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百鬼夜行を率いる夜

完全に陽が落ちた。  空を毒々しく彩っていた赤紫の逢魔が時はとうに終わり、王都は底なしの真っ黒な『真の夜』へと完全に沈み込んだ。

李王組本家、百畳敷きの大広間。  昼間はただの古びた屋敷にしか見えないその空間は、今や異界そのものへと変貌を遂げていた。  等間隔に置かれた和蝋燭の炎が、青白く、不気味な揺らぎを見せている。その頼りない明かりに照らし出されているのは、板張りの床に額を擦り付けるようにして平伏する、数百の異形たちだ。  鬼、獣人、のっぺらぼう、名状しがたい泥の塊。  普段は血の気が多く、隙あらば互いの喉笛を噛みちぎろうとする獰猛な妖怪たちが、今は一言も発することなく、ただ息を潜めている。  静寂。  それは規律によるものではない。ただ純粋な『本能的な恐怖』と『畏怖』が、彼らの声帯を物理的に麻痺させているのだ。

大広間の最奥、一段高くなった上座。  そこに続く重厚な黒檀こくたんの襖が、静かに、音もなく横へと滑った。

――ゆらり。

奥の暗がりから、ひどく甘く、むせ返るような伽羅の香を孕んだ紫色の煙が吐き出された。  カラン、コロン。  高い漆塗りの下駄が、床板を鳴らす。  たったそれだけの音、たったそれだけの気配で、大広間の空気が「ピキリ」と凍りついた。物理的な重力が増したかのように、平伏する妖怪たちの身体がさらに床へと押し付けられる。

闇の中から姿を現したのは、この世のあらゆる美と恐怖を煮詰めて、人の形に練り上げたような孤高の存在だった。

艶やかな黒地に、燃え盛るような彼岸花が金糸で刺繍された着物。それをだらしなく、しかし計算し尽くされたかのような絶妙な色気で着崩している。  豊満に波打つ胸元と、雪のように白い肌。  月光の繊維を一本一本紡ぎ出したかのような、眩い白銀の長い髪が、足首までふわりと広がっている。  そして、獲物を射抜くように細められた、妖しく光る紅の瞳。

数時間前まで、制服を着て廊下の隅で痛みに震えていた『平凡な女子高生』の面影は、細胞の欠片ほども残っていない。  そこにあるのは、関東最大の妖怪極道『妖月組』の頂点に君臨する、冷酷にして絶対的な君主――『九尾の女王』の姿そのものであった。

彼女の左手首には、すでに『封印の数珠』は無い。  リミッターを外された彼女の背後では、九つの巨大な尾の幻影が、青白い狐火を纏いながらゆらゆらと揺らめいている。尾が揺れるたびに、空間そのものが熱を帯びて歪み、チリチリと空気が焦げる匂いがした。

「――つらを上げな」

赤いキセルの吸い口から唇を離し、女が低く、艶やかに響く声で命じた。  鼓膜を直接撫で回されるようなその声に、妖怪たちがビクンと肩を震わせ、一斉に顔を上げる。彼らの瞳に宿っているのは、逆らうことなど到底不可能な、絶対的な上位存在への『狂信』だ。

女のすぐ傍ら。  上座の階段の下で、誰よりも深く、床にめり込むほどに額を擦り付けている漆黒の影があった。  黒曜蓮である。  昼間、壁際で人間の彼女を「無価値な小娘」と見下し、苛立ちをぶつけていた傲慢な狂犬は、今や見る影もない。  彼は血の匂いが染み付いた包帯の手を床につき、荒い息を吐きながら、まるで神に祈るような熱を帯びた瞳で、上座の女を――白銀の髪を持つ九尾を、下から見上げている。  その黒瞳には、昼間とは全く質の異なる、ドロドロに濁った独占欲と、背筋が凍るほどの従順な忠誠心が渦巻いていた。彼は、この圧倒的な暴力と美しさの権化に、己の魂のすべてを喰い尽くされることを心底から渇望しているのだ。

