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誘蛾灯の罠と、狂犬の盾

深夜二時。

 関東の東区画の外れ、東京湾の潮風が吹き付ける『第十三号廃倉庫街』。

 かつて密輸船の拠点として使われていたその場所は、今は李王組のシマと、陰陽師たちの管轄エリアが交差する、きな臭い境界線グレーゾーンだった。


潮の満ち引きで運ばれてきたヘドロの臭いと、錆びた鉄の匂いが入り混じるじめじめとした冷気。

 その暗がりを、黒いパーカーのフードを深く被った桜が、コンクリートの壁に張り付くようにして進んでいた。


(……鬼道のおじさんたちの気配、この奥のはず……)


パーカーのポケットの中で、桜の指先は小刻みに震えていた。

 数時間前、談話室で幹部たちの密談を聞いてしまった彼女は、彼らが本家を出立するのと同時に、妖力を使わず『ただの人間』の姿のまま、タクシーと徒歩でこっそり後をつけてきたのだ。


道中、桜は奇妙なことに気がついていた。

 廃倉庫街に近づくにつれ、道の至る所に陰陽道の『探知の呪符』が貼られていたのだ。妖怪の妖気に反応して警報を鳴らす、見えない赤外線センサーのようなもの。

 だが、今の桜は妖力を完全に封じられた『ただの無力な人間』だ。呪符は桜の存在を一切感知せず、彼女は陰陽師の警戒網を、文字通り「幽霊のように」すり抜けて、ここまで辿り着いてしまっていた。


(……おじさんたちは、狂気香の『発生源』を叩きに来たんだ。でも、これじゃあまるで……)

 嫌な予感が、背筋を氷のように撫で上げる。

 こんなに露骨にセンサーが張られているのに、本陣が静かすぎる。これはまるで、わざと大物を誘い込むための『誘蛾灯ゆうがとう』ではないか。


古いタイヤが積まれた路地を曲がった、その瞬間だった。


「――オラァッ!! 邪魔だ三下ァッ!!」


ドゴォォォォンッ!!

 腹の底を揺らすような爆音と共に、数十メートル先の巨大なトタン倉庫の壁が、内側からひしゃげて吹き飛んだ。


もうもうと舞い上がる粉塵の中、開けたコンクリートの広場に、二メートルを超える巨躯の『鬼』――若頭の鬼道と、周囲に極寒の冷気を撒き散らす『雪女』――本部長の雪柳が、背中合わせに立ち塞がっていた。


「チッ、どいつもこいつも完全にイカれちまってやがる……ッ!」

 鬼道が手にした巨大な鉄骨を振り抜き、群がってくる三匹の下級妖怪をまとめて吹き飛ばす。


彼らを取り囲んでいるのは、数十匹の異形たちだった。皆一様に眼球の白目が真っ赤に充血し、口の端からカニのようにブクブクと泡を吹いている。狂気香によって理性を焼き切られた、哀れな同胞たちだ。


「ええ。……これ以上シマの被害を広げるわけにはいきません。ここで全員、氷漬けにします」

 雪柳が、扇子を広げて優雅に、しかし冷酷に言い放つ。


二人の顔の下半分は、幻夜が調合した特殊な『浄化の氷布ひょうふ』で覆われていた。周囲にはすでに、甘ったるくも腐臭のする狂気香の煙が薄らと漂っていたが、その防毒マスクの役割を果たす氷布のおかげで、彼らは冷静に、かつ圧倒的な暴力で狂乱した妖怪たちを制圧し、倉庫の奥――煙を噴き出している巨大な『香炉』を目指して進撃していた。


(よかった……おじさんたち、ちゃんと対策してきてる……!)

 レンガの壁の陰からその様子を窺っていた桜は、ホッと胸を撫で下ろした。

 歴戦の極道幹部が、無策で罠に飛び込むはずがない。彼らの圧倒的な強さを見れば、自分が手出しをする必要など欠片もなかった。


だが。

 天才陰陽師・一宮蒼馬の悪意は、妖怪の『強さ』を逆手に取るように、何重にも張り巡らされていたのだ。


ピピッ、ピピピッ……!


突然、鬼道たちが目指していた巨大な香炉の底から、無機質な電子音が鳴り響いた。


「……あ?」

 鬼道が眉を顰めた、次の瞬間。


――ドバァァァァァァァンッッ!!!


