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16/21

分断の森と、白刃の覚悟

週末の日曜日。

 東京の郊外に位置する、手付かずの自然が残る『御影山みかげやま』の深い森の中。

 踏み固められただけの獣道を、四人の女子高生がスニーカーの音を立てて歩いていた。


初夏の陽光が、幾重にも重なる青葉の天蓋を透過し、エメラルドグリーンの木漏れ日となって苔生した大地に降り注いでいる。

 肺いっぱいに息を吸い込むと、湿った土とシダ植物のむせ返るような青臭さに混じって、清冽せいれつな湧き水の冷気が鼻腔を通り抜けていった。


「わぁ……っ、すっごい空気綺麗! 東京のすぐ近くに、こんな本格的な森があるなんて知らなかった!」

 美波が両手を大きく広げて深呼吸をする。

「ほんとだね。マイナスイオンたっぷりって感じ。……でも一宮さん、よくこんな秘密の場所知ってたね?」

 結衣が、先頭を歩く茉莉の背中に声をかけた。


私服姿の茉莉は、薄手の白いブラウスに細身のデニムという、飾らないが洗練された出立ちだった。彼女は振り返り、微かに、しかし教室にいた時よりもずっと柔らかい表情で微笑んだ。

「ええ。ここは昔、山岳信仰の修験者たちがみそぎに使っていた場所の跡地なんです。……気が澄んでいて、私の『練習』にはちょうど良くて」

「練習?」

 桜が首を傾げる。

 その時、不意に木立が開け、ぽっかりと切り取られたような円形の広場が姿を現した。


その空間を見た瞬間、桜の全身の産毛が、本能的な『畏怖』に総毛立った。


(……空気が、違う。なに、ここ……っ)

 広場の四隅には、古い杉の巨木が立ち、その間を真新しい『注連縄(しめ縄)』と、真っ白な『紙垂しで』がピンと張り巡らされていた。

 結界だ。

 結界の内側だけ、森の青臭い匂いが完全に消え失せ、代わりに、肺の奥が凍りつくほどに澄み切った『白檀』と『清め塩』の匂いが充満している。温度も、外より明らかに二、三度は低い。

 人間の美波や結衣には「わあ、ここだけ空気がひんやりして気持ちいい!」としか感じられないだろう。だが、半妖である桜の肌には、その清涼すぎる霊力が、微弱な静電気のようにチリチリと痛みを伴って突き刺さってきた。


「……私の実家は、神社なんです」

 広場の中央にある切り株に腰を下ろしながら、茉莉が静かに口を開いた。

「ただの神社ではありません。古来より、関東に巣食う『妖怪』という害悪を調伏し、滅ぼすことを生業としてきた……陰陽師の家系です」


その言葉に、美波と結衣が「えっ、陰陽師!?」「アニメみたい!」と目を丸くする。

 桜は引き攣りそうになる頬を必死に抑え、「へ、へぇ……すごい由緒正しいお家なんだね」と相槌を打った。


「すごくなど、ありません」

 茉莉は、自らのトートバッグから、墨で朱色の文字がびっしりと書き込まれた『呪符おふだ』の束を取り出し、膝の上で悲しそうに見つめた。

「私には、三つ上の兄がいます。……何百年に一人の天才と呼ばれる、本物の陰陽師です。私は、その兄と常に比べられて育ちました。霊力も、呪術の才も、兄の足元にも及ばない。一宮の『出来損ない』として」


