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ゲリラライブ

『――イェーッ! 盛り上がってるー!?』


 設置された巨大なスピーカーから、軽音部のボーカルの甲高い煽り声と、腹の底に響くベースの重低音が中庭をビリビリと震わせた。

 それに呼応して、周囲を取り囲む五百人の生徒たちから「うおおおっ!」という地鳴りのような歓声が上がる。無数のスマートフォンのカメラが掲げられ、無遠慮なフラッシュの光が初夏の陽光の下で白く瞬いていた 。


 ここは、彼ら『表の住人』たちの絶対的なテリトリー。

 その熱狂と喧騒のど真ん中に、一宮蒼馬は立ち尽くしていた。


 仕立ての良い濃紺のスーツを纏う彼の周囲だけが、まるで世界のレイヤーがずれているかのように、異常な冷気と静寂に包まれている。だが、その冷気も、五百人の若者たちが放つ暴力的なまでの『生者の熱(陽の気)』と、大音量のノイズの前に、チリチリと蒸発させられていた。


(……なんという穢れた空気だ)


 蒼馬は、端正な顔を微かに歪め、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 陰陽師である彼にとって、このような無秩序で俗物的な空間は、それだけで霊的な感覚をひどく鈍らせる猛毒に等しい。

 さらに最悪なのは、四方八方から自分に向けられている何百というスマートフォンのレンズ群だ 。彼らは皆、突然現れた美貌の青年と、転校生である茉莉との『ドラマ』を、面白半分で録画しているのだ。


 ここで呪符を抜き、術を使えばどうなるか。

 確実に決定的な証拠がデジタルデータとして記録され、瞬く間に世界中へと拡散される。裏社会の秘匿を絶対の掟とする柊本家にとって、それは一族の破滅を意味する致命的な失態だ 。


 物理的な暴力で連れ去ることも不可能だった。茉莉の周囲には常に数人の女子高生が壁のように張り付いており、少しでも強引な真似をすれば、この五百人の群衆が『正義感』という大義名分のもとに一斉に襲いかかってくるだろう 。

 蒼馬は、自分が完全に『詰んでいる』ことを、天才ゆえの頭脳で瞬時に理解させられていた。


「……こんな小芝居を打って、何が変わると言うんだ、茉莉」


 蒼馬は、スピーカーの轟音にも掻き消されない、冷徹で通る声を響かせた。

 そのガラス玉のような黒瞳が、スピーカーの横で肩を寄せ合う四人の少女たちを――その中心にいる実の妹を、真っ直ぐに射抜く。


「お前は一宮の血を引く者だ。この下賤な表の世界に、お前の居場所などない。……遊びは終わりだ。こちらへ来なさい」


 有無を言わさぬ、絶対的な兄としての命令。

 これまでなら、その声を聞いただけで茉莉は顔面を蒼白にさせ、震えながら平伏していただろう。彼女にとって蒼馬は、一生追いつけない天才であり、逆らうことなど許されない恐怖の象徴だった。


 だが。

 茉莉は、震える両足を床にしっかりと踏ん張り、決して目を逸らさなかった。


 彼女の背中には、美波と結衣の温かい手が添えられている。そしてすぐ隣には、自分をこの表の世界に繋ぎ止めてくれた、李王桜が静かに並び立っていた 。

 (私には、才能がない。……でも、私を友達だと言ってくれたこの人たちを守るための、勇気だけはある)


「……帰りません」


 茉莉の声は震えていた。だが、スピーカーのノイズを切り裂いて、確かに蒼馬の耳へと届いた。


「な……?」

「私は、一宮の『出来損ない』です。お兄様のように、強力な結界も張れません。高度な呪術も使えません。……本家にとって、私は無価値な存在のはずです」


 茉莉は、ギュッと両手を胸の前で握りしめた。


「でも、ここでは違います。美波さんも、結衣さんも、桜さんも……私が陰陽師じゃなくても、ただの『一宮茉莉』として、一緒に笑ってくれます。お弁当を食べてくれます。……私、ここが……この学校が、好きなんです」