香炉そのものが、小型爆弾によって内側から『爆破』された。

 それは単なる煙の散布ではない。香炉の内部で極限まで圧縮・液化されていた『狂気香の濃縮原液』が、爆発の衝撃によって超高圧のミスト(霧)となり、音速で広場全体に叩きつけられたのだ。


「なっ……!? 液体爆弾かッ!!」

「防いで鬼道ッ! 氷壁ひょうへき――ッ!!」


雪柳が咄嗟に分厚い氷の壁を展開する。だが、爆発的な圧力で飛散した『呪毒の原液ミスト』は、氷の壁を物理的に粉砕し、彼らの顔を覆っていた『浄化の氷布』をも無惨に吹き飛ばした。


「ガハッ……!? ゲホッ、ゴハァァッ!!」

「あ、ぁぁ……ッ」


強力な幹部である鬼道と雪柳が、原液のミストを肺に直接吸い込んだ瞬間、糸の切れた操り人形のように膝を突いた。

 彼らの屈強な妖怪としての肉体が、内側から細胞を直接焼かれるような激痛に悲鳴を上げ、視界が急速に赤く染まっていく。


そこに、爆発の衝撃から立ち直った狂乱状態の下級妖怪たちが、一斉に彼らの喉笛目掛けて襲いかかった。


「おじさんッ! 雪柳さんッ!!」


桜は、恐怖で震える足を無理やり動かし、レンガの陰から広場へ向かって飛び出した。

 頭では分かっている。自分が出たところで何もできない。逆に彼らの足を引っ張るだけだ。それでも、彼らを「見捨てる」という選択肢は、李王桜の魂には存在しなかった。


桜がアスファルトを踏み鳴らし、無防備な背中を晒して走り出した、その瞬間。

 爆破された香炉の破片――致死量の『狂気香の濃縮液』がべっとりと付着した鋭利な鉄片が、爆風に乗って、桜の顔面めがけて弾丸のような速度で飛来した。


(あ――)

 避けられない。妖力を持たない人間の動体視力では、死を覚悟する時間すらなかった。


だが、鉄片が桜の肌を貫く直前。


「――っ、何やってんだ、テメェはァッ!!」


頭上から、鼓膜を破るような激しい怒声が降ってきた。

 同時に、桜の背後の闇から飛来した漆黒の影が、桜の華奢な体を横殴りに『弾き飛ばした』。


「きゃっ……!?」

 桜は受け身を取る間もなく、冷たいコンクリートの地面をゴロゴロと転がった。擦りむいた手のひらと膝から、ジンとした痛みが走る。


咳き込みながら顔を上げた桜の視界に飛び込んできたのは。

 先ほどまで桜が立っていた場所に突き刺さるように立ち塞がり、桜を貫くはずだった『濃縮液まみれの鉄片』を、自らの右手で素手で鷲掴みにしている――白シャツ姿の黒曜蓮の、広い背中だった。


「れ、ん……!?」


なぜ、彼がここに。

 驚愕する桜の目の前で、事態は最悪の方向へと転がり落ちていく。


蓮は、本家からこっそり抜け出した「無防備な器(桜)」を見つけ、舌打ちをしながら気配を完全に消して後をつけてきたのだ。

 だが、ただの人間である桜を庇うため、彼は己の身を盾にし……その右手の平から、致死量の呪毒の原液を、血管を通して直接体内に取り込んでしまった。


「ガ、ァ……ッッ!!? ゴ、ハァァッ!!」


蓮の喉から、肉が千切れるような凄惨な絶叫が上がった。

 彼の手が自身の右腕を掻き毟り、白シャツの袖が血の混じった爪痕で赤く染まる。毒が血管を駆け巡り、彼の脳髄を直接焼き切っていく。


「蓮ッ!! 嘘、私の代わりに……っ」

 桜が駆け寄ろうとするが、蓮の周囲から立ち昇る尋常ではない『極寒の冷気』と『ドス黒い妖気』の圧に弾き返され、一歩も近づくことができない。


純血の戦闘種族にとっての狂気香の原液は、理性を司るリミッターを完全に破壊する劇薬だ。蓮の人間としての擬態が、音を立てて剥がれ落ちていく。


バリッ、メキメキッ!! と、骨格が異常な音を立てて軋む。

 漆黒の髪が逆立ち、両腕の筋肉が白シャツを完全に引き裂いて膨張する。彼の指先から、鋼鉄をも容易く両断する巨大な『黒狼の爪』が顕現し、口元からは鋭い犬歯が剥き出しになった。


