白日の死角と、狂犬の不可視な牙
黒板を叩くチョークの乾いた音が、やけに鼓膜に響く。
私立翠風高等学校、2年C組の教室。窓の外からは、初夏の眩しい陽光と、グラウンドで体育の授業を受ける生徒たちの長閑な声が聞こえてくる。
ノートに数式を書き写すクラスメイトたちの、シャープペンシルが紙を擦る音。プリントをめくる音。
ごくありふれた、平和な三時間目の数学の授業。
だが、桜は指定の夏服ブラウスの下で、じっとりと冷たい汗を流し、ノートの下で固く両手を握りしめていた。
(……怖い。誰が、敵かわからない……ッ)
胃がキリキリと締め付けられ、喉の奥がカラカラに乾いている。
昨夜、本家での大広間。妖怪の回路で思考していた『夜の自分』は、あろうことかこの脆弱な人間の肉体を、分家の刺客を誘い出すための「餌」として堂々と白日の下に晒すことを決定した。
夜の自分にとっては「群がってきたネズミを番犬に狩らせる」という極めて理にかなった、冷酷で完璧な盤面なのだろう。
だが、数珠を嵌め、人間の感覚に戻った今の桜にとっては、たまったものではない。
妖力を封じられた昼間の桜には、分家の「半妖」たちが人間に擬態して潜り込んできた場合、それを見破る直感も、防ぐ力も一切ないのだ。
斜め前で居眠りしている男子生徒。さっきから廊下をウロウロしている見回りの体育教師。窓の外を横切った、購買のパンを運ぶ業者の男。
その誰もが、服の下にドスを隠し持ち、自分の首を狙っている関西の刺客に見えてしまう。
「……李王。この方程式の解、黒板に書いてみろ」
「ひゃっ、はいっ!?」
突然、数学教師の佐藤に名指しされ、桜は肩をビクンと跳ねさせて立ち上がった。
「なんだ李王、変な声出して。顔色が悪いぞ、保健室行くか?」
「い、いえ! 大丈夫です、すぐ解きます……っ」
クラス中の視線が一斉に自分に集まる。
桜は引き攣りそうになる頬の筋肉を必死に抑え、震える足で教卓へと向かった。背中に向けられた数十人の視線の中に、自分を殺そうとする『殺気』が混じっていないか、気が気ではない。
チョークを握る指先が、微かに震える。
(落ち着け、私……。大丈夫、大丈夫だから……)
桜は、深呼吸をして自分に言い聞かせた。
私の周りには、あいつがいる。
昼間の私を「無価値なゴミ」と見下し、苛立ちばかりをぶつけてくる最悪な後輩。だが、夜の女王の命令を絶対に違えることのない、最も凶暴な護衛。
『俺の女王(お頭)に指一本触れようとした輩は、人間の学校だろうがなんだろうが、肉片一つ残さず俺の胃袋に沈めてご覧に入れます』
昨夜、大広間で床に額を擦り付けていた、狂信に満ちた男の顔が脳裏に蘇る。
その時だった。
ガラッ、と。
教室の後ろの扉が、乱暴に開け放たれた。
「ん? なんだお前、授業中だぞ……って、1年の黒曜か。お前、また抜け出してきたのか!」
チョークを持ったまま振り返った佐藤が、咎めるような声を上げる。
教室の空気が、一瞬にしてピンと張り詰めた。女子生徒たちが息を呑み、男子たちが腫れ物を見るように視線を逸らす。
入り口に立っていたのは、漆黒の髪を無造作に乱し、指定のネクタイを外した白シャツ姿の黒曜蓮だった。
「……チッ」
蓮は佐藤の小言など完全に無視し、ひどく不機嫌そうに舌打ちをした。
彼の底冷えするような黒瞳が、教室の空気を物理的に凍らせながら、教卓の前で固まっている桜を真っ直ぐに射抜く。
その瞳には、昼間の非力な先輩に対する、明確な『苛立ち』と『軽蔑』が張り付いていた。
(……あんな情けねえ顔でチョークなんか握りやがって。どんくせえ)
声には出さずとも、その視線がそう雄弁に語りかけてくる。
「く、黒曜くん……?」
桜が震える声で名前を呼ぶと、蓮はズカズカと教室の中へ三歩だけ足を踏み入れた。
その瞬間。
フワッ、と。
桜の鼻腔を、むせ返るような『鉄の錆びた匂い』が微かに掠めた。
(え……?)