 涙声になりながらも、彼女の瞳には、かつてないほど強い光が宿っていた。


「だから、帰りません。私は……自分の意志で、この光の世界で生きていきます」


 その明確な『決別』の宣言に、蒼馬の顔からスッと表情が消え失せた。

 完璧な天才である彼にとって、自分の支配下にあるはずの妹が、あろうことか「こんな底辺の人間たち」との繋がりを選び、自分を拒絶したのだ。


「……愚かな」


 ピキリ、と。

 蒼馬の周囲の空気が、物理的な音を立ててひび割れた。大音量の音楽が鳴り響いているはずなのに、その瞬間だけ、中庭の気温が真冬のように急降下する。

 彼の右手が、無意識にスーツの内ポケット――呪符の束へと動いた。

 理性を失いかけた天才の、致死の呪術が解き放たれようとした、その刹那。


「――お兄さん」


 スッ、と。

 茉莉の半歩前に、桜が静かに立ち塞がった。


 彼女は、スマートフォンでこちらを撮影している周囲の生徒たちを、顎で軽くしゃくってみせた。


「みんな、見てますよ」


 その言葉は、極めて丁寧で、どこにでもいる女子高生の穏やかな声色だった。

 だが、桜の黒曜石の瞳の奥に宿る『座った肝』は、ただの女子高生のそれではない。関東の影の世界を統べる極道のトップとして、何千という魑魅魍魎を恐怖でひれ伏させてきた、冷徹な『盤面支配』の光だ 。


(ここでは、私がルールだ。お前の出る幕はない)


 声には出さずとも、その威圧感が蒼馬の肌をジリジリと灼いた。

 蒼馬は息を呑んだ。この小娘は、ただの人間だ。霊力も妖気も欠片も感じない、ひ弱な存在に過ぎない。だというのに、なぜこれほどまでのプレッシャーを、自分と同等か、あるいはそれ以上の『格』を見せつけてくるのか 。


 さらに。


(……上、か)


 蒼馬の研ぎ澄まされた直感が、頭上からの明確な『死の気配』を捉えた。

 視線だけを鋭く上に巡らせる。校舎の三階、開け放たれた窓ガラスの奥。

 そこに、漆黒の髪をした男子生徒――昨日、自分の腕を弾き飛ばしたあの異常な不良が、ポケットに手を突っ込んだまま、窓枠に腰を下ろしてこちらを見下ろしていた 。


 蓮は、一切の妖気を消している。だが、その底なし沼のような黒瞳には、「お前が動いた瞬間、その首を物理的にねじ切る」という狂気に満ちた殺意が、限界まで圧縮されてチロチロと燃え盛っていた。


 観衆たち表社会の光で手足を縛られ。

 裏社会の影によって、命の逃げ道を塞がれる 。


 完璧な包囲網だった。天才陰陽師である自分が、力のない女子高生と、ただの野蛮な不良の連携によって、完全に『詰まされて』しまったのだ。


「…………」


 蒼馬は、内ポケットにかけていた手を、ゆっくりと下ろした。

 ギリッ、と奥歯を噛み鳴らす音が、彼自身の耳にだけ響く。これ以上の恥晒しは、一宮本家に対する泥塗り以外の何物でもない。


「……好きにしろ」


 蒼馬は、吐き捨てるように言った。

 その顔には、先ほどまでの余裕や冷酷さはなく、底知れない屈辱だけが色濃く張り付いていた。


「だが、忘れるな茉莉。お前が選んだその場所が、いつまでも安全だとは思うな」


 最後にそう言い残すと、蒼馬は踵を返し、来た時と同じように、だが明らかに足早に、喧騒の中庭を抜けて生徒昇降口へと姿を消していった。


 彼の背中が完全に見えなくなった瞬間。


「……っ、はぁぁぁ……っ!」


 茉莉は、糸が切れた操り人形のように、その場にへなへなと座り込んだ。

 緊張でガタガタと震えていた膝が、もう自分の体重を支えきれなかったのだ。


「茉莉ちゃん!」

「一宮さん、大丈夫!?」


 美波と結衣が慌てて駆け寄り、床に座り込んだ茉莉を両側から力強く抱きしめた 。


「よかった……っ、本当によかったぁ……っ」

 美波が、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら茉莉の背中を撫でる。

「うん……っ、茉莉ちゃん、すっごくかっこよかったよ……っ」

 結衣も、眼鏡の奥から涙を滲ませて鼻をすすっている。


「美波さん、結衣さん……っ、桜さん……っ」


 茉莉は、二人の温かい体温に包まれながら、ついに声を上げて泣きじゃくった。

 もう、一人じゃない。冷たい神社の奥で、劣等感に震えていた過去の自分は、もうここにはいない。彼女は今、自分の力で、この光の当たる世界に居場所を掴み取ったのだ。


「……よく頑張ったね、茉莉ちゃん」


 桜は、そっと膝をつき、茉莉の頭を優しく撫でた。

 昨日、大天狗との死闘で全身を焼き切られ、今もカーディガンの下で痛む妖力焼けの痣 。だが、その痛みすらも忘れるほど、桜の心は温かい充足感で満たされていた。


 極道の掟も、呪術も関係ない。ただ、普通の女の子たちが、知恵と勇気で理不尽な重圧を跳ね除けた。

 その事実が、桜にとって何よりも眩しく、愛おしかった。


 三人が抱き合って泣き笑いする姿を、桜は柔らかな微笑みで見守る。


 ……その時。

 桜はふと視線を上げ、校舎の三階の窓を見上げた。


 そこには、すでに誰の姿もなかった。

 だが、初夏の風に乗って、微かに『鉄の錆びた匂い』が桜の鼻腔を掠めたような気がした。


(……ありがとう、蓮)


