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秘密の共犯関係

白み始めたばかりの王都の空に、朝の冷たい光が差し込み始める。

 半壊した李王組本家。その奥座敷に敷かれた万年床の中で、桜は自身の浅い呼吸音で目を覚ました。


「……っ、ぁ……」

 目蓋を開けた瞬間、脳髄を直接ハンマーで殴られたような激痛が全身を駆け抜けた。

 昨夜、いやもうこの朝、大天狗との死闘で冷却期間を無視して引き出した九尾の妖力。人間の姿に戻った途端、その代償は想像を絶する『負債』となって桜の肉体に襲いかかっていた。

 右脇腹から鎖骨のすぐ下にかけて、毛細血管が内側から焼け焦げ、赤黒くひび割れた『妖力焼け』が毒々しい斑紋となって広がっている。指一本動かすことすら億劫だった。内臓が鉛のように重く、高熱で吐く息がひどく熱い。


――スパーンッ!!


だが、桜は気合と共に両頬を平手で強く張り飛ばし、無理やり上半身を起こした。

 今日からまた、一週間。妖力を一切使えない「ただの脆い人間」として過ごさなければならない。ならば、せめて『極道のトップとしての虚勢』だけは、完璧に張り続けなければならないのだ。


「お頭……っ、やはり本日はお休みになられた方が……!」

 襖の向こうから、血の滲む包帯を巻いた鬼道と、雪柳が悲痛な声で制止してくる。

「馬鹿を言うな。私がここで倒れれば、分家のネズミどもが『三代目は瀕死だ』と嗅ぎ回る。……私が昨日と変わらず、平然と白日の下を歩くことこそが、奴らへの最大の牽制になる」

 桜は、痛みに引き攣りそうになる表情筋を鉄の意志で糊付けし、冷徹な声で言い放った。


指定の夏服ブラウスに袖を通すだけで、焼け爛れた肌に布地が擦れ、炭火を押し当てられているような痛みが走る。桜はギリッと唇を噛み破りながらリボンを結び、血の気の引いた顔を隠すように、少しだけ明るい色のリップを引いた。


* * *


通学路。初夏の朝日が、容赦なくアスファルトを照らしつけている。

 駅へと向かう道すがら、すれ違うサラリーマンの整髪料の匂いや、行き交う車の排気音が、高熱で過敏になった桜の神経をヤスリのように削っていく。

 フラフラと倒れそうになる足取り。それを必死に制御しながら歩く桜の、ちょうど三メートル後ろ。


「……チッ。どこのゴミがお頭の空気を吸ってやがる」

 舌打ちと共に、周囲の空気を氷点下まで凍らせている漆黒の影があった。黒曜蓮である。

 彼は白シャツの第一ボタンを開け、気怠げにポケットに手を突っ込みながら歩いているが、その黒瞳は明確な殺意を帯びて周囲を威嚇していた。桜とすれ違おうとした他校の男子生徒が、蓮から放たれる実体を持った殺気に「ヒッ」と悲鳴を上げて車道側へ逃げていく。


 桜は、背後から漂ってくる彼の危険な血の匂いと、微かな冷気に少しだけ安堵を覚えながら、満員電車の息苦しい熱気の中へと身を投じた。


そして、私立翠風高等学校での『午前中の授業』は、桜にとって文字通りの地獄だった。

 一時間目、二時間目と進むにつれ、体内に燻っていた暴走した熱がじわじわと体温を押し上げていく。

 コツ、コツ、コツ……。

 チョークが黒板を叩く無機質な音が、脳内でガンガンと反響する。教師のくぐもった声は右耳から左耳へとすり抜け、黒板に書かれた数式が、まるで生き物のようにウネウネと歪んで見えた。

 シャープペンシルを握る右手の指先が、カタカタと痙攣する。

 隣の席の美波が「桜、ノート写すの早いね!」と無邪気に笑いかけてくるたび、桜は内臓を焼き切られるような痛みを堪え、「うん、次ここテストに出るって言ってたから」と、完璧な『普通の女子高生』の笑顔を張り付けて見せた。