「若頭。シマの様子は」

女が、キセルの灰をコンと鳴らして問うた。  巨体の鬼――若頭の鬼道が、滝のような冷や汗を流しながら恭しく頭を下げる。昼間の「過保護な親戚のおじさん」の顔ではない。

「はっ。……関西の分家より入り込んだと見られる『半妖』の残党どもが、王都の東区画に潜伏しているとの報せが入っておりやす。今朝方、蓮が半殺しにした連中の、別働隊かと」 「そうか」

女は、ひどく退屈そうに紅い瞳を細めた。

「人の庭に土足で踏み込んでおいて、生きて帰れると思っているとは……ずいぶんと安い命じゃのう」

フッ、と。  女が妖艶に微笑んだ瞬間、大広間を埋め尽くしていた青白い和蝋燭の炎が、一斉にドクンと大きく爆ぜた。  部屋の温度が一気に急降下する。呼吸をするだけで肺が凍りつきそうなほどの、濃密で暴力的な『死』の気配。  女から放たれる圧倒的な殺気に、末端の下級妖怪たちは白目を剥き、口から泡を吹いてその場に気絶しそうになるのを必死に堪えていた。

「行くぞ、おどれら」

女が、着物の裾を翻してゆっくりと歩き出す。  彼女が一歩足を踏み出すごとに、モーセの十戒のように、ひしめき合っていた数百の妖怪たちが慌てて道を空け、平伏していく。

「――夜は、我らのものじゃ。このシマで好き勝手暴れ回る塵芥ちりあくたどもに、誰がこの街のあるじか、骨の髄まで叩き込んでやれ」

「「「オオオオオオオオオオオッッ!!!」」」

大広間が震え、屋敷全体が軋むほどの、妖怪たちの凄絶な雄叫びが夜空に轟いた。  それは、ただの号令ではない。絶対的な君主に導かれ、血と暴力の宴へと向かう異形たちの、歓喜の咆哮だった。

重厚な本家の門が、音を立てて開け放たれる。  外には、近代的な王都のビル群と、人工的なネオンの光が広がっている。  しかし、女が門をくぐり、下駄の音を夜の闇に響かせた瞬間。  街灯の光はチカチカと明滅して次々に消え失せ、アスファルトの上の『影』が、まるで墨汁をこぼしたかのように異常な速度で浸食し、拡大していった。

『百鬼夜行』。

先頭を歩く白銀の女王。  その真後ろには、巨大な黒狼へと姿を変えた蓮が、最も信頼のおける影としてピタリと付き従い、周囲の暗闇に獰猛な牙を剥いている。  さらにその後ろを、鬼道や雪柳といった幹部たちを筆頭に、数百、数千の魑魅魍魎たちが、妖気を立ち昇らせながら地鳴りのような足音を立てて大通りを練り歩く。    人間たちは決して気づかない。  彼らが眠るコンクリートのジャングルのすぐ真下で、空気が軋むほどの圧倒的な重圧を伴って、異形の大行進が始まっていることを。  そして、その頂点に立つ美しくも残酷な怪物が、昼間は「普通の女子高生」として、平和に学校生活を送っているなどという真実を。

赤いキセルから吐き出された紫煙が、夜風に溶けて消える。  紅の瞳が、ネオンの光の届かない路地裏の奥――潜伏する敵の気配を、冷酷に射抜いた。

女王が歩みを止めることはない。  彼女が夜を練り歩く限り、この街の闇は、永遠に彼女の支配下にあった。


関東の東区画。再開発から取り残され、巨大な墓標のようにそびえ立つ廃工場の群れ。  錆びたトタンと油の酸化した匂いが立ち込めるその一角で、人間社会の皮を被った異端者――関西の分家から送り込まれた『半妖』の残党数十名が、息を潜めていた。

