女子高生4人組の誕生
あの日、昼休みに卵焼きと人参を交換し合ってから、2年C組の窓際の席には、静かで温かい変化が訪れていた。
一宮茉莉が転校してきて数日。「氷の令嬢」「近寄りがたい美人」と遠巻きにされていた彼女の周囲の空気は、今や見違えるほど柔らかくなっていた。
初夏の風が吹き込む休み時間。桜、美波、結衣、そして茉莉の四人は、自然と机を寄せてひとつの小さな輪を作るようになっていた。
「ええっ、茉莉ちゃん、SNSのアカウント持ってないの!?」
美波が、明るく巻いたボブヘアを揺らして目を丸くした。彼女の唇からは、ふんわりと甘いピーチの香りのリップクリームの匂いが漂ってくる。
「はい……。実家が少し厳しくて、そういったものはあまり必要ないと教えられてきたので」
茉莉は、姿勢を正したまま少し恥ずかしそうに俯いた。
陰陽師の総本山である一宮家。そこでは、現代の娯楽など『俗物』として遠ざけられ、ただ呪術の才と霊力の鍛錬だけが求められてきたのだ。
「もったいない! 茉莉ちゃんすっごく美人なんだから、写真あげたら一瞬でバズるのに!」
美波は鞄からピンク色のスマートフォンを取り出すと、茉莉の隣にピタリとくっついた。
「ほら、見て見て。このアプリ、カメラに映ると自動で犬の耳とかつくんだよ! 一緒に撮ろ!」
「い、犬の耳、ですか……?」
戸惑う茉莉の顔が画面に映し出され、ポンッ、とエフェクトで垂れ下がった犬の耳と鼻が合成される。
「あはは、茉莉ちゃん可愛いー!」
美波が無邪気に笑いながらシャッターを切る。カシャッ、という電子音。
画面の中で、目を丸くして少しだけ困ったように笑う自分の顔と、ピースサインをする美波、そして後ろからひょっこり顔を出して笑う桜と結衣の姿。
「……不思議ですね。こんな風に写真に写るのは、初めてです」
茉莉は、画面の中の自分たちを愛おしそうに見つめた。冷たく厳格な神社の奥では絶対に手に入らなかった、『普通の女子高生』としての眩しい切り取り線。
「茉莉ちゃん、ノートの字もすっごく綺麗だよね。まるで書道の先生みたい」
結衣が、大人しげな眼鏡の奥から感嘆の息を漏らした。彼女の手元には、几帳面な文字で書かれ、びっしりと色とりどりの付箋が貼られた英単語帳が握られている。
「結衣さんの単語帳こそ、素晴らしいです。これだけ丁寧に付箋を分けて……とても努力家なのですね」
茉莉が真剣な顔で褒めると、結衣は「そ、そんなことないよぉ」と照れて耳まで真っ赤にした。
「結衣ちゃんは真面目だからねー。それに比べてうちの桜ときたら、昨日も数学の居眠りバレて、ビクッてなった拍子に消しゴム落として机に頭ぶつけてたんだから」
「ちょ、美波! それは茉莉ちゃんの前では内緒って言ったじゃない!」
桜が顔を真っ赤にして抗議し、美波と結衣がクスクスと笑い声を上げる。
「ふふっ……」
その他愛のない、本当に平和なやり取りを見て、茉莉の唇から自然と年相応の笑い声がこぼれ落ちた。
――温かい。
茉莉は、胸の奥底で固まっていた氷が、少しずつ溶けていくのを感じていた。
優秀な兄と比べられ、『出来損ない』と烙印を押されて逃げ出してきた自分。でも、この三人は、自分に特別な力なんて求めていない。「字が綺麗だね」「一緒に写真撮ろう」と、ただの『一宮茉莉』として、打算のない真っ直ぐな好意を向けてくれる。
ずっと纏っていた白檀と清め塩の孤独な匂いが、彼女たちの制服の柔軟剤の香りや、甘いお菓子の匂いと混ざり合い、少しずつ『日常』の色に染まっていくのが分かった。
* * *
木曜日の四時間目終わり。
体育の授業から戻ってきた生徒たちで、2年C組の教室は制服の擦れる音と、微かな汗の匂い、そして制汗スプレーの爽やかな香りに包まれていた。
「あーっ、もう! 体育でドッジボールとか信じらんない! せっかく前髪巻いてきたのにボロボロじゃん!」
美波が自分の席にドカッと座り、手鏡を見ながら手ぐしで必死にボブヘアを整えている。ほんのり甘いピーチのリップクリームを塗り直しながら、「絶対顔テカってる……最悪」と頬を膨らませていた。
「大丈夫だよ、美波。ちゃんと可愛いから」
