表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/21

狂犬の過去

……あの日。冷たい雨が降る中庭で、俺は確かに『神』を見たはずだった。

 血と泥。

 それが、黒曜蓮という妖怪の、自我の始まりだった。




物心ついた時から、蓮は関東の最底辺――陽の当たらない地下水脈の澱みのようなスラムで、ただ己の牙と爪だけを頼りに生きてきた。  親の顔は知らない。黒狼こくろうという、生来から高い戦闘力と凶暴性を持つ純血の妖怪であったことだけが、彼に与えられた唯一の『遺産』だった。

妖怪の世界は、どこまでも残酷で、ひどく単純だ。  強者が弱者を喰らい、奪う。牙の鋭い者が生き残り、膝を折った者は路地裏の染みになる。  同族の死骸を食い破り、はぐれ妖怪の喉笛を噛みちぎって生き延びてきた蓮にとって、この世の真理は『絶対的な暴力』ただ一つだった。  群れなどいらない。弱者が身を寄せ合って傷を舐め合うような真似は、吐き気がするほど嫌いだった。同情も、慈悲も、ましてや『掟』などという見えない首輪で己を縛る極道ヤクザたちの任侠道など、強者の威を借るだけの弱者の戯言だと本気で信じていた。

「……シマの人間には、手を出すなだと? くだらねえ」

数年前。妖怪としてもまだまだ若い、まだ十五にも満たない、しかし既に王都の裏社会で「手をつけられないはぐれの狂犬」として悪名を轟かせていた蓮は、雨の降る路地裏で冷たく吐き捨てた。  彼の足元には、関東最大の妖怪極道『李王組』の末端組員たちの死体が、原型を留めない肉塊となって転がっていた。

当時の蓮は、退屈していた。  己の暴力がどこまで通用するのか。この退屈で生ぬるい夜の街で、一番強い奴の喉笛を噛みちぎってみたいという、若く青臭い、暴力への純粋な渇望だけが彼を突き動かしていた。  だから彼は、王都の生態系の頂点に君臨する『李王組』の本家へと、単身で牙を剥いたのだ。

降りしきる冷たい雨が、蓮の漆黒の髪を額に張り付かせる。  アスファルトに広がる血だまりを黒いスニーカーで踏みにじり、彼は李王組の本家へと続く長い石段を、まるで散歩でもするような足取りで登っていった。  立ちはだかる黒服の妖怪たちを、すれ違いざまに素手で引き裂く。悲鳴が雨音に掻き消され、内臓の生臭い匂いが鼻腔をくすぐる。  弱い。あまりにも弱い。  こんな連中が、関東の頂点だと? 冗談ではない。所詮は「先代」という過去の遺物にすがりつき、掟という鎖で繋がれただけの飼い犬の群れだ。

巨大な薬医門を、蹴り破る。  轟音と共に分厚い木材が弾け飛び、本家の広大な中庭が視界に開けた。  無数の和蝋燭が、雨の中でも消えることなく青白い炎を揺らしている。  中庭をぐるりと囲むように、数百の組員たちが殺気を放って蓮を睨みつけていた。だが、蓮の視線は有象無象の雑魚どもには向かなかった。

――そこには、空気を物理的に軋ませるほどの、異常な『圧』があった。

中庭の正面、一段高くなった縁側。  むせ返るような、ひどく甘く重たい伽羅きゃらの香が、雨の匂いを完全に塗り潰して漂ってくる。  縁側に置かれた緋毛氈ひもうせんの上に、一人の女が座っていた。  艶やかな黒着物をだらしなく着崩し、赤いキセルを指に挟んでいる。月光を紡ぎ出したかのような白銀の髪が、縁側の床板に滝のようにこぼれ落ちていた。  その背後で、雨粒を蒸発させながらゆらゆらと揺らめく、青白い狐火を纏った九つの巨大な尾。

「……てめぇが、李王組の三代目か」

蓮は、両手から同族の血をポタポタと滴らせたまま、獰猛な笑みを浮かべた。  女は、キセルの吸い口からゆっくりと唇を離した。  獲物を射抜くような、妖しく光る紅の瞳が、蓮の姿をただの『路傍の石』を見るかのように、ひどく退屈そうに見下ろした。

「――五月蠅い犬じゃな。泥を落としてから跨ぐという躾もされとらんのか」

声が発せられた瞬間。  蓮の全身の毛が、爆発したように逆立った。  脳髄の奥底、DNAに刻まれた『黒狼』としての本能が、警鐘などという生易しいものではなく、絶叫を上げていた。  逃げろ。ひれ伏せ。眼が合った瞬間に、命を刈り取られるぞ。  これまでの生涯で一度も感じたことのない、絶対的な『死』の予感。気温が急激に下がり、自分の吐く息が真っ白に凍りつくのが分かった。

「……上等だ、ブチ殺してやるッ!!」

恐怖を塗り潰すように、蓮は吠えた。  コンクリートの石畳を砕いて跳躍する。全身の筋肉をバネにし、風を切り裂く速度で縁側の女の喉笛へと迫る。その手には、鋼鉄をも容易く切り裂く漆黒の妖気が爪となって顕現していた。

だが。  女は、瞬き一つしなかった。  ただ、キセルを持たない方の左手を、退屈そうに軽く持ち上げただけだ。

「――ひれ伏せ、雑種」

ドンッッ!!!!

