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白昼の不協和音と、血塗られた宵宮

初夏の陽光が、教室の窓ガラスを鋭く反射して床に四角い光を落としている。

 私立翠風高等学校、放課後。六時間目の終わりのチャイムが鳴り響くと同時、黒板のチョークの粉っぽさと、微かに汗ばんだ制服の匂いが混じる教室は、一気に解放感と喧騒に包まれた。


「終わったー! ねぇ桜、結衣ちゃん、今日駅前に新しくできたクレープ屋さん寄って帰ろうよ!」

 前の席から勢いよく振り返った美波が、鞄に教科書を放り込みながら目を輝かせる。その隣で、結衣が「もう、美波ちゃんは甘いものばっかり……」と呆れたように眼鏡の位置を直しながらも、満更ではない様子で小さく笑った。

「いいね。私も甘いもの、食べたかったところ」

 桜は、指定のスクールバッグを引き寄せながら、柔らかな微笑みを浮かべた。

 どこにでもある、平和な女子高生の放課後。明るい日差しと、他愛のないおしゃべり。桜はこの生ぬるくて優しい時間が、心底愛おしかった。

 左手首に巻かれた『封印の数珠』が、カーディガンの袖口の下で、ひんやりと脈打っているのを感じる。


――この数珠は、単なる妖力抑えの装身具ではない。

 人間と妖怪の血を引く半妖の桜にとって、これは肉体の『OS』を根本から切り替えるスイッチだ。数珠を外せば、彼女は名実ともに完全無欠の『九尾の女王』として覚醒し、大気を焦がすほどの無尽蔵の妖力を振るうことができる。

 だが、その強大すぎる回路の接続には、絶対的な時間制限があった。

 連続して妖力を解放できるのは、最長でも『半日(十二時間)』。それ以上解放し続ければ、人間の脆弱な血管と細胞は妖怪の魔力負荷に耐えきれず、自壊してしまう。一度リミッターを外した後は、再び数珠を嵌め、同じだけの時間――半日をかけて人間の肉体を「冷却(休ませる)」しなければ、本来の圧倒的な妖力を出力することはできないのだ。

 だからこそ、昼間の桜は文字通り「喧嘩一つできない非力な人間の少女」として過ごさなければならない。次の夜、完璧な女王として魑魅魍魎の頂点に君臨するために。


「……あーあ、また1年のあいつ、揉め事起こしてるらしいよ」

 不意に、廊下を覗き込んでいたクラスの男子が、面白がるような、それでいて怯えたような声を上げた。

 ピクッと、桜の肩が跳ねる。

「え、また狂犬くん? 今度は何したの?」

 美波が野次馬根性丸出しで身を乗り出す。男子生徒は肩をすくめた。

「昇降口の裏で、隣の工業高校の連中と乱闘騒ぎだってさ。相手、三人くらい救急車で運ばれたらしいぜ。教師が青い顔して走ってった」

「ひぇっ……やっぱりあの人、おかしいよ。近づかないようにしようね、桜」

 結衣が震え上がって桜の腕に抱きついてくる。

 桜は「う、うん。そうだね……」と引き攣った愛想笑いを浮かべながら、内心で激しい頭痛に襲われていた。


(あの、大バカ犬……ッ!!)


黒曜蓮。

 組の中でも最強クラスの戦闘力を持つ黒狼であり、桜に狂信的な忠誠を誓う若頭補佐。彼は「昼間の無防備なお頭を護衛する」という名目で、人間(それも桜と同じ年頃の男子高校生)に化け、この高校に潜り込んでいる。

 妖怪としての気配を完全に絶ち、見事なまでに人間の不良生徒に擬態しているのは良い。問題なのは、彼のその『狂犬』としての凶暴性が、昼間も一切鳴りを潜めないことだ。


「ちょっと、お手洗い行ってくるね! 先に校門で待ってて!」

 桜は美波と結衣にそう言い残すと、鞄を掴んで足早に教室を飛び出した。

 向かった先は、教師たちが駆けつけている昇降口ではなく、旧校舎へ続く人通りの少ない渡り廊下。微かに血の匂いが漂ってくるのを感じ取り、桜が防火扉を開けると、案の定、そこには指定の白シャツを薄汚れさせた長身の影が、古いコンクリートの壁に寄りかかっていた。