誰にも頼れない。この痛みを、誰にも打ち明けられない。

 孤立無援の光の世界で、己の身を削りながら「日常」に擬態し続ける孤独なサバイバル。


――そして。


ジリ、ジリ……と。

 初夏の陽光に熱されたアスファルトから、陽炎が立ち昇っている。

 私立翠風高等学校の昼休み。冷房の効き始めた教室は、弁当を囲んで談笑する生徒たちののどかな喧騒に満ちていた。

 だが、桜の耳には、親友である美波や結衣の明るい声が、水底から響いてくるように遠く、膜が張ったようにくぐもって聞こえていた。


(……あつい。息が、吸えない……っ)


指定の夏服ブラウスの下で、桜はギリッと奥歯を噛み締め、浅く細い呼吸を繰り返していた。

 昨夜の、大天狗との限界を超えた死闘。

 冷却期間を無視して強引に引き出した九尾の妖力は、朝方に数珠を嵌めて人間に戻った瞬間、桜の肉体に致死量の反動をもたらした。右脇腹から鎖骨のすぐ下にかけて、毛細血管が内側から焼け焦げ、赤黒くひび割れた『妖力焼け』が毒々しい斑紋となって広がっている。

 服の布地が擦れるだけで、焼けた鉄板を押し当てられているような激痛が走る。体内にはまだ暴走した熱が燻り続け、立っているだけでも視界がぐらぐらと揺れた。


「桜? どうしたの、顔真っ赤だよ。熱あるんじゃない?」

「えっ……あ、ううん、大丈夫! ちょっと冷房の風が当たってないだけかも。お手洗い行って、顔洗ってくるね」

 美波の心配そうな声に、桜は必死に表情筋を糊付けして微笑みを作り、席を立った。

 これ以上ここにいれば、痛みに耐えきれずうずくまってしまう。

 誰にも、この傷を悟られるわけにはいかない。極道のトップとしての体裁を守るため、そして何より、この平和な光の世界に生きる親友たちを、血生臭い闇に巻き込まないために。


桜は、ふらつく足取りを必死に制御しながら、喧騒の教室を抜け出した。

 向かった先は、生徒の寄り付かない旧校舎の奥。少しでも人気のない場所で、乱れた呼吸を整えなければ。

 冷や汗が首筋を伝い落ちる。熱で朦朧とする頭で、桜はブラウスの一番上のボタンに手をかけ、少しだけ襟元を緩めた。ほんのわずかでも、焼けるような肌に風を通したかったのだ。


――その瞬間だった。


「……ッ」

 背後から、音もなく伸びてきた大きな左手が、桜の腕を万力のような力で掴み上げた。

「えっ、あ――」

 悲鳴を上げる間も与えられない。

 強引に腕を引かれ、桜の身体は宙に浮くような感覚と共に、薄暗い空間へと乱暴に引きずり込まれた。


バタンッ!!

 分厚い鉄の扉が、外の光と音を完全に遮断する。


そこは、使われなくなった体育教官室の奥にある、窓のない備品倉庫だった。

 古い跳び箱の帆布の匂いと、カビ臭い空気。

 暗順応の追いつかない視界の中、桜は背中を冷たいスチール棚にドンッと押し付けられ、退路を完全に塞がれた。


「……テメェ、頭イカれてんのか」


頭上から降ってきたのは、絶対零度の殺気を孕んだ、地鳴りのような低い声だった。

 桜がハッと息を呑んで見上げると、そこには漆黒の髪を無造作に乱し、指定のネクタイを緩めた黒曜蓮が、底なし沼のような黒瞳でこちらを睥睨へいげいしていた。


「れ、蓮……っ? なんで、ここに……離し、て」

 桜が腕を振り解こうとするが、蓮の指はビクともしない。

 それどころか、彼が一歩前へと踏み出したことで、桜の身体はスチール棚と彼の手厚い胸板の間に完全に閉じ込められてしまった。


鼻先が触れそうな距離。

 その瞬間、桜の鼻腔を、強烈な『おす』の匂いが打ち据えた。

 制服の下から立ち昇る、体温の高い獣特有の熱気。そして、それ以上に濃密な……鉄が錆びたような、血の匂い。

 昼間の人間の不良としての擬態など、もはや完全に剥がれ落ちている。目の前にいるのは、昨夜の死闘で天狗たちの喉笛を噛みちぎり、返り血を浴びて狂喜していた『黒狼』のバケモノそのものだ。


