深淵の玉座と、白銀の業火
西の空が、血の滲んだような毒々しい赤紫に爛れ、やがて底なしの漆黒へと飲み込まれていく。
逢魔が時が終わり、完全なる『夜』が王都を包み込んだ頃。李王組本家の重厚な薬医門を、一人の少女が重い足取りでくぐり抜けた。
「……はぁっ、ふぅ……っ」
桜は、指定のローファーを脱ぎ捨てるなり、崩れ落ちるように式台に手をついた。
全身が冷たい汗でびっしょりと濡れている。胃袋は雑巾のように絞り上げられ、今にも吐き出しそうだった。
昼間の学校。それは、彼女にとって文字通りの地獄だった。
いつ、どこから関西の分家の刺客が刃を向けてくるかわからない極限の恐怖。そして何より、自分を護衛しているはずの黒曜蓮から向けられた、あの絶対的な『軽蔑』と『殺気』。
『テメェはただの入れ物だ。……俺の女王の器に傷一つでもつけたら、テメェ自身でも殺すぞ』
図書室で、血塗れの狂犬から叩きつけられたその言葉が、今も耳の奥で呪いのように木霊している。
彼は、人間の私を少しも守ろうとなんてしていなかった。ただ、夜の女王を降臨させるための『空っぽの瓶』が割れないよう、不快げに見張っていただけなのだ。
(……怖い。……もう、嫌だ……っ)
桜は、ガタガタと震える己の両腕を抱きしめながら、薄暗い渡り廊下を自室へと向かって歩いた。
屋敷の奥へ進むほど、数百年を経た古木が放つひんやりとした冷気と、むせ返るような伽羅の香りが濃くなる。本家に控える下級妖怪たちが、怯えたように平伏して道を空けるが、今の桜には彼らの視線すらも恐ろしかった。
私室のスギ戸を、逃げ込むようにして閉める。
完全に一人きりの空間になった瞬間、桜は畳の上にへたり込み、荒い呼吸を繰り返した。
限界だった。人間の脆弱な精神で、これほどの殺意と孤独に耐え続けられるはずがない。
震える右手を伸ばし、左手首に巻かれた『封印の数珠』の留め具に指を掛ける。
先代の遺骨から削り出された、呪われた切り替えスイッチ。
「……っ」
カチリ、と。
小さな音が、静まり返った部屋に響いた。
その瞬間。
大気を強引にねじ曲げるような、圧倒的な質量の『九尾の妖気』が、桜の肉体の奥底から爆発的に噴き出した。
ドンッ! と、部屋の中の気圧がデタラメに跳ね上がり、障子がビリビリと悲鳴を上げる。
人間の脆弱な血管が、妖怪の底なしの魔力回路へと強制的に繋ぎ直される。
肩で切り揃えられていた柔らかな栗色の髪が、月光を紡いだかのような眩い白銀へと染まり上がり、足首まで届くほどの長さに伸びていく。黒曜石の瞳は、獲物を射抜くような妖しい紅へと色を変え、細められた。
桜の全身から立ち昇る青白い狐火が、現し世の理を歪める。汗に塗れた制服は、妖気そのものが編み上げた艶やかな漆黒の着物――金糸で彼岸花が毒々しく咲き乱れる極道の正装へと、瞬く間に変貌を遂げた。
彼女の背後で、九つの巨大な尾の幻影が、チリチリと空気を焼き焦がしながらゆっくりと揺らめく。
数秒前まで恐怖に涙ぐんでいた平凡な女子高生の面影は、細胞の欠片ほども残っていない。
そこにあるのは、関東最大の妖怪極道『妖月組』の頂点に君臨する、冷酷にして絶対的な君主――『九尾の女王』の姿そのものだった。
桜は、スッと立ち上がり、手の中に顕現した赤いキセルを唇に当てた。
ふう、と紫煙を吐き出す。
思考回路は完全に冷え切り、視界の解像度が人間のそれとは次元の違うものへと切り替わる。
