他愛のない1日
「――行ってきまーす!」
初夏の抜けるような青空の下、李王桜の元気な声が広大な日本庭園に響き渡った。 磨き上げられた玄関の式台でローファーの踵をトントンと鳴らし、指定のスクールバッグを肩に引っ掛ける。
桜が振り返った先にあるのは、都内の片隅、鬱蒼とした鎮守の森に抱かれるようにして建つ巨大な日本屋敷だった。 黒塗りの重厚な薬医門から続く石畳、樹齢数百年はくだらない見事な老松、そして迷路のように入り組んだ木造の母屋。敷地面積だけでもちょっとした学校のグラウンドほどはある。 外から見れば歴史ある旧家か名家の跡地のようにしか見えないその場所こそが、関東最大の妖怪極道『李王組』の本家であった。
「「「桜様、行ってらっしゃいませ!!」」」
ズラリと玄関の土間に並んだ黒服の屈強な男たちが、鼓膜が破れそうなほどの野太い声で一斉に九十度の礼をした。 桜は思わず「しーっ!」と人差し指を口元に当てる。
「もー、声が大きいってば! 近所の人に聞こえたらどうするの!」
「ガハハ! 心配ご無用ですぜ、お嬢! 本家の周囲には俺たちの認識阻害の結界が張ってありますからな。外の一般人からは、ただの静かな廃屋にしか見えちゃいねェですよ!」
ドスンドスンと奥の廊下を踏み鳴らして現れたのは、組の若頭である鬼道だった。 身長二メートル近い巨体に、はち切れんばかりの黒スーツ。頭に生えた二本のツノは無理やりハンチング帽で隠しているが、どう見てもカタギではない。
「それよりお嬢、今日のお小遣いは足りてますかい? 帰り道に変な野郎に絡まれたら困る。やっぱり若い衆を五、六人、裏から護衛につけやしょう!」
「いらないいらない! ただの高校に行くのに、黒服が後ろ歩いてたら確実に通報されるから!」
「鬼道、朝から騒がしいですよ。お嬢様が困っておられるでしょう」
鬼道を冷たい声で制したのは、本部長の雪柳だった。
タイトスカートのスーツをピシッと着こなした、氷のように美しい女性。彼女の歩いた後には微かに冷気が漂っている。
「お嬢様、ブラウスのリボンが少し曲がっておりますよ」
「あ、ほんとだ。ありがとう、雪柳さん」
雪柳の冷たくも優しい手が、桜の襟元を直す。
至近距離で覗き込まれた桜の顔立ちは、特別派手な美人というわけではなかった。 肩のあたりで無造作に切り揃えられた柔らかな栗色の髪に、少し丸みを帯びた輪郭。パッチリとした二重まぶたと小ぶりな唇が、親しみやすく愛嬌のある印象を与えている。ただ、その黒曜石のような瞳の奥にだけは、時折ハッとするほど強い意志の光が宿っていた。
「ふふ、人間としての学業も疎かにしてはなりませんからね。寄り道はほどほどに、門限までには必ずお戻りください」
「うん、わかってる。それじゃ、遅刻しちゃうから行くね!」
桜は鞄を両手で持ち直し、過保護な妖怪たちに笑顔で手を振って、立派な門をくぐった。
背後から、「お嬢、車出しますぜ!」「走ると危ないですよ!」という声が追いかけてくるのを背中で聞きながら、初夏の陽光が降り注ぐアスファルトの坂道を駆け下りていく。
桜が通うのは、ここから電車で数駅の場所にある『私立翠風高等学校』だ。 彼女はそこの2年C組に在籍している。 坂道を下りながら、桜は今日提出の小テストのことや、お昼休みに購買で争奪戦になるメロンパンのことを考えていた。放課後は親友たちと駅前のカフェに寄る約束もしている。
休日は友達と笑い合い、テストの点数で一喜一憂する。
どこにでもいる、ごく普通の女子高生。
――ある一点だけを除けば。
(……今日は、あいつに会わずに教室まで行けるといいんだけど)
桜の脳裏に、漆黒の髪と冷たい黒瞳を持つ、不遜な後輩の顔が思い浮かぶ。 同じ高校に通う一つ年下の男子生徒。学校で会えば必ず不機嫌そうに舌打ちをしてくる彼の態度を思い出し、桜は小さくため息をついた。
初夏の風が、木々の青葉を揺らして通り抜ける。 光の当たる日常と、深く沈んだ非日常の境界線をまたぐように、桜は通い慣れた校門へと歩みを進めていった。
私立翠風高等学校、2年C組の教室。
朝のホームルーム開始を告げるチャイムが鳴り響いても、教室の熱気は一向に冷める気配がなかった。
開け放たれた窓から吹き込む初夏の風が、白いカーテンをふわりと大きく揺らす。前方の黒板付近では、男子数人が丸めたプリントをボール代わりにふざけ合い、窓際では女子のグループが新作のコスメやSNSの話題で甲高い笑い声を上げている。