「離して、だと?」

 蓮の薄い唇が、残酷な弧を描く。

 彼の黒瞳が、桜の顔から下へと滑り……先ほど桜自身が緩めてしまった、ブラウスの襟元へと強烈に突き刺さった。


「こんな無防備なツラ下げて、フラフラと廊下を歩いてる挙句……テメェ、その首元の『痕』を誰かに見せびらかしてぇのか」

「え……っ」

 桜は血の気を引かせた。

 襟元から、赤黒くひび割れた妖力焼けの痣が、隠しきれずにわずかに覗いてしまっていたのだ。妖怪の目から見れば、それは「強大すぎる妖力によって自壊しかけている」という、致命的な弱点の露呈に他ならない。


「ち、ちが……っ、これは……」

 桜が慌てて襟元を隠そうとしたが、遅かった。

 蓮の大きな右手が、桜のブラウスの襟元を掴み、情け容赦なくバリッ! と第二ボタンまでを引きちぎった。


「あッ……!!」

 弾け飛んだプラスチックのボタンが、暗い倉庫の床に乾いた音を立てて転がる。

 あらわになった桜の白い肌。その右側の鎖骨から胸元にかけて、どす黒く脈打つ火傷の痕が、痛々しく広がり、異常な高熱を放っていた。


「……ふざけやがって」

 蓮の喉の奥から、ギリッと牙の鳴る音がした。

 彼が見つめているのは、桜の肌ではない。その痣の奥にある、昨夜の彼女の『異常性』だ。

 この今にも壊れそうな脆い身体で、あの神域の狐火を朝まで放ち続けていたという事実。そして、血を吐きながらも「他の奴らには見せるな」と自分を睨み据えた、あの底知れない精神力。


蓮の頭の中は、未だにぐちゃぐちゃだった。

 こんな人間の小娘、大嫌いなはずだ。どんくさくて、弱くて、俺の神(お頭)の器に相応しくないゴミ。そう思っていたはずなのに。

 彼女が人間としての痛みを隠して立っている姿を見るだけで、得体の知れない苛立ちと、自分の心臓を直接鷲掴みにされたような焦燥感が湧き上がってくる。


「……テメェの身体は、俺の女王(お頭)を降臨させるための『揺り籠』だ」

 蓮の声は、呪詛のように重く、暗い倉庫の空気をビリビリと震わせた。

「その器が、俺の目の届かねえ場所で勝手に壊れるのも……他のゴミ共(人間)の目に触れて汚されるのも、反吐が出るほどムカつくんだよ」


それは、忠誠でも恋愛感情でもない。

 彼女の抱える地獄(痛み)を『自分だけが知っている』という、狂信の果てに生まれた歪極まりないテリトリー意識(執着)だった。


「……っ、痛い……蓮、やめて……」

 桜は、剥き出しになった胸元の熱と、彼から放たれる圧倒的な威圧感に耐えきれず、涙声で懇願した。

 だが、蓮は退かない。

 それどころか、彼は血の匂いが染み付いた自らの右手を、桜の赤黒く焼け爛れた鎖骨へと、一切の躊躇なく直接押し当てた。


「ヒッ……!! ぁ、あ……ッ」

 激痛に身構えた桜の喉から、掠れた悲鳴が漏れる。

 しかし。

 押し当てられた彼の大きな手のひらから伝わってきたのは、暴力的な痛みではなく、内臓の底まで透き通るような『極寒の冷気』だった。


ジュゥゥゥッ、と。

 桜の肌を焼いていた妖力焼けの高熱が、黒狼の冷気と正面から衝突し、ブラウスの中で白い蒸気となって立ち昇る。

 本来なら暴走した魔力を中和するなど、強烈な拒絶反応を伴う。だが、昨夜の本家での応急処置と同じように、蓮は自らの手の神経が焼き切れるのも構わず、己の冷気を緻密にコントロールして桜の火傷の熱を強引に奪い去っていった。