 桜は、心の中でそっと呟いた。

 彼が裏門を塞ぎ、この逃げ場のないステージを完璧に整えてくれたからこそ、蒼馬を退けることができたのだ 。昼間の自分を「どんくさい器」と見下しているはずの狂犬が、自分の立てた盤面に一言も文句を言わず、完璧に裏のサポートをこなしてくれた 。


 恐怖と拒絶しかなかった彼との関係に、ほんのわずかな、だが確かな共犯者として絆が芽生え始めていることを、桜は確かに感じ取っていた。


 初夏の眩しい陽光の下。

 スピーカーから流れる軽快な音楽と、生徒たちの歓声に包まれながら、四人の少女たちの絆は、これ以上ないほど強固なものへと結実したのだった。



ゲリラライブの熱狂が、少しずつ波が引くように中庭から薄れていく。

 祭りの後のような心地よい疲労感と、機材を片付ける軽音部の生徒たちのざわめき。夕暮れに差し掛かった初夏の生ぬるい風が、四人の少女たちの髪を優しく揺らしていた。


「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……っ」


巨大なスピーカーの陰。人気が少なくなった中庭の隅で、一宮茉莉は深く、深く頭を下げていた。

 その華奢な肩は小刻みに震え、スカートを握りしめる白い指先は、血の気が失せるほどにきつく食い込んでいる。


「私個人の家出に……皆さんの学校生活を、あんな危険な形で巻き込んでしまって。もし、お兄様が理性を失って術を使っていれば、美波さんも、結衣さんも、桜さんも……無事では済まなかった」


ポタポタと、アスファルトに大粒の涙が染みを作っていく。

 陰陽師という、常識も法も通用しない理不尽な暴力。それに「普通の女子高生」である親友たちを直面させてしまったという罪悪感が、彼女の胸を激しく締め付けていた。


「もーっ、茉莉ちゃん! 謝るの禁止!」

 美波が、泣きじゃくる茉莉の顔を両手でポンッと挟み込み、強引に上を向かせた。

「巻き込まれたんじゃないよ。私たちが『一緒に戦おう』って決めたんだから。それに、大成功だったじゃん! あのイケメンですっごく怖いお兄さん、最後は完全にタジタジだったし!」

「そ、そうだよ。私、放送室でマイク握りながら足ガクガクだったけど……でも、茉莉ちゃんが連れ戻される方が、ずっと嫌だったから」

 結衣も、自身の胸を押さえながら、安堵と誇らしさが混ざったような声で微笑んだ。


「……みなさん……」

 茉莉のガラス玉のような黒瞳から、再び涙が堰を切ったように溢れ出す。


「でも、どうしてあそこまで綺麗に引いてくれたのかな」

 桜が、そっと茉莉の背中を撫でながら尋ねた。

「お兄さん、すごく力のある人なんでしょ? 強引に連れ去ることもできたはずなのに、最後はすごく……居心地が悪そうというか、屈辱的な顔をしてた」


桜は『裏社会のルール(目立つ場所では動けない)』を熟知した上で、あえて普通の女子高生としての素朴な疑問を装って口にした。


茉莉は、涙をハンカチで拭い、赤くなった目元を伏せながら静かに語り始めた。

「……お兄様は、怒り以上に、ひどく混乱と不快感を抱いていたはずです」

「不快感?」

「はい。私たち陰陽師……特に一宮本家のような純血の家系は、古来より『清浄』と『秘匿』を絶対の掟としています。俗世の穢れから完全に隔離された神域で、ただひたすらに霊力を研ぎ澄ますことだけを求められて育つんです」


茉莉の言葉には、長く冷たい檻の中で生きてきた者特有の、重い実感がこもっていた。


「だから……お兄様のような『完成された天才』にとって、あの中庭の空間は、文字通りの猛毒だったんです。五百人もの人間が放つ熱気、無秩序な大音量、飛び交うスマートフォンの電磁波やフラッシュの光……」

 茉莉は、自身の手のひらを見つめた。

「あの人にとって、あそこは息をするだけで肺が腐り落ちるような、底辺のヘドロの沼と同じです。そんな不浄な泥の底で、絶対的な『下等生物(一般人)』たちの持つ機械の目に、自分の一挙手一投足が監視され、記録されている……。陰陽師の誇りを、これ以上ないほどズタズタにされる環境でした」