ガラス玉のように冷たかった彼女の黒瞳が、痛みを堪えるように微かに揺れた。


「両親の期待も、一族の重圧も、すべてが兄に向かいました。私には、本家にもう……息をする場所すら残っていなかったんです。だから、逃げました」

 茉莉の指先が、呪符をきつく握りしめる。

「一族の目の届かない、この高校に無理言って転校させてもらって。今は一人暮らしをしています。……陰陽師としての運命から逃げ出した、ただの臆病者です」


森の静寂の中に、彼女の悲痛な告白が吸い込まれていく。

 教室で見せていたあの完璧で冷たい「氷の令嬢」の姿は、傷つくことから身を守るための、そして劣等感を隠すための、必死の虚勢だったのだ。


「そんなことないよッ!!」

 静寂を破ったのは、結衣と美波だった。二人は茉莉の両隣に座り、その華奢な肩を力強く抱きしめた。

「一人暮らしして、自分で学校通って……十分すごいじゃん!」

「そうだよ! それに、逃げたって言ってるけど、休みの日にわざわざこんな山奥まで来て『練習』してるんでしょ? 茉莉ちゃん、全然諦めてないじゃん! すっごく頑張ってるよ!!」


「あ……」

 茉莉の瞳から、ポロリと、大粒の涙が零れ落ちた。

 ずっと「お前はダメだ」「兄のようになれない」と否定され続けてきた彼女の心に、普通の女の子たちからの、一切の打算のない真っ直ぐな肯定が、温かい光となって差し込んだのだ。


桜は、二人に抱きしめられて涙を流す茉莉の姿を、胸を締め付けられるような思いで見つめていた。

(……同じだ)

 天才の兄と比べられ、重圧に潰されそうになった少女。

 そして自分は、偉大すぎる「先代」の威光と、極道のトップという重圧をたった一人で背負い、痛みを隠して立っている半妖の少女。

 背負うものの種類は違えど、その孤独と苦しみは、痛いほどに理解できた。


「……茉莉ちゃん」

 桜は、チリチリと肌を焼く結界の痛みを堪えながら一歩踏み出し、茉莉の手を両手で優しく包み込んだ。

「逃げたっていいんだよ。息ができない場所で、無理して生きる必要なんてない。……でも、もし茉莉ちゃんがまだ『自分を証明したい』って思ってるなら。私たちが、ずっと応援するから」


「桜、さん……っ、みなさん……っ」

 茉莉は、顔を覆って声を上げて泣き崩れた。

 妖怪を滅ぼす天敵と、妖怪を統べる極道のトップ。

 絶対に交わってはいけない二つの魂が、ただの「重圧に苦しむ等身大の少女たち」として、木漏れ日の結界の中で深く、温かく共鳴し合った瞬間だった。


* * *


……だが。

 その美しく清浄な結界の、すぐ外側。

 鬱蒼と茂るシダ植物の群生地の影に、完全に気配を消してうずくまっている漆黒の影があった。


(……チッ、吐き気がするほど息苦しい空気だぜ)

 黒曜蓮は、舌打ちをしながら自身の右腕を押さえていた。

 茉莉の張った結界の霊力は、黒狼である蓮にとっては文字通りの『猛毒』だ。結界のすぐ外にいるだけで、皮膚がジリジリと焼け焦げ、呼吸をするたびに肺に細かいガラス片を吸い込んでいるような激痛が走る。

 それでも彼は、休日だというのに私服(黒いパーカー)のまま、こうして桜たちの背後を完璧な隠密状態で尾行し、見張っていた。


あの桜が、陰陽師の女とつるんで山奥に行くなど、狂気の沙汰だ。もし結界の中で正体がバレて攻撃されれば、妖力を使えない昼間の桜など一瞬で灰にされる。

 だから、自分の身が焦げようとも、いざという時は結界を力ずくで破ってでも『奪い返す』ために、彼はこの毒の森に潜み続けていたのだ。


(とはいえ……あの陰陽師の女、ただ泣いてるだけじゃねえか。……なんだよあの、腑抜けた空気は)

