大広間の評定と、白日の標的
血の匂いと焦げた肉の臭いが、夜風に洗われて少しずつ薄らいでいく。
繁華街での圧倒的な蹂躙劇から一刻(二時間)後。李王組本家の中心に位置する、百畳敷きの大広間は、和蝋燭の青白い炎が揺らめくのみの、重苦しく張り詰めた静寂に包まれていた。
末端の組員や下級妖怪たちは、この広間に入ることはおろか、近づくことすら許されない。ここは、関東の影の世界を統べる妖月組の『忠臣』が集う、絶対的な聖域である。
上座。一段高くなった板間に置かれた豪奢な御膳と、黒漆塗りの脇息。
そこに、白銀の髪を滝のように流し、艶やかな黒着物を纏った九尾の女王――李王桜が、気怠げに肘をついていた。
指先には赤いキセル。吐き出される紫煙が、部屋に充満する重たい伽羅の香りと混ざり合い、彼女から放たれる圧倒的な妖気をさらに濃密なものにしている。
広間の下座に並び控えているのは、関東の影の世界を支配し、組の屋台骨を支える直参の最高幹部たちだ。
上座の正面で平伏しているのは、筋骨隆々の巨体を窮屈そうに折りたたむ『鬼』の若頭、鬼道。そして冷気を纏い、和装を乱れ一つなく着こなして端座する『雪女』の本部長、雪柳。
その両脇には、一騎当千の異形たちが圧倒的な妖気を押し殺して居並んでいる。
小柄な老婆の姿をしながらも、背後に二股に分かれた巨大な尾の幻影を揺らす金庫番――化け猫『猫又』の大婆、斑。
真紅のチャイナドレスから覗く白い脚を組み、妖艶な笑みを浮かべるシマの諜報長――猛毒を持つ巨大蜘蛛の化身『絡新婦』の爪紅。
鬼道に匹敵する巨体と丸サングラスで威圧感を放つ防衛の要――牛の頭と六本足の蜘蛛の胴体を持つ異形『牛鬼』の牛頭。
青白い顔で時折咳き込みながらも、底知れない知略の目を光らせる策士――猿、狸、虎、蛇の部位を併せ持つ最悪のキメラ『鵺』の幻夜。
革ジャンを着崩し、今にも暴れ出しそうに好戦的な笑みを浮かべる特攻隊長――炎に包まれた巨大車輪『輪入道』の炎雷。
そして、目元を包帯で隠し、フードを深く被って音もなく気配を消している影の処刑人――真空の刃を操る『鎌鼬』の白波。
そして――彼ら最高幹部よりもさらに一歩前。桜のすぐ斜め下、最も近い距離に身を沈め、未だ戦闘の熱を黒瞳に燻らせている『黒狼』の若頭補佐、蓮。
「――して。此度の後始末、どうなった」
桜の、低く透き通った声が大広間の空気を震わせた。
鬼が、滝のような冷や汗を拭いもせずに頭を下げる。
「はっ。繁華街に放たれた大妖怪三体は、お頭の御手により完全に消滅。残党の半妖どもにつきましても、黒狼が一人残らず喉笛を掻き切って始末いたしやした。……人間の警察には『大規模なガス爆発事故』として、既に情報操作の手を回してありやす」
「ご苦労じゃ、鬼」
桜は短く労い、キセルをふうと吹かした。
「じゃが、シマの空気がひどく淀んでおるな。近頃、不穏な輩が多すぎる」
「お頭の仰る通りで」
鬼が、ギリッと奥歯を噛み鳴らして顔を上げた。
「関西の分家の連中、なりふり構わなくなってきておりやす。今回の祭りの件といい、禁術を使ってまで大妖怪を人間の街に放り込むなど、極道の掟すら完全に投げ捨てた狂犬の所業。……奴ら、本気でこの関東のシマを根こそぎ奪う気ですぜ」
大広間の空気が、さらに一段階重く沈み込んだ。
李王組は「人間の影に寄り添い、無用な殺生を避ける」という古い任侠道を重んじている。だが、利権を狙う分家にとって、その掟はただの「足枷」でしかない。