つい先ほどまで、図書室で刺客に殺されかけ、蓮の言葉に絶望して震えていた『人間の自分』の記憶は、確かにそこにある。だが、今の桜にとって、その恐怖はまるで「他人の見たつまらない悪夢」のように、遠く、ひどく些細な事象に過ぎなかった。
(……ふむ。我が揺り籠(人間)は、今日も随分と怯え、泣き喚いたようじゃな)
桜は、キセルの灰を落としながら、ひどく退屈そうに己の内面を俯瞰した。
人間の自分が、黒狼の態度に傷ついていたことも知っている。だが、妖怪の桜からすれば、番犬が主人(の器)を守るために血を流し、牙を剥くのは極めて当然の機能に過ぎない。番犬の不器用な威嚇にいちいち傷つく人間の自分を、「まったく、我ながら手のかかる脆い鞘じゃ」と達観した目で見下ろすだけだ。
だが。
その脆い鞘を、白日の下で傷つけようとした関西の分家――その外道どもへの怒りだけは、静かに、しかし絶対零度の殺意となって桜の脳髄を支配していた。
「……掃除の時間じゃな」
紅の瞳が、残酷な光を放つ。
桜は、着物の裾を翻し、私室のスギ戸を開け放った。
* * *
李王組本家、百畳敷きの大広間。
数百の青白い和蝋燭の炎が、不気味な揺らぎを見せている。
板張りの床には、関東一円から集結した数千の異形たちが、誰一人として一言も発することなく、ただ額を床に擦り付けて息を潜めていた。彼らの本能が、「もうすぐ絶対的な神が降臨する」と警鐘を鳴らし、声帯を麻痺させているのだ。
大広間の最奥、一段高くなった上座。
重厚な黒檀の襖が、音もなく横へと滑った。
カラン、コロン。
高い漆塗りの下駄が、床板を鳴らす。
たったそれだけの音、たったそれだけの気配で、大広間の空気が「ピキリ」と物理的に凍りついた。重力が何倍にも跳ね上がったかのように、平伏する妖怪たちの身体がさらに床へと押し付けられる。
闇の中から姿を現したのは、この世のあらゆる美と恐怖を煮詰めて人の形に練り上げたような、孤高の存在。
九つの尾を揺らめかせながら、白銀の女王が上座の脇息へと歩み寄り、気怠げに肘をついた。
「――面を上げな」
低く、大気を直接撫で回すような艶やかな声。
その一言で、数千の妖怪たちがビクンと肩を震わせ、一斉に顔を上げる。彼らの瞳に宿っているのは、逆らうことなど到底不可能な、絶対的な上位存在への『狂信』だ。
その狂信の最前列。上座の階段のすぐ下で、誰よりも深く、床にめり込むほどに額を擦り付けている漆黒の影があった。
黒曜蓮である。
昼間、図書室で人間の彼女を「無価値な入れ物」と見下し、苛立ちをぶつけていた傲慢な不良生徒は、今や見る影もない。
彼は、白シャツをドス黒い血で汚したまま、荒い息を吐き、まるで神に祈るような熱を帯びた瞳で、上座の女を――白銀の髪を持つ九尾を、下から見上げている。
「黒狼」
桜が、冷たく名指しした。
「……はッ!!」
蓮の喉から、歓喜に震える獣の唸り声が漏れた。
「昼間の大立ち回り、ご苦労じゃったな。……我が微睡を脅かす羽虫どもを、幾匹噛み砕いた?」
「……十五匹」
蓮は、床に両手をついたまま、恍惚とした表情で答えた。
「学校に入り込んだネズミが十一匹。通学路に潜んでいたゴミが四匹。……俺の女王(お頭)の器に指一本触れさせることなく、すべてこの爪で引き裂き、影に喰わせました」
「そうか」
桜は、キセルの煙をふうと吐き出し、紅の瞳を細めた。
「よく働いたな、我の番犬」
その一言。ただそれだけの冷たい労いが、蓮の狂気を極限まで加速させた。