桜は息を呑んだ。
蓮の整った顔に、怪我はない。服にも汚れはない。人間の不良としての完璧な擬態。
だが、数時間前まで大広間で「人間の自分」を嘲笑っていたはずの夜の桜(自分)なら、間違いなく気づいていたはずだ。
今の蓮から立ち昇っているのは、先ほどまで新鮮な血肉を文字通り『引き裂き、噛み砕いていた』直後の、濃密な死の残り香であることに。
「おい黒曜! 勝手に入るな、お前には生活指導が――」
「あー、すんませんね。便所の帰り道、ちょっと『迷子』になっただけっすわ」
蓮は佐藤を睨み下ろし、氷点下の声でそう吐き捨てた。
「……邪魔しましたね、先輩」
最後に桜に向かって、わざとらしく、ひどく馬鹿にしたような声色で言い残し、蓮は再び乱暴に扉を閉めて廊下へと消えていった。
「……なんなの、あいつ。ほんと最悪」
窓際の席で、美波が小さな声で毒づく。
「目つき怖すぎ……桜、大丈夫?」
結衣が心配そうに桜を見つめた。
クラスメイトたちの目には、不良の1年が、気の弱い2年の先輩をからかいに来たようにしか映っていない。
だが、桜だけは違った。
チョークを握る手に、じわっと嫌な汗が滲む。
蓮が先ほど立ち止まっていた、教室の後ろの扉付近。そこには、台車の上の段ボール箱を運んできた『宅配業者の男』が、納品書を持って立っていたはずだった。
桜が教卓に向かう直前まで、確かにそこに立っていたのだ。
しかし今、廊下には台車だけがポツンと放置され、業者の男の姿はどこにもない。
……まるで、最初からこの世界に存在していなかったかのように。
(……狩ったんだ。たった今、この授業中に、私のすぐ背後で……っ)
桜は、カタカタと震える手で黒板に数式を書き殴りながら、背筋に冷たい氷柱を突き立てられたような悪寒を感じていた。
分家の刺客は、すでにこの白昼の学校に入り込んでいる。
そして、昼間の自分を「無価値だ」と見下しているあの狂犬は、その言葉とは裏腹に、桜の視界の端――文字通りの『死角』で、次々と刺客たちの喉笛を噛みちぎり、誰にも気づかれないまま血みどろの防衛線を敷いているのだ。
「……よし、正解だ。席に戻っていいぞ」
「はい……」
桜は、逃げるように自分の席へと戻った。
窓の外では、初夏の風が青々と茂った木々を揺らしている。
平和な学校生活。だが、その薄皮一枚隔てたすぐ裏側では、自分の命を巡る、音のない凄惨な殺戮劇がすでに幕を開けていた。
桜は自身の左手首――カーディガンの下に隠された数珠を、すがるように強く握りしめた。夜になるまで、あと数時間。それまで、あの狂犬の不可視の牙に、自らの命を委ねるしかなかった。
* * *
キーン、コーン、カーン、コーン……。
四時間目の終わりを告げるチャイムが、私立翠風高等学校の敷地内にのどかに響き渡った。
遠くのグラウンドから聞こえてくるサッカー部の歓声。渡り廊下を走る生徒たちのスニーカーが床を擦る音。弁当箱を開けるカチャカチャというプラスチックの響き。
日差しの差し込む新校舎が、平和な昼休みの喧噪に包まれていくその裏側で。
立ち入り禁止の札が掛けられた、旧校舎一階の理科準備室。
ホルマリンとアルコール、長年積もった埃の匂いが染み付いたその薄暗い密室は今、むせ返るような濃密な『鉄錆の悪臭』によって完全に支配されていた。
「ガ、アァ……ッ、ヒィ、ギ……ッ」
ひび割れた黒板の前。パイプ椅子に乱暴に縛り付けられた『宅配業者の男』が、白目を剥いて痙攣していた。
無理もない。彼の両腕は、関節とは全く逆の方向へと無惨にへし折られ、皮膚を突き破った白い骨が空気に晒されている。さらに致命的なのは、彼の首から下――心臓の直前までの肉体が、分厚い青氷によって完全に凍結させられていることだった。
悲鳴を上げることはできない。声帯ごと凍りついているからだ。