お弁当を広げながら桜がクスクスと笑い、結衣も「そうそう。それに美波ちゃん、最後のパスすっごくかっこよかったよ」とフォローを入れる。
その向かいの席では、転校してきて数日の茉莉が、真っ直ぐな姿勢でちょこんと座り、不思議そうに美波の手鏡を覗き込んでいた。
その時だった。
「おーい美波! お前、今日の古文のノート取ってる? 俺、完全に寝てたわ。見せて!」
通路を挟んで斜め後ろの席から、気さくな大声が飛んできた。
サッカー部のエースストライカーであり、クラスのムードメーカーでもある鈴木翔真だ。日に焼けた肌と、少し寝癖のついた短い髪。夏服の白シャツの第一ボタンを開け、人懐っこい笑顔でこちらに歩いてくる。
「……ッ!!」
瞬間。美波の肩がビクンッ! と跳ねた。
彼女は手鏡をバタンと机に伏せ、わざとらしく眉間に皺を寄せて翔真を睨みつけた。
「はぁ!? あんたまた寝てたの!? 翔真ってばいっつもそうじゃん、自分で取りなさいよ!」
「えー、いいじゃん減るもんじゃないし! 頼むよ美波サマ〜、この通り!」
翔真が両手を合わせて大げさに拝む。
「……もーっ、しょうがないなぁ! 今回だけだからね! アイス奢り一本追加だから!」
「よっしゃ! さすが美波、話が分かる! ほら、これ前借りな」
トンッ、と。
翔真が美波の机に置いたのは、購買で人気の『いちごミルク』の紙パックだった。
「さんゅ! じゃ、部活の朝練で寝不足の俺は昼寝します!」
翔真は美波のノートをひったくると、ニカッと白い歯を見せて笑い、自分の席へと戻っていった。
翔真の背中が完全に後ろを向いた、その直後。
「……~~~~ッッ!!」
美波は、机の上に置かれたいちごミルクを両手でギュッと握りしめ、そのまま机の上に突っ伏した。
隠しきれない耳の裏から首筋までが、ゆでダコのように真っ赤に染まっている。先ほどまでの「勝ち気な女子」の態度はどこへやら、机に顔を埋めたまま、フルフルと小動物のように震えていた。
「ふふっ」
結衣が、大人しげな眼鏡の奥で呆れたように、しかしひどく楽しそうに目を細めた。
「美波ちゃん、ほんと分かりやすいんだから」
「……だ、だってぇ……っ! 体育の後だから絶対汗臭いと思って焦ったのに、翔真、柔軟剤のすっごいいい匂いするんだもん……っ。しかも私の好きな一番好きないちごミルク……っ! 無理、心臓もたない……っ」
机に突っ伏したまま、美波が悶絶するような声で呻く。
そう、美波はこの底抜けに明るいサッカー部の男子に、もう一年以上も絶賛片思い中なのである。
「素直に『ありがとう』って言えばいいのに。いつも喧嘩腰になっちゃうよね」
桜が苦笑しながら美波の背中をポンポンと撫でていると、向かいの席の茉莉が、箸を持ったまま真剣な表情で固まっていることに気がついた。
「……茉莉ちゃん?」
「……美波さん。顔がひどく赤いですし、心拍数も異常です。それに、先ほどの鈴木という男子生徒に対する態度の矛盾……」
茉莉のガラス玉のような黒瞳が、美波の生態を観察するようにスッと細められた。
「なるほど。これが俗に言う、『恋の病』という呪い……!」
「呪いって言わないで!?」
美波がガバッと顔を上げた。
しかし、神社の奥で浮世離れした修行ばかり積んできた茉莉は、大真面目だった。
彼女はスッ……と鞄の中に手を入れると、墨で朱色の文字が書かれた『怪しげな呪符』を一枚取り出し、美波の目の前にスッと差し出した。
「美波さん、ご安心ください。私に強力な調伏はできなくとも、この程度の『縁結びの呪術』なら心得があります。この札に鈴木翔真の髪の毛を一本包み、丑三つ時に境内の御神木に五寸釘で――」
「重い重い重い!! 茉莉ちゃんそれ縁結びじゃなくて呪いの藁人形のやり方!!」
「えっ? 違うのですか? 本の知識では、想い人の魂を強制的に縛り付けるにはこれが一番確実だと……」
「犯罪になっちゃうから! 私の恋、アブノーマルな方向に持っていかないで!」
大慌てでツッコミを入れる美波と、不思議そうに首を傾げる茉莉。
そのあまりの噛み合わなさに、桜と結衣は堪えきれず、お腹を抱えて大爆笑してしまった。
