かりそめの平穏と、見えない呪い
関東の地下深く。
一宮本家が管理する、何百年もの歴史を刻んできた地下祭壇。
石造りの冷たい壁には、古来より妖怪たちを調伏し、滅ぼしてきた歴代の当主たちの名が刻まれた木札がズラリと並んでいる。
空間を満たしているのは、肺の奥が凍りつくほどに高密度に圧縮された『清め塩』と『白檀』の鋭い香り。そして、床板に染み付いた、何世代にもわたって流されてきた異形どもの血と、それを浄化し続けてきた呪符の微かな焦げ臭さだ。
その仄暗い和蝋燭の灯りの中心で、一宮本家の次期当主・蒼馬は、上座の座布団に静かに胡座をかいていた。
「……次期当主様。ご報告申し上げます」
背後の暗がりから、音もなく黒装束の男が平伏した。
陰陽師の一族に代々仕え、表沙汰にできない裏の工作や暗殺を担う『狗』と呼ばれる分家筋の者だ。床に額を擦り付ける彼の身体は、蒼馬から無意識に放たれる凄まじい霊力の重圧に、微かに震えている。
「先日の翠風高等学校での一件。……茉莉様の強制連行に失敗されたとのことですが、我ら実働部隊が動き、力ずくでも本家へ連れ戻しましょうか」
「不要だ」
蒼馬は、冷え切った声で短く切り捨てた。
「あの群衆の中で、これ以上の醜聞を晒すことは本家の泥塗りとなる。それに……あの学校には、茉莉の家出以上に、見過ごせぬ『不浄な泥』がこびりついている」
蒼馬は、自らの右手――数日前、あの中庭で、得体の知れない不良生徒に弾き飛ばされた手首を、無表情に見つめた。
陰陽師たち一宮一族の理念は、数百年前からただ一つ。
『人間に仇なす妖怪どもは、この世の理から逸脱した絶対悪であり、一匹残らず浄化し、滅ぼさねばならない』という、強烈な選民思想と正義感だ。彼らは、人間社会の影で極道などと名乗り、独自のルールでシマを管理している李王組のやり方を「害獣が人間の真似事をしているだけの虫唾が走る茶番」と心底軽蔑している。
ましてや、頂点の『柊本家』が結んだという不可侵条約など、一宮の者たちにとっては屈辱以外の何物でもなかった。
だからこそ、蒼馬は常に、妖怪どもがボロを出す瞬間を虎視眈々と狙っている。
(……それにしても、あの小娘は)
蒼馬の脳裏に、自らの前に立ち塞がった李王桜の姿が浮かんだ。
あの時、蒼馬は彼女の魂の形を正確に透かして視ていた。霊力も、妖気も欠片も持たない、ただのどこにでもいる脆弱な人間の女子高生。少し力を込めれば、首の骨など小枝のように容易く折れる無力な存在だ。
だというのに。彼女は、天才陰陽師である自らが放った絶対的な威圧感を前にしても、一歩も引かず、その黒曜石の瞳で真っ直ぐに睨み返してきたのだ。
(恐怖という概念が欠落しているのか、あるいは、ひどく肝の据わった阿呆なのか。……ただの人間にも、あのように得体の知れない度胸を持つ個体がいるとはな。茉莉はずいぶんと口が達者な、都合の良い盾を見つけたものだ)
蒼馬は、鼻でフッと冷笑した。
所詮は、裏社会の恐ろしさを何も知らない、平和ボケした無知な一般人。茉莉も、あんな無力な人間に庇われていい気になっているのだから、陰陽師としての底が知れるというものだ。桜に対する蒼馬の評価は、「ただの目障りだが、異常に肝の据わった人間」という枠を全く出ていなかった。
だが。蒼馬の黒瞳が、チロチロと冷酷な殺意を帯びて細められる。
「……問題は、あの不良生徒だ」
「不良生徒、でございますか?」
平伏する黒装束の男が、怪訝そうに聞き返す。
「ああ。私の腕を弾いた、漆黒の髪の男だ。……あいつは、完全に妖気を消し、人間の不良生徒としての皮を被っていた。だが、私の腕に触れたあの一瞬。皮膚の表面を薄皮一枚隔てて撫でた『鉄が錆びたような血の匂い』と『極低温の冷気』は、決して人間の体温が生み出せるものではない」
蒼馬の頭脳が、完璧な論理で事実を導き出していく。
「純血のバケモノだ。それも、戦闘に特化した凶暴な獣……おそらくは『黒狼』の類い。あの学校は李王組のシマのど真ん中だ。あれは、人間の学校に潜り込んだ、極道どもの飼い犬に違いない」
「なっ……! 人間の学校に、妖怪が紛れ込んでいると!?」