男の正体は、関西の分家から送り込まれた半妖の刺客。薬で妖気を消し、業者に擬態してあの2年C組の教室にまで潜り込んだ、プロの殺し屋だった。
……標的である、李王桜のすぐ背後にまで迫っていたはずだったのだ。
「……ほんと、不愉快だぜ」
室内の空気が、ピキリ、と物理的な音を立てて凍てついた。
男の前に立つ漆黒の影――黒曜蓮が、ひどく面倒くさそうに首の骨をゴキリと鳴らす。
開け放たれた白シャツの第一ボタン。緩められたネクタイ。その整った顔には、返り血一つ飛んでいない。彼はパイプ椅子に座る男を見下ろし、黒瞳の奥で絶対零度の殺気をチロチロと燃やしていた。
「昼間のあの人は、本当にどんくさい。ちょっと大きな音がしただけで肩を跳ねさせて、チョークを持ったまま情けねえ顔で固まってやがる。……あんな脆い器、俺が本気で息を吹きかけりゃ、それだけで壊れちまう」
蓮の喉の奥から、低く、獣のような唸り声が漏れた。
窓から差し込む一筋の陽光が、床に広がるドス黒い血だまりを照らしている。
「あんな弱々しい人間の女が、俺の『主』の抜け殻だなんて、何度見ても吐き気がする。……見ててイライラするんだよ。あんな無防備な背中を晒してたら、いつ誰に寝首を掻かれるか分かったもんじゃねえ」
蓮は、己の右手をゆっくりと持ち上げた。
その指先から、黒い靄のような妖気が立ち昇り、室内の温度が一気に氷点下へと急降下する。ビーカーの水が瞬時に凍りつき、窓ガラスにびっしりと霜の花が咲いた。
魔法の冷気が、物理的に空気を収縮させ、男の肺から酸素を奪っていく。
「だがな」
蓮の左手が、業者の男の髪を乱暴に掴み上げ、強引に視線を合わせさせた。
黒狼の瞳孔が、極限まで細められる。
「あの『鞘』に触れていいのは、俺の主の意思だけだ」
ギリッ、と。蓮の牙が鳴った。
「どこの馬の骨とも知らねえドブネズミどもが、俺の主の鞘に……あの人の怯えた背中に、その汚え視線を向けてんじゃねえぞ」
ゴッッ!!
鈍い破砕音。
蓮が右手の爪をひと振りした瞬間、男の凍りついていた下半身が、まるで薄いガラス細工のように粉々に砕け散った。
「――――――ッッ!!!」
声にならない絶叫を上げ、業者の男が床に転がり落ちる。切断面からは血すら流れない。すべてが極低温の妖気によって焼き尽くされ、細胞ごと死滅しているからだ。
「……チッ。手応えのねえゴミどもだ」
蓮は、床で痙攣を続ける肉塊を冷酷に見下ろし、つまらなそうに舌打ちをした。
この男で、今日四人目だ。
登校時の通学路で一人。体育の授業中、茂みに潜んでいた体育教師の擬態を一人。先ほどの三時間目、廊下を歩いていたこの業者と、もう一人の清掃員。
昼間の桜が、見えない恐怖に怯え、冷や汗を流しながらノートに数式を書き写しているその裏側で。
彼女の絶対的な護衛である狂犬は、彼女の視界にすら入らない「死角」で、文字通り音もなく、分家の刺客たちを一方的に屠り続けていた。
(……クソが。なんで俺が、あんな人間の小娘のために、こんな裏方みたいな真似を)
蓮は、ポケットから取り出したハンカチで、爪の先にわずかに付着した霜と血を拭き取った。
苛立たしい。昼間の彼女の姿を見るたびに、自分の崇拝が汚されたような気がして腹が立つ。
だが、同時に。
蓮の脳髄を焼いたのは、紛れもない『(夜の女帝)を降臨させるための器』を、他の雑魚に触れさせたくないという狂信的で獣じみた縄張り意識だった。
「……夜まで、あと六時間か」
蓮は、壁掛け時計の針を見上げ、低く呟いた。
太陽が沈み、あの絶対的な白銀の女王が顕現するまでの間。この脆く、頼りなく、イライラする人間の先輩の命は、完全に自分の手の中(牙の下)にある。
その歪な優越感が、蓮の唇の端を凶悪な三日月型に歪ませていた。
