屋敷でのひととき
李王組本家の奥深く、桜の私室。
昼間の陽光が障子越しに柔らかく差し込むその部屋は、凄惨な血の匂いが立ち込める夜の顔とは裏腹に、甘く穏やかな空気に満ちていた。
「お嬢様。……また数学の小テストで、このような点数を取られたのですか。極道たるもの、勉学も疎かにしてはなりませんよ」
冷たい、けれどどこか世話焼きの家庭教師のような声が響く。
和装を乱れ一つなく着こなした美しい雪女――本部長の雪柳が、桜の広げたノートを覗き込みながら、小さくため息をついていた。彼女の白い指先が紙面に触れるたび、初夏の部屋に心地よい冷気がふわりと漂う。
「あはは……ごめんなさい、雪柳さん。ちょっと、寝不足で……」
桜が、右脇腹の鈍痛を堪えるようにカーディガンの上からそっと手で押さえながら誤魔化すと、背後から艶やかな笑い声が降ってきた。
「もう、雪柳ったら堅苦しいわねぇ。うちの可愛いお姫様なんだから、少しくらいお勉強ができなくたっていいのよ」
真紅のルージュを引き、深いスリットの入ったチャイナドレスを纏った妖艶な美女――シマの歓楽街を取り仕切る諜報長であり、巨大な毒蜘蛛の化身である爪紅だ。
彼女は桜の後ろに回り込み、その柔らかな栗色の髪を、極細の絹糸のような自らの指先で優しく梳き始めた。
「それよりお嬢様、今度の休日にはまたお洋服を見立てさせてちょうだい。お嬢様は肌が白いから、きっと淡い水色が似合うわぁ」
「……二人とも、あまりお嬢を甘やかすんじゃないよ。先代の姐さんに似て、この子はすぐに無茶をするんだから」
縁側の近くで、ほうじ茶を啜りながら目を細めたのは、小柄で上品な着物を着た白髪の老婆――金庫番であり化け猫の大婆、斑だった。先代の妻である桜の母、紬のことも知る古株の彼女は、桜にとって厳しいが優しい祖母のような存在だ。
三人の女性幹部たちが向けてくれる愛情は、疑いようのない本物だった。
亡き父が愛し、束ねたこの組の者たちは、桜にとっても物心ついた頃から共に過ごしてきた、愛おしい『家族』に他ならない。だからこそ、自分の命を削ってでも彼らを守り抜きたいと、心の底から思っている。
――だが。愛しているからこそ、桜は彼らが『恐ろしかった』。
彼らはどこまでいっても、根本的に「妖怪」なのだ。
妖怪の魂は、本能的に「圧倒的な強者」を尊び、弱者を淘汰する理でできている。彼らが桜に向けてくれる優しい愛情も、あくまで『偉大な先代が遺した、守るべき無害なお嬢様』という記号に向けられたものだ。
彼らが真に熱狂し、狂信の声を上げて命を懸けるのは、リミッターを外した夜の『無敵の九尾』に対してだけである。
もし今、自分が「本当は血を見るのが怖い」「毎晩内臓が焼け焦げるようで、痛くて泣き叫びたい」と、ただの『脆い人間』としての本音をさらけ出したら、彼らはどうするだろうか。
きっと、失望する。あるいは「強き君主」としての彼女への信仰が崩れ去り、強引に妖力を封じられ、二度と外に出られない過保護の檻(鳥籠)に閉じ込められてしまうだろう。そうなれば、関東最大の極道組織はトップの威厳を失い、たちまち瓦解してしまう。
愛する家族たちとの関係を、今のまま保ち続けるためには。
彼らの理想とする「無邪気なお嬢様」と「冷酷で強大な女王」という、二つの完璧な仮面を被り続けるしかないのだ。
「人間の私」の本当の苦しみなど、この組織には必要とされていない。
その絶望的なまでの『種族の壁』が、昼間の穏やかな時間の中で、桜の心を真綿で首を絞めるようにじわじわと追い詰めていた。
