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落日の代償と、狂犬の目覚め

白み始めた東の空が、半壊した李王組本家を冷ややかに照らし出していた。

 朝焼けの光は、瓦礫の山と化した庭に散乱する漆黒の羽根と、無数の血だまりを容赦なく暴き立てている。


「お頭ァ! 勝利の宴の準備を――いや、それよりもすぐにお坊主(回復役)を手配しやす! あれほどの妖力を一晩中……お身体に障りかねねえ!」

 鬼道が血相を変えて駆け寄る。雪柳もまた、普段の冷静さを失った顔で「お頭、どうかお召し物の血だけでもお浄めを……」と縋るように進み出た。


古参幹部二人の背後では、他の最上位幹部たちも、それぞれのやり方で主の凱旋を出迎えていた。

「……フン、騒々しいねぇ。お頭は無敵さ。出来損ないの鳥風情に、後れを取るはずがなかろう」

 化け猫の大婆――『猫又ねこまた』のまだらが、煙管の灰をはたきながら気怠げに呟いた。その隣で、蜘蛛の化身――『絡新婦じょろうぐも』の爪紅つまべにが、自身の返り血を舐めとりながら、「そうね、今日も最高に美しかったわぁ、姐さん」とうっとりと目を細める。


防衛の要――『牛鬼ぎゅうき』の牛頭ごずは、無言でお頭の後ろに仁王立ちし、お頭の歩みを邪魔する者がいれば即座に排除するという殺気を放ち、軍師――『ぬえ』の幻夜げんやは、お頭の圧倒的な力の余韻に浸るように、青白い顔で小さく咳き込んでいた。特攻隊長――『輪入道わにゅうどう』の炎雷えんらいにいたっては、未だ戦闘の興奮冷めやらず、「次あいつらのシマに乗り込みやすか!」と息巻いている。


戦う前から彼女の「人間の身」を案じていた鬼道や雪柳。そしてお頭の無敵ぶりを信じて疑わない他の最高幹部たち。

 この場に居並ぶ、夜の王都を支配する怪物たちでさえ。


誰一人として。

 彼女の体内の血管がすべて焼き切れ、人間の脆い肉体が内側から崩壊しかけていることに。妖怪の脳髄が強制的に痛覚を遮断し、気高き威厳という仮面を貼り付けているだけの『抜け殻』であることに。

 気づくことはできなかった。


だが。

「不要じゃ。……我は少し、微睡まどろみにつく」

 桜は振り返ることなく、絶対零度の声でその忠義を切り捨てた。

 ビクン、と鬼道たちの肩が跳ねる。


「よいか。我が目覚めるまで、奥座敷には何人なんぴとたりとも近づけるな。……我が眠りを妨げる者は、誰であろうと灰にする」


その声に含まれた圧倒的な凄みと明確な拒絶に、幹部たちは息を呑み、それ以上一歩も踏み出すことができずに深く平伏した。

 誰の目にも、それは「無傷で敵を殲滅し、退屈そうに床に就く絶対的な女王の威厳」にしか見えなかった。彼女が歩くたびに、生き残った妖怪たちは畏怖と共に道を空ける。

 自らの弱さを微塵も悟らせない、完璧な極道のトップの背中。


だが、半壊し、襖も吹き飛んだ自室へと足を踏み入れた瞬間。

 桜はピタリと歩みを止め、右手からコトリと赤いキセルを取り落とした。


(……限界、か)


冷徹な妖怪の妖力が、警報すら通り越して「完全な沈黙」を告げていた。

 冷却期間を完全に無視した限界突破オーバークロック。規格外の妖力を無理やり通し続けた人間の肉体は、すでに内側から『炭化』し始めている。

 桜は、感覚のない左手をゆっくりと持ち上げ、懐から『封印の数珠』を取り出した。


これを嵌めれば、どうなるか。

 妖怪の妖力によって遮断されていた「痛覚」と「肉体の破壊情報」が、人間の脆弱な脳髄へと一気に押し寄せてくる。

 だが、嵌めなければ、彼女の肉体は完全にバケモノの魔力に飲み込まれ、人間の自我ごと爆発して消滅する。だからこそ、絶対に誰も部屋に入れてはならないのだ。この惨めで、痛みに泣き喚く無様な自分の姿を、誰の目にも触れさせるわけにはいかない。