「蓮!」

 桜が声を荒げると、漆黒の髪を乱した蓮が、面倒くさそうに片目を細めてこちらを見た。

 その整った顔の頬には微かな擦り傷があり、口の端からは血が流れている。人間の不良を装っているため、妖怪の自己治癒力をあえて抑え込んでいるのだ。

「……チッ。なんだよ、邪魔くせえな」

 底冷えするような黒瞳が、桜をゴミでも見るかのように見下ろす。そこには、夜の女帝に向ける狂信的な熱など微塵もない。

「邪魔くせえな、じゃないでしょ! また乱闘騒ぎ起こしたの!? 何度言ったらわかるの、あんたは『目立たないように』護衛として潜り込んでるんでしょ。これ以上警察沙汰になったら――」

「あ?」

 蓮が、壁から背中を離し、ゆらりと桜に近づいた。

 彼から立ち昇る、むせ返るような雄の熱気と暴力の匂い。鼻先が触れそうな距離まで顔を近づけられ、ただの人間である桜は本能的に息を呑み、一歩後ずさる。


「ガタガタうるせえよ。シマの空気を汚すゴミ虫どもが湧いてたから、踏み潰してやっただけだ」

「だからって、昼間の学校で派手に暴れちゃ駄目って……」

「命令すんじゃねえぞ、人間」

 蓮の低い声が、桜の鼓膜を直接殴りつけるように響いた。

 彼の大きな左手が、桜の耳の横の壁をドンッと乱暴に叩く。退路を塞がれた桜を見下ろす蓮の瞳には、明確な『軽蔑』が渦巻いていた。

「俺のあるじは、圧倒的な力で夜を統べる『お頭』だけだ。……昼間、妖力も使えねえでヘラヘラと人間のガキどもと群れてるようなテメェに、俺を縛る鎖が握れるとでも思ってんのか?」

「……っ」

「テメェはただの『器』だ。俺の女王が顕現するための、ひ弱で脆い抜け殻に過ぎねえ。……器なら器らしく、大人しく隅っこで震えてろ」

 蓮は桜の言葉など一切聞く耳を持たず、血のついた親指で自らの唇を拭うと、桜の肩にわざと乱暴にぶつかるようにして、その場を歩き去っていった。

「……っ、ほんっとに……ムカつく!」

 桜は、残された防火扉の裏で、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 夜の自分には這いつくばって歓喜の声を上げるくせに、昼間の自分には微塵も敬意を払わない。この絶対的なすれ違いと下克上の態度に、桜は深い溜息をつき、人間としての重い足取りで親友たちの待つ校門へと向かった。


* * *


夕暮れ時。王都の東区画に位置する、人間たちの巨大な繁華街。

 駅前にそびえ立つ商業施設のネオンが、沈みゆく太陽と入れ替わるように一つ、また一つと点灯し始める。巨大な街頭ビジョンからは流行りのアイドルソングが絶え間なく流れ、行き交う人々の喧騒と、飲食店から漏れ出す香ばしい匂いが空気を満たしていた。


「見て見て桜、このワンピースすっごく可愛くない!?」

 アパレルショップの眩い照明の下、美波が淡いミントグリーンのワンピースを自身の胸元に当てて振り返る。

「あ、本当だ。美波の雰囲気に合ってるね。顔周りがすごく明るく見えるよ」

「でしょー! もうすぐ夏だし、ちょっと試着してくる!」

 足早にフィッティングルームへ向かう美波を見送りながら、桜はふと隣に視線を移した。結衣が、アクセサリーコーナーの前で真剣な顔をして悩んでいる。彼女の視線の先には、小ぶりな白い花のヘアピンがあった。


「結衣ちゃんは、そのヘアピン買うの?」

「う、うん……。今度の日曜日、少し、その……お出かけするから」

 結衣が耳まで真っ赤にして俯く。その初々しい反応に、試着室から顔を出した美波が「えーっ!? まさかデート!? 誰と誰と!?」と食い気味に詰め寄り、結衣が「ち、違うよぉ!」とさらに慌てふためく。

