血塗れの抱擁
コツ、と。 スニーカーがアスファルトを踏む音が、異様に大きく鼓膜に響いた。
『――ガァアアアアアッッ!!!』 新たな獲物(動く肉塊)が自分のテリトリーに足を踏み入れたことを察知し、蓮が空気を引き裂く咆哮を上げた。
彼を包むドス黒い妖気が、物理的な暴風となって桜の体を打ち据える。
息をするだけで肺が凍りつきそうな極寒の冷気。そして、むせ返るような鉄錆の血の匂い。桜の歩みが、止まる。 蓮が、地を蹴った。
シュンッ!! と、視界がブレるほどの異常な速度。
数メートルあった距離がゼロになり、桜の眼前に、狂気香に脳を焼かれた黒狼の凶悪な顔が迫る。真っ赤に充血した瞳孔が、完全に理性を失い、獲物の肉を引き裂く快楽だけを求めて三日月型に歪んでいた。
「ひっ……!」 鋼鉄をも両断する漆黒の爪が、桜の顔面めがけて容赦なく振り下ろされる。死ぬ。 人間の防衛本能が絶叫し、桜はギュッと目を閉じた。
だが、彼女は決して背を向けず、逃げることもしなかった。(……思い出す。あの日も、こんな濃密な血の匂いがしていた) 時間が引き延ばされたような極限の恐怖の中で、桜の脳裏に鮮烈な記憶がフラッシュバックした。
数年前。偉大な父が死に、妖月組が揺らいでいた時期 。冷たい雨が降る、本家の中庭でのことだ 。 己の力を過信し、組員を血祭りに上げて本家に乗り込んできた孤高の狂犬 。
縁側に座る『九尾の女王』としての自分に向かって、彼は今のようにおぞましい殺意と血塗れの爪を剥き出しにして飛びかかってきた 。
あの時、桜は一歩も動かず、ただ冷徹に圧倒的な妖気の圧だけで、彼を泥水の中に叩き伏せたのだ 。
泥と血にまみれながら這いつくばった彼は、死の恐怖ではなく、魂が震えるような歓喜の瞳で桜を見上げた 。そして、着物の裾にすがりつき、こう誓った。
『俺の負けだ。……俺を、あんたの犬にしてくれ。この命、あんたの盾として、あんたの敵を噛み殺すために使わせてくれ!』
鬼道や雪柳たち古参の幹部は、先代である父が遺してくれた大切な『家族』だ 。
だが、黒曜蓮だけは違う。
彼は、頼りない半端者の『二代目・李王桜』が、初めて己の力で屈服させ、自らの意志で首輪を差し出してきた、たった一人の直属の家臣なのだ 。 昼間は人間の私を「どんくさい器」だと見下し、苛立ちばかりをぶつけてくる最悪な後輩 。
でも、本当は。彼が誰よりも近くで、不器用すぎるほど過保護に、この脆弱な人間の体に指一本触れさせないよう守り続けてくれていたことを、桜は痛いほどに知っている 。
それが、夜の私に向けられた異常な狂信の産物なのだとしても 。彼が捧げてくれたあの血塗れの忠誠を、私は絶対に手放さない。
(だから……ここであなたを処刑させたりなんか、しないッ!)
――ザシュッ!!
鋭い刃物が肉を裂く、嫌な音が響いた。
「あ……ッ!」 桜の喉から、苦悶の掠れ声が漏れる。
漆黒の爪は、桜の顔面を真っ二つにすることはなかった。 直前で、狂犬の深層心理に残っていた『何か』が、爪の軌道をほんの数ミリだけ強引に逸らしたのだ。
だが、完全に避けることはできず、爪の先端が桜の左頬から肩口にかけての衣服を切り裂き、白い肌に浅くも鮮烈な裂傷を刻み込んだ。ツー、と。 頬から温かい血が流れ落ち、首筋を伝って鎖骨へと落ちていく。
ジンジンとした焼けるような痛みが、桜の脳髄を容赦なく苛む。「お頭ァァッ!!」 後方で鬼道が絶叫し、飛び出そうとする。
だが、桜は血を流しながらも、右手を横に突き出して彼らを制止した。
「……来ないで」
桜は、ゆっくりと目を開けた。
目の前には、自らの爪が桜の血を流させたことにすら気づいていない、獣の荒い息遣いを撒き散らす蓮の巨体がある。 彼は、次のひと振りを放とうと、再びドス黒い妖気を爪に集束させていた。桜は、痛みに引き攣りそうになる表情筋を、鉄の意志で糊付けした。
そして、己を殺そうとしている狂犬の懐へと、自ら一歩、深く踏み込んだ。
彼の姿は、もはや人間のものではない。
白シャツは異常に膨張した筋肉によってズタズタに弾け飛び、骨格はひしゃげた音を立てて獣のそれへと変異している。身長三メートルに迫ろうかという漆黒の半獣。全身を鋼鉄の針のような剛毛が覆い、丸太のように太い両腕の先からは、空間そのものをドロドロに溶かすような高濃度の『死の妖気』が、タールのようにボタボタと滴り落ちていた。
