凪の底と、白檀の転校生
あの大天狗との死闘から、一週間が経過していた。
北関東を牛耳る純血のバケモノが、李王組の三代目の手によって、文字通り「一夜にして灰にされた」という事実は、関東一円の裏社会に絶望的なまでの恐怖と沈黙をもたらした。
李王桜という半妖の小娘は、ただの飾りではない。
己の命を薪にくべてでも、敵対する者を細胞一つ残さず焼き尽くす、本物の『バケモノ』である。
その共通認識が影の世界に浸透したことで、李王組のシマ周辺で起きていた他派閥の小競り合いや、羽虫のような威嚇行為は、嘘のようにピタリと鳴りを潜めた。
夜の王都を行き交う『百鬼夜行』も、血生臭い戦闘集団としての役割を終え、今はただ、シマの平穏を示すための静かな見回りへとその姿を変えていた。
カラン、コロン。
夜風に乗って響く、下駄の音と青白い狐火。それを遠くから見ただけで、他派閥の妖怪たちは震え上がり、地に額を擦り付けて道を譲る。
完璧なまでの、圧倒的な『凪』だった。
そして、桜自身の肉体を苛んでいた絶望的な代償――妖力焼けの激痛も、一週間の時を経て、ようやく鎖骨の奥に微かな鈍痛を残す程度にまで癒えつつあった。
すべてが平穏に、元の『日常』へと戻っていく。
桜はそう、安堵していたのだ。
……この日の、朝のホームルームが始まるまでは。
* * *
「えー、席につけ。今日は転校生を紹介する」
私立翠風高等学校、2年C組。
担任の佐藤が教卓からそう告げた瞬間、初夏の気怠い空気に包まれていた教室が、ざわめきと共に活気づいた。
時期外れの転校生。クラスの視線が、期待を込めて前の扉へと注がれる。
ガラッ、と。
木製のスライド扉が開いた。
(……え?)
窓際の席でノートを開いていた桜は、鼻腔を突いた『その匂い』に、反射的に息を止めた。
白檀と、清めの塩。
神社仏閣の奥の奥、何百年も人の立ち入らない聖域だけに漂うような、肺の奥まで凍りつくほどに『清浄な匂い』。
教壇に上がったのは、見目を引くほどに美しい、一人の女生徒だった。
肩口で切り揃えられた、烏の濡れ羽色のような艶やかな黒髪。雪のように白い肌と、感情の起伏を一切感じさせない、ガラス玉のように透き通った冷たい黒瞳。
彼女が一歩歩くたびに、教室の空気が「シンッ」と音を立てて浄化されるような、異常な感覚。
「一宮 茉莉です。よろしくお願いします」
黒板に書かれた、流麗で迷いのないチョークの文字。
涼やかな鈴の音のような声色だった。だが、その声を聞いた瞬間、クラスの生徒たちは何故か言葉を失い、水を打ったように静まり返った。
冷たすぎるのだ。
彼女の纏う空気は、人間としての愛想や体温が完全に欠落しており、まるで美しい『御神体』の彫像が制服を着て立っているかのような、底知れない威圧感を放っていた。
(いちのみや、一宮……ッ!!)
桜は、机の下で、無意識にスカートの布地をギュッと握りしめていた。
額から、たらりと冷や汗が流れ落ちる。クラスメイトたちは「なんか近寄り難い冷たい美人」程度にしか感じていないだろうが、桜の半妖としての本能は、教卓に立つ彼女から放たれる圧倒的な『霊力』に、悲鳴を上げて警鐘を鳴らしていた。
王都の守護を司る、歴史ある神社の神主の家系。
それは即ち、古来より妖怪を調伏し、滅ぼすことを生業としてきた『陰陽師の末裔』であることを意味している。
ヤクザのシマに、警察のトップが単身で乗り込んできたようなものだ。大天狗のような「暴力」の恐怖ではない。妖怪という存在そのものを『否定し、消滅させる』という、理屈を超えた完全なる天敵。
「えーっと……じゃあ一宮、席はあそこだ。窓際の、李王の隣が空いてるから」
「はい」
佐藤の無情な指示に、桜の心臓がドクン! と大きく跳ね上がった。
(よりによって、私の隣ッ!?)
桜は必死に顔の筋肉を引き攣らせないよう、喉の奥で悲鳴を殺した。
一宮茉莉が、静かな足取りでこちらへと向かってくる。彼女が近づいてくるにつれ、桜の周囲に微かに残っていた妖気の残滓が、チリチリと音を立てて『浄化』されていくのが肌で分かった。痛い。彼女の放つ清浄な空気が、妖怪の血を引く桜にとっては、毒のように息苦しい。
コトン、と。
隣の席にカバンが置かれた。
白檀の匂いが、逃げ場のない距離で桜を包み込む。
茉莉が、席に座る前に、桜の方へとゆっくりと顔を向けた。
ガラス玉のような冷ややかな黒瞳が、桜の顔を射抜く。
(……バレた? 私から微かに漏れる妖気に、気づかれた……っ!?)