 蓮は、木々の隙間から見える、四人で抱き合って笑い合う平和な光景に、得体の知れない苛立ちと、微かな安堵を覚え……。


――ふと、その『黒狼の嗅覚』が、異常な悪臭を捉えた。


「……あ?」

 蓮は、結界の広場から視線を外し、森のさらに奥……御影山の山頂方向を睨み据えた。


ほんの数秒前まで、鳥のさえずりと風の音で満ちていた森の空気が、突如として『完全な無音』に包まれた。

 生ぬるい風が止まる。

 代わりに、山の斜面を滑り降りてきたのは……ヘドロが腐ったような、粘り気のある凄まじい『死臭』だった。


ズズッ……、ズズズッ……。


木々が、不自然な音を立ててなぎ倒されていく。

 足音ではない。何か、巨大で重たい『肉の塊』が、地面を這いずりながら、一直線にこの場所――茉莉の張った清浄な結界を目掛けて滑り降りてきているのだ。


(……おいおい。マジかよ)

 蓮の黒瞳が、極限まで細められる。

 これは、その辺のチンピラ妖怪やはぐれではない。大天狗との死闘の余波か、あるいは最近ここで修行するという茉莉の放つ強力な霊力に引き寄せられたのか。

 何百年もこの山の地底に封印されていたような、理性のカケラもない巨大な『呪い』の塊が、圧倒的な質量を伴って迫ってきている。


「おい、お前ら! 逃げろッ!!」


蓮は、隠密をかなぐり捨て、木陰から広場へと飛び出した。


「え……っ? 黒曜、くん!?」

 突然茂みから現れた蓮の姿に、なぜいるのかと桜が驚愕に見開く。

 だが、蓮の警告よりも一瞬早く。


バチンッッ!!!


茉莉が広場の四隅に張っていた注連縄が、目に見えない巨大な圧力によって、爆発音と共に千切れ飛んだ。

 結界を維持していた真っ白な紙垂が、一瞬にして『どす黒い墨色』に染まり上がり、ボロボロと燃えカスのように崩れ落ちていく。


「きゃあああっ!?」

「な、なに!? 何が起きたの!?」

 美波と結衣が悲鳴を上げてしゃがみ込む。


「結界が……破られた!?」

 茉莉が血の気を引かせ、咄嗟に膝の上の呪符を構えた。

 だが、その手がガタガタと震えている。彼女の霊感は、森の奥から這い寄ってくる『それ』の絶望的なまでの巨大さを、正確に捉えてしまっていたのだ。


太陽の光が、突如として湧き上がった黒い瘴気によって遮られ、昼間の森が、逢魔が時のような不気味な薄闇に包み込まれていく。

 木々の隙間から、無数の赤黒い『眼球』を埋め込んだ、ビル三階ほどの高さを持つ泥の肉塊が、ズルリと姿を現した。


「……最悪だ」

 蓮は、桜の前に立ち塞がるように身を低くし、両手にドス黒い妖気の爪を顕現させた。

 相手は、陰陽師と普通の人間、そして妖力を使えない『器』。

 狂犬はただ一人、自らの背後にいる守るべきものたちのために、理不尽な天災バケモノに向かって獰猛な牙を剥いた。



ズズッ……、ベチャァッ……。

 森の木々をなぎ倒し、斜面を滑り降りてきたのは、理性を丸ごと腐らせたような巨大な泥と肉の塊だった。

 表面には無数の赤黒い眼球が埋め込まれ、ギョロギョロと無秩序に周囲を睨みつけている。吐き気を催すような硫黄とヘドロの悪臭が、初夏の森の清涼な空気を一瞬にして蹂躙した。


「ひっ、あ、ああ……っ!?」

 美波と結衣は、腰を抜かして落ち葉の上にへたり込んだ。

 彼女たちの脳は、目の前の常軌を逸した光景を「妖怪」と認識することを強烈に拒絶していた。

「な、なにこれ……土砂崩れ!? 違う、熊……っ? なにかの、事故……っ!?」

 パニックに陥り、過呼吸のように肩を上下させる二人。一般の人間にとって、妖怪という圧倒的な非日常は、脳の処理能力を超え『理解不能な自然災害』として無理やり変換されるのだ。


(……マズい)

 桜は、二人を庇うように両腕を広げながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 相手は、何百年も地底で瘴気を溜め込んだような特級の『はぐれ』だ。人間の姿である今の桜には、狐火一つ出すことができない。