桜は、静かに目を閉じた。

 そして、一切の躊躇なく、右手首に数珠を押し当てた。


――カチリ。


留め具が嵌まった、その瞬間だった。


「…………ッッ、――――!!!」


声帯が引き攣り、音を失った。

 白銀の髪が急速に色を失い、本来の栗色へと戻っていくのと同時。全身の血管に、煮えたぎる鉛を直接流し込まれたような、次元の違う『激痛』が爆発した。


ドサッ!! と。

 桜の身体は、糸が切れた操り人形のように畳の上に崩れ落ちた。

 熱い。痛い。苦しい。

 人間の肉体に戻った途端、無理やり魔力を通し続けた全身の毛細血管が次々と破裂し、皮膚の下に赤黒い『妖力焼け(内出血と火傷)』が不気味な斑紋となって浮かび上がる。


「ガ、ァ……ッ、ゲホッ、ゴハァッ!!」

 堪えきれず、桜の口からどす黒い血の塊が大量に吐き出され、畳を赤く染め上げた。

 視界が真っ赤に明滅し、痙攣が止まらない。

(痛い……っ、痛い、痛い痛い痛いッ……!!)

 人間の脆弱な感情が悲鳴を上げて泣き喚こうとするが、桜は血まみれの唇を自身の歯でギリッと噛み破り、必死に声を殺して孤独な地獄に耐え続けていた。


* * *


一方、血塗られた中庭。

「おい黒狼。お頭が『誰も近づけるな』と仰った。見張りは俺たちがやる、お前も傷を癒せ」

 鬼道の言葉を、黒曜蓮は「あ?」と鼻で笑い飛ばした。


「テメェらと一緒にすんじゃねえよ。俺はお頭の影だ。……残党の首を刈り尽くした報告を、誰よりも早くお頭に捧げなきゃならねえんだよ」

「馬鹿野郎、お頭の命令が聞けねえのか!」

 鬼道の制止を完全に無視し、蓮はズカズカと奥座敷へと向かって歩き出した。

 傲慢な狂信。自分だけは特別だという自負。それが彼の背中を押していたのは間違いない。


だが、それだけではなかった。

 蓮の『黒狼』としての鋭敏な嗅覚が、焦げたオゾンと天狗の血の匂いに混じって、ごく僅かな、だが決して無視できない『異臭』を捉えていたのだ。


(……なんだ、この匂いは)


それは、先ほどまで圧倒的な狐火を放っていた主の通り道から漂ってくる、ひどく甘ったるい、鉄が錆びたような匂い。

 妖怪の血ではない。……人間の、それも内臓が焼け焦げたような酷い血の匂い。


(お頭が、傷を負った……? あり得ねえ。だが……)


胸の奥をざわつかせる、得体の知れない焦燥感。

「何人たりとも部屋に近づけるな」という絶対の極命すらも、今の彼の本能を縛ることはできなかった。


――ズカズカズカッ。


遠慮のない乱暴な足音が、半壊した部屋の入り口でピタリと止まった。


「お頭。残党の死体はすべて俺の影に……」

 報告の言葉と共に踏み込んだ狂犬の目に飛び込んできたのは、無敵の女王の姿ではない。

 彼が世界で最も見下している「人間の先輩」が、口からおびただしい血を流し、赤黒い痣に全身を侵されて痙攣している光景だった。




「…………は?」

 蓮の足が、床に縫い付けられたように止まった。

 狼の鋭い嗅覚が、部屋に充満する『彼女自身の血の匂い』と、内臓が焼け焦げたようなオゾンの悪臭を正確に捉える。


「……おい。何してんだ、テメェ」

 蓮の喉から、ひどく掠れた声がこぼれ落ちた。

 理解できなかった。数分前まで、空を覆う大天狗を一撃で灰に変え、涼しい顔でキセルを吹かしていた無敵のバケモノ。それが、なぜこんなボロ雑巾のように血を吐いて這いつくばっているのか。


