逢魔が時の屋敷にて
西の空が、ひどく毒々しい赤紫に爛れていた。
昼の光と夜の闇が溶け合い、世界の輪郭が曖昧に崩れ落ちる『逢魔が時』。血の滲んだような夕暮れの光が、李王組本家の黒々とした瓦屋根を重々しく舐め回している。
母屋から離れへと続く、長く薄暗い渡り廊下。
昼間の熱気を吸い込んだ初夏の生ぬるい風が、開け放たれた縁側からねっとりと肌にまとわりつく。それなのに、屋敷の奥へと足を踏み入れるたび、数百年を経た古木が放つひんやりとした冷気が、足袋越しに這い上がってきた。
どこからともなく漂ってくる、ひどく重たくて甘い伽羅の香。それに混じる、古い紙と影の匂い。蝋引きされ、鏡のように黒光りする床板は、桜が歩を進めるたびに「きしり、きしり」と、まるで屋敷の底で何かが低い呻き声を上げているかのように鳴った。
桜は、小さく息を吐き出し、カーディガンの裾を握りしめた。
夜が近づくにつれ、屋敷内に満ち始める魑魅魍魎たちの濃密な気配。ただの人間の身体には、それが肌を刺すような重圧となってのしかかる。
それでも彼女は、誰にもこの弱さを悟られるわけにはいかない。恐怖と疲労を押し殺すように表情筋を完全に凍りつかせ、重力に逆らうように背筋をピンと伸ばして、夕闇の沈む廊下を進む。
逢魔が時。
それは、コンクリートとネオンに守られた『表の住人(人間)』たちの時間が終わり、泥と血の匂いに塗れた『影の住人(妖怪)』たちが目を覚ます境界線だ。
ここ李王組本家は、関東一円の裏社会を牛耳る最大派閥の心臓部。結界に覆われたこの広大な日本屋敷のすぐ外では、無数の異形たちがシマ(縄張り)の利権や命を求めて毎夜蠢いている。はぐれ妖怪が人間の喉笛を狙い、他派閥の血の気の多い輩が李王の代紋に牙を剥く。
人間と妖怪のハーフである桜は、その血生臭い混沌をすべて束ねる「次期組長」という、あまりにも重すぎる肩書きを背負わされていた。力こそが絶対の法である妖怪社会において、昼間の非力な彼女は本来、一番最初に喰い殺されるべき弱者に過ぎない。綱渡りのような絶望的な均衡の中で、彼女はたった一人、孤独な歩みを進めていた。
伽羅の匂いが一段と濃くなる、渡り廊下の突き当たり。
向かう先である私室のスギ戸の前に、その『影』はどろりとした淀みのように沈んでいた。
障子越しに差し込む血色の夕日を背に受け、光を一切反射しない漆黒の長身。古い木壁に背を預け、沈黙したままこちらを見下ろしている男の冷たい輪郭が、仄暗い空間にひっそりと浮かび上がっていた。
「……遅いっすね。呼び出しておいて待たせるなんて、人間の時間の感覚はどうなってんだか」
静まり返った薄暗い廊下に、ひどく冷ややかな、それでいて鼓膜の奥を直接撫でるような低い声が響いた。
スギ戸の前に立つその姿は、血色の夕日を背に受けているというのに、周囲の光をすべて吸い尽くすかのような異様な影を落としていた。
漆黒の髪。そして、どれほど強い光を当てても一切の感情を反射しない、底なし沼のように鋭く冷たい黒瞳。
指定の白シャツの第一ボタンを開け放ち、ネクタイをだらしなく緩めた制服姿。ポケットに両手を突っ込んだまま、呆れたように桜を見下ろしているのは、組の若頭補佐であり、桜の直属の従者である黒曜蓮だった。
彼と数歩の距離まで近づいた瞬間、桜の鼻腔を異質な匂いが強烈に打った。
廊下に染み付いた重たい伽羅の香を容易く塗り潰す、鉄が錆びたような……いや、むせ返るほどに生々しく濃密な『血の匂い』だ。タバコでも香水でもない、紛れもない暴力の残り香が、彼の長身から立ち昇っている。
妖怪の世界は、どこまでも単純で残酷だ。強者が弱者を蹂躙し、牙の鋭い者が生き残る。
