」
「黒狼」
桜の紅い瞳が、瓦礫の上で牙を剥く漆黒の半獣――蓮を射抜く。
「――御意!!」
蓮の黒瞳は、鬼道たちとは全く違う、狂信と歓喜の炎で爛々と燃え盛っていた。彼には、桜が命を削っていることなど微塵もわからない。ただ、「俺の絶対的な神が、怒り狂ってこの世に顕現した」という最高に美しく、暴力的な事実に酔いしれていた。
「……我が庭を汚した羽虫どもじゃ。一羽残らず、羽根を毟り取れ」
桜の言葉が、死の号令となって黄昏の空に響き渡った。
「「「オオオオオオオオオオッッ!!!」」」
それを合図に、李王組の妖怪たちと、空を覆う数百の天狗軍団が激突した。
「 墜ちろやゴミ鳥ィッ!!」
先陣を切ったのは、狂犬・蓮だった。
彼は本家の屋根の残骸を蹴り飛び、数十メートルの跳躍で空中を舞う烏天狗の群れへと単身で突っ込んだ。
風を操って逃げようとする天狗の片翼を、漆黒の爪が容赦無く根元から引き裂く。
「ギャアアアアッ!?」
悲鳴を上げて墜落していく天狗の顔面を、蓮は空中で自らの足場にし、さらに上空へと跳躍する。空を飛べない黒狼でありながら、敵の肉体を飛び石にすることで三次元の空中戦を支配していく。
鮮血と、漆黒の羽根が、夕闇の迫る本家の庭に狂ったように舞い散った。
その下、地上の庭園もまた、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
「ヒャッハー! 汚物は消毒じゃァッ!!」
特攻隊長、炎に包まれた巨大な車輪の中央に恐ろしい男の顔が浮かぶ異形――『輪入道』の炎雷が、轟音と共に敵陣へと突っ込んだ。彼が爆走した跡には、燃え盛る烏天狗たちの死骸が、業火の轍となって残る。
その炎の煙に紛れ、影の処刑人――真空の刃を操る『鎌鼬』の白波が跳躍した。音もなく、姿も見せず。気づいた時には、数体の天狗の首が空中を舞っていた。
「お頭の寝所に、近づけるかよ……ッ!」
本家の母屋を守るように立ちはだかったのは、防衛の要――牛の頭と六本足の蜘蛛の胴体を持つ異形『牛鬼』の牛頭だ。彼は襲い来る烏天狗を巨大な素手で掴み取り、そのまま地面に叩きつけて粉砕する。銃弾すら弾くその皮膚は、天狗の爪など微塵も通さない。
「あらあら、元気な小鳥さんたちねぇ。……我が糸の錆になりなさい」
シマの諜報長――巨大蜘蛛の化身『絡新婦』の爪紅が、艶やかに笑った。彼女が指先を踊らせると、空中に張り巡らされた目に見えない粘糸が、天狗たちの身体を豆腐のように切り刻んでいく。
戦場全体には、策士――猿、狸、虎、蛇の部位を併せ持つ最悪のキメラ『鵺』の幻夜が撒き散らした虹色の毒霧が充満していた。それを吸い込んだ天狗たちは、幻覚に苛まれ、味方を敵と誤認して同士討ちを始めた。
「……五月蠅いねぇ、夜の静寂を乱すんじゃないよ」
上座の屋根の上。最古参の金庫番――巨大な二足歩行の化け猫『猫又』の大婆、斑が、妖力を込めた咆哮(猫騙し)を上げた。その重圧に、空中の天狗たちが一瞬動きを止める。
その隙を逃さず、若頭の鬼道が鉄骨を振り回して敵を薙ぎ払い、本部長の雪柳が扇子を一振りし、無数の氷の槍を降らせた。
「おのれ、ナメるなァッ!!」
大天狗の頭領が激昂し、六枚の黒翼を大きく広げた。
彼がヤツデの羽団扇を振り下ろすと、今度は目に見えない『真空の刃』が数百の群れとなって、地上の桜目掛けて降り注いだ。コンクリートの塀が豆腐のように輪切りにされ、大樹が粉砕される。
だが、桜は一歩も引かなかった。
彼女の背後で揺らめいていた九つの尾が、放射状に大きく広がる。
「……散れ」
ドォォォォォンッ!!