 キャアキャアとはしゃぐ二人の他愛のないやり取りを見ていると、桜の胸の内にあった蓮への苛立ちも、少しずつ溶けていくような気がした。


その後、三人は駅前に新しくできたクレープ屋へと立ち寄った。

 桜の手には、甘いホイップクリームと苺がたっぷりと乗ったクレープ。一口かじると、暴力的なまでの甘さと微かな酸味が口いっぱいに広がり、思わず頬が緩む。

(……美味しい)

 夜の路地裏で嗅ぐ、鉄が錆びたような血の匂いでもなく、本家に染み付いた重たい伽羅の香でもない。焼き立ての生地のバターの香りと、親友たちの明るい笑い声。


「桜、クリーム口の端についてるよ」

「えっ、嘘」

「ふふっ、子供みたい。はい、ティッシュ」

 結衣が笑って差し出してくれたティッシュを受け取りながら、桜は口元を拭う。

 この何気ない、生ぬるくて温かい時間。ただ笑い合い、服を選び、恋バナに花を咲かせ、テストの点数を心配する。暴力も、血の掟も存在しない、ただの十七歳の少女でいられる場所。

 この当たり前の『光の世界』を守るために、自分は夜な夜なバケモノの皮を被っているのだと、桜は甘いクレープを飲み込みながら静かに再確認する。冷たい極道の重圧を背負う彼女にとって、この二人の笑顔だけが、自身の人間性を繋ぎ止める唯一のいかりだった。


店を出て、商業施設の吹き抜けになっているガラス張りの通路を歩いていた時だった。

 ふと、桜は足をとめ、巨大なガラス窓越しに眼下の通りを見下ろした。

 繁華街のメインストリートでは、今日から始まる『夏越し(なごし)の祭り』の準備が佳境を迎えていた。等間隔に吊るされた何百もの提灯が、薄暗くなり始めたアスファルトをオレンジ色に染め上げている。焼きそばやりんご飴の屋台がズラリと並び、浴衣姿のカップルや子供連れの家族が、楽しそうに笑い合いながら歩いていた。

 平和な、人間たちの祭り。


だが。

 桜の黒曜石の瞳は、提灯の温かい光が届かない『路地裏の深い影』をじっと見つめていた。


(……空気が、淀んでる)


先ほどまで口の中にあったクレープの甘さが、急速に消え失せる。

 人間の肉体であっても、彼女の半妖としての直感は、平和な空気に混じる決定的な『異物感』をチリチリと肌で感じ取っていた。人間の目には見えない、薄暗い路地裏の奥で渦を巻くような、どす黒く生臭い妖気の集まり。

 昼間の十二時間を使い切り、冷却期間はもうすぐ終わる。あと一時間もすれば陽は完全に落ち、真の夜が来る。数珠を外せば、いつでも完全な妖力を引き出せる状態にまで、肉体の準備は整っていた。


「ねえ、二人とも」

 桜は、ウィンドウショッピングを続ける親友たちに、努めて明るい、いつもの声色で話しかけた。

「私、ちょっと家から連絡があって、今日は早めに帰らなきゃいけなくなっちゃった。ごめんね」

「えー! これからお祭りの屋台でかき氷食べようと思ってたのに!」

「ごめんごめん、また今度私が奢るから! 二人は気をつけて帰ってね」


不満げに頬を膨らませる美波と、心配そうに手を振る結衣を残し、桜は足早に商業施設を後にした。

 自動ドアを抜け、生ぬるい夜風が頬を撫でる。西の空は、すでに毒々しい赤紫の『逢魔が時』から、底なしの漆黒へとその色を塗り替えようとしていた。


桜はメインストリートの喧騒から逃れるように、雑居ビルとビルの間にある、人一人がやっと通れるほどの薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。

 ネオンの光も届かない、カビと生ゴミの匂いが立ち込める吹き溜まり。室外機の低い稼働音だけが響くその行き止まりで、桜はピタリと足を止め、鋭い視線で周囲を一瞥した。

 監視カメラの死角。野良猫一匹、人間の気配もない完全な密室であることを確認する。


今日、この繁華街で『夏越しの祭り』が開かれることは、組の者なら誰でも知っていた。

 数千、数万という人間が一堂に会し、熱気と活力を撒き散らす祭りの夜。それは、人間の放つ『陽』の気に引き寄せられる魑魅魍魎や、シマの利権を狙う他派閥にとって、絶好の狩り場となる。