そして、桜の前に立ち塞がった黒曜蓮もまた、最悪のジレンマに舌打ちをしていた。

(ここで俺がバケモノ(黒狼)の姿になれば、この一発で片付く。だが……)

 蓮の黒瞳が、震える手で呪符を構える『陰陽師の転校生』を一瞥する。

 ここで妖力を解放すれば、一宮茉莉に俺の正体がバレる。陰陽師の女に目をつけられれば、俺が護衛している『お頭の器(桜)』の素性まで必ず掘り下げられる。……それだけは、絶対に避けなければならない。


「……オラァッ!!」

 蓮は、人間の不良としての『物理的な腕力』の限界ギリギリを装い、足元にあった大木ほどの倒木を蹴り上げた。

 ドゴォォッ!!

 凄まじい脚力で跳ね上がった倒木が、泥の肉塊の顔面(眼球の密集地帯)にクリーンヒットし、ドス黒い体液が吹き飛ぶ。


『ギ、ガァアアアアアッッ!?』

 肉塊が、怒りに身をよじらせて咆哮を上げた。

 鼓膜が破れそうな轟音。その強烈なヘイト(敵意)が、完全に蓮一人へと向いた。


「おい先輩! テメェらは早くその腰抜け共を連れて山を降りろ!!」

 蓮は、桜に向かって怒鳴りつけた。

「蓮!? でもあんたは……!」

「俺は逃げ足だけは速えんだよ! この土砂崩れ(バケモノ)は俺が引きつける! さっさと行け、足手まといが!!」


乱暴な言葉。だが、桜と視線が交差したほんの〇・一秒。

 蓮の黒瞳は『逃げ遅れたら殺すぞ』という、狂犬特有の絶対的な脅しのメッセージを雄弁に語っていた。


(……わかった。任せたよ、蓮)

「美波、結衣! 立てる!? 一宮さんも、早くこっちへ!!」

 桜は、怯える親友二人の腕を強引に引き起こし、茉莉の背中を押して、蓮とは逆方向の獣道へと全速力で駆け出した。

「あ、あああ……っ」

 涙目で縋り付いてくる美波たちを引きずりながら、桜は森の奥へと飛び込む。

 背後で、木々がへし折れる轟音と、「こっちだ腐れ肉ゥ!!」という蓮の獰猛な叫び声が、次第に遠ざかっていった。


* * *


一方、鬱蒼と茂る広葉樹林の奥深く。

 桜たちが完全に視界から消え、陰陽師の気配が届かない距離まで泥の肉塊を誘導した瞬間。

 逃げ回っていた蓮の足が、ピタリと止まった。


「……チッ。休日の昼間っから、なんで俺がこんな泥遊びに付き合わなきゃならねえんだ」


蓮の周囲の空気が、急激に氷点下へと急降下する。

 人間の不良としての擬態が、音を立てて剥がれ落ちた。

 白シャツの両腕を突き破り、漆黒の毛並みとドス黒い妖気が爆発的に膨張する。彼の両手は鋼鉄すら切り裂く巨大な黒狼の爪へと変貌し、端正な顔には、獲物を前にした捕食者の凶悪な笑みが張り付いていた。


『ガ、アアアアアッ!!』

 標的が足を止めたのを見た肉塊が、押し潰そうと巨大な体躯をジャンプさせる。

 だが、蓮は避けることすらしなかった。


「ピーチク五月蠅い鳥の次は、ヘドロの塊かよ。……俺のお頭の庭に、不法投棄してんじゃねえぞ」

 シュンッ!!

 視界がブレるほどの速度。

 空中に跳ね上がった肉塊に向かって、蓮の漆黒の爪が『十字』に閃いた。


ズバァァァッッ!!!