「あ……ぁ、ガ、ルルルルルッ……!!」

 蓮が、ゆっくりと振り返る。

 その顔を見た瞬間、桜の全身の血液が完全に凍りついた。


彼の底知れない黒瞳からは、桜を見下していた時の「苛立ち」も、夜の女王に向ける「狂信」も、一切の理性が消え失せていた。

 あるのはただ、毛細血管が破裂して真っ赤に染まった白目と、目の前の動く命をすべて肉片に変えたいという、暴走した『黒狼の殺戮本能』だけ。


「……逃げ、ろ……」

 蓮の口の端から血の泡がこぼれ、彼自身の声帯がギリギリのところで最後に紡いだ人間の言葉。


次の瞬間、狂犬の理性の糸が、完全にプツリと切れた。


「オオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!」


大気を物理的に震わせる、巨大な獣の咆哮。

 蓮の足元のコンクリートがクレーターのように陥没したかと思うと、彼の姿はすでにそこにはなかった。


ドバシャァァァッ!!

 広場の中央。膝を突いた鬼道たちを取り囲んでいた下級妖怪の群れの中に、漆黒の弾丸が着弾した。

 蓮の爪が閃いた瞬間、三匹の妖怪の胴体が、紙屑のように上下に切断され、大量の内臓と鮮血が夜の広場にぶちまけられた。


「なっ……黒曜!? テメェ、何しにきやがった!」

 毒に苦しむ鬼道が驚愕の声を上げるが、蓮の耳には届いていない。


狂気香によって完全にバケモノと化した蓮は、敵も味方も関係なく、ただ視界に入る『強い妖気』へと無差別に牙を剥いた。


「ガァアアアアッ!!」

 蓮の標的が、血に濡れた爪を引きずりながら、鬼道と雪柳へと向く。

 その動きは、普段の彼が持つ洗練された暗殺術ではない。ただ己の肉体が壊れることも厭わない、捨て身の暴走だ。


「マズい……ッ! あいつ、呪毒で完全にイカれちまってやがる!」

「防いでください鬼道ッ! このままでは全滅します!」


雪柳が咄嗟に展開した分厚い氷の壁。

 だが、狂乱した黒狼の膂力は、その防御すらも紙のように打ち砕いた。

 ドゴォォォォンッ!!

 氷の破片が散る中、蓮の拳が鬼道の巨体をモロに捉える。鬼道が「ガハッ!」と血を吐き、数十メートル先の廃倉庫の鉄扉を突き破って吹き飛んだ。


「鬼道ッ!! ……この、バカ犬がッ!」

 雪柳の顔が、かつてないほどの怒りと悲壮感に歪む。

 彼女の指先から、周囲の空気を絶対零度に凍らせる吹雪が放たれ、蓮の足元を強引に氷漬けにして縫い止めた。


ギリリ、と。

 雪柳の冷たい瞳が、血の海で暴れ狂う蓮を冷酷に射抜く。

 極道の掟。それは、いかなる理由があろうとも、シマの秩序を乱し、身内に牙を剥いた狂気は『殺して止める』しかないという絶対のルールだ。


「……許しなさい、黒狼。お頭のシマを、これ以上貴方に汚させるわけにはいきません」


雪柳の手に、空間そのものを切り裂く巨大な氷の槍が顕現する。

 瓦礫の中から血まみれで這い出てきた鬼道も、悲痛な顔で鉄骨を構え直した。彼らは、自らの手で、次世代の筆頭である身内を処刑する覚悟を決めたのだ。


「やめてッ!!」


夜の静寂を切り裂いて、澄んだ、しかし悲痛な少女の叫び声が響き渡った。


雪柳の氷の槍が放たれる、ほんの数秒前。

 凍りついた広場の真ん中――雪柳と、暴れ狂う蓮の間に、小柄な人影が両手を広げて立ち塞がった。


黒いパーカーを羽織り、膝を擦りむいたままの、ただの脆弱な人間。

 李王桜だった。




深夜の第十三号廃倉庫街。

 ひしゃげたトタン屋根の隙間から、雲に半分隠れた青白い月光が、無惨に破壊されたコンクリートの広場をまだらに照らし出している。


東京湾から吹き付ける潮風は生ぬるいはずなのに、広場を満たす『妖気』と『冷気』の激突によって、肌を刺すような異常な寒さを生み出していた。鼻腔を直接犯すのは、錆びた鉄の匂いと、内臓を裏返したくなるような狂気香の甘ったるい腐臭。そして、むせ返るような生々しい血の匂いだ。