「茉莉の隣にいたあの肝の据わった小娘も、自分が庇われているつもりのようだったが……そのすぐ背後に、人を喰らう本物の獣が息を潜めていることなど、夢にも思っていないのだろうな」
愚かで滑稽な、人間の茶番劇。
蒼馬は、傍らに置かれた白磁の香炉を指先で弾いた。
チィン、と高く澄んだ音が地下室に響く。
「例の物を用意しろ」
蒼馬は、黒装束の男を見下ろして冷酷に命じた。
「李王組のシマの端……あの高校を包囲するように、『狂気香』を撒け」
黒装束の男の肩が、ビクンと大きく跳ねた。
「き、狂気香ですか!? しかし次期当主様、あれは……!」
狂気香。それは、何百匹という毒虫や悪鬼の死骸をすり潰し、呪術で煮詰めて作られた陰陽道の禁忌の呪具。その煙を吸い込んだ妖怪は、脳髄の理性を直接焼き切られ、生存本能すら忘れて『目の前の動くものをすべて喰い殺す』だけの血に飢えた肉塊へと変貌する。
「表立って我々が動けば、条約違反として本家や柊の爺が煩い。だが……連中が勝手に狂ってシマの人間を襲い始めれば話は別だ」
蒼馬の薄い唇が、残酷な弧を描く。
「人間に牙を剥いた妖怪は、不可侵条約の保護対象外。……我々陰陽師が、大義名分を持って『祓う(皆殺しにする)』ことができる」
「……御意に。シマの妖怪どもを同士討ちさせ、暴走したところを一網打尽にするのですね」
「まずは、あの学校に巣食う黒狼を引きずり出せ」
蒼馬は、立ち昇る線香の煙を冷たく見つめた。
「人間の皮を被った獣が、理性を失い、守るべきシマの人間たち――あの肝の据わった小娘や、茉莉の喉笛を噛みちぎろうと暴れ狂う光景。……それを見れば、茉莉も嫌でも思い知るだろう。妖怪とは、決して相容れぬ絶対的な害悪であり、滅ぼすべき汚物でしかないという真実をな」
一切の感情を排した、純粋な正義という名の悪意。
天才陰陽師の放つ凍てつくような殺気が、地下祭壇の和蝋燭の炎を一瞬にしてドス黒く染め上げた。
第一幕(後半):かりそめの平穏と、見えない呪い
初夏の生ぬるい風が、教室の開け放たれた窓から吹き込んでくる。
私立翠風高等学校、2年C組。黒板の端から漂う微かなチョークの粉っぽさと、床用ワックスの匂い。どこにでもある平和な昼休みの風景が、そこにはあった。
「あーっ、また美波さん、私の卵焼き狙ってますね!」
「えへへ、バレた? だって茉莉ちゃんの卵焼き、お出汁が効いてて料亭みたいなんだもん!」
「もう、美波ちゃんたら……ほら、私のタコさんウィンナーあげるから」
机をくっつけ合った四人の輪の中で、茉莉が困ったように笑い、美波と結衣がじゃれ合っている。ゲリラライブでのあの一件以来、氷のような緊張感が嘘のように、茉莉は完全に普通の女子高生としての生活に溶け込んでいた。
(……平和だなあ)
桜は、手作りのサンドイッチを齧りながら、三人のやり取りを目を細めて見守っていた。
鎖骨の奥から右脇腹にかけて、時折チリッとした微かな鈍痛が走る。あの大天狗との死闘から二週間。限界突破による『妖力焼け』のダメージは、ようやく日常生活に支障がないレベルにまで癒えつつあった。
だが。
桜の周囲の空気だけは、未だに平和とは程遠い微気候を形成していた。
「……」
廊下側の窓ガラスの向こう。
白シャツの第一ボタンを開け放った黒曜蓮が、壁に寄りかかりながら、ポケットに突っ込んだ手をギリッと握り込んでいる。
彼から放たれる極寒の冷気と、実体を持った凄まじい殺気が、廊下を歩く他の生徒たちを「ヒッ」と壁際に追いやっていた。
(……相変わらず、やりすぎなんだから)
桜は内心で重いため息をついた。
あの日、備品倉庫で強引に火傷の手当てをされて以来、蓮の過保護ぶり(本人は『器の管理』と言い張っているが)は異常なレベルに達していた。桜が少しでも顔を顰めようものなら、廊下の温度がマイナスまで下がり、すれ違う男子生徒の肩が少しでも触れそうになれば、物理的に首をねじ切ろうとする。
その時だった。
ピクリ、と。
廊下に立つ蓮の漆黒の瞳が、不自然なほど細められた。
彼の黒狼としての鋭敏な嗅覚が、初夏の生ぬるい風に混じる、ごく微かな『異臭』を捉えたのだ。
(……なんだ、この匂い。甘ったるい血の匂いと……死体の腐臭……?)