 悲鳴を上げる間もなかった。

 ビル三階ほどの質量を持っていた泥と肉の塊が、空中で文字通り「四等分」に綺麗に切断され、ドシャアアッ! と汚物を撒き散らしながら森のあちこちへと墜落した。

 細胞の再生すら許さない、黒狼の絶対的な『死の妖気』を帯びた斬撃。


「……弱すぎて欠伸が出るぜ」

 蓮は、爪についたドス黒い血をパンパンと払い落とし、再び人間の姿へと戻った。

(主の器……いや、あの人たちは無事だろうな)

 ほんの僅かに胸をよぎった焦燥感を舌打ちで打ち消し、蓮は桜たちの気配を追って、静まり返った森を駆け出した。


* * *


その頃。

 桜たちは、息を切らして山の中腹の斜面を駆け下りていた。

「はぁっ、はぁっ……! さ、桜、黒曜くんは!? 食べられちゃってないよね!?」

 美波が泣きじゃくりながら振り返る。

「大丈夫、彼は足が速いから……っ! 早く下山して、助けを呼ばないと!」


桜がそう励ました、その瞬間だった。


ドサリ、と。

 四人の行く手を塞ぐように、頭上の木の枝から『泥の塊』が落ちてきた。

「え……?」

 それは、蓮が本体を引きつける前に千切れ飛んでいた、大妖怪の『分体(子機)』だった。

 大きさは人間ほどだが、ヘドロのような身体に無数の目玉をギョロつかせている。それは明確な殺意を持って、一番前にいた茉莉へと飛びかかってきた。


「一宮さんッ!!」

 桜が叫ぶ。

 茉莉は咄嗟に懐から呪符を抜き放った。

「急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう――ッ!」

 呪符が青白い光を放ち、分体を弾き飛ばそうとする。

 だが、その光は弱々しく、数秒で「パチンッ」と音を立てて弾け飛んでしまった。


(……っ、霊力が、足りない……!)

 茉莉の顔が絶望に青ざめる。

『お前は出来損ないだ』という、本家の大人たちや優秀な兄からの呪いの言葉が、彼女の脳裏にフラッシュバックして指先を震わせた。

 私には、才能がない。だから、この分体一つすら祓えないのだ。

 飛びかかってくるヘドロの牙を前に、茉莉がギュッと目を閉じ、死を覚悟した――その刹那。


「……下がりなさいッ!!」


ドンッ! と。

 茉莉の細い身体が、背後から強く引き剥がされた。

 目を開けた茉莉の視界に飛び込んできたのは、自らの前に立ち塞がり、両手を広げて泥の分体と対峙する、李王桜の華奢な背中だった。


「桜、さん……!? 駄目です、逃げてッ!!」

 彼女はただの人間だ。妖怪の牙に触れれば、一瞬で肉を削ぎ落とされる。

 だが、桜は一歩も引かなかった。

 魔法も使えない、妖気も出せない。文字通り、何の力も持たない人間の肉体。

 それでも、彼女の魂の奥底には、関東最大の極道を束ねる『九尾の女王』としての絶対的な矜持と、他者を守り抜くという強烈なエゴが燃え盛っていた。


(私の前で、私の友達を……傷つけさせるものかッ!)


桜は、飛びかかってくる分体の無数の眼球を、真っ直ぐに、一切の恐怖を見せずに睨み据えた。

 その瞳の奥に宿る、圧倒的な『王の威圧感』。

 妖気はなくても、何千という魑魅魍魎を平伏させてきた彼女の魂そのものが放つ、強烈な殺気。


『……ギ、ィ……?』

 分体が、空中でビクンと痙攣した。

 理性のない泥の化け物でさえ、己よりも遥かに上位の『絶対的な捕食者』に睨まれたという本能的な恐怖を、その魂の視線から読み取ってしまったのだ。

 分体の動きが、空中でほんの一瞬だけ、完全に凍りついた。


「今だよ、茉莉ちゃんッ!!」

 桜が、鋭く叫んだ。


「……ッ!!」

 茉莉は、ハッと息を呑んだ。

 霊力を持たないはずのただの女子高生が、己の命を盾にして、絶対に不可能なはずの『隙』をバケモノから作り出してくれたのだ。

 一族の重圧なんて関係ない。私を友達だと言ってくれた彼女たちを、絶対に守る。

 茉莉の黒瞳から、劣等感の淀みが完全に消え去った。


「――『破邪はじゃ』ッ!!」


茉莉の震えの止まった指先から、新たに放たれた呪符。

 今度は先ほどとは比べ物にならない、鋭く、研ぎ澄まされた清冽な『神雷』が森の暗がりを閃光で染め上げた。

 ドォォォォンッ!!