昼間の人間の姿の時は、どれだけ自分が血まみれになって敵を屠っても、彼女は怯えた目で自分を見るだけだった。鬱陶しい。あんな弱い女は嫌いだ。
だが、この夜の女王は違う。自らの振るう血みどろの暴力を完全に肯定し、「己の所有物」として正当に評価してくれる。この絶対的な力と威厳の前なら、自分の魂など何度でもすり潰して捧げられる。
「……すべては、御意のままに」
蓮は、再び深く、深い平伏へと沈み込んだ。その背中からは、抑えきれない歓喜の妖気が黒い靄となって立ち昇っていた。
桜は、下座に控える『鬼』の鬼道と、『雪女』の雪柳へと視線を移した。
「敵の本陣の居場所は、割れておるな」
「はっ。王都の西区画、旧地下鉄の巨大な廃駅構内でさぁ。……数百の半妖と、数体の大妖怪を抱え込み、我らが攻め込んでくるのを待ち構えているようで」
鬼道が、顔を険しくして報告する。
「待ち構えている、じゃと?」
桜が、フッ、と妖艶に微笑んだ。
その瞬間、大広間を埋め尽くしていた青白い和蝋燭の炎が、一斉にドクンと大きく爆ぜた。
「人の庭で泥遊びをした挙句、巣穴で震えて待っておるとは……随分と可愛らしい客じゃな」
桜が、脇息から身を起こす。
彼女が一歩足を踏み出すごとに、モーセの十戒のように、ひしめき合っていた数千の妖怪たちが慌てて道を空け、平伏していく。
「行くぞ、おどれら」
桜の放つ圧倒的な殺気に、末端の下級妖怪たちは白目を剥き、気絶しそうになるのを必死に堪えていた。
「――我が揺り籠を脅かした外道どもに、極道の躾をしてやる。……灰すら残すな」
「「「オオオオオオオオオオオッッ!!!」」」
大広間が震え、屋敷全体が軋むほどの、妖怪たちの凄絶な雄叫びが夜空に轟いた。
それは、ただの号令ではない。絶対的な君主に導かれ、血と暴力の宴へと向かう異形たちの、歓喜の咆哮だった。
重厚な本家の門が、音を立てて開け放たれる。
外には、近代的な王都のビル群と、人工的なネオンの光が広がっている。
しかし、桜が門をくぐり、下駄の音を夜の闇に響かせた瞬間。街灯の光はチカチカと明滅して次々に消え失せ、アスファルトの上の『影』が、まるで墨汁をこぼしたかのように異常な速度で浸食し、拡大していった。
『百鬼夜行』。
先頭を歩く白銀の女王。
その真後ろには、巨大な漆黒の狼へと姿を変えた蓮が、最も信頼のおける影としてピタリと付き従い、周囲の暗闇に獰猛な牙を剥いている。
さらにその後ろを、幹部たちを筆頭に、数千の魑魅魍魎たちが、妖気を立ち昇らせながら地鳴りのような足音を立てて大通りを練り歩く。
人間たちは決して気づかない。
彼らが眠るコンクリートのジャングルのすぐ真下で、空気が軋むほどの圧倒的な重圧を伴って、異形の『死の行進』が始まっていることを。
赤いキセルから吐き出された紫煙が、夜風に溶けて消える。
紅の瞳が、ネオンの光の届かない街の底――敵の潜む旧地下鉄駅の方角を、冷酷に射抜いた。
関東の西区画。再開発計画から外れ、何十年も前に放棄された巨大な旧地下鉄駅の構内。
地表の喧騒から完全に隔離されたその地下空間は、コンクリートの壁に黒カビがびっしりとこびりつき、淀んだ水たまりが腐臭を放つ、巨大な『墓所』のような空洞だった。
「……来やがった」
ひび割れたプラットホームの上で、関西の分家を率いる本隊の指揮官――額に水牛のような太い角を生やした大男が、ギリッと牙を鳴らした。
彼の背後には、薄暗い構内を埋め尽くすほどの分家の構成員(半妖や下級妖怪)たち数百名が、武器を構えて息を殺している。さらにその奥、廃線路の暗がりには、理性を奪われ鎖に繋がれた四体の『はぐれの大妖怪』が、飢えた獣の唸り声を上げていた。