その中でも、黒狼の妖怪である蓮は、特異なほどの戦闘力と凶暴性を持つ正真正銘の『狂犬』だった。人間社会の道徳やルールなど一顧だにせず、敵対者の骨を砕き、肉を引き裂くことに微塵の躊躇いも持たない。
彼はただそこに立っているだけで、冷たい捕食者としての重圧を周囲の空気に撒き散らしていた。その圧倒的で残酷なまでの「強者」のオーラが、ただの人間に過ぎない桜との間に、決して埋まることのない生物学的な断絶を冷酷に突きつけてくる。
「蓮……。あんた、また怪我してるじゃない」
桜の視線が、蓮のポケットから出された右手首に巻かれた真新しい純白の包帯と、その整った顔立ちの頬に微かに残るかすり傷へと向けられる。
朝の教室では無傷だったはずだ。人間離れした自己治癒力を持つ彼であっても、まだ塞がりきっていないということは、それだけ凄惨な乱闘だった証拠に他ならない。
心配を含んだ桜の声に、蓮は「あ?」と心底面倒くさそうに整った眉をひそめた。
そして、血の匂いが染み付いた包帯の手で自らの首筋を掴むと、ゴキリ、と無造作に骨を鳴らした。太く鈍い音が、静かな古木の廊下に嫌な響きを残す。
「こんなもん、怪我のうちに入らねえよ。俺の血じゃねえしな。……それより、説教なら手短に頼みますよ。俺も暇じゃないんでね。夜の支度もある」
夜の支度。その言葉に込められた『妖怪としての時間こそが本番だ』という暗黙の棘が、桜の胸をチクリと刺す。
「説教されるって、分かってるんじゃない……!」
桜は、一歩前へ踏み出した。
夕日の差し込む床板の上で、小柄な桜の影と、長身の蓮の真っ黒な影が長く伸びて交差する。
「今朝の駅前での騒ぎ、聞いたよ。他校の生徒を五人も病院送りにしたって。……どうしてあんな目立つ場所で派手に暴れたの。白昼堂々、あんな真似をして警察が動いたら、組に迷惑がかかることくらい、あんたなら分かってるはずでしょ」
組長としての威厳を保とうと声を荒げる桜。だが、その声は悲しいほどに『非力な人間の少女』の響きにしかならなかった。
彼から立ち昇る血の匂いに気圧されているせいで、声の端がわずかに震えてしまっている。
桜の必死の抗議に対し、蓮は全く悪びれる様子を見せなかった。
それどころか、彼はフッと鼻で嘲笑い、寄りかかっていた壁から背中を離した。ゆらり、と。まるで獲物を狩る前の大型獣のような、音のない滑らかな足取りで、ゆっくりと桜の方へ歩み寄ってくる。
「ただの不良?……チッ。だから人間の目は節穴だって言うんですよ。平和ボケした脳みそで、SNSやニュースの噂でも真に受けたんですか」
「え……?」
「アレはただの人間じゃねえ。関西の分家の息がかかった、『半妖』の偵察部隊だ」
冷酷に、ひどく事務的に告げられた事実に、桜は大きく目を見開いた。
関西の分家――。昨夜、桜が自ら路地裏で始末したはぐれ妖怪を差し向けてきた、本家の乗っ取りを企む反逆幹部たちの手駒。それが、夜の暗がりではなく、白昼堂々と、桜の通う高校のすぐ近くまで入り込んできていたというのか。
背筋に、冷たい悪寒が走る。
「連中、妙な薬で妖力を隠しやがって、ただの不良のフリをしてアンタの通学路を嗅ぎ回ってやがった。だから、少し『教育』してやっただけだ」
蓮の薄い唇が、残酷な弧を描く。
漆黒の瞳の奥に、血の味を思い出したような昏い悦びがチラリと覗いた。
「連中の両腕の骨、二度と使い物にならねえように関節から全部へし折ってやったよ。……二度と、このシマの土を踏もうなんて気すら起きねえようにな」
「……っ!」
蓮の言葉の端々に滲み出す、容赦のない残虐性と、圧倒的な暴力への自信。
彼が今朝、どれほど凄惨な光景を駅前の裏路地で繰り広げたのか。その光景が鮮明に脳裏に浮かび上がり、桜の喉の奥がヒュッと小さく鳴った。