 桜の作り出した一秒の隙に、神雷が分体の中心を正確に貫く。

 断末魔の悲鳴と共に、泥の塊は内側から浄化の炎に包まれ、チリチリと灰になって完全に消滅した。


「……はぁっ、はぁっ……」

 茉莉が、その場にへたり込む。

 桜もまた、極度の緊張の糸が切れ、膝から崩れ落ちた。

「桜ッ! 一宮さんッ!」

 状況が飲み込めていない美波と結衣が、泣きながら二人に駆け寄り、強く抱きしめる。

 静寂を取り戻した森の中。四人の女子高生たちは、泥だらけになりながら、無事を確認し合うように強く手を握り合っていた。


ザッ、と。

 そこへ、少し遅れて草むらを掻き分ける音がした。


「……お前ら、無事かよ」

 現れたのは、息を少し切らし、服に土汚れをつけた黒曜蓮だった。

「黒曜くん! よかった、無事だったのね……っ!」

 桜が安堵の声を上げる。

 しかし、その直後。パニックから少しだけ我に返った美波と結衣が、ハッと息を呑んで蓮を指差した。


「ち、ちょっと待って!? なんで1年の黒曜くんが、休日のこんな山奥にいるの!?」

 美波が目を丸くして叫び、結衣も血の気を引かせた顔で後ずさる。

「ま、まさか……桜のこと、ずっと後ろからつけてきたんじゃ……っ。廊下で絡まれた時から、ずっと狙ってて……!」

 結衣の鋭い(そして完全に図星な)指摘に、桜の心臓がドクンと嫌な音を立てた。

(マ、マズい……ッ!)

 ただでさえ理解不能な土砂崩れ(妖怪)に襲われた直後だ。ここで彼が「俺の主人を見張っていた」などと口走れば、美波たちは間違いなく彼を不審者として通報する。

 桜が冷や汗を流して何か言い訳をひねり出そうとした、その時。


「……あ?」

 蓮が、底冷えするような黒瞳で美波と結衣をギロリと睨み下ろした。

「ひっ……!」

「俺が休日にどこ走ろうが、俺の勝手だろうが。……体力作りの走り込みだよ。こんな山奥で、ガキみたいにピクニック気分で騒いでるアンタらの方が、よっぽど頭湧いてんだろ」


氷点下の声で吐き捨てられた適当すぎる言い訳と、有無を言わさぬ狂犬の威圧感。

「ひ、ひぃぃ……っ、ご、ごめんなさい……っ」

 美波と結衣は完全に怯えきり、それ以上の追及を物理的に封じられてしまった。

(……走り込みって。私服のパーカーにデニムで……っ)

 桜は内心で頭を抱えつつも、これ幸いとばかりに話を強引に逸らした。


「ほ、ほら二人とも! とにかく、黒曜くんが囮になってくれたおかげで、私たち助かったんだし……! あの土砂崩れ、どうなったの?」

「あー……俺が石投げたら、どっかの崖から勝手に落ちていきましたわ。運が良かったっすね」

 心底退屈そうに嘘をつきながら、蓮の黒瞳は、桜に怪我がないかを素早く、舐め回すように確認していた。


そして、蓮の視線が、桜を庇うように息を整えている茉莉へと移る。

(……あの出来損ないの陰陽師。いざという時は、この『器』を盾にして逃げるかと思ったが……少しは見込みがあるじゃねえか)

 狂犬の胸の中で、ほんの少しだけ、陰陽師の少女に対する敵意が薄れた瞬間だった。

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