 だからこそ今夜、若頭の鬼道や本部長の雪柳をはじめとする李王組の主戦力たちは、祭りの喧騒の裏側――路地裏やビルの屋上に散開し、シマの人間たちを影から守るための厳戒態勢(見回り)を敷いていた。

 だが、桜の肌を粟立てているこの淀んだ妖気は、ただの「はぐれ妖怪」が数匹迷い込んだ程度の生易しいものではない。明確な殺意と、組織だった軍勢の気配。間違いなく、関西の分家がこの祭りの夜を狙って、大規模な仕掛けに動いている。


「……時間ね」

 桜は小さく呟き、制服のカーディガンの袖を捲り上げた。

 左手首に嵌められた、先代の遺骨から作られた『封印の数珠』。

 冷たい指先で留め具に触れ、躊躇いなくそれを外す。


――カチリ。


物理的な留め具が外れただけの、小さな音。

 だが次の瞬間、路地裏の空気が「バチンッ!」と静電気を帯びて弾け飛んだ。

 大気を強引にねじ曲げるような、圧倒的な質量の妖気が桜の華奢な肉体から爆発的に噴き出す。

 足元のコンクリートに亀裂が走り、周囲に積み上げられていた段ボールや空き缶が、見えない暴風に煽られて宙に舞い上がった。


人間の脆弱な回路から、妖怪の底なしの魔力回路への強制移行。

 肩で切り揃えられていた柔らかな栗色の髪が、月光を紡いだかのような眩い白銀へと染まり上がり、足首まで届くほどの長さに伸びていく。黒曜石の瞳は、獲物を射抜くような妖しい紅へと色を変え、細められた。

 桜の全身から立ち昇る青白い狐火が、現し世のことわりを歪める。着ていたはずの窮屈な制服は、妖気そのものが編み上げた艶やかな漆黒の着物――金糸で彼岸花が毒々しく咲き乱れる極道の正装へと、瞬く間に変貌を遂げていた。

 彼女の背後で、九つの巨大な尾の幻影が、チリチリと空気を焼き焦がしながらゆっくりと揺らめく。


数秒前までクレープの甘さに微笑んでいた平凡な女子高生の面影は、細胞の欠片ほども残っていない。

 そこにあるのは、関東最大の妖怪極道『妖月組』の頂点に君臨する、冷酷にして絶対的な君主――『九尾の女王』の姿そのものだった。

 手の中に顕現した赤いキセルを唇に当て、ふう、と紫煙を吐き出す。

 思考回路は完全に冷え切り、眼下に広がる街のすべてが、自らの支配下にある「庭」にしか見えなくなる。

「……我が庭で泥遊びを企む外道どもに、極道の躾をしてやらねばのう」

 紅の瞳が、路地裏の闇の奥を冷酷に見据えた。


* * *


ドンッッ!!!!


祭りの賑わいを切り裂くような、鼓膜を破る轟音が繁華街のメインストリートに響き渡った。

 数秒前まで、笑い声と祭囃子に包まれていた大通りが、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変貌する。


「きゃあああああっ!?」

「な、なんだよこれ! ガス爆発か!?」

「逃げろ! 突風だ、屋台が飛んでくるぞ!!」


浴衣姿の人間たちが、パニックを起こして逃げ惑う。

 彼らの目には、妖怪の姿は一切見えていない。だからこそ、その恐怖は底知れないものだった。

 何もない空間から突如としてアスファルトが爆発するように抉れ、焼きそばやりんご飴の屋台が「見えない巨大な足」に踏み潰されたかのようにペシャンコに圧壊していく。空中に見えない巨大な壁でもあるかのように、街灯がへし折られ、火花を散らして落下する。