桜の背筋に、冷たい氷柱が突き立てられた。
もしここで、彼女が札を取り出し「妖怪め」とでも叫べば、すべてが終わる。李王組の二代目がこの高校に通っているという最大の弱点が、陰陽師の家系に筒抜けになってしまう。
心臓が肋骨を突き破りそうなほどの極限の緊張。
だが、桜は必死に唇の端を引き上げ、努めて「明るく普通の女子高生」の声色を作った。
「え、えっと……よろしくね、一宮さん。私、李王桜っていうの」
桜が微笑みかけると、茉莉はほんの数秒、桜の瞳の奥をじっと見透かすように見つめ返した。
その数秒が、桜には永遠の拷問のように感じられた。
やがて。
「……李王さん。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
茉莉は、微かに、本当に微かにだけ唇を綻ばせ、美しい所作で会釈を返した。
そして、何事もなかったかのように前を向き、姿勢良く席についた。
「…………っ」
桜は、誰にも聞こえないほどの小さな吐息を漏らし、机の下でガクガクと震える膝を必死に押さえつけた。
誤魔化せたのか。それとも、気づいた上で泳がせているのか。
一宮茉莉の横顔からは、一切の感情が読み取れない。ただ、彼女が教科書をめくるたびに、その指先から微かに漏れる『清浄な霊力』が、桜の肌をチリチリと粟立たせ続けていた。
圧倒的な暴力の連鎖が去り、平穏が訪れたと思っていた矢先。
(……私の平穏な高校生活、どうなっちゃうの……っ!)
初夏の眩しい陽光が差し込む平和な教室で。
桜は一人、絶対に交わってはいけない「陰陽師」と「極道妖怪」の板挟みという、別ベクトルの胃が痛くなるようなサスペンスに、絶望の冷や汗を流し続けるのだった。
* * *
一宮茉莉が転校してきてから、数日が経った。
初夏の風が吹き抜ける2年C組の教室。窓際の席に座る桜の周囲には、相変わらず逃げ場のない『白檀』の清浄な香りが、見えない結界のように漂い続けている。
(……胃が、痛い……っ)
桜は、数学のノートにシャーペンを走らせながら、内心で血の涙を流していた。
隣の席の茉莉は、姿勢を崩すことなく黒板を見つめている。彼女の所作はすべてが研ぎ澄まされており、ページをめくる指先から微量に漏れ出す『霊力』が、桜の半妖としての肌をチリチリと灼き続けていた。
おまけに、廊下側の窓ガラスの向こう。
そこには、授業中にもかかわらず「便所に行く」という名目でサボり、桜のクラスを後方から睨み据えている黒曜蓮の姿があった。
彼もまた、狼の嗅覚で茉莉の放つ『陰陽師の匂い』を完全に嗅ぎ取っている。あの白檀の香りが桜の身に危険を及ぼすと判断したのか、蓮が廊下から放つ『極寒の妖気』と、茉莉の席から放たれる『清浄な霊力』が、桜を挟んでバチバチと不可視の火花を散らしているのだ。
桜の席の周辺だけ、真冬の神社のような異常な微気候が形成されていた。
キーン、コーン、カーン、コーン……。
やがて、四時間目の終わりを告げる昼休みのチャイムが鳴り響いた。
「さーくらっ! お昼食べよ!」
美波と結衣が、カラカラと音を立てて机をくっつけてくる。
「うん、お弁当出すね」
桜がカバンを開けた時だった。隣の席で、茉莉が静かに美しい漆塗りの曲げわっぱを取り出し、一人で姿勢良く箸を割ろうとしているのが見えた。
転校してきて数日。彼女のあまりに完成された冷たさと美しさに、クラスメイトたちは未だに気後れし、誰も彼女をランチに誘えていなかった。
(……陰陽師。妖怪の天敵。関わらないのが一番安全なのに)
桜の頭の中で、極道としての危険信号がガンガンと鳴り響いている。
だが。
一人で静かに卵焼きを見つめる茉莉の横顔が、桜にはひどく「寂しそう」に見えてしまったのだ。
「あの……一宮さん」
気づけば、桜は声をかけていた。
「えっ?」と美波たちが驚いて目を見開く中、桜は努めて柔らかく、人間としての自然な微笑みを浮かべた。
「もしよかったら、私たちと一緒にお昼、食べない?」
ピタリ、と。
茉莉の箸を持つ手が止まった。
ガラス玉のような黒瞳が、ゆっくりと桜の顔に向けられる。
その瞬間、茉莉の瞳の奥底に、刃物のように鋭い『観察者』の光が宿ったのを、桜は見逃さなかった。
「……李王さん。お誘い、ありがとうございます」
茉莉は机を寄せることはせず、そのままの姿勢で桜をじっと見据えた。
「李王さんに、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「う、うん。何かな?」
「一週間前の夕刻。この王都を襲った、あの異常な暴風雨……ただの気象現象だと報道されていますが、李王さんはあの時、何か『普通ではないもの』を感じませんでしたか?」
ドクン!!