「……はぁっ、はぁっ……」

 蓮の吐息が、桜の額にかかる。

 鼻先が触れそうな距離で、彼の黒瞳が桜を射抜いている。


――怖い。

 桜は、スチール棚に縫い付けられたまま、全身の産毛が総毛立つのを感じていた。

 それは、「殺されるかもしれない」という命の危機から来る恐怖ではない。

 自分の肌に直接触れている、大きく、骨張った男の手。制服越しに押し付けられている、彼の硬い胸板と腹筋。そして、暗がりの中で爛々と光る、捕食者としての重く濁った視線。

 今まで「生意気な後輩」や「危険なバケモノ」としか見ていなかった彼から、有無を言わさぬ暴力的な『雄』としての圧力が、濁流のように桜の理性を飲み込もうとしていた。


(……この人、男の人なんだ……っ)


桜の心臓が、痛みのせいではなく、全く別の理由で早鐘を打ち始めた。

 顔がカッと熱くなる。彼の冷気で火傷の痛みは急速に引いていくのに、代わりに彼が触れている鎖骨のあたりから、脳が痺れるような甘い麻痺が広がっていく。

 息をするたびに、彼の男としての体臭と、危険な血の匂いが肺の奥深くまで侵入してくる。逃げ場のない密室。自分より圧倒的に強く、大きく、そして狂っている男に、完全に物理的にも精神的にも組み敷かれているという本能的な絶望と……色気。


「……れ、ん……もう、熱は……引いた、から……っ」

 桜が、震える両手で蓮の胸板を押し返そうとする。

 だが、蓮はピクリとも動かない。

 彼は桜の鎖骨に手を当てたまま、その極限まで近づけた顔を、ふいと横に逸らした。

 暗がりの中、彼の端正な横顔が、どこか迷子になった獣のように、苛立ちと混乱に歪んでいるのが見えた。


「……動くな。まだ完全にアザが消えちゃいねえ」

 蓮は、低い声でそう吐き捨てると、さらに冷気を強めた。

 彼の指先から放たれた極低温の妖気が、桜の赤黒い痣の表面に、まるで薄いファンデーションのように白く美しい霜の膜を張り巡らせていく。見た目には、火傷の痕が完全に消え去り、元の白い肌に戻ったように偽装された。