「お嬢様? どうかされましたか。顔色が優れないようですが……」
雪柳が、心配そうに冷たい手を桜の額に当てようとする。
「ううん、なんでもない! ちょっとボーッとしちゃっただけ」
桜は慌てて笑顔を作り、その手をやんわりと躱した。
言えるはずがなかった。
今この瞬間も、先日大天狗戦で強大すぎる妖力を使った代償として、内臓が焼けるような激痛の余韻が身体中を苛んでいることなど。
幹部たちは優しくても、彼らは根本的に「妖怪」である。人間の心の機微や、他者の血を流し、命を奪うことへの根源的な恐怖を、彼らは完全には理解してくれない。痛みを打ち明けたところで、「ならば我らにお任せを」と、人間の彼女をさらに無力な鳥籠に閉じ込めるだけだ。
桜は好きで極道をやっているわけではない。かつて人間と妖怪が共存する街の均衡を保っていた父が殺され、街が荒れたため、まだ未熟な自分が「最強の組長」の皮を被って組をまとめ上げているのだ。
さらに彼女の肩には、王都の陰陽師を束ねる頂点『柊本家』の次期当主であった亡き母・紬が、陰陽師としての未来も家族も捨てて極道の妻となり、命懸けで結んだ「陰陽師と妖怪の不可侵条約」を守り抜くという、重すぎる責任がのしかかっている。
もし自分が倒れれば、条約は破棄され、陰陽師と妖怪の全面戦争が起きる。だからこそ、どれほどの激痛が走ろうとも、その痛みを誰にも隠し、夜な夜な一人で「最強のバケモノ」を演じ続けなければならないのだ。
やがて、西の空が逢魔が時の毒々しい赤紫に染まり始める。
「……日が暮れますね。我らはこれにて失礼し、夜の支度を整えてまいります」
雪柳が恭しく一礼し、爪紅と斑もそれに続く。部屋を出て行く彼女たちの気配が、昼間の「過保護な親戚」から、夜を支配する「冷酷な妖怪の幹部」へと研ぎ澄まされていくのが分かった。
一人残された部屋で、桜は自らの左手首にはめられた『封印の数珠』を、じっと見つめた。
関東最大の派閥『妖月組』は、決して一枚岩ではない。末端組織や新興の妖怪グループの中には、「人間の血が混じった小娘がトップにいること」に不満を抱く者たちが常に蠢いている。
彼らの謀反の芽を摘むため、桜は寿命を削って九尾へと覚醒し、反発する者たちを圧倒的な暴力と恐怖で徹底的に叩き潰さなければならない。「逆らえば殺される」という血塗られた恐怖政治を敷くことでしか、この巨大な組織を維持することはできないのだ。
(……怖い)
震える指先で、桜はギュッと自分の腕を抱きしめた。
夜の冷酷な振る舞いは、間違いなく自分自身の意思だ。だからこそ恐ろしい。人間に戻った時、血に染まった自分の手を見て、「いつか人間の心が完全に消え、本物のバケモノになってしまうのではないか」という恐怖が、毎夜毎夜、彼女の心臓を鷲掴みにする。
誰にも言えない激痛。理解されない血への恐怖。バケモノに呑まれる絶望。
それでも桜は、絶対に逃げ出さない。愛する家族、組員たちを、そしてこの街を守るために。
そうして、妖力を一切使えない、ただの「ひ弱な女子高生」としての一週間が過ぎた。
夜の屋敷では安静を強いられ、昼間の学校では、相変わらず蓮が「近づく奴は殺す」という狂気じみた殺気を撒き散らしながら、三メートル後ろをストーキングしてくる異常な日々。
息の詰まるような過保護の檻の中で、桜の鎖骨の奥で燻っていた火傷の熱も、ようやく微かな鈍痛を残す程度にまで癒えつつあった。
やがて、西の空が逢魔が時の毒々しい赤紫に染まり始める。
「……日が暮れますね。我らはこれにて失礼し、夜の支度を整えてまいります」