通路を挟んだ斜め前の席では、寝癖をつけたままの男子が「ヤバい、見せて!」と友人の数学ノートを必死に書き写し、後ろの席からはスマートフォンのシャッター音が微かに聞こえる。黒板の端から漂うチョークの粉っぽさと、床用ワックスの匂い。どこにでもある、ごくありふれた高校の朝の風景だ。
「おはよー、桜! 今日の小テストの勉強してきた?」
自分の席に鞄を置き、カーディガンの袖を直していた桜の背中を、ポンと軽く叩いたのは親友の美波だった。
少し短く詰めたスカートに、明るく巻いたボブヘア。手にはピンク色のスマートフォンが握られている。流行りものと噂話が大好きな、クラスのムードメーカーだ。 その隣には、大人しげな眼鏡をかけたもう一人の親友、結衣が苦笑いを浮かべて立っている。結衣の両手には、几帳面な文字で付箋がびっしりと貼られた単語帳が抱えられていた。
「おはよう、美波、結衣ちゃん。一応やってきたけど……数学は自信ないなぁ」
「だよねー! 私なんて昨日、深夜のドラマ見ちゃって全然やってないし。あーあ、テストなんてなくなればいいのに」
大げさに机に突っ伏す美波を見て、結衣が「もう、美波ちゃんたら。いつも一夜漬けなんだから」と困ったように眉を下げる。
ギャーギャーと騒ぐ美波と、それを呆れながらも宥める結衣。そんな二人のやり取りを見て、桜はふふっと自然な笑みをこぼした。
(……本当に、平和だなあ)
窓の外から聞こえてくる運動部の朝練の掛け声。パイプ椅子が床を擦る音。
こういう他愛のない、ただの女子高生としての空間に身を置いている時だけは、自分が裏社会の――魑魅魍魎が跋扈する血生臭い世界の当事者であることなど、完全に忘れられる。
「あ、そういえばさ」
ふいに、美波が周囲を気にするように声をひそめ、自分の席から身を乗り出してきた。 ほんのり甘い、ピーチの香りのするリップクリームの匂いが鼻先をかすめる。
彼女の大きな瞳が、特大のゴシップを見つけた時の特有の光を帯びてキラキラと輝いていた。 周囲ではまだ、昨日のテレビ番組の話や、次の体育の授業についての不満が飛び交っている。その平和な喧騒の中で、美波だけが内緒話のトーンを作った。
「今朝、駅前でまた騒ぎがあったらしいよ。1年の『狂犬』が、他校の不良グループを一人で半殺しにしたって」
「……えっ」
ドクン、と。 桜の心臓が、肋骨の裏側で嫌な跳ね方をした。 引きつりそうになる頬の筋肉を必死に抑え込み、机の上で組んでいた両手の指先を、誰にも気づかれないようにギュッと内側に曲げる。爪が手のひらに食い込むわずかな痛みで、動揺を顔に出さないよう強引に理性を繋ぎ止めた。
「狂犬って……黒曜くんのこと?」
隣で結衣が、ビクッと肩を震わせて眉を下げる。
彼女の指先が、不安げにカーディガンのボタンをいじっていた。 美波は「そうそう!」と、待ってましたとばかりに何度も大きく頷く。
「1年の黒曜蓮! 入学式の日に、因縁つけてきた3年生のグループをたった一人で、しかも無傷で病院送りにしたっていう、あの超絶荒くれ者! なんでも今朝は、隣町のヤンキー五人に囲まれてたのに、涼しい顔して全員ボコボコにして歩いてきたらしいよ。通学途中の他校の生徒がいっぱい見てたらしくて、もうSNSでもちょっとした騒ぎになってるの。ほんと、ヤバすぎない?」
興奮気味に語る美波の声に釣られて、前の席で数学のノートを写していた男子が「マジかよ、あいつまたやったのか」と顔を上げ、窓際の女子グループもヒソヒソとこちらに視線を向けてきた。
教室の空気が、得体の知れない暴力の噂に対する『恐怖』と、非日常に対する『好奇心』で僅かに温度を上げる。
「ひぇ……そんなの、絶対に近寄りたくないなぁ。目が合っただけで殴られそう……」
「結衣ちゃんはそう言うけどさー、でも、うちのクラスの女子、何人か彼のことかっこいいって言ってたよね。ほら、この前の体育祭の時とか」
「それは……まぁ。確かに、モデルさんみたいに背も高いし……」
「わかる! 喧嘩っ早くて目つきは最悪だけど、あの顔面偏差値は奇跡だもん。あの冷たい黒目で見下されたい! みたいな変態女子が、裏でこっそりファンクラブ作ってるって噂だしね」
キャアキャアと盛り上がる二人を前に、桜は「へ、へえ……そうなんだ。怖いね」と、引き攣りそうになる唇に無理やり糊付けしたような愛想笑いを浮かべるしかなかった。
(バカ蓮……っ。目立つなって昨日あれだけ言ったのに、また表で派手に暴れて……!)