狂気香の呪毒によって脳髄を焼かれ、理性を完全に喪失した彼を包むのは、ただ純粋な『飢え』と『破壊衝動』だけ。
そのドス黒い妖気が、物理的な暴風となって桜の華奢な体を打ち据えた。息をするだけで肺の奥が凍りつきそうな極寒の冷気と、吐き気を催す腐臭。そして、むせ返るような鉄錆の匂い。
桜は、荒い息を吐きながら、真っ直ぐに前を向いた。
目の前には、自らの爪が桜の血を流させたことにすら気づいていない、獣の荒い息遣いを撒き散らす漆黒の巨獣がいる。彼は、仕留め損なった目の前の「獲物」を今度こそ細切れにしようと、再びドス黒い妖気を両腕の爪に集束させていた。
桜は、痛みに引き攣りそうになる表情筋を、鉄の意志で糊付けした。
そして、己を殺そうとしている狂犬の懐へと、自らもう一歩、深く、深く踏み込んだ。
「……っ!」
桜の血まみれの小さな両手が、蓮の獣毛に覆われた分厚い胸元――狂乱して脈打つ心臓の真上を、ギュッと強く掴み込んだ。
そして、己の全体重をかけるようにして、その恐ろしい狼の顔を、自身の華奢な肩へと力強く引き寄せる。
鼻先が触れるほどの、逃げ場のない密着。
桜の鼻腔を、彼の雄としての圧倒的な熱気と、狂気香の腐臭が容赦なく塞ぐ。獣の剛毛が、桜の頬の傷口をチクチクと刺して痛む。
「……勝手に、壊れないで」
桜は、真っ赤に充血した蓮の濁った瞳を、至近距離で、逃げることなく真っ直ぐに見据えた。
そこにあるのは、夜の女王が放つような、大気を震わせる絶対的な威厳ではない。
妖力など欠片も持たない。ただの、痛みに震え、血を流している脆弱な人間の少女の、掠れた声だった。
「私を置いて、ひとりでバケモノにならないで。……あなたは、私の犬でしょう」
――その瞬間。
蓮の狂った視界の中で、二つの『本能』が正面から激突し、脳髄が弾け飛ぶような軋みを上げた。
狂気香の呪毒は「目の前の命を喰い殺せ」と絶叫している。
だが、密着した桜の肩口から流れる『血』の匂いが蓮の鼻腔を打った瞬間、彼の魂の底に刻み込まれた、絶対的な君主(九尾)への隷属の楔が、強烈な拒絶反応を起こした。
(俺の、主の血を……俺が、流させた……?)
低俗な虫けらの呪毒ごときが、俺の神を傷つけろと命じているのか。
ふざけるな。
蓮の体内で暴走していた殺戮本能が、自己矛盾を起こして悲鳴を上げる。
自分の爪なら、この細い首など一秒でへし折れる。だが、これ以上この女の血を流させれば、俺の魂は永遠に死ぬ。
「ガ、ァァァァァァッッ!!!」
蓮は、桜の背中に回しかけていた己の右腕を、強引に引き剥がした。
そして、桜を斬り裂こうと妖気を溜め込んでいた自らの漆黒の爪を、他でもない『自分自身の左胸』へと、容赦なく深々と突き立てた。
「蓮ッ!?」
桜が悲鳴を上げる。
ブチャッ、と肉が抉れ、蓮の口から大量の鮮血が吐き出された。桜の肩に、彼の熱い血が降り注ぐ。
自らの心臓を抉り出さんばかりの、致命的な自傷。
毒に焼かれた脳髄の狂気を、それを遥かに凌駕する物理的な激痛と意志の力で、強引にねじ伏せたのだ。
「……ハァッ、ガァッ……」
自傷の激痛と、桜から流れる九尾の血の匂い。その二つが、脳にこびりついていた狂気香の呪毒を完全に焼き尽くし、浄化していく。
赤黒く濁っていた白目から毒の色がスッと抜け落ち、元の底なし沼のような漆黒の瞳が、荒い呼吸と共にゆっくりと焦点を結んだ。
蓮の腕から、力が抜け落ちる。
俺を泥水に沈め、魂を完全にひれ伏させたあの『絶対的な神』は。夜のバケモノの力なんかじゃない。最初から、己の身を挺して俺の狂気を止めようとした、この気高き人間の少女の魂そのものだったのだ。
「……あんたには、一生勝てねえ」
蓮の巨大な半獣の体が、急速に縮み、元の白シャツ姿の青年の肉体へと戻っていく。
自傷の傷で力尽き、糸が切れたように前に傾くその体を、桜が懸命に支える。
(なんだ、これは)
蓮の体内で暴走していた黒狼の殺戮本能が、急激に機能を停止していく。
自分の爪なら、この細い首など一秒でへし折れる。この柔らかな肉など、ひと噛みで咀嚼できる。
だが、本能よりも深い、魂の根底に刻み込まれた『恐怖』に似た畏敬が、彼に強烈な警告を発していた。
――これ以上、この女の血を流させれば。俺の魂は永遠に死ぬ。
(……俺は、ずっと勘違いしていたのか)
蓮の巨大な両腕から、殺意の妖気がボロボロと崩れ落ちていく。