「お、お頭ァッ!? なんで、こんなところに……ッ!」


吹き飛ばされた廃材の山から、ボロボロになった鬼道が血を吐きながら身を起こし、その巨体を震わせて絶叫した。額から流れる血が彼の視界を赤く染めているが、それでも『あり得ない人物』の登場に目を見開いている。


同時に、広場の反対側で巨大な氷の槍を構えていた雪柳の顔面にも、致命的な動揺が走った。

 完璧な氷の仮面が砕け、彼女は悲鳴のような呼気と共に、放ちかけていた絶大の冷気を強引に天へと逸らす。ギリィッ! と空気が凍りつき砕ける音と共に、鋭い氷柱の雨が桜の数メートル先の地面に深く突き刺さった。


「お頭、退いてください! そいつはもう、お頭の忠実な犬ではない! ただの血に狂ったバケモノです!」


普段の冷徹な本部長の姿はどこにもなく、雪柳の悲痛な叫びが夜の静寂を切り裂いた。彼女の着物の袖は蓮の爪によって無残に引き裂かれ、白い肌からは赤い血が滲んでいる。


「妖力を持たぬ人間の姿の貴方が近づけば、一瞬で肉片にされます! どうか、後ろへ……っ!」


その声の奥にあるのは、切実な愛情と忠義。そして、身内を殺さねばならない血を吐くような絶望だった。

 妖怪の世界において、理性を失いシマを乱す狂気は、血で清算するしかない。極道のトップである桜を、この醜悪な地獄から何としても守り抜くために、彼らは次世代の筆頭である蓮を処刑する覚悟を決めたのだ。


だが、桜は動かなかった。いや、動けなかった。


コンクリートのひんやりとした冷気が、薄いスニーカーの底を透過して、足の裏から脊髄へと這い上がってくる。

 視界の先――わずか数メートルという、絶対的な死の距離。


そこに踞るのは、もはや人間の姿を保っていない異形だった。

 白シャツは異常に膨張した筋肉によってズタズタに弾け飛び、両腕は丸太のように太く変異して漆黒の獣毛に覆われている。だらりと垂れ下がった長大な黒狼の爪からは、高濃度のドス黒い妖気がタールのように滴り落ち、触れたアスファルトを「ジュッ」と音を立ててドロドロに溶かしていた。


『――ガ、ルルルルルッ……』


毛細血管が破裂し、真っ赤に染まった双眸がぎょろりと動く。

 標的(鬼道たち)を見失った獣の低い唸り声が、空気をビリビリと振動させ、桜の鼓膜を直接殴りつけた。


(……怖い。一歩でも動けば、殺される)


ただの人間である桜の防衛本能が、真っ白な閃光となって脳髄で警鐘を鳴らし続ける。彼から放たれる圧倒的な殺戮のプレッシャーに、桜の華奢な膝は笑うようにガクガクと痙攣し、薄いカーディガンの下では、心臓が肋骨を内側から叩き割らんばかりの早鐘を打っていた。喉の奥がカラカラに乾き、息をするたびに狂気香の痛みが肺を刺す。



人間の防衛本能が、警鐘を鳴らし続けている。

 左手首にはめられた『封印の数珠』が、ひんやりと脈打っていた。

 留め具を外せばいい。そうすれば、私は九尾の女王になれる。圧倒的な妖力で、狂った蓮を力ずくでねじ伏せることもできる。何より、この足の震えも、血を見る恐怖も、すべて妖怪の冷徹な脳髄が消し去ってくれる。


だが、桜はギリッと奥歯を噛み締め、数珠から指を離した。


(ここで妖力に逃げたら……私は一生、彼らの『本当の家族』にはなれない)