桜の周囲の空間そのものが、青白い狐火の爆発によって『壁』と化した。
真空の刃が炎の壁に触れた瞬間、圧倒的な熱量によって大気中の分子が膨張し、攻撃そのものが無効化されていく。
防御ではない。圧倒的な妖力差による、事象の塗り潰しだ。
「バカな、俺の『神嵐』が……ッ!」
「極道の喧嘩に、上から目線とは恐れ入る。……地に這え、烏」
桜が、キセルを頭上の大天狗に向けて一振りした。
――ヒュッ。
大天狗の周囲の空気が、急激に燃焼し、真空の檻を形成した。
呼吸ができなくなる。それどころか、羽ばたくための空気の抵抗すらも完全に奪われ、大天狗の巨体が空中で完全にコントロールを失った。
「ガ、ァ……ッ!?」
「鬼! 雪女! 撃ち落とせ!」
「承知ィィッ!!」
鬼道が渾身の力で投げ放った巨大な庭石が、身動きの取れない大天狗の脇腹にクリーンヒットする。同時に雪柳の『絶対零度』の冷気が、大天狗の六枚の羽をバリバリと凍らせていく。
轟音と共に、大天狗が本家の庭へと墜落した。
だが、北関東を牛耳る武闘派の頭領は、これだけで終わるほど柔ではなかった。
「……ガァァァァッ!! 許さん、許さんぞ九尾の小娘ェェェッ!!」
凍りついた羽を自らの豪腕で引きちぎり、血反吐を吐きながら立ち上がった大天狗は、自らの命を削る禁術に手を出した。
彼の肉体が異様に膨張し、全身の血管から黒い妖気が噴き出す。手下の天狗たちの妖力すらも強制的に吸収し、巨大な『暴風の化身』となって桜へと突進してきた。
そこからの戦いは、文字通り「天災」と「天災」の衝突だった。
大天狗は、数百年の長きにわたり北関東の霊峰を統べてきた、生粋の『純血種』である。その実力は、日本の影の世界においても五本の指に入るほどの規格外のバケモノだ。
彼がヤツデの羽団扇をひと振りするたび、ただの突風ではなく、空間の分子そのものを引き裂く『絶対真空の刃』が数百メートルの規模で王都の上空を薙ぎ払う。ビル群の頭頂部が音もなく削り取られ、分厚い雨雲がすり鉢状に抉り開けられていく。
それは、古き山岳信仰の神にすら等しい、圧倒的な自然の暴力。
「ハァッハハハハッ!! どうした半妖の小娘! 貴様の力はその程度か!! 血の薄い泥人形が、我ら純血の高みに届くと思うなァッ!!」
上空で黒翼を羽ばたかせる大天狗が、傲慢な哄笑と共に漆黒の雷を落とす。
だが。
「……極道の喧嘩に、血の純度など持ち出してくるとは。随分と底の浅い鳥じゃのう」
桜は、頭上から降り注ぐ死の暴風雨を前にして、ただの一歩も引かなかった。
彼女の背後で揺らめく九つの尾が、意志を持った大蛇のように天へ向かって伸びる。大天狗の真空刃が到達する直前、桜の周囲の空間が青白い狐火の爆発によって『分断』された。
激突。
ドゴォォォォォォォォォォンッッ!!!
真空と超高熱が真っ向から衝突し、大気そのものが悲鳴を上げてプラズマの閃光を放つ。
これは、単なる妖力のぶつけ合いではない。関東最大のシマを預かる「妖月組の代紋」と、霊峰の覇者としての「大天狗の誇り」を懸けた、極道同士の意地の張り合い(メンツの潰し合い)だ。
一歩でも引けば、シマを奪われる。一度でも膝を突けば、関東の裏社会は容易く寝首を掻きにくる。
「我が庭の上空で、誰に断って勝手な風を吹かせておる」
桜の紅い瞳が、残酷な光を放つ。
限界突破によって引き出された彼女の妖気は、普段の静かな冷たさとは打って変わり、文字通り自身の命そのものを燃料にして燃え盛る『業火』となっていた。
桜がキセルを振るうたび、狐火は巨大な火の鳥となり、大天狗の巻き起こす黒い竜巻を物理的に『喰い破って』いく。
(……不思議なものだ)
蓮は、手近な天狗の喉笛を噛みちぎりながら、上空で荒れ狂う青白い炎を見上げていた。
(今日のお頭の妖気は、いつも以上に荒々しく、そして……狂っているように美しい)
普段の彼女の狐火は、氷のように冷たく、静かだ。だが今夜の炎は、まるで自身の命そのものを薪にして燃やしているかのような、凄絶な熱量と不安定さを孕んでいた。
鬼道や雪柳が、血眼になって「お頭をお守りしろ!」と悲痛な叫びを上げているのが、蓮には不思議でならなかった。
(なぜあんなに必死になる? お頭は無敵だ。誰にも負けやしねえ)
狂犬の目には、彼女の隠された『死へのカウントダウン』が全く見えていなかった。
日が完全に落ち、漆黒の夜が訪れても、李王組本家の上空だけは、青白い狐火と漆黒の竜巻が渦を巻き、真昼のように明るく照らし出されていた。