頭の中で、漆黒の髪をした不遜な後輩の顔が浮かび上がる。 桜は内心で頭を抱え、重いため息を飲み込んだ。
駅前でのヤンキー五人との乱闘。 クラスの皆は『札付きの不良の喧嘩』だと恐れおののいている。
ここは、『表』の人間社会だ。白昼堂々、しかも大勢の目がある駅前で派手な立ち回りを演じれば、人間の警察だけでなく、いずれ他の妖怪の組織にも嗅ぎつけられる。
昼間の学校では自分を「どんくさくて邪魔な先輩」として蔑んだ視線を向けてくるくせに。
(本当に、どうしようもないバカ犬なんだから……。後で本家に呼び出して、正座でお説教だわ)
決して表情には出さないまま、桜は心の中で彼への説教の文句を並べ立てていた。
目の前で「黒曜くんと廊下ですれ違ったらどうしよう」と震える結衣も、「一度でいいから話しかけてみたいなぁ」と目を輝かせる美波も、誰も夢にも思っていないだろう。
その最凶の荒くれ者が、目の前で曖昧に笑っている地味で平凡な女子高生――桜の命令一つで、自らの命すら喜んで投げ出す『従者』であることなど。
ガラッッ!!
突然、教室の前方の引き戸が、乱暴な音を立てて開け放たれた。 ビクンと、クラス全員の肩が跳ね、騒がしかった教室が一瞬にして水を打ったように静まり返る。
誰もが息を止めて入り口に視線を向ける中、出席簿とわら半紙の小テストの束を小脇に抱えて入ってきたのは、2年C組の担任であり数学教師の佐藤だった。
ヨレヨレになったグレーのスーツ。無精髭の目立つ顎をさすりながら、猫背気味に教卓へと歩いてくる。通り過ぎる際、彼の服から微かに缶コーヒーとタバコの入り混じった、大人特有の疲れた匂いが漂ってきた。
「ほら、さっさと席につけー。ホームルーム始めるぞ。朝から動物園みたいに騒ぎやがって」
佐藤が教卓にプリントの束をドンッと重い音を立てて置くと、魔法が解けたように生徒たちが慌てて自分の席へと散っていく。 椅子の脚が床を擦る金属音、筆箱を机に置く音が一頻り鳴り響き、ようやく全員が前を向いた。
「えー、小テストの前に、一つ注意しておく」
佐藤は出席簿を教卓に叩きつけると、大きな、本当に底の抜けたような重いため息をついた。 そして、短いチョークの切れ端を手に取り、黒板に今日の日付をカンカンと力強く書き殴る。チョークの粉が、窓から差し込む朝日に照らされてキラキラと舞い落ちた。
「お前らももう噂で聞いてるかもしれないが……今朝、また駅前のコンビニ裏で、他校の生徒との喧嘩騒ぎがあった。警察が出る一歩手前で通行人が仲裁に入ったらしいが……うちの1年が絡んでいる」
教室の空気が、ピンと張り詰める。 誰も口には出さないが、全員の頭の中に『黒曜蓮』という文字が浮かんでいるのが、空気の重さで痛いほどに伝わってきた。 佐藤はチョークを置き、教卓に両手をついて、クラス全体を厳しい目つきで見渡した。
「黒曜には、生徒指導部からきつく指導を入れる。今も別室で生活指導の主任が絞り上げてる最中だ。だがな、あいつは……少し、普通の不良とは毛色が違う。自分の力にブレーキがかけられないというか……手加減ってもんを知らん」
「お前らも、同じ高校だからって、面白半分で近づいたりするなよ。特に女子」
佐藤の鋭い視線が、さっきまでキャアキャアと騒いでいた美波たち女子のグループに向けられる。
「顔がいいから、ちょっと悪ぶってるのがかっこいいからって、フラフラ近寄ったら……怪我じゃ済まないぞ。最悪、巻き込まれて一生後悔することになる。触らぬ神に祟りなしだ。わかったな?」
真剣な佐藤の声色に、教室の温度がスッと冷えるのを感じた。 先程までのミーハーな好奇心は消え失せ、本物の『危険な異物』に対する警戒心がクラス全体に伝播していく。
「「「はーい……」」」
気の抜けた、しかしどこか怯えを含んだクラスの返事が重なる。 桜は、自分の机の木目に視線を落としながら、静かに息を吐き出した。
桜はそっと顔を上げた。 窓の外では、初夏の風が青々と茂った桜の葉を大きく揺らしている。 痛む脇腹を制服の上からバレないようにそっと押さえながら、
(……あとで、ちゃんとお説教しないと)
桜は小さく息を吐き出すと、配られたばかりの小テストにシャープペンシルで自分の名前を書き込んだ。