人間を装いながらも、その中身は間違いなく、血の海を渡り歩く妖怪なのだと、彼から放たれる圧倒的な『圧』が証明していた。
だが、それでも。
「どうして……どうして、それをすぐに私に報告しなかったの!」
恐怖を押し殺し、桜は組長としての責任感だけで彼を睨み上げた。
「私が組長なんだよ。連中が動いているなら、まずは本家に……雪柳さんや鬼道のおじさんに情報を入れてから動くべきでしょ! あんた一人で勝手に判断して暴れて、もし何かあったら――」
「報告?」
桜の言葉を遮るように発せられたその声は、絶対零度よりも冷たかった。
蓮の黒瞳が、スッと細められた。光の宿らない底なしの沼が、一瞬だけ獲物を狩る獣のそれに変わる。
次の瞬間だった。
視界がブレるほどの異常な速度で、蓮が一歩、大きく距離を詰めた。
「っ……!」
桜が反射的に息を呑み、逃げるように後ずさろうとしたが、遅かった。
トンッ、と背中がすでに冷たい板張りの壁にぶつかっている。
逃げ場を失った桜の顔のすぐ横――耳からわずか数センチしか離れていないスギの壁板に、蓮の大きな右手がドンッ! と、家鳴りと錯覚するほどの重く暴力的な音を立てて叩きつけられた。
「あ……」
鼓膜を震わせる轟音と共に、古い木板を伝って背中にビリビリとした振動が走る。
完全に退路を塞がれた。見上げれば、長身の蓮が猛禽類のような鋭い視線でこちらを睥睨している。桜の視界は、彼の広い胸板と漆黒の制服で完全に覆い尽くされた。
叩きつけられた腕の隙間から、夕暮れの光すら届かない。隔離された暗がりの中、蓮から発せられるむせ返るような雄の熱気と、剥き出しの敵意に似た苛立ち、そして濃密な血の匂いが、桜の全身を容赦なく絡め取っていく。
「人間のあんたに報告して、何ができるって言うんだ?」
頭上から降ってくる声は、氷のように冷たく、圧倒的な『強者』としての傲慢さに満ちていた。
蓮の顔が近づく。鼻先が触れそうなほどの距離。彼から放たれる、体温の高い獣特有の熱気と、鉄が錆びたようなむせ返る血の匂いが、桜の鼻腔を容赦なく支配し、肺から酸素を奪っていく。
「ただの人間で、力もねえ。喧嘩一つできねえどんくさい小娘が、半妖の群れを相手にどう立ち回るつもりだったんだ? ……震えて、泣き喚いて、俺たちの後ろに隠れることしかできねえだろうが」
「ちが、う……私は……」
反論しようとした桜の言葉は、喉の奥に鉛のように張り付いて出てこなかった。
事実だ。昼間の、妖力を封じられた状態の桜には、チンピラ一人を止める力すら無い。
「俺は、俺のやり方でシマのゴミを掃除しただけだ。夜の『お頭』ならともかく、昼間のアンタにガタガタ口出しされる筋合いはねえんですよ」
ギリッ、と桜は奥歯を血の味がするほど強く噛み締めた。
悔しかった。何よりも、自分が命を削って守ろうとしているこの屋敷の中で、彼に「人間の私」をここまで徹底的に無価値だと否定されることが、内臓を抉られるように惨めだった。
蓮の吐き捨てた言葉は、氷の刃となって桜の胸の一番柔らかい部分を無残に切り裂いた。
何一つ、言い返せない。事実だからだ。
先代である父が殺され、荒れ狂うシマと組員たちを守るため、彼女は必死に強大で冷酷な『九尾の女王』の皮を被って虚勢を張っている。しかし、幹部である鬼道や雪柳すら、忠誠を誓っているのはあくまで「夜の絶対的な女王」に対してであり、人間の彼女の心の機微など理解してはくれない。かといって、表の世界の親友たちに、この血塗られた極道の秘密を明かせるはずもない。
誰にも頼れない。弱音を吐ける場所など、この世界のどこにもない。
そんなギリギリの孤独に耐えている彼女の「人間としての脆さ」を、目の前の男は微塵も理解せず、ただ土足で踏みにじってくるのだ。
その時。