万全の迎撃態勢だ。地下という閉鎖空間に誘い込めば、数の暴力がものを言う。いくら関東最大の妖月組といえど、ここを落とすには相当な血を流すはずだ。指揮官の男は、そう高を括っていた。
……数分前までは。
「な、なんだ……この寒さは……っ」
半妖の一人が、武器を持つ手をガタガタと震わせた。
冷気ではない。空気が、物理的な『質量』を持って彼らの臓腑を直接圧迫し始めているのだ。
地上へ続く長く暗い階段の奥から、チカチカと点滅していた非常灯が、一つ、また一つと音を立てて破裂していく。
闇が、階段を下りてくる。
コツン。……コツン。
硬質な下駄の音が、コンクリートの壁に不気味に反響した。
その音が一つ鳴るたびに、地下構内の気温が急激に下がり、淀んだ水たまりの表面にピキピキと薄氷が張っていく。
そして、暗闇の奥から、むせ返るほどに甘く重たい『伽羅』の香りが、死の気配を伴ってどっと流れ込んできた。
「構えろォッ!! 妖月組の三代目が来るぞ!!」
指揮官が怒号を上げ、構成員たちが一斉に殺気を放つ。
だが、階段の暗がりから姿を現した『それ』を見た瞬間、彼らの殺意は、底知れない恐怖へと一瞬で塗り替えられた。
青白い狐火を纏い、悠然と階段を下りてくる孤高の存在。
漆黒の着物に咲き乱れる金糸の彼岸花。月光そのもののような白銀の長い髪。
妖しく細められた紅の瞳が、プラットホームにひしめく数百の敵兵を、ただの『路傍の石ころ』を見るかのように冷酷に一瞥した。
彼女の背後には、若頭の鬼道、本部長の雪柳、そして若頭補佐の黒曜蓮を筆頭に、数千の魑魅魍魎たちが、地鳴りのような足音を立てて巨大な地下空間へと雪崩れ込んでくる。
本物の百鬼夜行。
地下鉄の構内が、一瞬にして妖月組の濃密な妖気によって塗り潰された。
「……ほう。ネズミの巣穴にしては、随分と小綺麗な場所じゃな」
女王――李王桜は、赤いキセルを口元に運び、静かに紫煙を吐き出した。
人間の脆弱な肉体を通っていた血は、今は完全に妖怪の魔力回路へと置き換わっている。人間の姿であった昼間、この連中の刺客に怯え、震えていた感情など、今の彼女の脳髄には微塵も存在しない。
ただ、自らの『鞘(人間の身体)』を白日の下で脅かした外道どもへの、静かで絶対的な殺意だけが、青白い狐火となって彼女の周囲の空気をチリチリと焼き焦がしていた。
「や、殺れェェェッ!! 数で押し潰せ!!」
恐怖を振り払うように、指揮官が絶叫した。
数百の半妖たちが、一斉に武器を振りかざしてプラットホームから飛び降り、桜に向かって襲いかかる。
だが、桜はキセルを持ったまま、一歩も動かなかった。
「鬼、雪女」
桜が、冷たく、短く命じた。
「はッ!!」
両脇に控えていた古参幹部たちが、爆発的な妖気を放って前線へと飛び出した。
二メートルを超える巨躯をさらに膨張させた『鬼』の鬼道が、鉄骨の柱を根元から引き抜き、それを巨大な棍棒として振り回す。突っ込んできた数十人の半妖が、悲鳴を上げる間もなくミンチとなってコンクリートの壁に叩きつけられた。
同時に、『雪女』の雪柳が冷酷な目で扇子を振り下ろす。
「『絶対零度』」
彼女の周囲の水分が一瞬にして凍結し、無数の鋭い氷の槍となって敵陣に降り注ぐ。串刺しにされた半妖たちが、そのまま美しい氷像となってプラットホームに縫い付けられた。
「バ、バケモノどもが……! 大妖怪を放て!! アイツらを食い殺せ!!」