「……これで、人間のガキどもの誤魔化しは効くだろ」

 蓮は、ゆっくりと右手を離した。

 だが、彼はすぐには身体を離さず、桜の顔の横に手をついたまま、その底知れない黒瞳で、息を乱して頬を赤く染めている桜の顔をじっと見下ろしていた。


沈黙が落ちる。

 埃っぽい備品倉庫の中で、二人の荒い呼吸だけが重なり合っていた。


彼は今、何を考えているのか。

 人間の私を憎み、見下しているはずなのに。なぜ自分の神経を焼いてまで、痛みを和らげ、痕を隠そうとしてくれるのか。

 桜が、その重すぎる視線に耐えきれず目を逸らそうとした、その時。


蓮の左手の親指が、引きちぎられたブラウスの隙間から覗く桜の首筋を、撫でるように、しかし逃げ道を塞ぐようにゾクリと一撫でした。


「ひゃっ……ぁ」

「……昼間、俺の目の届かねえところで勝手に死にかけたら……許さねえぞ、人間」


それは、昨日の図書室で言われた「器が壊れたら殺す」という冷徹な警告とは、明らかに質が違っていた。

 呪いのように低く、ねっとりと耳の奥に絡みつくような、剥き出しの執着。

 自分以外の世界から彼女を完全に切り離し、自らの牙の届く範囲テリトリーに閉じ込めようとする、狂犬の歪んだ所有欲の宣言だった。


「……チッ」

 蓮は、己の内に渦巻く理解不能な感情を振り払うように舌打ちをすると、ようやく桜から身体を離した。

「……チャイムが鳴る。さっさと教室に戻れ」

 それだけを言い捨てると、彼は乱暴に鉄の扉を開け、眩しい廊下の光の中へと消えていった。


バタンッ、と。

 再び薄暗くなった倉庫の中。

 残された桜は、その場にへたり込み、胸元の引きちぎられたブラウスを両手で強く握りしめた。

 火傷の痛みは、彼の冷気と偽装によって嘘のように引いている。

 だが、その代わりに。彼に触れられた鎖骨の感触と、男としての圧倒的な恐怖と色気が、桜の脳髄に焼き付いて離れない。


「……っ、バカ犬……」


桜は、真っ赤に染まった顔を膝に埋めた。

 今までただの「生意気な後輩」で「危険な護衛」だと思っていた狂犬。

 その彼に対して、自分が決定的に『雄』としての引力を感じてしまったこと。そして、彼と自分の間に、誰にも踏み込めない歪で絶対的な『秘密の共犯関係』が結ばれてしまったことを、桜は薄暗い密室の中で、激しい動悸と共に自覚させられていた。


* * *


――苛つく。何もかもが、反吐が出るほど苛立たしい。


旧校舎の薄暗い手洗い場で、黒曜蓮は蛇口から勢いよく吐き出される冷水に、己の右手を晒し続けていた。

 先ほど、備品倉庫で『人間の小娘』の鎖骨に押し当てた右手。

 何度洗っても、狼の鋭敏な嗅覚には、彼女の肌を焼いていた妖力焼けのオゾンの悪臭と、彼女の細い首筋から立ち昇っていた、甘く微かな汗の匂いがこびりついて離れなかった。


(……なんで俺が、あんな人間の野郎に)

 ギリッ、と。蓮は水飛沫を上げる蛇口を睨みつけ、犬歯を剥き出しにした。


妖怪の世界は、どこまでも単純だ。強い者が弱い者を喰らい、蹂躙する。それだけが絶対の真理だった。俺は、あの夜の中庭で俺を泥水に沈めた『九尾の神』に魂を売ったのだ。あの圧倒的な暴力と、空気を凍らせる気高さだけが、俺のすべてだったはずだ。


だというのに。

 なぜ俺は今、あの神の『抜け殻』でしかない、弱くてどんくさい人間の小娘から目が離せなくなっている?


昨日、血の海で痛みにのたうち回りながらも、「他の者には見せるな」と俺を睨み据えたあの真っ黒な瞳。

 先ほど、倉庫の暗がりで俺の腕に閉じ込められ、恐怖と……得体の知れない熱を孕んで赤く染まっていた、あの無防備な顔。

 思い出すだけで、脳髄の奥がガンガンと痺れる。腹の底から、今まで殺してきたどの敵の喉笛を噛みちぎった時とも違う、どす黒く、名状しがたい『飢え』のような衝動が這い上がってくる。


(……勘違いすんじゃねえぞ、俺)

 蓮は、濡れた右手を乱暴に漆黒の髪に突っ込み、濡れた前髪を掻き上げた。

 鏡に映る自分の顔は、獲物を前にした飢餓状態の獣そのものだった。


(あんな脆い泥人形、俺の牙なら一秒でミンチにできる。ただ……あれは、俺の神を降臨させるための『器』だ。あの器が壊れちまったら、俺の崇拝するお頭が二度と顕現しなくなる。……だから、見張ってやる。他のゴミ共が指一本触れねえように、俺の牙の届く範囲で管理してやるだけだ。それだけだ)