蓮は、眉根を深く寄せ、シマの境界線――学校の敷地の外周を睨みつけた。
あの陰陽師の男から放たれていた清め塩の匂いとは違う。もっとドロドロとした、何百匹という害虫をすり潰して燃やしたような、鼻腔を直接焼き切るような不快な煙の匂いが、ジワジワと風に乗って流れてきている。
その匂いを肺に入れた瞬間。
ドクンッ!!
蓮の腹の底から、今まで感じたことのない異様な『飢え』と『破壊衝動』が、間欠泉のように噴き上がりかけた。
「……ッ」
蓮は反射的に自らの口元を覆い、ギリッと奥歯を噛み砕くほどの力で衝動を抑え込んだ。
なんだこれは。全身の血液が沸騰し、視界の端がチカチカと赤く明滅する。気を抜けば、今すぐ目の前の扉を蹴り破り、教室で談笑している五月蠅い人間のガキどもの喉笛を、片っ端から噛みちぎってしまいそうになる。
(毒、か……。それも、妖怪の脳髄だけを直接焼くタチの悪い呪い……っ)
蓮の喉の奥から、低く凶暴な唸り声が漏れた。
この微量な風に乗った匂いだけで、これほどの衝動を引き起こす。もしこれをまともに吸い込めば、純血の妖怪であっても理性を保つことは不可能に近い。
* * *
西の空が完全に黒く沈み、逢魔が時が終わる頃。
関東の片隅に広がる鬱蒼とした鎮守の森の奥で、李王組本家は昼間の静寂な廃屋の皮を脱ぎ捨て、本来の『夜の顔』へとその姿を変貌させていた。
広大な敷地を囲む土塀に、青白い狐火を宿した提灯が次々と灯っていく。
開け放たれた大広間からは、三味線と太鼓のけたたましい音色に混じって、地を這うような妖怪たちの野太い笑い声や、酒樽を叩き割るような喧騒が夜空に立ち昇っていた。廊下には、血の滴る生肉や、人間には直視できないような奇怪な臓物料理を乗せた大皿が、下級妖怪たちの手によって慌ただしく運ばれていく。むせ返るような酒の匂いと、獣の脂の匂い。
関東最大の極道組織の本拠地は、毎夜、力と欲望が渦巻く巨大な宴会場へと変貌するのだ。
だが、その血生臭い喧騒から完全に隔離された、本家の最も奥まった一角。
『お頭の私室』に続く渡り廊下だけは、重たい伽羅の香りが満ち、結界によってチリッとした清浄な冷気が保たれていた。
「お嬢様、本日の夕餉をお持ちしましたよ。……お加減はいかがですか?」
スギ戸が静かに開き、涼やかな声と共に雪柳が入室してきた。
彼女の白い手には、階下の宴会料理とは似ても似つかない、白米に焼き魚、出汁の香るお吸い物といった、完璧に栄養計算された『人間のための和食』が乗ったお盆が掲げられている。
「ありがとう、雪柳さん。火傷の痛みも、もう随分引いたよ」
桜は、部屋の真ん中に置かれた文机から顔を上げ、柔らかな笑顔を向けた。指定の制服から、肌触りの良い薄手の寝巻きに着替えている。
大天狗との死闘から、一週間ちょい。
あの夜、限界突破の代償で全身の血管が焼き切れるほどの『妖力焼け』を負った桜は、幹部たちから「最低でも一週間は、絶対にリミッターを外してはならない」と厳命されていた。そのため、この一週間ほど、彼女は夜になっても九尾へと覚醒せず、ただの「人間の女子高生・李王桜」として本家の奥座敷で安静に過ごしていたのだ。
「あらあら、雪柳の作るご飯はいつも地味ねぇ。お嬢様、育ち盛りなんだからもっとお肉を食べなきゃダメよ」
雪柳の後ろから、真紅のチャイナドレスの深いスリットを揺らして、爪紅が艶やかな笑い声を上げながら入ってくる。彼女は桜の後ろに回り込むと、その柔らかな栗色の髪を、極細の絹糸のような自らの指先で優しく梳き始めた。