蓮が右足で床を踏み鳴らすと、彼の足元から広がる『漆黒の影』が、まるで意志を持った沼のように蠢き、床に転がる男の残骸と血だまりを、音もなく飲み込んでいく。黒狼の影による、完全な証拠隠滅。
数秒後、理科準備室には、埃と薬品の匂いだけが取り残された。
蓮は、乱れていたネクタイを面倒くさそうに締め直すと、白シャツの襟を立て、何事もなかったかのように旧校舎の扉を開けた。
眩しい初夏の陽光が、彼の端正な横顔を照らす。
どこからどう見ても、ただの不機嫌な男子高校生。
彼は、ポケットに両手を突っ込んだまま、自らの主が待つ――いや、自らの「保護下」で震えているであろう、2年C組の教室へと向かって、気怠げな足取りを進め始めた。
* * *
放課後の図書室には、特有の匂いがある。
日焼けした古い紙と、インクの乾いた匂い。そして、長年床に塗り重ねられたワックスの微かな薬品臭。西日が差し込む窓際では、空気中を漂う細かな埃が、金色の粒子となってゆっくりと舞っていた。
「……ふぅ」
図書委員である桜は 、貸し出しカウンターの奥で小さく息を吐き出し、返却された本の背表紙にバーコードリーダーを当てた。
ピッ、という無機質な電子音が、静まり返った室内に吸い込まれていく。
期末テスト前のこの時期、図書室を訪れる生徒はまばらだ。数人の生徒が自習スペースでノートを広げているだけで、書架の奥は完全な死角となり、ひっそりとした静寂に包まれていた。
桜は、カウンターの下でギュッと両手を握りしめた。
手汗で、指先がひどく冷たい。
今日の昼間、ずっとこの調子だ。視界の端で何かが動くたびに肩をビクンと震わせ、すれ違う生徒の顔を強張った目で見つめてしまう。昨夜の軍議で決まった「昼間の自分を囮にする」という狂った作戦のせいで、極度の緊張状態が続いているのだ。
(大丈夫……。ここは学校だし、他にも生徒がいる。それに……)
桜は、チラリと図書室の入り口に目をやった。
そこにあの『狂犬』の姿はない。彼は授業をサボってどこかへ消えたきり、一度も姿を見せていない。
だが、それが逆に桜の恐怖を煽った。「俺が護衛する」と大広間で豪語していたにもかかわらず、全くそばにいないのだ。もし今、ここに分家の刺客が現れたら、妖力を封じられた自分はただ殺されるのを待つしかない。
カツ……カツ……。
不意に、書架の奥から足音が聞こえた。
桜は反射的に身体をこわばらせた。足音は一定のリズムで、一直線にこのカウンターへと向かってくる。
本棚の影から姿を現したのは、見慣れない男子生徒だった。三年生のネクタイをしているが、顔に全く見覚えがない。彼は手ぶらで、図書室には不似合いな、だらりと腕を下げた奇妙な歩き方で近づいてきた。
(……え?)
桜の半妖としての本能が、警鐘を鳴らした。
空気が、急激に重くなる。図書室の古い紙の匂いが、突如として泥と生臭い獣の悪臭に塗り潰されたような錯覚。
男子生徒の目が、焦点の合わない不気味な濁り方をしている。さらに異常なのは、彼の右手の指先だ。人間の皮膚を突き破り、刃物のように鋭く黒い『爪』が、異常な長さに伸びていた。
(刺客……っ!!)
息が止まった。
逃げようと足に力を入れるが、蛇に睨まれた蛙のように、筋肉が完全に硬直して動かない。
男がカウンターの前に立つ。その濁った瞳が、桜の顔を無感情に見下ろした。
『……見つけたぞ、二代目』
人間の声帯から発せられたとは思えない、複数の声が重なったような不気味なノイズ。
男が、黒い爪の生えた右手を、桜の細い首筋へと無造作に振り上げた。
死ぬ。
桜がギュッと目を閉じ、絶望に身をすくめた、その瞬間だった。
「――チッ。図書室にまで湧いてきやがって。シラミかよ、テメェら」
真後ろから、底冷えするような低い声が降ってきた。
同時に、桜の背中スレスレを、文字通り『漆黒の旋風』が通り抜けた。
ドバシャァッ!!