そうだ、これは極道としての任務だ。

 そう自分に言い聞かせることでしか、己の内で暴れ狂う『理解不能な執着』を正当化することができなかった。

 蓮は、手についた水滴を無造作に制服のズボンで拭うと、低い唸り声を残して手洗い場を後にした。

 昼休みの終わるチャイムが、遠くで鳴っていた。


* * *



「……ねえ、桜。なんか今日、すっごく寒くない?」

「え? そう、かな……」


五時間目の終わりの休み時間。

 2年C組の廊下で、美波が両腕をさすりながらブルッと身を震わせた。結衣も「冷房、効きすぎだよね……」とカーディガンを羽織り直している。

 だが、桜は曖昧に微笑みながら、内心で激しい動悸を抑え込んでいた。

 寒いはずがない。初夏のこの時期、廊下は生ぬるい熱気に包まれているのが普通だ。

 それに、桜自身の身体は、妖力焼けのダメージで未だに内側から焼け焦げるような高熱を発している。


――にもかかわらず、桜の周囲『半径一メートル』だけは、まるで真冬の冷凍庫のような、不自然なほどの極寒の冷気に包まれていたのだ。


「……ッ」

 桜は、恐る恐る背後を振り返った。

 三メートル後ろ。廊下の壁に背中を預け、腕を組んでこちらを睨み据えている漆黒の影。

 黒曜蓮である。

 彼は「チッ、邪魔くせえな」と顔に書いてあるような極悪な表情で舌打ちをしているが、その視線は一秒たりとも桜から逸れていない。そして、彼からピンポイントで放たれている『妖怪の冷気』が、桜の身体の熱を物理的に奪い、彼女の火傷の痛みを無音で和らげ続けているのだ。


(れ、蓮……っ。冷やしてくれるのはありがたいけど、やりすぎ……っ!)

 桜は顔を引き攣らせた。

 倉庫での密室の出来事から、彼は明らかにおかしい。

 表向きは「態度最悪の不良後輩」を演じているつもりなのだろうが、その行動は異常だった。桜が教室を移動するたびに、必ず三メートル後ろをストーカーのようについてくる。

 しかも、彼から放たれる『近づく奴は殺す』という実体を持った凄まじい殺気のせいで、廊下を歩く他の生徒たちが、悲鳴すら上げられずに壁際に張り付き、道を空けていくのだ。


「ヒッ……狂犬だ……」

「なんで2年のフロアに……目合わせるな、殺されるぞ」

 周囲の生徒たちが青ざめた顔でヒソヒソと囁き合っている。

 美波が、桜の袖をツンツンと引っ張った。

「さ、桜……っ。なんか、1年の黒曜くん、さっきからずっとこっち睨んでない? 絶対桜のこと狙ってるよ! 昼休みに何か怒らせるようなことした!?」

「し、してないよ! 偶然、廊下ですれ違っただけで……!」

「嘘だ、あの目、完全に『獲物を引き裂く前』の猛獣の目じゃん! 絶対に殺される……っ!」


美波の震える声に、桜は泣きそうになった。

 違うのだ。本人は「俺の女王の器に近づく羽虫を排除している」つもりなのだろうが、人間から見れば、ただの『通り魔の一歩手前』にしか見えないのだ。


その時だった。

「おい、そこの道空けろよ! 急いでんだから!」

 廊下の向こうから、プリントの束を抱えた3年生の男子生徒が、よそ見をしながら小走りで走ってきた。

 ドンッ、という音。

 彼の肩が、廊下の端に避けていた桜の肩に、ほんの僅かにかすった。


「あ、ごめん――」

 男子生徒が謝ろうとした、次の瞬間。


シュンッ!!