桜の心臓が、肋骨を突き破りそうなほど跳ねた。
それは、ただの世間話ではない。間違いなく、陰陽師としての『カマかけ(探り)』だった。
茉莉の目は、桜から微かに漂う不自然な気配(蓮が覆い隠している妖気の残滓)を、正確に疑っている。ここで少しでも動揺を見せれば、彼女は容赦なく呪符を抜くだろう。
(落ち着け、私……ただの女子高生だ。何も知らない、普通の人間……っ!)
桜が、冷や汗を流しながら言葉を紡ごうとした、その時だった。
「えーっ、一宮さん、あんなのただの嵐だよ!」
間の抜けた明るい声で乱入してきたのは、美波だった。
「そうそう! だって桜なんて、あの時雷の音にビビりすぎて、机の角で足の小指ぶつけて泣いてたんだから!」
「ちょ、美波! それは言わない約束でしょ!?」
「えー、だってほんとのことじゃん。桜、ホラー映画とかも全然ダメだし、この前なんて校庭にいた野良犬に吠えられて本気で逃げてたし」
結衣もクスクスと笑いながら、桜のドジな日常を暴露していく。
「もう、二人ともひどい……一宮さん、ごめんね、騒がしくて」
桜が顔を真っ赤にして抗議すると、二人の親友は「だって桜、すっごくおとなしいから、私たちが守ってあげなきゃって思っちゃうんだよね」と、桜の肩をギュッと抱き寄せた。
その、他愛のない、本当に普通の女子高生たちのやり取り。
それを目の前で見つめていた茉莉の黒瞳から、すっと『刃』のような鋭さが消え去った。
(……私の、思い過ごし……?)
茉莉は、小さく息を吐いた。
陰陽師の眼は、魂の形を視る。桜の周囲には確かに不審な気の乱れがある。だが、今こうして友人たちと笑い合う李王桜という少女の魂からは、妖怪特有のどす黒い悪意や、血の匂いが微塵も感じられないのだ。
ただひたすらに温かく、人を疑うことを知らない、陽だまりのような平和な気配。
あんなに優しく、不器用に友人から愛されている少女が、人を喰らうようなバケモノであるはずがない。
「……ふふっ」
不意に。
茉莉の冷え切っていた唇から、小さな、しかし初めて見せる年相応の笑い声がこぼれた。
「一宮さん……?」
「いえ……李王さんは、本当に周りから慕われているのですね。なんだか、羨ましいです」
ずっと神社の奥で、妖怪を滅ぼすための厳しい修行ばかりを積んできた茉莉にとって、この「普通の温かさ」は、今まで触れたことのない眩しいものだった。
茉莉は、自らの曲げわっぱの弁当箱の中から、綺麗に飾り切りされた人参を箸でつまみ上げた。
「……もしよろしければ、私のおかず、一ついかがですか?」
「えっ、いいの!? じゃあ、私の卵焼きも食べて!」
「ありがとう。私……こういうの、初めてです」
白檀の香りと、甘い卵焼きの匂いが混ざり合う。
窓から差し込む初夏の光の中、冷たかった陰陽師の少女の顔に、柔らかな春の雪解けのような微笑みが広がった。
美波と結衣も「一宮さんのお弁当、料亭みたい!」と身を乗り出し、机を囲む。
いつしか、ただの隣の席の転校生は、桜の持つ圧倒的な「平和主義と優しさ」という人間としての魅力によって完全に毒気を抜かれ、昼休みを共にする『4人グループ』へと自然に溶け込んでいった。
……ただし。
その微笑ましい女子高生たちの光景を、廊下の窓ガラス越しに睨みつけている男が一人。
(……あの白檀臭え女、俺の女王(お頭)に気安くメシなんか食わせやがって……毒でも入ってたらどう落とし前つける気だ……ッ)
黒曜蓮は、ギリギリと犬歯を噛み鳴らし、廊下の壁をメリメリと凹ませていた。
彼には、桜の平和な日常の尊さなど理解できない。ただ、「俺の管理下にある器」が、よりによって天敵である陰陽師と笑い合っているという状況が、苛立たしくて、そして得体の知れない嫉妬で腹の底が煮え繰り返るのだ。
「……チッ。あの陰陽師の女、俺の主に少しでも妙な真似しやがったら、昼間だろうが喉笛噛みちぎってやる」
桜の命がけの隠蔽工作によって、ようやく手に入れた4人の温かい日常。
しかし、そのすぐ裏側では、狂犬のドロドロとしたその暴走の度合いを深めようとしていた。