窓枠に貼られた黒いビニールシートが、不快な隙間風に煽られてバタバタと鳴る。  薄暗い工場跡地に乱雑に置かれたドラム缶の周りで、半妖の男たちは安いタバコを吹かし、ひどく苛立った様子で貧乏揺すりを繰り返していた。

「……クソが。朝から偵察に出た五人が、まだ戻らねェ。連絡もつかねェってどういうことだ」

ドラム缶の上に腰掛けた、一際体格のいい男――残党のボスが、吸い殻をコンクリートの床に吐き捨てて舌打ちをした。  彼の首筋には、妖力を抑え込み人間に擬態するための『薬』の副作用である、どす黒い静脈の浮き出しが網の目のように走っている。

かしら、まさか李王組の本隊に感づかれたんじゃ……」 「馬鹿野郎、俺たちの妖力は完全に隠蔽されてる。それに李王組の三代目は、先代の血を半分しか引いてねェただの小娘だ。夜の姿がいくらおっかねェって噂でも、昼間は喧嘩一つできねェ腑抜けだって分家の幹部も言ってただろうが!」

ボスの男が怒鳴り散らした、その瞬間だった。

――ピキ、ピキリ。

廃工場を満たしていた淀んだ空気が、文字通り、物理的な音を立てて凍りついた。  気温が急激に低下したのではない。まるで、空間そのものの『気圧』がデタラメに書き換えられたかのような、鼓膜が内側から圧迫される不快感。  タバコの煙が、空中でピタリと静止した。  ドラム缶の炎が、酸素を奪われたようにチロチロと弱々しく縮み上がり、やがて、音もなく青白い色へと変色していく。

「な、なんだ……!? 急に、寒気、が……ッ」

半妖の一人が、自身の両腕を抱き抱えて後ずさった。彼らの吐く息が、真っ白な霧となって空中に浮かび上がる。  錆びた鉄の扉の向こう側から、何かが来る。  ズズッ、ズズッ、という、無数の肉塊がアスファルトを這いずるような湿った音。  チリン、と鳴る錫杖の音。  そして、空気を焼き焦がすような、むせ返るほどに甘く重たい伽羅きゃらの香。

百鬼夜行。  この街の真の支配者たちが、彼らの命を刈り取るために、文字通り『死の行進』を連れてやってきたのだ。

「ひっ……!」

半妖たちが武器の鉄パイプやドスを構えた直後。  頑丈なはずの廃工場の鉄扉が、爆発したわけでもなく、ただ『影』に飲み込まれるようにしてドロリと崩れ落ちた。  外に広がっていたのは、星の光すらない、底なしの漆黒。  その真っ暗な泥のような空間から、一条の巨大な黒い影が、弾丸のような速度で工場内へと射出された。

「――チッ。どいつもこいつも、血が不味そうなドブネズミばかりだな」

声が響いた時には、すでに惨劇は始まっていた。  先陣を切ったのは、漆黒の髪を振り乱した一人の青年――黒曜蓮だ。

「ギャアアアアアッ!?」

悲鳴が上がるよりも早く、最前列にいた半妖の喉笛から、鮮血の大噴水が夜空に向かって噴き上がった。  蓮は、手にした刃物など使っていない。人間の姿のまま、ただその鋭い爪と牙、そして圧倒的な膂力だけで、群がる半妖たちを文字通り『引き裂いて』いく。  ブチャッ、ゴシャッ!  頭蓋骨が砕け、肋骨がひしゃげる生々しい破砕音が、広大な工場跡地に響き渡る。  返り血を浴び、白シャツをドス黒く染め上げた蓮の姿は、まるで歓喜の舞を踊る死神だった。

「ひ、ひぃぃっ! ば、化け物……!」 「逃げろ! こいつ、ただの若頭補佐じゃねェ! まともな妖怪じゃ――」

「逃がすかよ。……テメェらは、お頭のシマを汚した。俺の、大嫌いな『昼間』を嗅ぎ回った」

逃げ惑う半妖の一人の背中に、巨大な漆黒の狼の幻影が重なる。  蓮が地を蹴った瞬間、コンクリートの床がクレーターのように陥没し、次の瞬間には、逃げようとした男の背骨が蓮の踵によって無残に踏み砕かれていた。