 テロか、暴走車両か、あるいは局地的な竜巻か。理解の及ばない物理的破壊の連鎖に、人間たちは悲鳴を上げながらドミノ倒しのように逃げ惑っていた。


だが、影の世界の住人たちの目には、その惨劇の正体がはっきりと映っていた。

「関西の分家のクソ共が……! 人間のシマで好き勝手暴れ回るたぁ、ええ度胸してやがるじゃねえか!!」


怒号を上げ、宙を舞う巨大な瓦礫を素手で殴り砕いたのは、見回りに就いていた李王組若頭・鬼道だった。

 彼はすでに人間の擬態を解き、二メートルを超える筋骨隆々の『鬼』の姿を顕現させていた。高価なスーツははち切れ、頭の二本の角から赤い妖気を立ち昇らせている。

 周囲には、彼と同じくシマの警護にあたっていた数十名の組員たちが、武器を構えて一般人の逃げ道の確保に奔走していた。


「若頭、感情的にならないでください。敵の狙いは明確です。祭りの人間たちを人質にとり、我々の『シマの人間を守る』という掟を逆手にとって消耗させる気でしょう」

 鬼道の背中合わせに立つのは、本部長の雪柳だ。彼女が扇子をひと振りすると、大気中の水分が一瞬にして凍りつき、逃げ遅れた人間たちに降り注ごうとしていた炎のつぶてを、巨大な氷の壁となって防ぎ止めた。人間たちからは、突如として季節外れの吹雪が巻き起こり、爆風を防いでくれたようにしか見えていない。


二人の古参幹部の周囲を、数十の半妖たち――関西の分家から送り込まれた殺戮部隊が、嘲笑うように包囲していた。

 だが、鬼道たちが苦戦している理由は、その数の多さだけではない。


「……グルルルルルッ……」

 半妖たちの背後。ビルの三階ほどの高さにまで達する、異形のバケモノが三体、涎を垂らして蠢いていた。

 無数の人間の腕が縫い合わされた肉塊のような胴体に、四つの目を持つ巨大な獣の頭。知性など欠片もなく、ただ破壊と殺戮の本能だけで動く『はぐれの大妖怪』だ。分家が、李王組の防衛線を突破し、祭りを血の海に沈めるために禁術で無理やり従えてきた生物兵器である。


「ハハハ! どうした関東最大の妖月組! 掟に縛られて、まともに反撃もできねェのか!」

 分家の部隊長格の男が、下劣な笑い声を上げる。

「見えない脅威に怯える人間どもの顔は最高だなァ! そのシマの人間共ごと、テメェらをミンチにしてやるよ! やれ、大妖怪!!」


三体の大妖怪が、一斉に咆哮を上げた。

 大気が震え、周囲のガラス窓が粉々に砕け散る。

 逃げ遅れた子供が、へたり込んで泣き叫ぶ。鬼道も雪柳も、敵の猛攻に釘付けにされ、間に合わない。巨大な肉塊の拳が、無慈悲に振り下ろされようとした、その絶対絶命の瞬間だった。


――ピキリ。


世界から、あらゆる音が「消失」した。


祭囃子も、人々の悲鳴も、大妖怪の咆哮すらも。

 まるで空間ごと巨大な真空パックに閉じ込められたかのように、すべての鼓膜の振動が強制的にミュートされる。

 急激に低下する気温。夏のはずの繁華街に、吐く息が白く凍るほどの、異常な冷気が満ちた。


「な、なんだ……!?」

 分家の部隊長が、本能的な悪寒に全身の産毛を逆立て、振り返る。

 ネオンの光がチカチカと明滅し、一つ、また一つと弾け飛んで消えていく。光を失った大通りの奥から、むせ返るほどに甘く、重たい『伽羅きゃら』の香りが、死の気配を伴って這い寄ってきた。


カラン、コロン。


静寂の世界に、ただ一つ。高い漆塗りの下駄の音だけが、不気味なほど鮮明に響き渡る。

 分家の半妖たちは、その姿を見た瞬間、自らの心臓を鷲掴みにされたような錯覚に陥り、一歩も動けなくなった。


濃密な闇を割り、青白い光を放ちながら歩みを進めてくる、孤高の存在。

 艶やかな黒着物に、金糸で刺繍された彼岸花。月光を直接紡ぎ出したかのような白銀の長い髪が、無重力のようにふわりと夜風に舞っている。

 彼女の背後には、数百、数千の異形たちが完全な沈黙を保ち、地の底から湧き出た影のように付き従っていた。関東最大の妖怪極道による、本物の『百鬼夜行』だ。


そして、その白銀の女王のすぐ斜め後ろ。

 昼間、旧校舎の裏で「無価値だ」と彼女を見下し、吐き捨てていた傲慢な若頭補佐――黒曜蓮が、右手にドス黒い妖気の爪を顕現させ、獲物を前にした猟犬のように身を低くして付き従っている。