蓮の身体は、女に触れることすら叶わなかった。  見えない巨大な鉄塊で、上空から直接叩き落とされたかのような衝撃。  「ガ、ハァッ……!?」  内臓がひしゃげる音と共に、蓮は中庭の泥濘ぬかるみの中へと無様に叩きつけられた。全身の骨が悲鳴を上げ、口から大量の血が噴き出す。  何が起きたのか、全く理解できなかった。  物理的な攻撃ではない。ただ彼女から放たれた『妖気』の重圧だけで、空間の重力が何十倍にも跳ね上がり、蓮の身体を地面に縫い付けたのだ。

「あ、が……ッ、くそ、が……ッ!」

泥水をすすりながら、蓮は必死に立ち上がろうと四肢に力を込める。  しかし、指一本動かすことができない。万力で全身をすり潰されているかのような激痛。細胞の一つ一つが、上の縁側に座る絶対的な君主の前に「逆らうな」と悲鳴を上げている。

カラン、コロン。  高い下駄の音が鳴った。  女が縁側から降り、雨の降る中庭へと足を踏み入れたのだ。  青白い狐火が、彼女の周囲の雨粒を瞬時に蒸発させ、チリチリと空気を焼き焦がす。  彼女が歩み寄ってくる。泥だらけで這いつくばる蓮の目の前に、汚れ一つない美しい着物の裾が止まった。

「己の牙を誇るなら、噛み付く相手は選ぶことじゃ」

見下ろす紅の瞳には、憐憫も、怒りすらもない。  ただ、圧倒的な強者が、無力な羽虫を見下ろす時の、絶対的な冷酷さだけがあった。

蓮は、血走った目でその顔を睨み上げた。  悔しい。屈辱だ。こんなにあっさりと、手も足も出ずに地べたを舐めさせられるなんて。  だが、その強烈な屈辱を、はるかに凌駕する感情が、蓮の胸の奥底からマグマのように噴き上がってきた。

――美しい。  ――なんて恐ろしく、圧倒的で、完璧な存在なんだ。

暴力のすべてを知っている気でいた。自分が一番強いと過信していた。  だが、目の前に立つこの『九尾の女王』の放つ気高さと、空気を軋ませるほどの絶大な力に比べれば、己の振るう暴力など、ただの子供の癇癪に過ぎなかったのだと理解した。  恐怖は、いつしか『歓喜』へと変わっていた。  こんなにも美しい暴力が、この世に存在していたのか。この絶望的なまでの力の前なら、自分のちっぽけな命など、喜んで差し出せる。

「……あぁ」

蓮の喉から、恍惚とした吐息が漏れた。  彼は、地面に縫い付けられたまま、必死に首だけを動かし、女の着物の裾へと額を擦り付けた。  雨と泥と血にまみれた唇が、彼女の下駄の鼻緒に触れる。

「……俺の、負けだ。……アンタの強さは、本物だ……ッ」

女帝が、わずかに眉を動かした。  蓮は、肺に溜まった血を吐き出しながら、熱を帯びた黒瞳で彼女を見上げた。

「俺を……アンタの犬にしてくれ。この命、アンタの盾として、アンタの敵を全部噛み殺すために使わせてくれ。……俺の魂は、今日からアンタのモンだ……ッ!」

ただの力への屈服ではない。  魂の底からの、狂信的な崇拝の始まりだった。  力こそがすべてだった孤高の狼は、この夜、自らの意志で、最も恐ろしく美しいバケモノに『首輪』を差し出したのだ。  これが、狂犬・黒曜蓮が、妖月組の姫に絶対の忠誠を誓い、彼女の最も深い影となった日の記憶だった。






――だというのに。

 蓮は、腕の中で眠る桜の寝顔を見下ろし、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 あの日、俺を泥水に沈めたあの圧倒的な神域の力。それを、この華奢な人間が、その血管を焼き切りながら生み出していたというのか。俺が絶対だと思っていたあの強さは、この小娘の『血の代償』の上に成り立っていたのか。

「……狂ってやがる」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