「ガ、ハッ……!」 「俺の頭の庭に土足で踏み込んだ分際で、楽に死ねると思うなよ」

蓮の黒瞳が、狂気的な熱を帯びて三日月のように歪む。  彼は血だまりの中で震える残党のボスに歩み寄ると、その胸ぐらを無造作に掴み上げ、床を引きずりながら、開け放たれた工場の出入り口――深淵のような闇の入り口へと放り投げた。

「ガハッ、ゲホッ……! 許し、て……」

血反吐を吐きながら命乞いをするボス。  その視界の先、濃密な闇と伽羅の香が渦巻く入り口に、紫色の煙がゆらりと立ち昇った。

カラン、コロン。

高い漆塗りの下駄の音が、血の匂いに満ちた静寂を切り裂く。  闇の中から現れたのは、白銀の髪をふわりと夜風に揺らす、絶世の存在だった。

金糸で彼岸花が刺繍された黒着物を艶やかに纏い、手には赤いキセル。  彼女の背後には、数百の異形――妖月組の妖怪たちが、文字通り地面に額を擦り付けるようにして平伏し、完全な沈黙を保っている。彼らは一歩も工場内に入ろうとはしない。否、彼女の放つ圧倒的な妖気の『圧』の前に、立ち上がることすら許されていないのだ。

「……あ、あ……」

ボスの男は、絶望に歯の根をガチガチと鳴らした。  目の前に立つ女から放たれるのは、先ほどの狂犬など比にならない、次元の違う『死の冷気』。  女の背後で、青白い狐火を宿した九つの尾が、空間の輪郭を焼き焦がしながらゆっくりと揺らめいている。

「お頭」

血まみれになった蓮が、女の足元、その着物の裾が触れるか触れないかの位置に深く跪き、額を冷たいコンクリートに擦り付けた。

「シマを荒らしたゴミどもです。……すべて、御意のままに」

ひどく熱を帯びた、狂信的な声音。  女――九尾の女王である桜は、足元で平伏す狂犬に一瞥もくれることなく、細めた紅の瞳で、震える半妖のボスを見下ろした。

「……随分と、安い命を賭けたものじゃな」

桜の唇から紡がれる声は、酷く冷たく、透き通っていた。  彼女がキセルを口から離し、ふう、と紫煙を吐き出す。  その瞬間だった。

――バチリッ。

空気中の静電気が弾けるような音がした。  直後、ボスの男の全身の産毛が総毛立ち、血液が一瞬にして沸騰するような極限の恐怖が脳髄を直撃する。  桜が、右手を軽く持ち上げたのだ。  ただそれだけの動作。何の呪文も、前兆もない。

「灰すら残すな。……不快じゃ」

言葉の終わりと共に、桜の紅い瞳が、残酷な光を放つ。

「ギ、ギャアアアアアアアアアアアアッッ!!!」

音が、消えた。  ボスの男の身体の『内側』から、青白い炎が一瞬にして爆発した。  服が燃えるのではない。細胞が、血液が、骨髄が、超高熱の狐火によって直接発火させられたのだ。  空気が急激に燃焼し、真空状態が生まれる。音すらも吸い込む圧倒的な熱量の中、男の身体は一瞬のうちに黒焦げの炭となり、次の瞬間にはサラサラとした灰となって、吹き込んだ夜風に巻き上げられて散っていった。

残った半妖たちにも、等しく死の炎が降り注ぐ。  逃げる間も、悲鳴を上げる間も与えられない。  広大な廃工場を埋め尽くしていた数十の命が、桜の指先一つで、瞬きをする間に青白い光の粒へと変換され、この世から完全に消滅した。