桜は、感情の読めない紅の瞳を、静かに隣の雪柳へと向けた。
「雪女。そなたの見解は」
「はい、お頭」
雪女が、涼やかな、しかし微かに緊張を孕んだ声で答える。
「……今回の襲撃、ただのシマ荒らしではありません。黒狼が仕留める直前、半妖の一人を氷漬けにして生け捕りにし、拷問にかけました。……そこで、忌々しい事実が判明いたしました」
雪女の言葉に、隣の蓮がピクリと反応し、その黒瞳に凶暴な光を宿す。
「忌々しい事実?」
「はっ。奴ら……関西の分家は、お頭の『秘密』に辿り着いたようです」
和蝋燭の炎が、ボワッと大きく爆ぜた。
「『李王組の三代目は、昼間は完全に妖力を失うただの人間である』と」
沈黙。
それは、大広間が完全な真空に叩き落とされたかのような、恐ろしい無音だった。
妖怪の世界において、それは致命的な情報だ。「夜の九尾」には天地がひっくり返っても勝てないと悟った分家が、確実に殺せる『昼間の人間』の姿を標的に定めたという、明確な死の宣告。
ピキリ、と。
大広間の空気が、殺意の飽和によって物理的にひび割れた。
爪紅の艶やかな赤い爪が畳に深く突き刺さり、寡黙な牛頭がギリッと骨を鳴らす。炎雷の全身から怒りの炎が間欠泉のように噴き上がりかけた。幹部たちの「お頭を狙う外道は生かしておかない」という極道としてのドス黒い怒りが、部屋の気圧をデタラメに跳ね上げる。
「……ッ!! クソ外道どもがァ!!」
その幹部たちの殺意すらも置き去りにして、最初に静寂を破ったのは蓮だった。
彼の全身から、ドス黒い殺気が間欠泉のように噴き上がる。床板を掴む右手に漆黒の爪が顕現し、分厚い木の板がメリメリと音を立てて砕け散った。
「昼間の無防備なお頭の首を狙うだと……? ナメやがって。今すぐ俺が関西に乗り込んで、本家の幹部どもの首を根こそぎ刎ね飛ばしてきてやる!!」
「控えろ、黒狼」
桜の一言が、蓮の暴走を物理的な重圧となって床に縫い付けた。
「ガ、ゥ……ッ」
蓮は犬歯を剥き出しにして唸りながらも、絶対的な主の命令に逆らうことはできず、ギリギリと額を床に擦り付けた。
幹部たちの間に、かつてないほどの緊張が走る。
鬼も雪女も、顔を青ざめさせて桜の顔を見上げた。彼らが忠誠を誓っているのはこの『九尾の女王』だが、その器である人間の少女が昼間に殺されれば、この圧倒的な主も永遠に失われることになるのだ。
「お頭……っ、これは一大事ですぜ!」
鬼が身を乗り出して懇願する。
「昼間、お頭は人間の姿で『学校』などという無防備な場所に通っておられる。あんな開けた場所、刺客からすれば格好の的だ。……しばらくの間、昼間もこの本家の結界内から出ず、我らがお守りいたしやす!」
「そうです。人間の学業など、お頭の命に比べれば些末なこと。私が昼間の護衛を増員し、完全に隔離いたします」
雪女もまた、焦燥を露わにして同調した。
だが。
当の桜は、まるで他人の世間話でも聞いているかのように、退屈そうにキセルを傾けていた。
「……隔離、じゃと?」
紅の瞳が、ふっと細められる。
その瞬間、大広間を包んでいた重圧が、冷たく、底知れない『極道の凄み』へと変質した。
「馬鹿を言うな。我がいつ、そのような軟弱な真似を許した」
「し、しかしお頭! 昼間のあなたは、我々が守らねば喧嘩一つできないお身体で――」
「それがどうした、鬼」
桜の声は静かだったが、大広間の隅々まで刃のように響き渡った。