「爪紅。お嬢様の胃の腑は、我々妖怪のように強靭ではないのです。消化の良いものを召し上がっていただかねば」
「堅苦しいわねぇ。……ねえお嬢様、今度のお休み、またお洋服を買いに行きましょう? 傷が治ったら、可愛いワンピースを着せてあげるわ」
「うん、楽しみにしてるね」
クスクスと笑い合う桜と爪紅を、雪柳が「もう……」と呆れたように見守る。
その時、ドカドカと家鳴りを響かせるような豪快な足音と共に、二メートルを超える巨躯の若頭・鬼道が、青白い顔の軍師・幻夜を伴って部屋に顔を出した。
「ガハハハ! お嬢、飯はしっかり食えてるかい! 痛むところはねえか!」
「うるさいですよ、鬼道。お頭のお耳が潰れます。……ゴホッ、お頭、本日のシマの報告書をお持ちしました」
幻夜が、口元を抑えて咳き込みながら、和紙にまとめられた報告書を桜の文机に置く。桜が人間である間、実質的なシマの管理と夜の警護は、この幹部たちがすべて代行していた。
「この一週間、我らがシマは完全に『凪』でございやす」
鬼道が、誇らしげに胸を張った。
「大天狗の軍勢を、お頭が一夜にして灰に変えたって噂が、関東中を駆け巡ってましてね。他派閥の連中も、傘下の半グレ妖怪どもも、お頭の威光に完全に震え上がって、コソ泥一匹出やしねえ。……お頭のシマは、俺たちが完璧に守っております。どうかご安心を」
「そっか。……みんな、ありがとう。私がこんなだから、迷惑かけちゃってごめんね」
「め、滅相もねえ!!」
桜が申し訳なさそうに眉を下げるのを見て、鬼道が慌てて両手を振る。幻夜も、咳を押し殺して静かに頭を下げた。雪柳が冷たい手でお茶を注ぎながら、「お嬢様は、我らの太陽。ご自身の回復だけを考えてくだされば良いのです」と優しく微笑む。
彼らの桜に向ける愛情は、疑いようのない本物だった。
……だが。
(みんな、優しい。でも……)
桜は、温かいお吸い物を口に運びながら、喉の奥に微かな小骨が刺さったような違和感を飲み込んでいた。
彼らが優しいのは、今の私が「喧嘩一つできない、ただの無力な人間の子供」だからだ。彼らの眼差しには、絶対的な君主へ向ける『畏怖』はなく、壊れ物を扱うような過保護と庇護欲しかない。
私が人間である限り、私は彼らの「守られる対象」であっても、「極道のトップ」として対等に同じ血と泥を背負うことは許されないのだ。
和やかな夕食と報告が終わり、幹部たちが夜の見回りと宴会の管理のために部屋を辞していく。
スギ戸が閉められ、一人きりになった部屋で、桜は「ふぅ」と重い息を吐き出し、古文の予習ノートを開いた。
数時間後。
時計の針が深夜の十二時を回った頃。
桜は、シャープペンシルを置き、小さく首を鳴らした。
「……少し、喉が渇いたな」
部屋に備え付けの急須には、もうお茶が残っていなかった。
普段なら、手を叩いて下級の小間使いを呼ぶところだが、階下からは未だに宴会の喧騒が地鳴りのように響いており、こんな些細な用事で彼らの邪魔をするのは気が引けた。
桜は、薄手のカーディガンの前を合わせ、足袋を履いた足で静かに私室のスギ戸を開けた。
ひんやりとした深夜の廊下の空気が、頬を撫でる。
蝋引きされた床板を歩くたび、微かな軋み音が鳴る。厨房へ向かうためには、幹部たちが夜の軍議に使う『奥の談話室』の前を通らなければならない。
廊下の角を曲がり、談話室に近づいた、その時だった。
(……え?)