「……え?」
桜は、目を見開いた。
振り上げられていた刺客の右腕が、肘から先ごと「消失」していた。
いや、消失したのではない。桜の真横を通り抜けた漆黒の影――黒曜蓮の左手が、文字通り男の腕を『噛みちぎり、引き裂いた』のだ。
カウンターの上に、どす黒い鮮血が雨のように降り注ぐ。
『ギ、ガァアアアアッ!?』
男が絶叫を上げようとした瞬間、蓮の右手が男の顔面を鷲掴みにし、そのまま強引に図書室の床へと叩きつけた。
ゴシャッ! という、頭蓋骨が砕ける生々しい音が静寂の図書室に響く。
蓮は、床で痙攣する男の背中に容赦無く膝を突き立てると、その首筋に己の牙を突き立て、音もなく致命傷を与えた。
自習スペースにいる生徒たちは、何一つ気づいていない。蓮が周囲数メートルに『認識阻害の冷気』を張り巡らせ、音と気配を完全に遮断しているからだ。
「……ひっ、ぁ……」
桜は、腰から砕け落ちるようにカウンターの床にへたり込んだ。
ガタガタと全身の震えが止まらない。
たった数秒の出来事だった。目の前の床には、先ほどまで自分を殺そうとしていた男が、首をあらぬ方向に曲げて血の海に沈んでいる。
「……おい」
頭上から、苛立ちを含んだ声が降ってきた。
桜が恐る恐る顔を上げると、返り血を浴びた蓮が、ポケットから出したハンカチで自らの指先の血を拭いながら、冷酷な黒瞳でこちらを見下ろしていた。
彼から放たれるのは、刺客の男など比較にならないほどの、濃密で圧倒的な『死の気配』。血に飢えた狂犬の、抑えきれない妖気が、図書室の空気を氷点下まで凍らせていた。
「声、出すんじゃねえぞ。……人間のガキどもに気づかれたら、面倒なことになる」
「れ、蓮……あんた……」
「安心しろ。死体は俺の影で喰わせる(処理する)。血の匂いも冷気で飛ばしてやるよ」
蓮は、床にへたり込んで震える桜を、ひどく冷ややかな目で見据えた。
そこに、怯える少女を労わるような感情は微塵もない。あるのはただ、自分の仕事を増やした「無能な器」に対する苛立ちと、自分の縄張りに足を踏み入れた敵への狂暴な攻撃性だけだ。
「……っ、どうして……。ずっと、近くにいたの……?」
桜が震える声で絞り出すと、蓮は鼻でフッと嘲笑った。
「勘違いすんじゃねえよ。俺が守ってんのは、テメェじゃねえ」
蓮は、桜の顔のすぐ横、カウンターの木枠にドンッと片手をつき、極限まで顔を近づけた。
彼から立ち昇る生臭い血の匂いが、桜の鼻腔を容赦無く塞ぐ。
「テメェはただの『入れ物』だ。俺の絶対的な神(お頭)を、夜まで保管しておくための脆いガラス瓶。……俺以外のゴミがそれに触れて、勝手に割られちゃあ困るから、見張っててやってるだけだ」
「……ッ」
「だから、大人しく震えてろ。テメェが人間としてどれだけ怯えようが、泣こうが知ったこっちゃねえが……俺の女王の器に傷一つでもつけたら、テメェ自身でも殺すぞ」
それは、究極の過保護でありながら、究極の拒絶だった。
彼が見ているのは、桜という人間ではない。彼女の中に眠る、圧倒的な力を持つバケモノだけだ。
桜は、恐怖で喉をヒュッと鳴らし、ただ無力に首を縦に振ることしかできなかった。
「……チッ、本当にどんくせえ」
蓮は心底つまらなそうに舌打ちをすると、体を離した。
彼の足元から漆黒の影が泥のように広がり、床に倒れた刺客の死体と血だまりを、音もなく飲み込んでいく。ほんの数秒で、図書室の床には何一つ痕跡が残らなくなった。
「今日の掃除は、これで八匹目だ。……放課後、とっとと本家へ帰れよ。日が暮れりゃあ、テメェの出番なんだからな」
それだけを吐き捨てると、蓮は何事もなかったかのように認識阻害の冷気を解き、図書室の出口へと向かって気怠げに歩き去っていった。
残された桜は、カウンターの陰で一人、自分の両腕をきつく抱きしめた。
刺客に殺されかけた恐怖よりも、あの狂犬から向けられた『圧倒的な暴力』と『自分という存在の完全な否定』が、鋭い氷柱となって彼女の心臓に深く突き刺さっていた。
(……怖い。敵も、身内も……全部、怖い……っ)
昼間の光の中で、桜は孤独に震え続けた。
自分が命を削って守ろうとしている者たちは、人間の自分を微塵も必要としていない。夜が来るまでの間、彼女はこの残酷な真実と、見えない恐怖にただ耐え続けるしかなかった。