圧倒的な、神威にも等しい暴力。  血一滴流すことなく、ただ静かに佇む白銀の女王。半妖の残党を瞬殺し、はぐれ妖怪を焼き斬った後でも息一つ乱れていない、むしろ退屈そうにすら見える。

「……あぁ」

残されたのは、血の匂いと、空気が焦げたオゾンの匂いだけ。  その死の静寂の中、桜の足元に跪いたままの蓮だけが、ただ一人、恍惚とした吐息を漏らした。  彼の黒瞳は、舞い散る灰の向こう側で冷たく輝く桜の横顔に、完全に釘付けになっていた。  自分たち妖怪が束になっても敵わない、この圧倒的なカリスマ。この絶対的な残酷さ。これこそが、彼が魂を売り渡してでも守り抜きたいと願う、彼の『すべて』だった。

桜は、キセルをトントンと鳴らすと、背後の闇に向かって静かに言い放った。

「掃除は終わった。……帰るぞ、おどれら」

その言葉を合図に、平伏していた数百の妖怪たちが、地響きのような歓喜の咆哮を上げる。  夜の王都は、完全に彼女の支配下にあった。  


** *


白み始めた東の空が、夜の輪郭を青白く切り取っていく。  鳥たちの囀りが遠くで微かに聞こえ始める頃、李王組本家は、濃密な血と狂気の匂いを孕んだ『夜』から、穏やかな『朝』へと静かに姿を変えようとしていた。



李王組本家の奥深く。桜の私室へと続く渡り廊下には、古い木と伽羅の香りに混じり、夜露の湿った匂いが漂っている。

 白銀の髪を引きずりながら歩を進める桜の足取りは、誰の目にも『夜を統べた絶対的な女王の凱旋』に映っていた。廊下の隅に控える下級妖怪たちは、彼女が通り過ぎるたびに微かな衣擦れの音すら立てぬよう、石のように平伏し続けている。

私室のスギ戸を、音を立てずに閉める。  


 完全に一人きりの空間になった瞬間。桜は、右手から赤いキセルを畳の上にコトンと置いた。

 そして左手を持ち上げ、懐に忍ばせていた『封印の数珠』を、右手首へと押し当てる。


それは、先代である父の遺骨と、数百年を生きた大妖怪たちの『核』を削り出して繋ぎ合わせた、特級の呪具だ。

 純血の妖怪であれば、ただの妖力抑えに過ぎない。しかし、人間と妖怪の血が混じる『半妖』の桜にとって、これは彼女の肉体の構造そのものを根本から書き換える、重大で危険なくさびであった。


留め具が、カチリと鳴る。

 その瞬間。


「――っ、ふぅ……」

 大気を震わせていた強大な『九尾』の妖気が、渦を巻いて一気に数珠玉の内部へと吸い込まれていく。

 空気の膨張が弾け、部屋の気圧が急激に元に戻る。鼓膜をツンと突く物理的な耳鳴りと共に、桜の身体から眩い白銀の色が抜け落ち、本来の柔らかな栗色へとスッと戻っていった。妖しく光っていた紅の瞳も、ただの黒曜石へと収束する。


魔法的な回路が遮断され、人間の脆弱な血管だけが残る。

 その途端、桜の肉体に「本来の重力」がドッと押し寄せた。妖怪の時には一切感じなかった、床の冷たさ、手足の重さ、そして、自らが纏っていたはずの濃密な血と焦げた肉の匂いが、人間の嗅覚を通して急激に鼻腔を打ち据える。


肉体が人間に戻ると同時に、彼女の精神を覆っていた『絶対的な捕食者としての感覚』もまた、波が引くように薄れていった。

 記憶も、意思も、確実に地続きの『自分』のものだ。先ほど廃工場で、命乞いをする半妖たちを一切の躊躇なく灰に変えたのも、自らの冷徹な判断だった。妖怪としての桜にとって、シマを荒らす輩を焼き尽くすことは、呼吸をするのと同じくらい当然の『ことわり』に過ぎないからだ。恐怖も、罪悪感も、そこには一切存在しなかった。