人間たちの世界(表社会)では、この常軌を逸した光景は、気象庁が緊急会見を開くほどの『観測史上かつてない局地的なスーパーセル(超巨大積乱雲)と異常放電』として認識されていた。
ニュースキャスターが切迫した声で避難を呼びかけ、一般の人間たちは窓を閉め切って雷鳴に震えている。だが、その凄まじい嵐が、なぜか地上の建物や人間に一切の被害をもたらさないことに、彼らは気づいていない。
……地上に被害が出ないのは、奇跡でも偶然でもない。
白銀の女王が、大天狗の放つ致死の暴風を、自らの狐火の結界で一ミリの隙も与えずに上空で相殺し、シマの人間たちを完全に庇い切りながら戦い続けているからだ。
一時間、三時間、五時間……。
この果てしのない妖力の衝突は、王都の境界線から息を潜めて見守っていた関東一円の下級妖怪や、他派閥の幹部たちを震え上がらせていた。
『……嘘だろ、あの大天狗の頭領と、真っ向から打ち合ってるだと……!?』
『李王組の三代目は、先代の威光にすがるだけの飾りじゃなかったのか……っ』
彼らの間で、この夜の激闘は翌日には「極道中の伝説」として語り継がれることになる。李王桜という半妖の小娘が、実は純血の大妖怪すらも単身でねじ伏せる、底知れない化け物であったという、絶望的な事実と共に。
「ゼェッ……、ハァッ……、バカなッ……!」
夜明け前。激闘の果てに、大天狗の顔には明確な「疲労」と「焦燥」が色濃く浮かんでいた。無尽蔵に思えた彼の妖力も、底が見え始めている。
だが、対する桜の顔には、疲労の色一つ浮かんでいない。
息一つ乱さず、着物の裾すら崩れていない。ただ冷徹に、退屈そうにキセルの煙を燻らせている。
……大天狗は知らない。そして、下で見守る蓮や幹部たちも知らない。
人間であればとっくに意識を手放しているような、この極限の魔力戦。地上の幹部たちもまた、限界を超えて戦い続けていた。鬼道の鉄骨はひしゃげ、雪柳の冷気は薄れかけている。炎雷の炎は勢いを増し、白波の刃は敵の血で切れ味を増していた。牛頭は数人がかりの攻撃をその身で受け止め、斑の咆哮が戦場を鼓舞する。幻夜の毒霧は本家全体を覆い、爪紅の糸は敵の死骸で真っ赤に染まっている。全員が、お頭が命を削って作り出したこの「夜」を、一秒でも長く維持するために、自らの命を燃やしていた。
桜の脆弱な人間の血管は、強大すぎる妖力の通過に耐えきれず、すでに内部で千切れ、焼け焦げ、完全に決壊しているのだ。
疲労を感じていないのではない。
妖怪の脳髄が、疲労や激痛という人間の『生存リミッター』を完全に焼き切り、肉体が死の淵にあろうとも強引に戦い続けさせているだけなのだ。自らの器が内側から崩壊していく音すらも、今の彼女の冷徹な脳髄には届かない。
「……随分と、息が上がっておるな。霊峰の風も、王都の夜風には敵わなかったと見える」
桜は、青白い炎の中で妖艶に微笑んだ。
限界を超えた肉体で放つ、最後の、そして最大の死の宣告。
「これで、終わりじゃ」
桜が、右手のキセルを静かに下ろした。
その瞬間、背後の九つの尾が一本の巨大な炎の槍となって収束する。
「ヒィッ……! ま、待て、降伏する! 我ら大天狗の全シマを譲る、だから……ッ!」
「極道のケジメに、二言はない」
ズドォォォォォンッ!!!
朝焼けの空を、一筋の青白い閃光が一直線に貫いた。
命乞いをする大天狗の巨体は、抵抗する間もなく炎の槍に飲み込まれ、細胞の欠片一つ残さずに完全に消滅した。
焦げたオゾンの匂いと、静寂が、半壊した本家の庭に舞い降りる。
勝った。
関東最大の極道、妖月組の完全勝利。
「お頭ァァッ!! 万歳ッ!! 我らが妖月組、万歳!!!」
生き残った組員たちが、血と泥に塗れながらも、天に向かって歓喜の咆哮を上げた。
蓮もまた、全身を敵の返り血で真っ赤に染めながら、瓦礫の山の上で恍惚とした吐息を漏らしていた。
(……ああ、やっぱりアンタは最高だ。俺の絶対的な神だ)
朝の冷たい空気が、熱狂した戦場を少しずつ冷やしていく。
桜は、歓喜に沸く組員たちに背を向け、ゆっくりと、誰にも聞こえないほどの小さな足音で、原型を留めていない渡り廊下の残骸へと歩みを進めた。
(……帰ろう。我が揺り籠へ)
妖力が、役目を終えたとばかりに静かにシャットダウンの準備を始める。
誰の目にも、無傷で、威風堂々と凱旋する最強の女王の後ろ姿にしか見えなかった。
この数分後、自室の扉を閉めた瞬間、彼女を襲う『残酷な代償』と、それを目撃してしまう狂犬の運命を、この時まだ誰も、知る由はなかった。