「さく、ら……?」

 蓮は、ふらつく足取りで一歩前へ出た。

 床に倒れ伏す桜の制服の隙間から、ドクドクと異常な高熱を放って脈打つ赤黒い『妖力焼け』が見える。

 一目見ただけでわかる。あれは、敵から受けた傷ではない。

 規格外の妖力を、無理やり人間の脆い血管に通し続けたことによる『自壊現象』だ。


(……自壊、だと?)

 蓮の脳髄が、ガンガンと痺れるような衝撃を受けた。

 では、あの空を焦がした圧倒的な青白い狐火は。自分たち妖怪が束になっても敵わないとひれ伏した、あの神域の暴力は。

 この触れれば折れそうなほど華奢な『人間の少女』が、自身の細胞を焼き切り、命の残機をすり減らして生み出していた「血の幻影」だったというのか。


「……ふざけんな」

 蓮は、血の海に倒れる桜のそばに膝をついた。

 湧き上がってきたのは、強烈な『焦燥』だった。

 このままでは、彼女が死ぬ。この脆い人間の器が壊れれば、自分が崇拝する絶対的な女王も、二度とこの世に顕現することはなくなる。


「おいッ!! しっかりしろ、今すぐ雪女か爪紅を――」

 蓮が怒鳴りながら、桜の身体を抱き起そうと手を伸ばした、その時だった。


「……呼ぶな、バカ犬」


血まみれの桜の左手が、蓮の白シャツの胸ぐらを、ギリッと強く掴んだ。

「……ッ!?」

 蓮は息を呑んだ。

 力など全く入っていない、震える細い指先。だが、その指先から伝わってくる『意思の強さ』が、狂犬の巨体を完全に金縛りにした。


桜が、乱れた栗色の髪の隙間から、ゆっくりと顔を上げる。

 涙と汗と血でぐしゃぐしゃになった顔。痛みに引き攣り、青ざめた唇。

 どこからどう見ても、ただのひ弱な人間の小娘の顔だ。


だが、その『黒曜石の瞳』だけが違った。

 瞳の奥に宿っていたのは、激痛に泣き喚く子供の感情ではない。

 数分前、空の上で大天狗を冷酷に見下ろしていた、あの『極道の女王』と全く同じ、気高く、決して折れることのない絶対者の光だった。


「……他の者に、この無様な姿を……見せるな……ッ」

 桜は、肺に溜まった血をゲホッと吐き出しながら、蓮を真っ直ぐに睨み据えた。

「幹部を呼べば……組が、揺らぐ。……私が、ただの脆い人間だと……奴らに、悟らせるな……ッ」


「な……」

 蓮の瞳孔が、極限まで拡大した。

 ドクン、ドクンと、自身の心臓が異常な速度で跳ねるのを感じた。


コイツは、何を言っているんだ。

 全身の血管が焼き切れ、今にも死にそうな激痛の中で。己の命の危機よりも、「極道としての体裁」と「組の安定」を優先しろと言っているのか。

 この弱くて、どんくさくて、ちょっと大きな音がしただけで肩を跳ねさせていたただの人間の少女が。毎夜毎夜、こんな正気の沙汰ではない地獄の激痛に自ら足を踏み入れ、たった一人で耐え続けて、俺たちの頭の上に立っていたというのか。


(……バケモノだ)