だが、人間の感覚に戻った今、その凄惨な記憶に対する処理の仕方が、まるで別人のように切り替わる。


「ん〜〜っ……疲れたぁ……」

 桜は、着物をだらしなくはだけさせたまま、畳の上にゴロリと大の字に寝転がった。

「あーあ、あの半妖のおじさんたち、妙な薬なんて使ってるから燃やした時の匂いが最悪だったな……。お風呂入りたいけど、動く気力ないや。ていうか、明日数学の小テストじゃん……どうしよ」

 い草の匂いを嗅ぎながら、天井の木目を見上げてぼやいた。

 そこにあるのは、指先一つで数十の命を消し飛ばした冷酷なバケモノではなく、テストの点数と風呂に入る面倒くささを天秤にかける、ごくありふれた人間の女子高生の姿だった。


圧倒的な力と残虐性を振るった直後に、それを「日常の出来事」として気の抜けた態度で受け流してしまう。二つの世界をシームレスに行き来するこの特異な精神構造こそが、彼女が『妖月組の姫』として狂気を保ち続けていられる理由でもあった。


――その時だった。

 背後のスギ戸が、何の躊躇いもなく、スパーン! と乱暴な音を立てて開け放たれた。


「チッ。お頭、残党の首は全て……」

 不遜な舌打ちと共に踏み込んできたのは、つい先程まで、夜の女帝の足元で歓喜の咆哮を上げ、狂信的な忠誠を誓っていた狂犬――黒曜蓮だった。

 彼は、返り血でドス黒く染まった白シャツのまま、戦闘の興奮を黒瞳にギラギラと滾らせて部屋の中を見下ろした。


だが。

 彼の口から出ようとしていた報告の言葉は、空中で完全に凍りついた。


「…………あ」

 畳の上でだらしなく転がり、気の抜けた顔でこちらを見上げている栗毛の少女。

 桜は「しまった」とばかりに肩を跳ねさせ、慌てて起き上がって正座の姿勢に戻るが、もう遅い。


蓮の瞳孔が、スッと細められた。

 先ほどまで、彼の魂を震わせるほどの圧倒的な力とカリスマを放っていた、気高く美しい白銀の女帝はどこにもいない。そこにあるのは、昼間の学校で自分が「どんくさい」「無価値だ」と見下している、気の弱い『ただの人間の先輩』の姿だった。


「……テメェ」

 蓮の喉の奥から、地鳴りのような低い唸り声が漏れた。

 湧き上がってきたのは、強烈な苛立ちだ。自分が心底ひれ伏し、魂を捧げた絶対的な『神』が、数珠一つでこんな矮小で平凡な人間にすり替わってしまう。この「昼の顔」を見るたびに、蓮は得体の知れない苛立ちと、自分の崇拝を汚されたような拒絶反応に苛まれるのだ。


「れ、蓮……報告、ご苦労様。えっと、片付けは……」

「……チッ」

 桜のオドオドとした、人間特有の頼りない声色を遮るように、蓮はひどく不機嫌な舌打ちをした。


「報告は、外の衆に任せます。……こんな間の抜けたツラ、一秒でも長く見てたら、こっちの調子が狂うんでね」

「えっ……」

「さっさと寝ろ。昼間、学校で居眠りして階段から落ちそうになっても、俺は助けねえからな」


それだけを吐き捨てるように言うと、蓮はバンッ! と乱暴にスギ戸を閉め、足音を荒立てながら去っていった。

 後に残されたのは、ビクッと肩をすくめた桜と、静かな朝の冷たい空気だけ。


「……なによ、もう。夜はあんなに従順なくせに……ほんと、不器用なバカ犬」

 桜は、閉ざされた襖に向かって小さく唇を尖らせた。

 狂犬との最悪のすれ違いを抱えたまま、妖月組の姫は、数時間後に迫る『平和で退屈な学校生活』に向けて、重い瞼を閉じた。

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