蓮が、さらに威圧するように顔を近づけた。
その瞬間、彼から底冷えするような凄まじい『殺気』が無意識に漏れ出した。
「――っ!!」
ただの人間である桜の防衛本能が、真っ白な閃光となって脳髄を貫く。
圧倒的な捕食者を前にした小動物のように、桜の華奢な肩がビクンッ!と大きく跳ね上がった。恐怖に耐えきれず、桜は「あ……っ」と掠れた悲鳴を漏らし、ギュッと強く目を閉じてうつむいた。カーディガンの胸元を掻き毟るように掴む指先は、血の気を失い、ガタガタと痙攣するように震えている。
不気味なほどの沈黙が落ちた。
廊下の奥、中庭に通じる開け放たれた障子の向こうから、鬼道の豪快な笑い声と、雪柳の「静かにしなさい」という冷ややかな叱責が微かに聞こえてくる。
他の組員たちは、すぐそこにいる。それなのに、この薄暗い廊下の片隅だけが、まるで空気の存在しない真空の檻に閉じ込められたかのように隔絶されていた。
うつむき、圧倒的な妖気と恐怖に身を竦ませて荒い息を吐く桜を見て。
蓮は、己の腕の中にすっぽりと収まり、ただ怯えて震えることしかできない脆い人間の少女を、薄暗い瞳で見下ろした。
「……チッ」
短く、ひどく苛立ったような舌打ちが、頭上から降ってきた。
「……そんなに俺が怖いかよ。少し凄んだだけで、ガタガタ震えやがって」
「……え?」
「安心しろよ。俺の牙は、敵の喉笛を噛みちぎるためにあるんだ。テメェみたいな力のない人間に本気で牙を剥くほど、俺も飢えちゃいねえよ」
滲む視界のまま顔を上げると、蓮の顔には、酷薄な、けれどどこか迷子のような不器用さを孕んだ歪んだ笑みが浮かんでいた。
彼は、桜の震えを『自分に対する恐怖』だと完全に勘違いしているのだろう。
「そんなに怯えるなら、大人しく昼間は俺の後ろに隠れてればいいんですよ。邪魔な羽虫は、全部俺が殺してやるからな」
蓮は、壁についていた右手を離すと、乱暴に自分の漆黒の髪を掻き回した。
「……日が暮れる。もうじき、『お頭』のお目覚めの時間だ。つまらねえ説教は終わりにして、さっさと着替えて来い。今日の見回りの準備があるんでね」
それだけを言い捨てると、蓮は桜に背を向け、一切振り返ることなく薄暗い廊下の奥へと歩き去っていった。
硬い床板を鳴らす足音が、伽羅の匂いを引き連れて次第に遠ざかっていく。
後に残されたのは、急激に温度を下げた夕闇の冷たい空気だけ。
張り詰めていた糸が切れ、桜は壁に背中をもたれかからせたまま、ズルズルと床にへたり込んだ。震える自身の肩を、両手で強く、強く抱きしめる。
「……っ、ばか……。何も、分かってないくせに……っ」
恐怖と悔しさで滲む視界。ポツリとこぼれ落ちた掠れ声は、誰の耳にも届くことなく古い木造の廊下に吸い込まれて消えた。
誰も、本当の私を見てくれない。
人間の私には何の価値もないと、一番近くにいる狂犬が残酷に突きつけてくる。
遠くで、カァ、と不吉な烏の鳴き声が静寂を切り裂いた。
窓の外から差し込んでいた血色の光が完全に死に絶え、屋敷の奥底から這い上がってきたようなドロリとした濃密な闇が、古い廊下を急速に飲み込んでいく。急激に下がった気温が、冷や汗をかいた肌を粟立たせた。光と熱が消え去った空間に、いよいよ本物の『夜』が産声を上げる。
ギリ、と。
桜は血が滲むほど唇を噛み締め、震える足に無理やり力を込めて立ち上がった。
泣いている暇はない。間もなく日が完全に落ちる。泣き虫で無力な『人間の女子高生』の皮を脱ぎ捨て、恐怖と暴力で魑魅魍魎をねじ伏せる『九尾の女帝』に身を委ねなければならない時間が、今日もまたやってくるのだ。
廊下の窓から見える空は、すでに毒々しい逢魔が時の色を完全に失い、底なしの真っ黒な夜の闇へと沈みかけていた。