彼が心底崇拝し、魂を売り渡したのは、あの雨の夜に自分をねじ伏せた、圧倒的な『九尾の妖力』だと思っていた。
昼間のこの小娘は、ただの脆い泥人形で、神を降臨させるための空っぽの器に過ぎないと、心底見下していた。だから、器が壊れないように、苛立ちながら見張っていただけのはずだった。
だが、違った。
妖力など欠片もない。ただの血肉の塊であるこの人間が。己の命すら平然とすり潰して、理性を失ったバケモノの懐に飛び込んでくる。
震える足で。血を流す痛みに耐えながら。それでも、自分の「身内」を見捨てないという、ただその一つの極道としての矜持だけで。
俺を泥水に沈め、魂を完全にひれ伏させたあの『絶対的な神』は。
夜のバケモノの力なんかじゃない。最初から、この痛みに震える不器用で気高い、人間の少女の魂そのものだったのだ。
「……あ、ぁ……」
蓮の喉の奥から、獣の咆哮ではなく、迷子になった子供が泣き咽ぶような、掠れた声が漏れた。
狂気香の呪毒すらも、彼女の放つ圧倒的な魂の輝きの前に、チリチリと音を立てて浄化されていく。
赤黒く濁っていた白目から毒の色がスッと抜け落ち、元の底なし沼のような漆黒の瞳が、ゆっくりと焦点を結んだ。
その瞳に映ったのは。
自らの爪で顔と肩に傷を負わせられ、それでも自分を抱きしめてくれている、涙と血に塗れた桜の顔だった。
「……あんたには、一生勝てねえ」
蓮の巨大な半獣の体が、急速に縮み、元の白シャツ姿の青年の肉体へと戻っていく。
糸が切れたように前に傾くその体を、桜が懸命に支える。
ドサリ、と。
狂犬は、自らの血まみれの額を、桜の華奢な肩へと重く預けた。
それは、恋愛感情などという生易しいものではない。
暴力のみを信じてきた獣の、完全なる降伏。己の生存本能のすべてを捨て、ただ一人の気高き人間に自らの喉笛(命)を永遠に委ねるという、妖怪にとっての絶対的な魂の隷属だった。
「……蓮、……れん……っ」
桜は、肩にのしかかる彼の重みと、彼の首筋から伝わる確かな体温を感じて、張り詰めていた糸が切れ、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
彼女の血まみれの手が、彼の漆黒の髪を、不器用に、けれど愛おしむように何度も撫でる。
静まり返った廃倉庫街の広場。
その光景を、数十メートル後ろで見ていた鬼道と雪柳は、言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしていた。
妖怪の理では、あり得ない光景だった。
狂気香に侵された純血の獣を止めるには、それ以上の絶対的な暴力(妖力)でねじ伏せ、命を絶つしかない。それが常識だ。
だが、目の前の『ただの人間』は。妖力を一切使わず、力による支配や恐怖ではなく、ただ己の身を削り、無防備な愛と覚悟を差し出すことで、狂った獣の呪いを完全に打ち破ってしまったのだ。
「……我らは、何を見ていたのだ」
雪柳が、手にした氷の槍をパラパラと粉砕させながら、震える声で呟いた。
彼女の氷のように冷たい瞳から、一筋の温かい涙が零れ落ちる。
「我らは、お頭のことを守らねばならない弱いお嬢様だと……そう思い上がっていた。……だが、違った。お頭は、あの小さな体で、妖力も持たぬ無力な身で……命を懸けて、我らを見捨てず、守ろうとしてくださったのだ」
夜の強大な力に平伏していたのではない。
どんなバケモノよりも強く、決して折れることのないあの『魂』こそが、我らの仕えるべき絶対の君主だったのだ。
ガシャン、と。
鬼道が、自らの魂とも言える巨大な鉄骨をその場に放り投げた。
二メートルを超える大鬼が、アスファルトの血だまりの上に両膝を突き、その場に深く、深く平伏した。
雪柳もまた、着物の裾が泥に汚れるのも構わず、鬼道と並んで深く頭を垂れる。
彼らがこの夜、心の底から誓ったのは、先代の娘への義務感でも、九尾の力への本能的な恐怖でもない。
『李王桜』という、ひとりの気高き人間に対する、真の忠誠と、永遠の家族としての絆だった。
夜の闇の中、東京湾から吹き込む風が、狂気香の腐臭を完全に洗い流していく。
血を流しながら狂犬を抱きしめる少女と、彼女に平伏する強大なバケモノたち。
種族の壁という分厚い氷が溶け落ちた廃倉庫街には、血の匂いよりも濃密な、決して切れることのない運命の交差だけが、静かに、しかし鮮烈に刻み込まれていた。