蓮は、震える手で桜の肩を抱きとめた。

 妖怪の強さとは、暴力の強さだ。牙の鋭さだ。

 だが、今彼の腕の中にいるこの『人間』の放つ気高さは、そんな底の浅い物理的な強さを遥かに凌駕していた。

 肉体が人間であるか、妖怪であるかなど、もはや関係なかった。

 昼間の臆病な彼女も。夜の冷酷な彼女も。

 どちらも間違いなく、同じ『李王桜』という、底知れない精神力を持った、恐ろしくも美しい一つの魂なのだ。


「……わかった。わかったから、もう喋るな……ッ」

 蓮の口から、今までのような見下した舌打ちも、傲慢な声色も出なかった。

 彼は、自らの右腕にドス黒い妖気を集めると、桜の背中――最も妖力焼けがひどく熱を持っている部分へと、そっと押し当てた。

 ジュゥゥゥッ、と。

 黒狼の『底冷えする冷気』が、桜の体内を暴れ回る高熱を強引に中和していく。他者の暴走した魔力を抑え込むことは、蓮自身の腕の神経をも焼き切るほどの苦痛を伴う。

 現に、蓮の手の甲の皮膚がチリチリと焼け焦げ始めている。

 だが、蓮は顔を歪めながらも、決してその手を離さなかった。


「……はぁっ、はぁっ……クソ、どんだけ無茶してんだよ……」

 悪態をつきながらも、その手つきは、かつてないほどに優しく、そして必死だった。


やがて、冷気によって熱が中和された桜は、痛みの限界を超え、蓮の腕の中で静かに意識を手放した。

 血まみれのまま、スウ、スウと微かな寝息を立てる少女。


蓮は、火傷で焼け焦げた右手をそっと離し、自身の腕の中で眠る桜の顔を見下ろした。

 静まり返った部屋。

 遠くからは、まだ勝利に沸く妖怪たちの熱狂的な歓声が微かに聞こえてくる。彼らは誰も知らない。我らが無敵の女王が、今どれほどの痛みを背負い、血の海で眠りについたのかを。


「……あり得ねえ」

 ぽつりと、蓮の口から掠れた声がこぼれ落ちた。

 理解が追いつかない。頭の中がぐちゃぐちゃだった。


俺は、こんな脆い泥人形にひれ伏していたのか?

 こんな、すぐ壊れそうな人間の小娘の虚勢に、妖怪の誇りも魂も全部売り渡して、床に額を擦り付けていたのか。

 腹立たしい。騙されていた屈辱で、今すぐこの細い首を噛みちぎってやりたい。……そう思うはずなのに。


ギリッ、と。蓮は無意識に、自らの白シャツの胸ぐらを強く掴んだ。

 心臓の奥が、得体の知れない熱と悪寒でガタガタと震えている。


――他の者に、この無様な姿を見せるな。


先ほど、血を吐きながら自分を睨み据えた、真っ黒な、ただの人間の瞳。

 あの瞬間の彼女からは、大気を凍らせる妖気も、圧倒的な狐火も一切出ていなかった。なのに、彼女は絶対的な『王』として自分を睨み据え、自分はそれに一歩も動けず屈服した。

 物理的な暴力なんかじゃない。己の命すら平然とすり潰してシマを守ろうとする、その狂気じみた『精神のバケモノ』に、自分は魂の根底からねじ伏せられたのだ。


「……クソが」

 蓮の口から、呪詛のような声が漏れた。

 秘密を知ってしまった。この無敵の女王の、致命的な弱点。俺がいま牙を剥けば、関東最大の極道は終わる。俺だけが、この強大な組織の喉首を握っている。

 だが、噛みちぎれない。あの人間の瞳を思い出せば、身体が本能的に恐れをなし、同時に、目を逸らすことのできない強烈な引力に囚われる。


「……俺を、どうする気だ……ッ、テメェは」


それは愛でも、忠誠でもない。

 自分より圧倒的に弱く、脆い人間に、永遠に外れない『首輪』を嵌められてしまった狂犬の、絶望と混乱だった。

 今まで見下していた昼間の彼女が、ただの「空っぽの器」などではなかったという残酷な事実。

 蓮は、倒れた少女を優しく抱き起こすことなどできず、ただ複雑に歪んだ顔のまま、その血まみれの姿を他者から隠すように、己の漆黒の影を部屋いっぱいに広げることしかできなかった。



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