雪柳が恭しく一礼し、爪紅と斑もそれに続く。部屋を出て行く彼女たちの気配が、昼間の「過保護な親戚」から、夜を支配する「冷酷な妖怪の幹部」へと研ぎ澄まされていくのが分かった。
一人残された部屋で、桜はホッと息を吐き、右脇腹の痛みに顔を歪めた。学校で蓮が施してくれた『冷気の偽装』は、日が落ちると共に効力を失い、衣服の下では再び赤黒く焼け爛れた痕が痛々しく脈打ち始めている。
幹部たちは、強大すぎる九尾の妖力が、半妖の脆弱な肉体に負荷をかけること自体は知っている。朝方、鬼道が本家で桜の身体を診た際も、「一週間は絶対にリミッターを外してはなりやせん」と青ざめた顔で厳命していた。
だが、桜は彼らの前では常に「ちょっと火傷をした程度じゃ」と平然を装い、極道のトップとしての威厳を保ち続けてきた。それが本当は、のたうち回り、血を吐き、涙と鼻水に塗れるほどの『地獄の激痛』であることなど、幹部たちの誰一人として知らないのだ。
――ただ一人、あの狂犬を除いて。
「……失礼しやす」
スギ戸が、不機嫌さを隠そうともしない手つきで開け放たれた。
入り口に立っていたのは、漆黒の髪を鬱陶しそうに掻き乱した黒曜蓮だった。彼は片手に、水が張られた真鍮の金盥と、清潔なガーゼ、そして組の秘薬が入った小瓶をぶら下げている。
「れ、蓮……」
「……昼間の冷気も限界だろ。薬の時間だ。さっさとそこへ横になれ」
蓮は、氷点下の声で吐き捨てると、桜の布団の傍らにドカッとあぐらをかいて座り込んだ。
本来なら「自分でできる」と強がり、彼を追い出していたはずだ。人間の自分を見下す彼の前で、これ以上惨めな姿を晒したくはない。
しかし。
(……もう、彼には一番無様な姿を見られてしまったんだ)
昨夜、激痛に錯乱し、彼の手の中でボロボロに泣き叫んだ記憶。それを思い出した瞬間、不思議なことに、桜の強張っていた肩の力がふっと抜けた。
彼にだけは、もう嘘をつかなくていい。極道のトップとしての虚勢を張らなくていい。その微かな『安心感』が、桜の無意識のガードを甘く解いてしまっていた。
「……うん、お願い」
桜は抵抗することなく、ゆっくりと制服のブラウスのボタンに手をかけた。
コロン、と小さな音を立ててボタンが外され、白い布地がはだける。あらわになった桜の右脇腹から胸の谷間のすぐ下にかけて、赤黒く焼け爛れた巨大な妖力焼けの痕が、痛々しくひび割れていた。
蓮の鼻腔を、微かに焦げた肉の異臭と、彼女の細い首筋から立ち昇る甘い体温が同時に打つ。
(……ッ、無防備に肌なんか晒しやがって。頭湧いてんのかこの女)
蓮の黒瞳が、極限まで細められる。
彼女が自分に対して一切の警戒を解き、従順に身体を預けてきている。その事実は、蓮の内奥に潜む雄としての支配欲を、ドロドロと煮え立たせた。
「ヒッ……!」
冷たい濡れ布巾が火傷の周囲の肌に触れた瞬間、桜の華奢な肩がビクンと大きく跳ねた。
「痛ェか。……力、抜け。テメェが強張ってたら、薬が塗れねえだろうが」
口から出る言葉は、どこまでも冷酷で棘に満ちている。
――だが。
桜の肌に触れている彼の指先は、言葉の暴力性とは完全に裏腹だった。何人もの敵の喉笛を噛みちぎり、骨を砕いてきた分厚く硬い掌。それが、桜の火傷の痕を撫でる時だけは、まるで薄張りのガラス細工を扱うかのように、異常なほどの『慎重さ』と『緻密さ』を帯びていたのだ。
小瓶から、薄荷のような鋭い匂いのする黒い軟膏がすくい取られる。
「……少し、冷えるぞ」
蓮の長く骨張った指が、桜の背中から脇腹、そして胸元ギリギリの際にかけて、ゆっくりと、ねっとりと薬を塗り広げていく。