指揮官の男が、鎖を解き放つ。
背後に控えていた四体の異形――ビルほどの大きさを持つはぐれの大妖怪たちが、鼓膜を破るような咆哮を上げ、地響きを立てて突進してきた。
その圧倒的な質量の暴力が、鬼道と雪柳に迫った、その時だった。
「――邪魔だ、雑魚ども」
桜の斜め後ろ。誰よりも深くひれ伏していた『影』が、弾丸のような速度で宙を舞った。
黒曜蓮である。
彼は白シャツのネクタイを引きちぎりながら、空中でその姿を巨大な漆黒の狼へと変貌させた。いや、完全な獣ではない。人型を保ちながら、両手と両足にドス黒い魔力の爪と牙を顕現させた、黒狼の『半獣形態』。
昼間、人間の学校で息を潜め、裏でコソコソとネズミを狩らされていた不完全燃焼の苛立ち。そして何より、自らの絶対的な女王(お頭)の前で、その圧倒的な武威を示すことができるという極限の歓喜。
「俺の女王(お頭)の御前に、汚え血を撒き散らしてんじゃねえッ!!」
蓮は、突進してくる一体の大妖怪の顔面に、隕石のように着弾した。
ゴシャアアアアッ!!!
巨大な大妖怪の顔面が、蓮の右手の爪によって、文字通り『半ばからえぐり取られた』。
「ギ、ガァアアアアッ!?」
「鳴き声がうるせえよ。……死ね」
顔を失い、のたうち回る大妖怪の喉元に、蓮が容赦無く牙を突き立てる。
分厚い皮膚と筋肉を紙のように引き裂き、頸動脈を食い破る。噴き出す大量の血を浴びながら、蓮は狂ったように笑い声を上げた。
強者が弱者を喰らう。それが妖怪の理だ。
昼間、桜が人間の姿で見せていた「弱さ」は、彼にとって耐え難い屈辱だった。だが、夜の女王は違う。彼女はこの絶対的な暴力を完全に肯定し、その頂点で君臨している。
これだ。この血と暴力の匂いこそが、俺が魂を捧げた『神』のいる世界だ。
蓮は、床に倒れ伏した大妖怪の死骸を蹴り飛び、次なる標的へと躍りかかる。
その動きは、もはや武術でも戦術でもない。純粋な『殺戮の舞』だった。分家の半妖たちが束になってかかろうが、彼の漆黒の爪は一振りのうちに十人の胴体を両断し、内臓をコンクリートの床にぶちまける。
返り血で完全に赤黒く染まった蓮の姿は、まさに地獄から放たれた死神そのものだった。
「ひっ、ひぃぃ……っ! バ、バケモノ……っ!!」
わずか数分。
地下空間を埋め尽くしていた数百の分家構成員と四体の大妖怪は、鬼道、雪柳、そして狂犬・蓮の三人の幹部によって、文字通り『肉塊と血の海』へと変えられていた。
残されたのは、指揮官の男ただ一人。
彼は、血の海と化したプラットホームで腰から砕け落ち、ガタガタと震えながら後ずさっていた。
コツン。
下駄の音が鳴った。
桜が、血の海を割るようにして、ゆっくりと指揮官の男へと歩み寄ってくる。
その着物の裾には、一滴の血すら跳ねていない。彼女の周囲を取り巻く妖気の圧が、物理的な防壁となってすべての汚れを弾き落としているのだ。
「……これで終わりか?」
桜は、見下ろすように紅の瞳を細めた。
その声には、怒りすらない。ただ、無価値なゴミを見るような、絶対零度の冷徹さだけがあった。
「ま、待て……! 殺さないでくれ! 俺たちはただ、本家の命令に従っただけで……っ!」
「我が『鞘(人間)』を脅かしておいて、命乞いとは。……呆れてキセルの火も消えるわ」
桜が、ふう、と紫煙を指揮官の顔に吹きかけた。
「黒狼」
「――はッ」
血まみれの蓮が、一瞬にして桜の斜め後ろに付き従い、深く平伏した。