 視界がブレるほどの異常な速度で、三メートル後ろにいたはずの蓮が、男子生徒の眼前に立っていた。

「え?」

 男子生徒が間抜けな声を上げるよりも早く。

 蓮の大きな左手が、男子生徒の顔面(顎から頭頂部まで)を鷲掴みにし、そのまま彼を「軽々と宙に持ち上げた」。


「――ひっ!?」

 プリントが廊下に吹雪のように舞い散る。

 周囲の生徒たちが、息を呑んで完全に硬直した。


「……テメェ」

 蓮の黒瞳が、人間を殺す直前の獣のそれに変わった。

 彼の牙が剥き出しになり、周囲の温度が一気に氷点下まで下がる。

「どこに目ぇつけて歩いてんだ。……その腐った足、関節から全部へし折って、二度と歩けねえようにしてやろうか」

「あ、が……ッ、ひ、ヒィィィッ!!?」

 顔面を掴み上げられた男子生徒が、恐怖で涙と鼻水を流し、空中でバタバタと足を暴れさせる。蓮の指先から、明確な殺意と、物理的な力が込められようとしていた。


「れ、蓮ッ!! 駄目……ッ!!」

 桜が、血相を変えて叫んだ。

 その悲鳴にも似た静止の声に、蓮はピクリと動きを止め、不愉快そうに桜を見下ろした。

「……あ? 俺はただ、廊下で埃を立てて走るゴミに、歩き方を教えてやってるだけっすよ。……先輩には関係ねえだろ」

「関係ある! その人、怪我してないから……だから、下ろして! お願い……っ!」


桜が必死に懇願すると、蓮は忌々しげに舌打ちをした。

 あの夜、絶対的な力で俺をひれ伏させた女王が、こんな雑魚一匹のために俺に頭を下げている。それがたまらなく腹立たしい。

 だが、同時に。この「脆い器(彼女)」にこれ以上無理をさせれば、あの火傷がさらに悪化し、命に関わるかもしれないという焦燥感が、彼の殺意に強引なブレーキをかけた。


「……チッ。運が良かったな、ゴミ」

 蓮は、掴んでいた男子生徒を、廊下の壁に向かって乱暴に投げ捨てた。

 ドサッ! と無様な音を立てて崩れ落ちた3年生は、もはや腰が抜けて立ち上がることもできず、「ヒィッ、ひぃぃ……っ」と震えながら後ずさるばかりだ。


静まり返る廊下。

 蓮は、制服の埃を払うふりをしながら、桜に向かって極限まで顔を近づけた。

 美波と結衣が「桜が殺される!」と悲鳴を上げそうになる中、蓮は桜の耳元で、誰にも聞こえない低く甘い――しかし凶暴な声で囁いた。


「……テメェの身体は、俺が管理してるんだ。次、勝手にドブネズミにぶつかりに行きやがったら……ぶつかった奴の首、テメェの目の前で毟り取るからな」


それは、脅迫の皮を被った、狂犬特有の限界突破の『過保護』だった。

 桜は、顔を真っ赤にして硬直し、ただコクコクと頷くことしかできない。


「……邪魔しましたね、先輩」

 蓮は、最後にわざとらしく鼻で笑うと、ポケットに両手を突っ込み、凍りついた生徒たちの間を悠然と歩き去っていった。

 彼が去った後も、廊下には極寒の冷気と、凄まじい恐怖の余韻だけが色濃く残されていた。


「さ、桜……っ、生きてる!? 今、何を言われたの!?」

 美波が泣きそうな顔で桜に抱きついてくる。

「死ぬかと思った……っ、絶対、桜のこと呪い殺すって言ってたよあの顔……っ!」

 結衣もガクガクと震えながら、桜の背中を撫でている。


「ううん、違うの……違うのよ、二人とも……」

 桜は、二人の親友を宥めながら、内心で深い、深すぎる溜息をついた。

 呪い殺すどころか、彼がわざと残していってくれた冷気の余韻のおかげで、桜の火傷の痛みは先ほどよりもさらに引いていた。

 言葉は最悪。態度は極悪。行動はただのホラー。

 だが、その裏側にある「絶対に俺の主を傷つけさせない」という、不器用すぎて歪み切った狂信的な欲。


(……ほんとに、どうしようもないバカ犬なんだから……っ)

 桜は、彼の去っていった廊下の先を見つめながら、火照る頬を手のひらでそっと押さえた。

 人間の私を見下しているはずの彼の、あの真っ黒で熱の籠もった瞳。

 この絶対的なすれ違いと、誰にも言えないこの関係は、昼間の平和な学校生活の中で、静かに、しかし確実に二人の距離を狂わせていくのだった。

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