「ん……ぁ、れん、冷た……っ」
桜の口から、甘く掠れた吐息が漏れた。
黒狼の冷気を孕んだ薬は氷のように冷たいのに、直接肌に触れている彼の指先は、火傷しそうなほどに熱かった。ぞくり、と。彼の指先が肋骨のカーブをなぞるたび、痛みとは全く違う、脳が痺れるような甘い麻痺が脊髄を駆け上がっていく。
怒っているはずなのに。人間の自分を軽蔑しているはずなのに。
至近距離から伝わってくる彼の体温と、危険な血の匂い。そして、自分の白い肌を這い回る、彼のごつごつとした指の感触。それは、有無を言わさぬ『雄』としての圧倒的な色気を孕んで、桜の理性を退路のない密室の底へと沈めていく。
(……なんで。こんなに、触り方が……優しいの)
桜は、顔を腕に埋め、耳まで真っ赤に染めて浅い呼吸を繰り返した。息をするたびに胸が上下し、その動きに合わせて蓮の指先が微かに擦れる。
一方の蓮もまた、己の内側で暴れ狂う矛盾に完全に苛立っていた。
こんな人間のメスの背中、俺の爪なら一撫でで両断できる。なのに、なぜ俺はさっきから、コイツが痛がらないように息を殺して、指先の力加減に全神経を集中させているんだ。
目の前で、自分の冷たい指の感触にビクビクと震え、顔を真っ赤にして吐息を漏らす人間の少女。その無防備な姿が、蓮の理性を焼き切る寸前まで追い詰めていた。
(……俺は、俺の神を降臨させるための『揺り籠』を整備しているだけだ。それだけだ)
そう自分に言い訳をしなければ、今すぐこの柔らかい首筋に牙を立て、世界中の誰にも見られないように、己の影の中に完全に隠してしまいたいという、狂った衝動に呑み込まれそうだった。
新しいガーゼが当てられ、医療用のテープが的確に貼られる。
「……終わったぞ。服、下ろせ」
蓮が金盥を乱暴に引き寄せながら、そっぽを向いて吐き捨てる。彼の声は、先ほどよりも明らかに低く、微かに掠れていた。
「……ありがとう、蓮」
桜が、熱を持った頬を隠すように俯きながらブラウスのボタンを留めると、蓮は「あ?」とさらに不機嫌そうに眉根を寄せた。
「勘違いすんじゃねえぞ。俺はアンタの世話を焼いたわけじゃねえ。夜のお頭が、こんな無様な傷のせいで本気を出せなくなったら困るから、手入れをしてやっただけだ」
「……うん、分かってる」
桜は、小さく頷いた。
彼が愛し、忠誠を誓っているのは、あくまで夜の『九尾の女王』だけ。人間の私に向けられた優しさではないのだと、己に言い聞かせるように。
「……チッ。一週間だ」
立ち上がりかけた蓮が、部屋の出口で足を止めた。
「鬼のジジイも言ってたが……最低でも一週間、テメェは夜も部屋から出るな。昼間の学校も、俺の目の届く範囲から一歩も離れるな」
蓮は、振り返ることなく、首だけを僅かに巡らせて、その底知れない黒瞳で桜を絡め取るように睨み据えた。
「その『器』が完全に治るまで……鬼のジジイだろうが女蜘蛛だろうが、俺以外の奴にその傷(肌)を晒すなよ。……テメェの傷の手入れは、俺の役目だ」
それは、ただの従者の台詞ではない。自分が触れ、手入れをしたこの肌に、他の誰の指一本も触れさせないという、獣特有の強烈な独占欲の宣言だった。
バタンッ、と。彼が乱暴にスギ戸を閉めて出て行った後も、部屋の中には、彼の放っていた雄の熱気と、薄荷の薬の匂いが、桜の火照りを煽るようにいつまでも色濃く残されていた。
すべてが平穏に、元の『日常』へと戻っていく。
桜はそう、安堵していたのだ。
……あの一週間後の、朝のホームルームが始まるまでは。