「あはははっ! もう、茉莉ちゃん最高!」
「ふふっ、美波ちゃん、釘打ちに行かないとね……っ」
「結衣ちゃんまで笑わないでよーっ! もう、私の純情を返して!」
美波が真っ赤な顔で抗議するが、その声もすぐに四人の笑い声の中に溶けていった。
窓の外から吹き込む初夏の風が、美波のボブヘアを揺らす。
ピーチのリップクリームと、もらったばかりのいちごミルクの甘い匂い。
命のやり取りも、血の匂いもない。
ただ、好きな男の子にドキドキして、友達の天然な発言に腹を抱えて笑い合う。
桜は、涙が出るほど笑いながら、この生ぬるくて、愛おしくて、最高に平和な空間を、眩しいものを見るような目で見つめていた。
「……あーあ、ほんと暑いね! 今年の夏は絶対猛暑だよ〜」
ひとしきり笑って落ち着いた後、美波が下敷きで顔をパタパタと仰ぎながら言った。
* * *
「ねえねえ、明日の土曜日、どっか涼しいところ遊びに行かない?」
そして、金曜日の放課後。
ホームルームが終わり、四人で帰り支度をしていた時のことだった。
開け放たれた窓からは、初夏のジリジリとした熱気と、グラウンドの砂埃の匂いが入り込んでくる。
「カフェとか映画館とか、涼しいところ!」
美波がそう提案した。
「あ、ごめん……私、明日はちょっと用事があって……」
結衣が、申し訳なさそうに、けれど少しだけソワソワした様子で言った。
「えっ! 結衣ちゃん土曜日に用事!? まさか、この前買ってた白いお花のヘアピンつけて、お出かけ……!?」
美波がニヤニヤと近づくと、結衣は「ち、違うよ! 家族と出かけるだけだから!」とさらに真っ赤になって慌てふためく。
「あはは、結衣ちゃん可愛い。じゃあ、日曜日はどう? みんな空いてる?」
桜が笑いながら間を取り持つと、美波と結衣は「日曜なら大丈夫!」と頷いた。
「茉莉ちゃんは? 日曜日、空いてる?」
桜が振り返って尋ねる。
「え……私、ですか?」
茉莉は少し驚いたように目を瞬かせた。休日を、友達と過ごす。それは彼女にとって、まだ慣れない響きだった。
「うん! 美波が涼しいところ行きたいって言ってるけど、茉莉ちゃんはどこか行きたいところある?」
涼しいところ。
その言葉を聞いた瞬間、茉莉の脳裏に、ある光景が浮かんだ。
王都の郊外にある、鬱蒼とした青葉の天蓋。手付かずの自然が残り、肺の奥まで凍りつくような清冽な湧き水が流れる、あの秘密の場所。
(……私には、才能がない)
実家から逃げて、一人暮らしをしている今も。彼女は休日のたびに、陰陽師としての『練習(禊)』を諦めきれず、一人でその山へ通い詰めていた。誰にも見られない場所で、たった一人で呪符を握りしめ、劣等感と戦い続けている孤独な場所。
誰にも見せたくなかった、自分の惨めな秘密の領域。
だが。
(……この人たちになら)
茉莉は、不思議と「自分のその場所を共有したい」という思いに駆られていた。
自分をただの女の子として受け入れてくれた、優しくて温かい三人の友達。彼女たちになら、あの美しい木漏れ日の結界を見せてもいい。いや、見せたいと思ったのだ。
「……あの」
茉莉は、少しだけ緊張した面持ちで、口を開いた。
「もしよければ……王都の郊外に、『御影山』という手付かずの森があるんです。すごく空気が澄んでいて、夏でもひんやりと涼しい場所で……」
「えっ、森!? マイナスイオンじゃん!」
美波が食いつく。
「はい。私……休みの日はよく、そこで一人で『練習』をしていて。……もし皆さんが嫌でなければ、ご案内してもいいですか?」
少し不安げに見つめてくる茉莉の黒瞳。
桜、美波、結衣の三人は顔を見合わせると、パァッと満面の笑みを浮かべた。
「行く行く! 森林浴ピクニックだね!」
「お弁当作っていくね! 茉莉ちゃんのおかず、また食べたいな」
「じゃあ私、レジャーシートとお菓子持っていくね!」
「……っ、はい!」
茉莉の顔に、この数日間で一番の、花が綻ぶような心からの笑顔が広がった。
こうして、四人の女子高生たちは、初夏の眩しい光の中で「御影山へのピクニック」という小さな約束を交わした。