桜の足が、ピタリと止まった。
談話室の分厚い襖の向こうから、階下の宴会の喧騒とは明らかに異質な、ひどく張り詰め、押し殺したような声が漏れ聞こえてきたのだ。
「……また出たのか」
「はっ。シマの東区画で、傘下の下級妖怪が三匹、突然狂ったように身内同士で殺し合いを……。これで今週に入って五件目ですぜ」
若頭の鬼道と、本部長の雪柳の声だった。
桜は息を殺し、冷たい壁に背中を預けるようにして耳を澄ませた。
(今週に入って五件……? さっきの報告では、シマは完全に平和だって……)
桜の心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。
「人間の警察が動く前に、私が氷漬けにして回収しました。……ですが、異常です」
雪柳の冷たい声には、先ほどまでの「優しい家庭教師」のような響きは微塵もなく、極道の幹部としての明確な焦燥感と殺気が混じっていた。
「皆、一様に目が赤く濁り、口から甘い匂いのする泡を吹いていました。生存本能を完全に失った、ただの血に飢えた肉塊のように」
「……ゴホッ。間違いありませんね」
幻夜の、肺の底から絞り出すような低い声が続く。
「陰陽師の使う禁忌の呪具、『狂気香』の類いです。対象の妖怪の脳髄だけを焼き切り、同士討ちさせる外道の術。……先日、お頭が学校で退けたという、一宮本家の仕業かと」
「クソ外道どもが……ッ! 自分らで直接手を下さず、シマの連中を狂わせて殺し合いをさせようって腹か!」
ドンッ! と、鬼道が床板が軋むほど強く拳を叩きつける音がした。その怒気に当てられ、談話室の障子がビリビリと悲鳴を上げる。
「すぐにお頭に報告し、夜の百鬼夜行でシマの端から端まで――」
「馬鹿野郎、雪柳! 駄目だ!!」
鬼道が、雪柳の提案を鋭く、そして悲痛な声で遮った。
「お頭のお身体は、まだ大天狗戦での限界突破のダメージが抜け切っちゃいねえ。あんな血を吐くような無茶をしたんだぞ! 今、リミッターを外させて強力な九尾の妖気を解放させれば、今度こそお頭の肉体が危ねえ!」
その言葉に、雪柳も幻夜もハッと息を呑む気配が伝わってきた。
「……では、我々だけで処理しろと?」
「ああ。夜のシマの異変は、直参幹部である俺たちだけで完全に揉み消す。お頭には、一切の情報を入れるな。……これ以上、あんな小さな肩に、極道の血の重さを背負わせるわけにはいかねえ」
それは、組のトップを案じる、純粋で真っ直ぐな『家族としての忠義』だった。
彼らはお頭を心底愛しているからこそ、すべての泥を自分たちだけで被り、彼女の「人間としての安らかな眠り」を守ろうとしているのだ。
だが。
「…………」
襖の裏側、冷たい廊下の暗がりでその会話を聞いていた桜は、足袋越しに伝わる床の冷たさに耐えきれないように、ギュッと自身の両腕を抱きしめた。
(……私は、守られているだけ。彼らにとって、人間の私は……ただの庇護対象でしかないんだ)
胸の奥が、冷たい泥で満たされていくような感覚。
夕食の時、彼らは私に「シマは完全に平和です」と嘘をついた。私が心配しないように。私が無理をしないように。
自分の体が心配されているのは痛いほど分かる。だが、それは同時に、「トップとしての責任」すらも取り上げられ、蚊帳の外に置かれているという絶望的なまでの孤独感だった。
私が無力な人間だから。妖怪としての圧倒的な力が出せない時は、この組の危機を共有する資格すらないと言われているようで。
桜は、左手首にはめられた『封印の数珠』を、もう片方の手でギリッと血が滲むほど強く握りしめた。
外せば、私はまた強大な力で彼らを導ける。でも、今外せば、確実に私の体は壊れる。
陰陽師の仕掛けた見えない呪いが、シマの端を蝕み始めている。
そしてそれ以上に、桜の心を覆う人間としての孤独と無力感が、深く、静かに彼女の精神を蝕み始めていた。