(なるほど……)

 桜は内心で深く頷いた。

 妖怪である自分たちも光を嫌うが、陰陽師のそれは「アレルギー」に近い。自分たちを『神に近い高位の存在』だと信じているからこそ、俗世のシステム(SNSや群衆の目)で手足を縛られることが、耐え難い屈辱になるのだ。


「お兄様は……私のことを『穢れに染まった』と本気で軽蔑したと思います。でも、同時に……」

 茉莉は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「あの人なりに、私を『泥の中から救い出さなければ』という、歪んだ義務感を持っていたんだと思います。一宮の血を引く私が、あんな場所で笑っていることが、どうしても理解できなかったんでしょうね」


天才ゆえの絶対的な孤独と、無自覚な傲慢さ。

 妹を愛しているわけではない。ただ、「自分の管理下にある所有物が、理解不能な世界で汚染されている」という事実が許せなかったのだ。


「……そっか。なんだか、ちょっとだけ可哀想な人なんだね、お兄さん」

 美波が、顎に指を当ててしみじみと呟いた。

「自分の殻から一歩も出られないで、私たちがこんなに楽しい毎日を送ってること、一生知らないままなんでしょ? 損してるよねぇ」


「……っ」

 その、美波のあまりにも『表の世界』の光に満ちた、真っ直ぐすぎる感想。

 裏社会の絶対的強者である一宮蒼馬を「可哀想」と一刀両断するその無邪気さに、茉莉は目を見開き――やがて、堪えきれないように「ふふっ」と吹き出した。


「あはは……っ、そうですね。美波さんの言う通りです。お兄様は、本当に可哀想な人です」

「でしょ? 茉莉ちゃんは、あんな世界に帰らなくて大正解!」

 美波が茉莉の肩を抱き寄せ、結衣もウンウンと強く頷く。


「……もう、迷いません」

 茉莉は、憑き物が落ちたような、清々しい笑顔で三人を見つめ返した。

「私は、皆さんと一緒に……この、やかましくて、温かくて、時々ヘドロのような泥臭い『表の世界』で、生きていきます。……本当に、ありがとうございました」


夕日の差し込む中庭で、四人はもう一度、しっかりと手を握り合った。

 冷たい神社の結界ではなく、互いの体温という、これ以上なく強固な『現代の結界』。


「それにしてもさ」

 手を繋いだまま、美波が思い出したように桜の顔を覗き込んだ。

「桜って、ああいう時ほんっとに肝が据わってるよね。あんな怖いお兄さんの前に、一歩も引かずにスッと立ち塞がっちゃうんだもん」

「うんうん」結衣も尊敬の眼差しで深く頷く。「普段は虫が出ただけで悲鳴上げたり、ちょっと大きな音がしただけでビクビクしてるのに……いざという時は、一番頼りになるっていうか」

「わかる! さっきの桜、完全に『極道の姐さん』って感じで超カッコよかった!」


「ひゃっ……!?」

 『極道の姐さん』というドンピシャすぎる単語に、桜の肩がビクンと大きく跳ねた。


「そ、そそそ、そんなことないよ! 私も足ガクガクだったし、ただ茉莉ちゃんを守らなきゃって必死だっただけで……っ!」

 桜は顔を引き攣らせてぶんぶんと両手を振るが、その額からはツーッと嫌な冷や汗が流れ落ちていた。


(肝が据わってるっていうか、本物の極道のトップだもの……! 何千匹って妖怪を震え上がらせてるんだから、当たり前じゃないの……っ!)

 内心で血の涙を流しながら激しくツッコミを入れるが、もちろん口に出せるはずもない。美波と結衣は「またまたー、照れちゃって」と無邪気に笑い合っている。


「よしっ! じゃあ、無事に大魔王も追い払ったことだし!」

 美波が、パンッと柏手を打って空気を切り替えた。

「この前言ってた駅前のパンケーキ屋さん、今から行こ! ゲリラライブの作戦会議ですっごく頭使ったから、糖分補給しなきゃ!」

「賛成! 私、期間限定のイチゴのやつ食べたいな」

 桜が冷や汗を誤魔化すように笑顔で乗っかり、結衣も「えっと、お小遣い……うん、大丈夫!」と財布を確認している。


「……はいっ。私も、行きたいです!」

 白檀の匂いを微かに残しながらも、茉莉のその顔はもう、どこにでもいる普通の女子高生のそれだった。


四人の影が、夕暮れのグラウンドに長く伸びる。

 笑い合いながら校門へと向かう彼女たちの背中を、初夏の温かい風が、祝福するように優しく押していった。

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