「我とて、我が半身……あの昼間の脆弱な『器』が、いかに臆病で、不器用で、ひ弱な存在かくらい理解しておるわ。ちょっと血を見ただけで怯え、すぐに涙を浮かべる、ひどく手のかかる脆い揺り籠じゃ」
桜は、ふふ、と喉の奥で妖艶に笑った。
人間の自分の弱さを嘲笑っているのではない。それは、自身の根幹を構成する『脆さ』を完全に受容し、その上で世界を睥睨する、絶対者の余裕だった。
人間の感覚で「怖い」と思う自分。それは事実だ。
だが、妖怪の脳髄で思考する今の桜にとって、その弱さすらも、自らの強大な力を休ませるための必要不可欠な『鞘』に他ならない。
「じゃがな。……我の鞘を、我の揺り籠を、外道どもに好き勝手傷つけられて黙っているほど、妖月組の代紋は安くないぞ」
スッ、と。
桜が紅い瞳を細め、下座の蓮を見下ろした。
「なあ、黒狼」
「……ッ、はっ!!」
名指しされた蓮が、ビクンと肩を震わせ、熱を帯びた瞳で主を見上げる。
「昼間、我がただの『無防備な人間』として歩いていると、連中は本気でそう思っておるようじゃな。……我の最も近くに、狂った番犬(お前)の牙が控えていることも知らずに」
蓮の瞳孔が、極限まで拡大した。
人間の自分を見下しているはずの番犬。言うことを聞かず、昼間は苛立ちばかりをぶつけてくる不遜な従者。
だが、夜の女王は、極道としての盤面において、彼という存在の『狂気と凶暴性』を誰よりも正確に評価し、信頼していた。
「我は、明日もいつも通り人間の皮を被り、陽の当たる『学校』へ通う」
「お、お頭!? それはあまりにも危険――」
「罠を張るのじゃ、雪女」
桜はキセルを脇息にトントンと叩きつけ、静かに命を下した。
「夜の闇に紛れてコソコソと嗅ぎ回るネズミどもを、一匹ずつ狩るのは手間じゃ。ならば、最も美味そうな餌(昼間の我)を堂々と白日の下に晒し、群がってきたところを一網打尽にする。……手を出した外道どもには、昼の光の下で『極道のケジメ』というものを骨の髄まで教えてやれ」
自らの最も弱い「人間の姿」を、あえて餌として白日の下に晒す。
その底知れない冷酷さと、あまりにもスケールの大きい盤面の支配。
「……ククッ。昼間はあんなにひ弱なのに、本当に恐ろしいお方だ」と鵺の幻夜が喉の奥で笑い、化け猫の大婆である斑は「先代の姐さん(紬)に似て、無茶をなさる」と誇らしげに目を細めた。
圧倒的なカリスマ。鬼道と雪柳をはじめとする最高幹部たちは皆、己の命を張ってシマの落とし前をつけようとする若き女王の覚悟に息を呑み、深い畏怖と熱狂と共に平伏した。
「黒狼」
「――御意」
蓮の声は、歓喜で震えていた。
昼間の人間の桜は嫌いだ。あの弱々しい姿を見るたびに苛立つ。
だが、今この瞬間、彼の絶対的な女王は彼に「昼間、迫り来るすべての刺客から、私の鞘を守り抜き、そして噛み殺せ」と極命を下したのだ。これほどの誉れはない。
「我が昼の微睡から覚めるまでの間……我の庭を荒らす塵芥どもは、お前がすべて喰らい尽くせ」
「承知……ッ。お頭に指一本触れようとした輩は、人間の学校だろうがなんだろうが、肉片一つ残さず俺の胃袋に沈めてご覧に入れます」
血に飢えた狂犬の宣言に、桜は満足げに唇の端を釣り上げた。
夜の王都を震え上がらせる妖怪極道の反撃が、静かに、しかし決定的に動き出そうとしていた。
それは同時に、翌日から始まる『私立翠風高等学校』という平和な空間が、蓮による血塗られた秘密の狩り場へと変貌することを意味していた。