幹部たちは、いつも私を蚊帳の外に置く。「お嬢様」と庇護し、泥はすべて自分たちで被ろうとする。それは彼らが、人間の私を「守るべき弱者」としてしか見ていないからだ。

 そして蓮もまた、人間の私を見下し、夜の九尾の力にだけ狂信を向けていた。

 ……にもかかわらず。彼は今日、人間の私を庇って、こんな姿になってしまったのだ。


無意識のうちに、桜の右手は左手首の『封印の数珠』へと伸びていた。

 冷たい玉の感触が、指先にすがるように触れる。


留め具を外せばいい。そうすれば、このみっともない膝の震えも、血の匂いに対する吐き気も、すべて夜のバケモノの冷徹な脳髄が綺麗に消し去ってくれる。無尽蔵の九尾の妖力さえあれば、狂った蓮を力ずくでねじ伏せ、誰も死なせずにこの場を収めることができるはずだ。

 極道の『頭』としての、一番簡単で、一番正しい正解。


けれど。

 桜は、数珠に掛けた指先をピタリと止めた。


(……ここで私が夜の姿に逃げ込めば。彼らとの間に横たわる『種族の壁』は、永遠に越えられなくなる)


雪柳の痛ましげな瞳が、鬼道の血に塗れた巨体が、桜の視界に焼き付いている。彼らは、人間である桜を「守るべき弱者」として遠ざけ、すべての泥を自分たちだけで被ろうとした。そして蓮もまた、人間の自分を見下し、夜の力にのみ狂信を向けていたはずだった。

 ――にもかかわらず、あの狂犬は今日、人間の私を庇って、その身に致死の呪毒を受け入れたのだ。


ここで私がバケモノの力で彼らをねじ伏せれば、私は一生、彼らにとって「恐怖で支配する王」か「守られるべきお嬢様」のままだ。同じ血を流し、同じ痛みを背負う『本当の家族』には、二度となれない。

 妖怪の力で極道を束ねるのではない。

 李王桜という、ひとりの人間の、脆くとも決して折れない魂で、彼らと向き合わなければならない。


桜は、ふぅ、と長く細い息を吐き出し――数珠から、ゆっくりと右手を離した。

 武器も持たず、妖力も解放せず。ただの両腕を、無防備にだらりと下げる。


「……退かない」


桜は、ひび割れそうに乾いた唇を微かに開き、震える声を必死に腹の底から絞り出した。

 血の味の混じるその声は、広場を吹き抜ける呪毒の風に掻き消されそうなほどにか細かった。


「お頭ッ!! 何を仰って……! 早くお逃げを!」

 鬼道が、ひしゃげた鉄骨を杖代わりにして立ち上がろうとし、口からドス黒い血の塊を吐き出す。雪柳もまた、桜を庇おうと自身の凍りついた足を引きずり、彼女の前に出ようとした。


「私が人間のままでも、力がなくても……」


桜は、二人の幹部の悲痛な制止を、静かで、しかし絶対的な響きを持った言葉で遮った。


「極道のトップとして。家族みうちを見捨てて逃げることだけは、絶対にしない」


その言葉は、空を割るような大音量の咆哮でもなければ、有無を言わさぬ妖力を乗せた呪縛でもなかった。

 だが、ただの女子高生が放ったその静かな決意は、歴戦のバケモノである鬼道と雪柳の魂を、文字通り金縛りにした。

 彼女の黒曜石の瞳に宿っていたのは、強大な力による畏怖ではない。己の命すらも盤面に叩きつけ、誰かのために自らの喉笛を差し出すことを恐れない、王の気高さそのものだったからだ。


「……退いて。あの子は、私の犬よ」


『――グルルルルルルッ……!!』


桜の背後で、血に飢えた黒狼の低い唸り声が、空気をビリビリと軋ませた。

 アスファルトを削る太い爪の音。濃密な殺意とむせ返るような獣の熱気が、桜の後頭部を直接撫で上げる。振り返らなくても、狂犬の牙がもう、首筋のすぐ真後ろまで迫っているのが肌で分かった。


桜は、決して後ろを振り向かなかった。

 幹部たちを真っ直ぐに見据えたまま、自らの背中を完全に『死』へと晒し。

 ゆっくりと、右足を後ろへ――狂った獣の懐へと向かって、静かに一歩を踏み出した。



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