「よく働いた。……あとは我が掃除する。下がっておれ」
「御意のままに」
蓮は、熱を帯びた瞳で桜を見上げると、恭しく後ろへと下がった。
桜は、キセルを持ったままの右手を、退屈そうに軽く持ち上げた。
――その瞬間。
地下構内の空気が、チリッ、と焼け焦げた。
桜の魔法は、単に火を生み出すものではない。九尾の狐火の真髄は、『事象の書き換え』である。対象の細胞内に含まれる水分を、強制的に発火点まで引き上げるという、物理法則を完全に無視した極大の魔術。
「……灰すら残すな。不快じゃ」
言葉の終わりと共に、桜の紅の瞳が、残酷な光を放つ。
「ア……ガァ、アアアアアアアアアアッッ!!!」
音が、消えた。
指揮官の男の身体の『内側』から、青白い狐火が一瞬にして爆発した。
服が燃えるのではない。細胞が、血液が、骨髄が、超高熱の魔力によって直接発火させられたのだ。空気が急激に燃焼し、真空状態が生まれる。
鼓膜を破るような轟音の代わりに、ただ空気が急速に収縮する『ヒュッ』という無機質な音だけが響いた。
数千度の熱量の中、指揮官の男は一瞬のうちに黒焦げの炭となり、次の瞬間にはサラサラとした灰となって、地下の淀んだ空気に巻き上げられて散っていった。
圧倒的な、神威にも等しい暴力。
自らは指一本触れず、血一滴流すことなく、ただ静かに佇む白銀の女王。
「……お頭ァ!! 万歳!! 妖月組、万歳!!!」
生き残っていた末端の組員たちや、本家からついてきた数千の妖怪たちが、一斉に歓喜の咆哮を上げた。
圧倒的な武威。これこそが、彼らが魂を売り渡してでも付き従う、影の世界の絶対的な君主の姿だった。
その狂乱の歓声のど真ん中で。
蓮はただ一人、床に平伏したまま、恍惚とした吐息を漏らしていた。
彼の黒瞳は、舞い散る灰の向こう側で冷たく輝く桜の横顔に、完全に釘付けになっている。
自分たち妖怪が束になっても敵わない、この圧倒的なカリスマ。
(……ああ。やっぱり、あんただけだ。俺の魂をひれ伏させることができるのは)
昼間の人間の姿の時は、あんなに弱くて、震えていて、見ていて吐き気がするほど苛立たしいのに。
なぜ、この絶対的な神が、あの脆いガラス瓶(人間の身体)の中に収まっているのか。その矛盾した存在そのものが、蓮の心をドロドロとした執着の沼へとさらに深く引きずり込んでいく。
「……掃除は終わった。帰るぞ、おどれら」
桜が、キセルをトントンと鳴らして静かに言い放った。
その背中を見つめながら、桜の内側――妖怪の脳髄の奥底で、極めて冷徹な思考が動いていた。
(……これで、分家の本隊は壊滅じゃな)
彼女は、血の海と化した地下駅を無感動に見渡した。
自らの鞘(人間)を囮にし、炙り出して完全に焼き尽くした。妖怪の世界における「極道のケジメ」は、これで果たされた。
だが、あと十時間もすれば。
夜が明け、数珠を嵌め直した瞬間、自分はまた『平和な学校生活』に戻り、この凄惨な血の匂いに「気持ち悪い」と眉をひそめながら、小テストの点数に怯えるただの女子高生に戻るのだ。
その圧倒的な断絶。
自分という存在が二つに分断されているという底知れない孤独を、白銀の女王は誰にも悟られることなく、深い紫煙の奥へと静かに隠し通した。
彼女の足元では、狂犬が敵の血を啜りながら、最上の歓喜の声を上げ続けていた。
決して交わることのない「昼の弱さ」と「夜の狂信」。二人の最悪で最高のすれ違いは、血塗られた夜の関東で、いっそう深く、歪な絆として結びついていこうとしていた。