 彼の黒瞳には、昼間の軽蔑など微塵もない。そこにあるのは、自らの主の圧倒的な威光に対する、狂信的なまでの歓喜と熱狂だけだ。


「お、お頭……ッ!」

 血を流す鬼道と雪柳が、その場に深く跪き、平伏する。


女王――李王桜は、赤いキセルを口元に運び、静かに紫煙を吐き出した。

 人間の脆弱な血管を通っていた血は、今は完全に妖怪の魔力回路へと置き換わっている。十二時間の冷却を経て解放された彼女の『九尾の妖力』は、空の星さえも焼き尽くしそうなほどの途方もない質量を持っていた。

 恐怖もない。痛みもない。

 ただ、絶対的な君主としての冷徹な感情だけが、彼女の脳髄を支配している。


「……我が庭で、ずいぶんと無作法が過ぎるのう」

 桜の、低く艶やかな声が大気を震わせる。

 妖しく光る紅の瞳が、分家の部隊長と、背後にそびえ立つ三体の大妖怪を、ただの路傍の石ころを見るように冷たく射抜いた。

「シマの人間を巻き込み、ゴミのような化け物を放つか。……極道の筋も通せぬ外道には、もはや生きる価値すらあるまい」


「ひ、ひぃぃっ……!! や、殺れ! そいつが妖月組の三代目だ! 殺せェェェッ!!」

 恐怖で顔を引き攣らせた部隊長が、半狂乱になって叫ぶ。

 三体の大妖怪が、地響きを立てて桜へと突進してきた。ビルを叩き潰すほどの巨大な質量が、華奢な彼女の身体目掛けて迫る。

 鬼道が「お頭ァ!」と叫ぶが、蓮は動かない。ただ、恍惚とした笑みを浮かべて、自らの女王の背中を見つめているだけだ。


桜は、キセルを持った右手を、退屈そうに軽く持ち上げた。


「――灰燼かいじんに帰せ」


その言葉の終わりと共に、彼女の背後でゆらめいていた九つの尾の幻影が、爆発的な青白い狐火へと変わった。

 一切のタメも、呪文もない。

 絶対的な暴力の顕現。


「ゴ、ァ……ッ!?」

 桜の指先から放たれた極大の狐火は、瞬く間に三体の大妖怪を丸呑みにした。

 熱いという次元ではない。細胞を、骨髄を、魂そのものを直接焼き尽くす神域の炎。

 悲鳴を上げる間もなく、ビルの三階ほどの高さがあった巨大な肉塊たちは、一瞬にして音を立てて崩れ落ち、チリチリと空気を焦がしながら、文字通りサラサラの『灰』となって夜風に散っていった。


「…………ぁ、あ……」

 分家の部隊長が、その場にへたり込み、絶望に歯の根をガチガチと鳴らした。

 逃げ遅れた人間たちからは、突如として発生した青白い光が巨大な竜巻をかき消したように見え、ただ呆然と空を見上げている。

 圧倒的。あまりにも次元が違いすぎる。

 これが、関東最大の極道を束ねる、九尾の女王の真の力。


「黒狼」

 桜が、静かに名を呼ぶ。

「はっ!」

 背後に控えていた狂犬が、嬉々として前に出た。

「残りのゴミどもは、お前にくれてやる。……一つ残らず、噛み砕け」

「御意のままに、お頭様」


蓮の身体が、巨大な漆黒の狼の幻影に包まれ、弾丸のような速度で分家の半妖たちへと襲いかかる。鮮血が舞い、断末魔の悲鳴が繁華街の闇に吸い込まれていく。

 凄惨な殺戮の宴のど真ん中で、桜は一人、キセルの煙を夜空に吐き出した。

 認識阻害の結界越しに、気絶していく人間たちの姿を無感動に見つめながら、白銀の女王はただ冷たく、夜の支配者としての威圧感を放ち続けていた。


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